「聖火リレー」はゆく先々で「密集」を形成しながら続行しています。今後のコロナ感染に不安が募りますが、それでも菅義偉首相、小池百合子都知事、組織委員会は中止しようとしていません。
その背景には政治的思惑があると先に書きましたが(25日のブログ参照)、それが露呈した光景が、25日の「聖火出発式」で見られました。
第1に、「日の丸」掲揚と「君が代」の演奏です。
壇のすぐ横には「日の丸」が掲げられ、開会早々、「君が代」がテープで流されました。壇上の小池都知事は「日の丸」に向かって右腕を胸にあて目を閉じました(写真左)。
「君が代」は言うまでもなく「天皇の御代(みよ)」が永遠に続くことを願う天皇(制)賛美の楽曲です。日本がそれを「国歌」としていることは、この国が天皇制国家に他ならないことを端的に示しています。
その「君が代」をなぜ「聖火出発式」で流し、一同最敬礼しなければならないのでしょうか。「五輪憲章」は、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(第6章第1項)と明記しています。だから主催も国ではなく都市なのです。
そもそも五輪の表彰式で「国旗」を掲揚し「国歌」流すこと自体、憲章の趣旨に反しています。いわんや「聖火出発式」でなぜ「国旗」を掲げ「国歌」=「君が代」を流さねばならないのか。
かつて五輪選手に向かって「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのか。口をもぐもぐさせるのではなくて、声を大きくあげて国歌を歌ってほしい。国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」(2016年7月3日、リオ五輪壮行会で)と言い放ったのは、「日本は天皇を中心とする神の国」(2000年5月15日)発言で首相の座から滑り落ちた森喜朗前組織委会長でした。
東京五輪・聖火リレーは、国威高揚・天皇制を誇示する政治パフォーマンスです。五輪と「日の丸」「君が代」の関係がそれを端的に示しています。こうした日本政府の政治的意図は、ベルリン大会(1936年)で聖火リレーを始めたヒトラーの戦略的思惑とどれほどの違いがあるでしょうか。
第2に、スポンサー中心の商業主義です。
出発式ではメーンのトーチ採火の前に、司会者が突然、「コカ・コーラ、トヨタ、日本生命…」と企業名を読み上げ始めました。するとその代表者らが壇上に上がり、写真撮影が行われました(写真中)。スポンサー企業のPR用の撮影です。その光景はおよそ「スポーツ」とは無縁で、誰のための聖火リレー・東京五輪なのかを垣間見せた一瞬でした。
深刻なコロナ禍にもかかわらず東京五輪をあくまでも強行しようとしている菅政権の後ろには国内32社のスポンサー企業があり、IOCの背景には米放送局を中心とする放送権料の思惑があります。五輪の商業主義が明るみに出た場面でした。
第3に、NHKの異常な肩入れです。
出発式の司会をしていたのは、NHKエグゼクティブアナウンサーの阿部渉氏です(写真左の左端)。氏はどういう立場で司会の任に携わったのでしょうか。
NHKの聖火リレーへの肩入れはこれだけではありません。同局はこの日から総合テレビで毎日朝と夜の2回、「聖火リレーハイライト」なる番組を始めました(写真右)。7月23日(予定)の開会式まで続けるつもりです。コロナ禍で「密を避けましょう」と言った直後の「聖火リレーハイライト」で密集した光景を笑顔で報じる姿は滑稽ですらあります。
コロナ禍も市民の反対も無視して東京五輪を強行しようとしている菅政権に肩入れし一体となっているNHKは、「公共放送」の立場をを逸脱していると言わねばなりません。
NHKだけではありません。全国紙では朝日、毎日、読売、日経が東京五輪のスポンサーになっています。先の「森差別発言」では、朝日を除く3紙は森氏に辞任を求めることはしませんでした。
東京五輪開催をめぐってはメディアの実態・体質も問われていることを銘記すべきです。