アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

東京五輪の本質露呈した「聖火出発式」の光景

2021年03月30日 | 五輪と政治・社会・メディア

    
 「聖火リレー」はゆく先々で「密集」を形成しながら続行しています。今後のコロナ感染に不安が募りますが、それでも菅義偉首相、小池百合子都知事、組織委員会は中止しようとしていません。
 その背景には政治的思惑があると先に書きましたが(25日のブログ参照)、それが露呈した光景が、25日の「聖火出発式」で見られました。

  第1に、「日の丸」掲揚と「君が代」の演奏です。

  壇のすぐ横には「日の丸」が掲げられ、開会早々、「君が代」がテープで流されました。壇上の小池都知事は「日の丸」に向かって右腕を胸にあて目を閉じました(写真左)。
 「君が代」は言うまでもなく「天皇の御代(みよ)」が永遠に続くことを願う天皇(制)賛美の楽曲です。日本がそれを「国歌」としていることは、この国が天皇制国家に他ならないことを端的に示しています。

 その「君が代」をなぜ「聖火出発式」で流し、一同最敬礼しなければならないのでしょうか。「五輪憲章」は、「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(第6章第1項)と明記しています。だから主催も国ではなく都市なのです。

 そもそも五輪の表彰式で「国旗」を掲揚し「国歌」流すこと自体、憲章の趣旨に反しています。いわんや「聖火出発式」でなぜ「国旗」を掲げ「国歌」=「君が代」を流さねばならないのか。

 かつて五輪選手に向かって「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのか。口をもぐもぐさせるのではなくて、声を大きくあげて国歌を歌ってほしい。国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」(2016年7月3日、リオ五輪壮行会で)と言い放ったのは、「日本は天皇を中心とする神の国」(2000年5月15日)発言で首相の座から滑り落ちた森喜朗前組織委会長でした。

 東京五輪・聖火リレーは、国威高揚・天皇制を誇示する政治パフォーマンスです。五輪と「日の丸」「君が代」の関係がそれを端的に示しています。こうした日本政府の政治的意図は、ベルリン大会(1936年)で聖火リレーを始めたヒトラーの戦略的思惑とどれほどの違いがあるでしょうか。

 第2に、スポンサー中心の商業主義です。

 出発式ではメーンのトーチ採火の前に、司会者が突然、「コカ・コーラ、トヨタ、日本生命…」と企業名を読み上げ始めました。するとその代表者らが壇上に上がり、写真撮影が行われました(写真中)。スポンサー企業のPR用の撮影です。その光景はおよそ「スポーツ」とは無縁で、誰のための聖火リレー・東京五輪なのかを垣間見せた一瞬でした。

 深刻なコロナ禍にもかかわらず東京五輪をあくまでも強行しようとしている菅政権の後ろには国内32社のスポンサー企業があり、IOCの背景には米放送局を中心とする放送権料の思惑があります。五輪の商業主義が明るみに出た場面でした。

 第3に、NHKの異常な肩入れです。

 出発式の司会をしていたのは、NHKエグゼクティブアナウンサーの阿部渉氏です(写真左の左端)。氏はどういう立場で司会の任に携わったのでしょうか。
 NHKの聖火リレーへの肩入れはこれだけではありません。同局はこの日から総合テレビで毎日朝と夜の2回、「聖火リレーハイライト」なる番組を始めました(写真右)。7月23日(予定)の開会式まで続けるつもりです。コロナ禍で「密を避けましょう」と言った直後の「聖火リレーハイライト」で密集した光景を笑顔で報じる姿は滑稽ですらあります。
 コロナ禍も市民の反対も無視して東京五輪を強行しようとしている菅政権に肩入れし一体となっているNHKは、「公共放送」の立場をを逸脱していると言わねばなりません。

 NHKだけではありません。全国紙では朝日、毎日、読売、日経が東京五輪のスポンサーになっています。先の「森差別発言」では、朝日を除く3紙は森氏に辞任を求めることはしませんでした。
 東京五輪開催をめぐってはメディアの実態・体質も問われていることを銘記すべきです。

 


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戦争法施行5年と「土地規制法」

2021年03月29日 | 日米安保・軍事同盟と政治・社会

    

 3月29日で戦争法(安保関連法)の施行から5年になります。憲法の平和原則を公然と蹂躙して「集団的自衛権」行使に道を開いた同法によって、何が変わったでしょうか。

 米CNNは、戦争法施行後、「自衛隊による米軍の艦艇や航空機の防衛任務が2019年の計14回から20年には計25回へと大幅に増加しており、日米の軍事協力が拡大している」(6日付沖縄タイムス・平安名純代米国特約記者)と報じました。約2倍です。「これまで自衛隊の平時の保護対象は自衛隊兵器と施設に限定されていたものの、安保法成立に伴い改正された自衛隊法第95条の2で、対象に外国軍が追加されたため」(同)です。

 自衛隊が一体化をすすめている外国軍隊がアメリカだけでなくなっていることも重大です。
 今年2月、九州西方で自衛隊は米駆逐艦とともにフランスのフリゲート艦も加えた3カ国合同訓練を強行しました(写真中=海上自衛隊HPより)。「さらに陸上自衛隊と米仏の陸軍による共同訓練も実現する見通し」(24日付琉球新報)です(写真右=日米合同訓練)。

 フランスだけではありません。「英軍は空母「クイーン・エリザベス」のインド太平洋派遣を表明。日米と訓練するとみられる。ドイツも艦艇を出す考えだ」(同)。それは、「安保法は武器等防護や、弾薬、燃料の提供などの安保条約を結ぶ米国に限定していない」(同)からです。日米安保=軍事同盟はアメリカを軸に欧州諸国も加え、地球規模で拡散しようとしています。

 「制服組の幹部」は、「自衛隊が米軍を守るという行動を示せるようになり、同盟の強化につながった。米軍はとても感謝している」と「安保法施行からの5年間を自賛」し、「防衛省・自衛隊では「安全保障環境は新たな局面を迎えた」との声」(24日付琉球新報)が上がっています。

 そんな中、「日米安保の新局面」を象徴するような法案が26日、閣議決定されました。「土地規制法」(「重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律案」)です。

 「米軍や自衛隊など防衛施設周辺の土地利用を規制する法律案」(27日付琉球新報)で、ポイントは、①米軍や自衛隊の施設、原子力発電所、国境離島などから1㌔の範囲を「注視区域」と指定し、住民基本台帳や不動産登記簿などから所有者の氏名、住所、国籍、利用状況などの調査権限を政府に付与し、報告を求めたり利用中止を命令できる②司令部機能がある基地など特に重要性が高い施設・離島は「特別注視区域」とし、土地売買時に双方の個人情報や利用目的などの事前届け出を義務付ける③利用中止命令に応じない場合は2年以下の懲役または200万円以下の罰金に処す―。

 「罰則付きで基地周辺の使用制限を行うのは戦前回帰」(前泊博盛沖縄国際大教授、6日付琉球新報)であり、「基地反対派の小屋や監視のとりでといった「反対運動」の拠点を排除する」(同)狙いは明白です。

 「法が成立してしまえば、調査対象が際限なく広がる可能性が否定できない。表現や結社の自由を認めず、財産を国家が統制した治安維持法の再来ではないか」(7日付琉球新報社説)。

 こうした悪法が、戦争法施行5年、日米安保体制が「新たな局面」を迎えているときに閣議決定され、今国会で成立が図られようとしていることの意味・危険性を直視しなければなりません。
 最も甚大な被害が予想される沖縄で反対の声が高まっているのは当然です。この危機感・反対を日本中が共有する必要があります。

 同時に、沖縄県紙の反対が、「権利侵害の悪法は廃案に」(27日付琉球新報社説)、「市民の権利侵害の恐れ」(27日付沖縄タイムス社説)と、「権利侵害」を強調する一方、日米安保条約(軍事同盟)にまったく触れていないのは問題です。

 市民の自由・諸権利の侵害と、日米軍事同盟(安保体制)は表裏一体です。「土地規制法」反対と日米安保条約廃棄を結合させることがいまこそ必要です。それが「戦前回帰」「治安維持法の再来」を阻止する道ではないでしょうか。


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日曜日記142・「悪の凡庸さ」・「悪の本体」

2021年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「悪の凡庸さ」

 「(帝国主義における植民地支配の)システム化された暴力が宗主国の国民にとっては日常となると同時に、国民は無意識のうちに植民地支配者としての意識・思想を形成していく。その結果、圧倒的な暴力システムを肯定し、それを否定することは「悪」であり「犯罪」だと思うようになる」という石純姫は、『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』(25日のブログ参照)で続けてこう書いている。

 「権力が決定した大きな暴力の枠組みから末端の直接的な暴力に至るまで、体制のシステムはゆるぎなく、それに抵抗する、あるいは疑義をとなえることは一般的には極めて困難であり勇気を伴うことである。

 権力の決定事項を粛々と行う官僚的思考と行動によって、第二次世界大戦中のドイツでは最悪の虐殺が行われた。そうした暴力支配の意識・思想に慣らされてしまった官僚的思考と行動のことを、ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」と言った。

 そのような思考停止状態の対極にあるのが、アイヌの人々の行為と言えるのではないだろうか。逃げ出した朝鮮人労務者は厳しく罰せられ、死に至る暴行も少なくなかった。その脱出者を匿い、血縁関係を結び、定住化させるまでの行為は、まさに命がけのものだったと言える」

☆「悪の本体」
 作家の天童荒太が「東日本大震災から10年」の中国新聞のインタビュー(2月28日付、聞き手・森田裕美論説委員)で、短編「いまから帰ります」(『迷子のままで』新潮社2020年所収)で、映画監督・伊丹万作(1900~1946)の「国民の戦争責任」について述べた文章を引用していると語っている。記事の主見出しは、「「だまされた」と言わないために」だ。

 伊丹万作のこの文章を以前読んだことを思い出した。天童が作品にどう引用しているか興味があり、「いまから帰ります」(舞台は「3・11」後の福島)を読み、感銘を受けた。
 天童はごく一部しか引用していないが、あらためて伊丹万作(故伊丹十三の実父、大江健三郎の義父)の文章を振りかえりたい。

 < 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。…多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。…このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。…だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

 だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。…あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけがない。…現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。>(1946年8月『映画春秋』創刊号。ちくま文庫『伊丹万作エッセイ集』所収=写真)

 伊丹万作がこう書いたのは敗戦の翌年、死の直前である。それから75年。日本人はどれだけ「進歩」したのだろうか。新たな戦争の前夜ともいえる今、伊丹の言葉をかみしめる意味は小さくない。


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なぜ「米韓合同軍事演習」の不当性を問わないのか

2021年03月27日 | 日米軍事同盟と朝鮮・韓国

    

 菅義偉首相は26日の参院予算委員会で、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の25日の「弾道ミサイル発射」について、「わが国の平和と安全を脅かした。断じて許すことができない」と語気を強めました(写真右)。飛翔体はいずれも日本の排他的経済水域(EEZ)の外側に落下しており、「平和と安全を脅かした」は誇張も甚だしいものですが、なによりも問題なのは、ことの経過・本質を一切捨象して朝鮮を非難・攻撃していることです。

 問題の元凶は、今月8日から18日まで行われた米韓合同軍事演習です(写真左は2019年8月の合同演習)。朝鮮の「弾道ミサイル発射」が、これに対する抗議・対抗行動であることは明白です。日本政府さえ、「米韓の合同軍事演習への反発」(26日のNHKニュース)だと認めています。

 朝鮮はなぜ米韓合同軍事演習に「反発」するのか。それはこれが朝米首脳会談(2018年6月12日)合意違反だからです。

 同会談の「シンガポール共同声明」は、「トランプ大統領は北朝鮮に安全の保証を与えることを約束」(2018年6月13日付共同配信)と明記しています(写真中)。そしてトランプ前大統領は、金正恩委員長との会談後の記者会見で、「米韓演習は挑発的。中止により多額の費用を節約できる」(同共同配信)とのべ、米韓合同軍事演習の中止を言明し、事実、その年(18年)の合同軍事演習を中止しました。

 政権が変わっても他国との公式な合意(約束)が守られなければならないのは言うまでもありません。しかしバイデン米政権が行った今回の米韓合同軍事演習は、アメリカが朝鮮と交わした安全保障上の約束を一方的に破ったものです。朝鮮が「反発」するのは当然ではないでしょうか。「挑発」しているのは朝鮮ではなく、トランプ氏がいみじくも「挑発的」だと認めた米韓合同軍事演習であり、それを強行したアメリカの方です。

 この事実経過を意図的に無視して、朝鮮を非難・攻撃する菅政権は、日米安保条約(軍事同盟)の下でアメリカに追随し朝鮮を敵視する日本政府の姿を露呈したものです。

 日本政府だけではありません。日本のメディアは一様に、上記の経過・本質を棚上げし、「北朝鮮の挑発」という決まり文句の中傷論評を繰り返しています。「北朝鮮の挑発 同じ愚を繰り返すのか」と題した朝日新聞の社説(26日付)もその典型です。

 バイデン氏や菅氏は、「弾道ミサイル発射は国連安保理決議違反だ」として、自らに「正義」があるように言いますが、これもとんでもない話です。

 そもそも国連安保理は、核大国が自分たちの利益を守るための“互助組織”です。朝鮮の核兵器・弾道ミサイルを禁止するなら、まず自らそれを実行するのが道理であり「大国」の責任ではないでしょうか。ところが逆に、自分たちは核兵器を持ち続けるが、他の国には認めないというのは核大国の身勝手・横暴・大国主義以外のなにものでもありません。

 しかも、インドやイスラエルなどアメリカと親密な国の核保有・実験は黙認するが、朝鮮は許さない、禁止するというのは、ダブルスタンダードも甚だしいと言わねばなりません。

 日米両政府、そしてメディアのこうした理不尽な朝鮮敵視・攻撃は今に始まったことではありません。それが朝鮮学校無償化排除など在日コリアンへの差別やヘイトスピーチ・クライムを助長している事実を直視しなければなりません。その罪はきわめて重大です。

 さらに問題は、こうした政府やメディアに日本市民の多くが無批判に追随していることです。市民が思考停止から脱却し、事実経過・本質に目を向けることがなによりも求められています。

 


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「聖火リレー」に隠された3つの政治的狙い

2021年03月25日 | 五輪と政治・社会・メディア

    

 内外の広範な反対を押し切ってあくまでも東京オリ・パラを強行しようとする菅政権、小池都政は25日、「聖火リレー」を開始します。コロナ感染対策に逆行することは明白ですが、「聖火リレー」にはそもそも、演出されたお祭り騒ぎの陰に、国家権力の政治的狙いが隠されていることをあらためて想起する必要があります。

 そもそも「聖火リレー」は五輪に不可欠のように言われますが、その起源はたかだか85年前、ベルリン大会(1936年)からです。始めたのはナチス・ドイツのヒトラーです。そこには、「ギリシャ文明の正当な継承者はドイツだと世界にアピールする国威発揚の意図があった」(2020年3月15日付琉球新報=共同)のです。

 ヒトラーの狙いはまだありました。「第二次世界大戦勃発後、ドイツ軍はベルリン大会の聖火コース沿いにギリシャに進撃し、聖火リレーが周辺各国の情報収集に利用されたといわれた」(橋本一夫著『幻の東京オリンピック』講談社学術文庫2014年)のです。
 「聖火リレー」の起源は、ヒトラーによる政治利用・戦争戦略だったのです。

 では、今回の「聖火リレー」には、開催への世論喚起以外に、どんな政治的狙いがあるでしょうか。

  第1に、自衛隊(日本軍隊)のアピールです。

  昨年3月、ギリシャから「聖火」が到着したのは、民間の仙台空港ではなく、航空自衛隊松島基地です。ここが「聖火リレー」の事実上の出発点です。ここが「一番理想的」(2018年7月31日付産経新聞)といって決めたのは、辞任した森喜朗前組織委会長です。

 「聖火」到着時には上空を航空自衛隊のブルーインパルスが「五輪」を描きました(写真中)。もし大会が強行されるなら、開会式の上空にもブルーインパルスが飛び交います、前回の東京五輪のように。

「1964年の東京オリンピックでは開会式でブルーインパルスが五輪マークを東京の空に大きく描き、(自衛隊の)音楽隊がオリンピック・マーチやファンファーレを演奏し、防大生が選手団入場に各国のプラカードを掲げ(た)…2020年のオリンピックでも、防衛省・自衛隊がオリンピックで果たす役割は大きい」(渡邉陽子著『オリンピックと自衛隊』並木書房2016年)

  第2に、東京電力福島原発事故の被害隠しです。

  「聖火リレー」は福島から始まりますが、そのコースは放射能汚染の爪あとが生々しく残る地域を巧妙に避けています。
 「双葉町に限らず、あちこちの町や村に、汚染土などを詰め込んだ保管袋が積み上がる。聖火リレーのコースからは目に入りづらい光景だ。住民には『復興のアピールはパフォーマンスにすぎない』とも映る」(2020年3月11日付朝日新聞社説)

 事実、地元の住民からは疑問・批判の声が出ています。
「南相馬市出身の会社員菅野奈央さん(25)は『聖火リレーのコースは新しい施設やきれいな風景ばかり強調されて、福島はもう元通りになったと思われるのではないか。お金をかけた上っ面だけのアピールならかえって迷惑だ』と訴える」(2020年3月11日付中国新聞=共同)

 前回東京五輪の「聖火リレー」の出発点は、「60年安保」で基地被害がますます深刻になっていた沖縄でした。東京五輪「聖火リレー」の出発点には、政権にとって都合の悪い問題を隠ぺいするという政治的狙いの“伝統“があります。

  第3は、天皇制の刷り込みです。

  全国の「聖火リレー」は次のようなコースをたどります。熱田神宮(名古屋市)→伊勢神宮(伊勢市)→神武天皇陵(橿原市)→高天原(宮崎県高千穂町)→出雲大社(出雲市)→京都御所(京都市)→昭和天皇陵(八王子市)→明治神宮(東京都渋谷区)。
 まるで天皇・皇室神道ゆかりの場所巡りです。そのゴールは天皇徳仁(大会名誉会長)が待つ開会式の国立競技場です。

 上記以外にも、天皇制権力によるアイヌ民族「同化」の象徴施設である「ウポポイ」(白老町)、琉球侵略の象徴である首里城(那覇市)がコースに組み込まれていることも見落とすことはできません。

 「聖火リレー」は五輪の象徴と喧伝されますが、それはまさに東京五輪が、スポーツの純粋性とは無縁、国家権力の意図に貫かれた“政治ショー”であることを象徴していると言えるでしょう。


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朝鮮人とアイヌ民族と天皇制<下>「抵抗」と「協力」の狭間で

2021年03月24日 | 天皇制と人権・民主主義

    

 石純姫氏「朝鮮人とアイヌ民族のつながり」(「抗路」8号)の紹介を続けます。

◇結び

 天皇制という巨大なフィクションを国家の根幹に据え、明治以降の日本は「国民」を作り上げて来た。「経済上には略奪者の張本人、政治上には罪悪の根源、思想上には迷信の根本」(菅野スガ「大逆事件」における「聴取書」1910年6月3日)である天皇・天皇制は、愚民を支配するには最も効率のいいシステムだった。権力者や資本家は、その虚偽を充分知り尽くした上で利用していたのである

 日本が植民地支配や先住民支配について、いっさいの謝罪をしないのは、「欧米中心主義」と「罪刑法定主義」であるとも言われているが、筆者が思うのは、それがかつて天皇の名においてなされた暴虐であったからである

 近代絶対天皇制の下で、天皇は「神」であり、神は過ちを犯さないのであるから、謝罪などしない。それが、どれほど愚劣で虚妄に満ちたフィクションであっても、明治以来の日本は、神である天皇のもとに国家を構築することにより、先住民・植民地支配とアジア侵略を正当化してきた

 敗戦後の「人間宣言」も、実は天皇が神の子孫であることは否定していない。ゆえに、象徴天皇制下の現在も、天皇は神の末裔であり、神は間違いを犯さないゆえ、謝罪はしない。陳腐で愚劣で明らかな虚構であることがわかっていても、それを守り抜くこと、すなわち戦前の「国体」護持が現在も日本においては挙行されていると思わざるを得ない。

 北海道における先住民アイヌと植民地被支配者である朝鮮人のつながりは、従来のアイヌ像を覆すものであると同時に、「協力」と「抵抗」の狭間で生まれた一瞬の奇跡的な希望の行為として記録・記憶されるべきものであろう。それは、在日朝鮮人の形成過程についても新たな視点をもたらすものではないだろうか。

 こうした局面を大きな視点から再考した時に見えるものは、思考力を失わず、生命の大切さや他者との共存を目指したアイヌの人々の、「国民」ではなく、人間としての自立した行為の際立った尊さである。

 最近、北・中南米の先住民がアフリカ奴隷の脱出を助け匿い、共生してきた歴史が明らかにされてきている。それは、植民地支配と帝国主義がもたらす普遍的な暴力の構図といえるのではないか。

 グローバル化の中で世界的な規模での絶対的「他者」が常に作り出され、経済の絶望的な格差は臨界点に達している。コロナの脅威がこれまでの世界や社会システムを根底から覆しつつある現在、これまで何度も繰り返されてきたように、人々は権力やメディアが煽動する恐怖に滑稽なほど家畜的な盲従を示している

 分断された世界に抗い、過酷な歴史の中で共に生きた人々のように、権力や資本の恫喝に屈せず、自立した意思を持つ人々の連帯と協力が、天皇制の偏狭な排外主義と世界システムの暴虐を超え、多様性に満ちた豊かな世界を再構築する希望へとつながる可能性があるのではないだろうか。

 以上が論稿「朝鮮人とアイヌ民族のつながり」の要旨です。石純姫さんは著書『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』(寿郎社、2017年)の中で、こうも書いています。

 「植民地支配は、植民地とされた地域から労働力を暴力的に搾取する。システム化されたそうした暴力が宗主国の国民にとっては日常となると同時に、国民は無意識のうちに植民地支配者としての意識・思想を形成していく。その結果、圧倒的な暴力のシステムを肯定し、それを否定することは「悪」であり「犯罪」だと思うようになる

 この指摘ははたして過去の日本国民にだけ該当するものでしょうか。

 天皇制が象徴天皇制と名を変えながらその本質を温存しているように、私たち「国民」も「無意識のうちの植民地支配者としての意識・思想」を継続させているのではないでしょうか(写真左・中は、「北海道命名150年記念式典」=2018年8月5日に出席した明仁天皇・美智子皇后=当時の前で民族舞踊をさせられるアイヌの人々)。

 そして、韓国に対する「嫌韓」、朝鮮民主主義人民共和国、中国に対する偏見・差別・敵視が国家権力とメディアによって煽られ、日米安保体制の下で、「圧倒的な暴力システム」である軍備・軍事同盟が肯定され、それを否定することが「悪」「犯罪」とみなされる。それがまさにいま私たちが生きているこの国の姿ではないでしょうか。
 だからこそ、「権力や資本の恫喝に屈せず、自立した意思を持つ人々の連帯と協力」、その思想と人間性、たたかいに学びたいと思います。


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朝鮮人とアイヌ民族と天皇制<中>遺骨盗掘・御料牧場

2021年03月23日 | 天皇制と人権・民主主義

    

 在日総合誌「抗路」(8号)の石純姫さんの論稿「朝鮮人とアイヌ民族のつながり」の抜粋を続けます。

◇戦時期の北海道における朝鮮人

 筆者が郷土史の執筆を依頼された平取(びらとり)町振内(ふれない)は、戦時期に日本の総生産量の6割を産出するクロム鉱山を有し、朝鮮人労働者が動員された事実が確認されている。クロム運搬のために建設が急がれた鉄道敷設や隧道(ずいどう)工事には、非常に多くの朝鮮人労務者が動員され、犠牲となった。

 十数名の朝鮮人犠牲者が振内共同墓地に埋葬されていることを郷土史に記述しようとした。しかし、編集委員会の激しい抵抗を受け、脅迫的な文書が大学や自宅宛に連日届けられた。信じがたい妨害と圧力を受けながらも、その事実はかろうじて数行ほど郷土史に記載することができた。

◇アイヌ遺骨盗掘とウポポイ

 2007年国連総会における「先住民の権利に関する国際連合宣言」の採択を受け、2008年6月、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で採択された。
 ところが、2009年に提出された「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告には、最も重要なアイヌ民族の先住権や、政府のアイヌ民族に対する謝罪や具体的な補償が提示されないまま、観光を中心に据えた「民族共生の象徴となる空間」構想が提言された。

 この「民族共生の象徴となる空間」の際立った特徴は、「アイヌ精神文化を尊重する機能」として、「大学等にあるアイヌ人骨のうち、遺族等への返還の目処が立たないものは、国が主導して象徴空間に集約」とする部分である。

 江戸時代末期からアイヌ人骨の盗掘は行われていた。学問の名においてアイヌ民族の尊厳を徹底的に蹂躙する完全な犯罪ともいえる人骨盗掘が大規模に行われて来た。北大の動物実験室から発見されたアイヌ民族の遺骨は1000体を超え、東大、大阪大、全国の博物館などに保管されているアイヌ民族の人骨は1700体を超える(写真左。ETV特集より。中・右の写真も同じ)。

 明治期には北海道の多くの場所が天皇家の御料地となり、新冠(にいかっぷ)にも御料牧場が作られた。1915年、新冠姉去地区のアイヌの人々が強制的に移住させられたところが平取町上貫気別(現在:旭)である。
 旭の笹藪の中に1つの碑があり、強制移住させられたアイヌの人々へ「鎮魂の真」を捧げると刻まれている。この墓地(写真中)からアイヌの遺骨が盗掘され、北大に保管されていることがわかった。

 アイヌ民族から提訴された遺骨返還は、謝罪もなく、多くの遺骨はウポポイ(2020年7月一般公開された「民族共生象徴空間」とうたわれている施設―引用者、写真右)の「象徴空間」へ「合祀」された。それは、研究の効率化と過去の犯罪行為の隠蔽に他ならない。

 アイヌの人々は、土地も名前も言葉も慣習も文化も尊厳のすべてが奪われただけでなく、死後の骨、そして魂までもが奪われ続けている。

 死や魂の物語ほど、ナショナリズムの強固な枠の中でしか語られない。国民の歴史や地域郷土史ではアイヌや朝鮮人は排除されてきた。常に、日本人の死や魂だけが語られ、記憶され、表象されてきた。 (明日に続く)

 


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朝鮮人とアイヌ民族と天皇制<上>強制労働からの脱出と保護

2021年03月22日 | 天皇制と人権・民主主義

    
 コロナ禍は様々な問題を突き付けていますが、そのひとつは、社会的マイノリティと私たち、国家と私たちの関係ではないでしょうか。それを考えるうえで、たいへん貴重な論稿があります。在日総合誌「抗路」(発行者・尹健次、発行所・抗路舎)最新号(8号)に掲載された石純姫さん(経歴は後述)の「朝鮮人とアイヌ民族のつながり その歴史と、希望の視点から」です。3回に分けて紹介します(抜粋ですが文章は原文のまま。数字表記は漢数字を洋数字に変えました。写真左は現在のアイヌの人=NHKより)。

◇前近代期の朝鮮人とアイヌ

 江戸時代の1696年には蝦夷地に漂着した朝鮮人とアイヌ民族の最初の邂逅と交流が記録されている。
 朝鮮からサハリンに移住した朝鮮人が北海道に移住したという可能性があるのではないか。サハリンは、多様な人々の共生する場所だった。国境の曖昧な多文化共生地域だったのである。

 ロシアへの最初の朝鮮人の移住は1862年。やがて、朝鮮人移民は急速に増え、1910年は約5万1000人を超える。日本の植民地となってからは、政治的な抑圧と迫害から逃れてロシア沿海州への政治移民が増加し、やがてロシア沿海州からサハリンへと移住が始まる。
 サハリンへの移住は1870年代から始まったとみられ、1897年の第1回ロシア国勢調査では、サハリンの2万8000人の人口のうち、67人が朝鮮人である。

 一方、北海道では統計として記録されている朝鮮人の人口は1911年の6名が最初で、学生や漁業・労働者などだった。しかし、筆者の聞き取り調査からは、1907年に徳島県鳴門・淡路から北海道に馬喰として移住した朝鮮人が、アイヌ女性と婚姻関係を結んでいる例が存在する。1883年に朝鮮人に鳥獣猟の許可書を与えているという公文書もある。

 前近代期末期から朝鮮人の移住と定住化が、ロシア沿海州やサハリンで進み、同時に北海道でもあったことがわかってきている。

◇朝鮮人とアイヌ民族のつながりの諸相

 朝鮮人がアイヌの家庭に定住化していく過程は、大きく以下の3点に集約できる。

 第1点は、養子縁組。第2点は、戦後のことであるが、越年婿(おつねんむこ)といって、朝鮮人の男性が働き手として居住し、翌年、出て行くという形態である。なかには定住化した人もいた。第3点は、北海道各地の強制労働の現場から、脱出を試みる朝鮮人がアイヌの人々の保護と支援から定住化いていくものである。

 1917年からは北海道炭鉱汽船が釜山から植民地の労働者を動員し、「労務慰安所」を設置し、朝鮮から「労務慰安婦」を募集・管理した。北海道では、炭鉱や鉱山のあらゆる事業所に「労務慰安所」を設置していた。

 強制労働の現場から脱出した朝鮮人は、見つかると見せしめのために死に至る暴行を受けることが通常であり、脱出した朝鮮人を通報すれば、報奨金も与えられた。多くの日本人は、朝鮮人が逃亡したという警報を聞くと、灯かりを消して息をひそめていたという(逃げた朝鮮人を見つけて通報するため―引用者)。

 そうしたなか、アイヌの人々は、消えていた火をもう一度起こし、逃げてきた朝鮮人たちを家の中に迎え入れた。食事を与え、「今眠ってしまったら、あんたも捕まるし、私も捕まる。明日の朝早く、あの茅葺の家に行きなさい。その家はアイヌの家だから、きっと迎えてくれるだろう」というように、朝鮮人を匿い、次の脱出先を教えたという。

 そうして、アイヌの家を転々とした朝鮮人が、やがてアイヌの女性と結ばれ定住化していくことが、数多くあった。そうして結ばれた二人の間に生まれた子どもたちは、決して少なくなかった。
 逃げてきた朝鮮人が畑にいるのを見て怖がる子どもたちに向かって、アイヌの母親が「驚くことはない。同じ人間なんだから」と言い、食べ物をあげたり匿ったりしたという。 (明日に続く)                               

 ※石純姫(ソク・スニ)さん 1960年東京生まれの在日コリアン。中央大学大学院修了後、苫小牧駒沢大国際文化学部教授、東アジア歴史文化研究所所長、大阪経済法科大アジア太平洋研究センター客員研究員。写真右は石さんの著書『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』(寿郎社、2017年)。


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日曜日記141・二人の裁判長・渡辺直美さんのコメント

2021年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

☆二人の裁判長 

 
 17日、札幌地裁(武部知子裁判長)は同性婚を認めていない民法などは「不合理な差別で、法の下の平等に反する」との初の違憲判決を下した。
 翌18日、水戸地裁(前田英子裁判長)は、日本原子力発電東海第2原発について、重大事故発生時の避難計画に欠陥があるとして、運転を認めない判決を下した。同日の広島高裁(横溝邦彦裁判長)が、四国電力伊方原発3号機の運転を認めた不当判決と対照的だった。

 いずれも画期的な判決だ。2つの判決はともに女性裁判長によって下された。これはたんなる偶然だろうか。

☆渡辺直美さんのコメント

 18日、東京オリ・パラの開閉会式の企画・演出を統括していた佐々木宏氏(森喜朗前組織委会長の「信頼が厚かった」=19日付共同配信)が、式典に出演予定だったタレントの渡辺直美さんの容姿を侮辱する発言を行っていたことが発覚し、辞任した。東京五輪組織委の醜態・腐敗は後を絶たない。あきれるばかりだが、ここでは渡辺さんのコメントに注目したい。
 渡辺さんは18日、所属する吉本興行の公式サイトにコメントを発表した。以下が全文だ。

< オリンピックの件ですが、去年、会社を通じて内々に開会式への出演依頼をいただいておりましたが、コロナの影響でオリンピックも延期となり、依頼も一度白紙になったと聞いておりました。それ以降は何も知らされておらず、最初に聞いていた演出とは違うこの様な報道を受けて、私自身正直驚いております。
 表に出る立場の渡辺直美として、体が大きいと言われる事も事実ですし、見た目を揶揄されることも重々理解した上でお仕事をさせていただいております。
 実際、私自身はこの体型で幸せです。
 なので今まで通り、太っている事だけにこだわらず「渡辺直美」として表現していきたい所存でございます。
 しかし、ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております。
 私自身まだまだ未熟な部分もありますので、周りの方にご指導いただきながら、これからも皆様に、楽しんでいただけるエンターテイメントを作っていけるよう精進して参りたいと思います。>

 胸が熱くなった。控えめながら佐々木氏への強烈な批判になっている、だけではない。ここにはプロのタレントとしての覚悟と矜持、そして「人間として」の尊厳がある。

 女性ならではの判決、女性ならではのコメント、と言えば、逆のジェンダー差別になるだろうか。女性か男性かというより、問題は人間としての在り様であることは確かだ。しかし、三人が女性であることがまったく無関係だとはどうしても思えない。

 あらためて思う。ジェンダー差別のない、性に関係なく人が評価され活躍できる社会になれば、この国は、この国でも、生まれ変わることができるかもしれない。


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コロナ禍と「自己責任国家」の6つの特徴

2021年03月20日 | コロナ禍と政治・社会

    
 18日の菅義偉首相の「緊急事態宣言解除」会見であらためて明らかになったのは、永年の自民党統治によって、日本は「自己責任国家」になり果て、コロナ禍でそれが浮き彫りになっているということです。その特徴は6つあります。

①市民への責任転嫁

 菅首相が「5本柱の総合対策」の第1に上げたのは、「飲食の感染防止」です。検査体制の不備によって感染ルートの追跡さえ十分行われていないにもかかわらず、「飲食」が感染の元凶であるかのように描くのは、外出し会食をやめない市民が悪い、店を閉めない業者が悪い、という責任転嫁にほかなりません。

②私権制限・取り締まりの強化

 責任を転嫁しておいて、時短要請に応じない業者には罰則を設け、「命令」を出し、従わなければ科料する(特措法)。私権制限(市民的自由・権利の抑制)と国家による取り締まり・弾圧の強化は表裏一体です。

③政府(国家)の責任放棄

 コロナ対策で政府がやるべきことは、大規模なPCR検査の実施によって感染の実態を把握し予防措置をとることと、医療体制の強化です。しかし、菅政権はいずれもその責任を果たそうとしていません。

 「5本柱」の中でモニタリング検査を「主要都市で来月には1日5000件」をめざすとしていますが、まったく不十分です。たとえば韓国では、今年1月中旬までに、「首都圏で150カ所余りの(PCR検査の)臨時検査場が設けられ、携帯電話番号さえあれば匿名で誰でも無料で検査を受けられる。全国で1日に約5万人がPCR検査を受けている」(在韓作家・戸田郁子さん、雑誌「抗路」3月号)といいます。

 「第5の柱」に挙げた「医療体制の強化」も「各都道府県でつくる」と抽象的にいうだけで、具体策は不明です。菅首相は「病床率が50%以下になった」と誇示していますが、現場の医師は、「数字だけでは分からないほど医師や看護師は疲弊している」(18日夜のNHKニュース)と窮状を訴えています。
  現場で実際に苦しんでいる医療者や感染者の声を聞こうとせず、苦境を放置しているのも「自己責任国家」の特徴です。

④「専門家」の選別と体制内化  

 緊急事態宣言の解除には「専門家」による「諮問委員会」の承認が必要と法律で決められています。今回「諮問委員会」は18日午前7時という異例の時間に行われました(写真中)。ところが、菅首相はその前日17日に、「制限を解除する」という方針を記者団に発表しています。首相が公言した方針に「諮問委員会」が異論をはさめるわけがありません。案の定、「諮問委員会」は尾身茂委員長はじめ全会一致で政府方針を了承しました。

 「諮問委員会」はまったく形式的な、政府の傀儡組織に他ならないことが白日の下にさらされたわけです。国家権力による「専門家」の取り込みと、「専門家」と言われる者たちの権力との癒着が端的に表れています。

 そもそも、昨年の初めから、政府は意に沿わない学者の声は聞こうとせず排除してきました。たとえば児玉龍彦東大名誉教授もその一人ですが、児玉氏らが当初から一貫して主張していたのがPCR検査の大規模実施です。政府はその提言を無視しながら、その正しさが否定できなくなると、今ごろになって事実上の方針転換を図っているのです。

 政権の意に沿わない学者・専門家を排除し、言いなりになる「専門家」を取り込んで体制内化する。日本学術会議の任命拒否もその表れです。

⑤メディアの腐敗・体制内化

 18日午後7時からの首相会見は、メディアの劣化・腐敗を改めて見せつけました。政府の無策・失策を追及する質問は皆無といっていい状況でした。「日米同盟強化にどう貢献するのか」というNHK記者の“質問”には唖然としました。少なくない記者が「よろしくお願いします」と言って質問を締めくくっているのも気になりました。そんな卑屈な姿勢では「権力の監視」など望むべくもありません。

⑥市民の生命・生活より国家戦略 

 感染が下げ止まりしている状況を政府やメディアは市民の「気の緩み」だといいます。、「気の緩み」が一部に出ているとすれば、その元凶は、政府があくまでも東京五輪を強行しようとしていることではないでしょうか。いかなる状況でも五輪は行うと言い続けている菅首相や小池百合子都知事の言葉を聞きながら、だれが緊張感を維持できるでしょうか。「気の緩み」をなくそうとするなら、まず何よりも「東京五輪中止」を早急に決定すべきです。

 コロナ対策の手抜きを続けている菅政権が、逆にこのかん異常に熱をあげているのが、日米同盟・アメリカとの軍事同盟の強化です。コロナ禍による休業補償や生活補償は、「財政事情」を口実におざなりにする一方、5兆5500億円の軍事費は聖域にし、兵器の購入・開発に血道をあげ、米軍と自衛隊の一体化をおしすすめ、「中国包囲網」を強化しています。

 「自己責任国家」は「軍事体制国家」と表裏一体です。
 以上の6つの特徴は、まさに“いつか来た道”の再現にほかなりません。


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