アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

上皇訪問時、同志社大で上階カーテンが閉められた

2023年06月30日 | 天皇制と政治・社会
  

 明仁上皇・美智子上皇后は5月14日に「私的」に京都を訪れ、翌15日、皇室ゆかりの大聖寺(京都市上京区)に行きました(写真右=朝日新聞デジタルより)。
 その際、同寺に隣接する同志社大学(植木朝子学長)で、上皇を見下ろす高さにある教室のカーテンが一斉に閉められていたことが、29日付の京都新聞で分かりました(写真左。写真中はカーテンがすべて下ろされた同志社大の教室)。

「近くの烏丸通沿いには大勢の市民が集まっていた。一方、同志社大の建物では、同寺を見下ろせる教室のカーテンが閉められた。「正午~午後3時 カーテンには触らないでください」との張り紙もあった」(同紙)

「20代の男子学生は、カーテンを開けようとした別の学生が警備員に制止される姿を目にした。「なぜこんな規制をするのか。ご夫妻を見下ろすことが無礼なのだろうか」と疑問が募った」(同)

  京都新聞の取材に対し、同志社大は、「警察から警備上の要請があり、対応した」とし、詳細については「(回答を)差し控える」としました。

 要請した京都府警は、「個別のことは言えない。警護対象者の安全確保に必要な措置はしている」と「理由を明かさなかった」といいます。

 京都新聞は、「天皇や皇族の行幸啓などを巡っては、かつて高い場所から見下ろす行為が「不敬」だとして禁じられた時代があった」とし、今回はそれとは違うという論調ですが、はたしてそうでしょうか。

 京都府警は「警備上の要請」だとし、同志社大もそれに応じたとしていますが、単なる「警備」とは言えないでしょう。首相はじめ他の「要人」が各地を訪問するときに沿道のカーテンを下ろさせるでしょうか。対象が上皇・上皇后であったための特別措置であったことは明らかです。

 さらに、上皇らを見下ろす高さの教室のカーテンを下ろさせたことに、「不敬」の意識がなかったと言えるでしょうか。学生が「見下ろすことが無礼なのだろうか」という疑問を持ったのは当然でしょう。

 見過ごすことができないのは、同志社大学の対応です。京都新聞の報道によれば、同大学は府警の要請に唯々諾々と応じ、京都新聞の取材に対し「詳細は控える」とまともに答えていません。

 警察から「見下ろす位置の教室のカーテンはすべて閉めろ」と言われれば、上皇に対する特別措置だと気づいて断るべきでしょう。大学は学問の自治・真理探究・人権尊重の場なのですから。同志社大は今回の経過を真摯に検証し反省すべきです。

 皇族の「行幸啓」に際して差別的な過剰警護が行われるのは、決して過去の時代の話ではありません。

 全米図書賞を受賞(2020年)した柳美里氏の『JR上野駅公園口』。その主要なテーマは「山狩り」です。皇族が上野公園を「巡行」するたびに「清掃」と称して行われるホームレス排除です。
 柳氏は2006年に「山狩り」の事実を知り、3回にわたってその事実を確認したと単行本の「あとがき」(2014年2月)に書いています。

 天皇を頂点とする「万世一系」の皇族が国家の中で特権的な地位を占める天皇制は、すべての差別の温床であり元凶です。それを日常的に意識することは多くないかもしれませんが、ことあるごとにその本質は表面化します。今回の「カーテン」もその1つです。
 無意識のうちに忍び込む(忍び込ませる)天皇制の差別性を看過することはできません。


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『ウクライナ戦争を終わらせるため』著者と訳者が示す和平の道

2023年06月29日 | 国家と戦争
   

 25日のブログの「今週のことば」で紹介した杉村昌昭・龍谷大名誉教授(現代思想)が翻訳した『戦争から戦争へ ウクライナ戦争を終わらせるための必須基礎知識』(エドガール・モラン著、人文書院2023年6月)。

 著者のモラン氏は1921年フランス生まれの思想家。第2次世界大戦では対独レジスタンスの闘士として活動し、戦後はパリ国立科学研究所主任研究員などを務めました。原著は今年1月に刊行。101歳とは思われない明晰な分析と主張の貴重な論考です。特に注目された個所を抜粋します。

<偏向報道>

「フランスのメディアは、ウクライナの発信する情報しか提供しない。われわれはロシアを憎むように仕向ける戦争プロパガンダの大波を受けている。ウクライナのすべてを無条件に称賛し、あらゆる状況的関連性に目を塞ぐように仕向けられている。
 たとえば、2014年以来、ウクライナとウクライナ領のロシア語流通地域とのあいだで絶えず戦争が続いてきたことや、アメリカが果たしてきた役割については無視されている」

<ロシアとアメリカ>

「ロシアがウクライナを占有しようという意志につき動かされた侵略者であり、その行動が人間や財産や建物を破壊するものであることはたしかである。他方、アメリカが、マイダン革命(2014年)以降、ウクライナ政治の黒幕として経済のなかに浸透し、ウクライナの情報・諜報システムにとって不可欠の支援を提供してきたこともたしかである。

 ウクライナはプーチンのロシアにとって重要な標的であるが、NATOの基地をロシア国境にまで設置しようとするアメリカにとっても、同様に重要な標的である。実際上、ウクライナは二つの帝国主義的思惑がぶつかりあう地点なのである」

<ゼレンスキー>

「ゼレンスキー大統領は当初は紛争解決の唯一の道は外交によるものだと認識していたのだが、<ロシアを持続的に弱体化する>という明確な目的を有するアメリカの覇権の下で、しだいに非妥協的となり、唯一の解決の道は<戦争による勝利>しかないと思うようになった」

<プーチン>

「プーチンの野心がいかに強かろうとも、彼は退却することを知っているリアリストでもある。プーチンはすでに、ジョージアでのわずかな獲得で満足して退却したことがある。
 ゆえにプーチンをヒトラーやスターリンになぞらえるのは思い過ごしにほかならない。プーチンはリアリズムでものを考えることができる交渉可能な専制君主である」

<和平へ向かって>

「危険が増大し続けているなかで、和平を求める声が高まらないのは驚くべきことである。
 停戦や交渉について話題にすること自体が、好戦的気運のなかで弾劾されるような雰囲気が生じている。好戦的な人々が戦争を煽っているのだ」

<和平の条件>

「和平の条件は明らかである。中立の立場もしくはEUへの統合というかたちでウクライナの独立を認めることである。
 ドンバスの分離地域は、ウクライナの中でロシア語を日常語とする住民が抑圧・弾圧されてきたところであり、ウクライナ主権国家への帰属から外すことにする。この地域の帰属は、国際的監視の下に行う国民投票で決めるか、歴史的にロシアのものとして認知する。
 クリミアはもともとウクライナ人よりもロシア人が多かった。論理的に考えれば、クリミアはロシアに帰属することになる。この地の軍事的未来は交渉で決めるしかない。

 こうしたすべては交渉可能である。ただし、和平の必要と緊急性を理解している諸国が両側から声をあげて、双方を交渉の方向に向かわせなくてはならない」

 杉村氏(写真中=京都新聞より)の「訳者あとがき」からも抜粋します。

「日本のマスメディアは単純な善悪二元論に陥っているため、この戦争の終わらせ方についてなんら意見を持ちあわせておらず、およそ表層的としか言いようのない報道を流し続けている。それを見せられ聞かされている視聴者や読者はそこに飲み込まれ、当然のごとく欧米日の指導者と同じような見方をせざるをえなくなる。
 こうした状況を一口でいうなら、日本はいま、“無自覚な参戦状態”にあるということであろう。

 マスメディアは偏向報道によって“参戦状態”の醸成に深く関与しているにもかかわらず、自らの報道を“公正中立”と自認しているため、“参戦意識”は希薄である。そして、偏向報道を“公正中立”と受け止めている市民大衆は、日本が西側の一員としてウクライナを“後方支援”しているという“参戦意識”はさらに希薄である。

 日本の反戦運動は、ロシアの侵略性の糾弾とウクライナ支援だけに焦点をあわせるのではなく、日本が“参戦”していることにもっと注意を向けるとともに、一刻も早く停戦を求めて、さまざまな可能性を模索しなくてはならない」

 「無自覚な参戦状態」―それはまさに今日の日本(そして欧米)市民が落ち込んでいる危険な暗闇を端的に言い表しているのではないでしょうか。
 私たちは、メディアの「偏向報道」に取り込まれることなく、「参戦状態」から自覚的に抜け出して、停戦・和平の声を大きくしなければなりません。

あすもブログを更新します。

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「政治に多様性」のカギは小選挙区制廃止

2023年06月28日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
  
 

 性的少数者をサポートしている立石結夏弁護士は、LGDT法案審議の過程で自民党などから出た異論について「偏見や不安をあおるもの」と批判したうえで、こう強調しました。

男性中心で自分たちと同質的な価値観以外を「周縁」として扱う政治の現状を変える必要がある。政治に多様性を確保すればさまざまな視点が政策に反映され、誰もが生きやすい社会構造がつくられていくはずだ」(6月15日付京都新聞)

 世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ報告書」(2023年)で、日本は146カ国中125位。とりわけ政治分野は138位というありさまです。国会議員(衆院)の女性議員比率は10・3%にすぎません(2023年5月現在)。
 「政治に多様性を確保する」ためには、女性議員を飛躍的に増やすことが急務です(写真中は女性議員が1割しかいない衆議院)。

 女性の政界進出を阻んでいる根源は何でしょうか。

 根深い男尊女卑、ジェンダー差別が根底にあることは言うまでもありません。しかし、それだけではありません。女性の政界進出を阻んでいる根源は、1人Ⅰ区の小選挙区制(比例代表並立制含む)という選挙制度です。

 三浦まり・上智大教授(政治学)はこう指摘します。

立候補できればそれなりの結果がついてくるのに、特に衆院選では、女性が立候補すること自体が難しい構図があります。小選挙区では、政党は現職がいる限り新人を擁立できません。現職は9割が男性で、政権交代もおきづらいなか、新陳代謝は悪いままとなっています」(6月21日付朝日新聞デジタル)

 議員のジェンダー問題に永年取り組んでいる三井マリ子氏(元都議)は、女性の政界進出が進んでいる北欧を調査した結果をもとに、より明快にこう指摘していました。

小選挙区制では1人しか選ばれず「死に票」が多いのが最大の弱点です。政策よりも知名度や資金が物を言うため、現役や世襲候補、男性候補に有利に働きます。後発者の女性は排除されがちです。女性議員が圧倒的に少ない理由は選挙制度にあります。この制度のままでは、立候補する女性は苦労するばかりです」(2021年10月7日付琉球新報、写真右)

 ではどうすべきか。三井氏は「比例代表制」こそ望ましいと主張します。

日本の並立制にも比例代表はありますが、小選挙区で落ちた人を救済するための装置にすぎません。小選挙区制中心の米英や日本に比べ、比例代表制中心をとっている北欧諸国やドイツ、ニュージーランドの方が女性議員はずっと多いのです」(同)

 来る衆院選に向け、野党各党は小選挙区制の1人区で「野党共闘」をどうするかに腐心しています。
 1人区で自民党に勝つためには候補者を1本化しなければならない。1本化には政策の一致(政策協定)が不可欠。政策を度外視した1本化は野合にすぎない。しかし政策的一致はきわめて困難―野党はこのジレンマに頭を悩ましているわけですが、本末転倒と言わざるをえません。小選挙区制を廃止しない限り、このジレンマから抜け出すことはできません。

 日本共産党は1970年代、田中角栄が小選挙区制導入を目論んだ時、「4割の得票で8割の議席」だと小選挙区制の反民主性を突き大反対運動を展開しました。ところがその後、「野党共闘」に腐心するのに伴い「小選挙区制反対(廃止)」の声が聞こえなくなったのは、いったいどういうことでしょうか。

 女性議員の数を増やし、世襲議員を減らし、議会に多様な声・意見を反映させるためには、小選挙区制を廃止して比例代表制に代えることが不可欠です。それこそが政界のジェンダー差別をなくし、議会制民主主義への信頼を回復させるための最大のカギです。


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映画「アリラン ラプソディ」が描いたもの

2023年06月27日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本
   

 川崎市桜本のハルモニ(おばあさん)たちを描いたドキュメンタリー映画「アリラン ラプソディ~海を越えたハルモニたち~」(金聖雄監督)の関西特別上映会が25日、京都市内でありました。出演したハルモニたちも川崎から駆け付け、金監督らとトークを行いました。会場は拍手と笑いが絶えず、和やかな中にも厳しい思いの一体感に包まれました(写真右)。

 登場するハルモニたちは日本の植民地支配の下、強制連行(拉致)やさまざまな事情で日本に来ざるを得なかった在日1世が中心。在日2世の金監督が、前作「花はんめ」(2004年、「はんめ」もおばあさん)を含め23年間撮り続けてきました。

 劣悪な集合住宅で身を寄せ合いながら、「川崎ふれあい館」の識字学級で字を学び、「トラジ会」で仲間と共に食べ、語り、歌う人生。朝鮮・韓国籍の在日に選挙権が与えられていない問題などで本音の思いをぶつけ合います。

 笑顔・ユーモアが絶えないハルモニたちを暗闇に突き落とすレイシストらによるヘイトスピーチ。そして安倍晋三政権による戦争(安保)法制強行(2015年)。ハルモニたちの手書きの横断幕による「800メートルデモ」は映画のハイライトです。「せんそうはぜったいはんたい」という声は、どんなメディア・識者の論評よりも胸に迫ります。

 「ふれあい館」の崔江以子館長は、「ハルモニ方の訴えなしに、ヘイトスピーチ解消法や川崎市差別のない人権尊重の街づくり条例はできなかった」とし、ハルモニたちを「小さな地域の英雄たち」と讃えます(上映会のしおり)。

 とりわけ印象的なのは、ハルモニたちが沖縄を訪れた場面(約15年前)。現地のおばあたちと交流し、朝鮮人軍夫を描いた「恨の碑」(読谷村、金城実氏作)を訪れたハルモニたちは、「碑」をなでながら号泣します。そしてバスの中で衝撃的な過去を告白します。封印していた過去への思いが、「恨の碑」によって解き放たれた姿でした。「在日」と「沖縄」の魂が触れ合った瞬間でした。

 映画冒頭、「夢は何ですか」という金監督の質問に、「ゆめなんかない」「これまでたのしいことはなに1つなかった」と異口同音に語るハルモニたち。それなのに笑顔とユーモアを絶やさないハルモニたち。言葉では言い尽くせない苦悩の人生の中で生きてきた人たちのたくましさ、尊厳が全編通じて伝わってきます。

 そんな感動に包まれている中、上映後のトークで、「ふれあい館」でハルモニたちに寄り添ってきた鈴木宏子さんが、「水を差すようだけど」と断りながら、こう述べました。

「ハルモニたちはなぜ海を越えて日本に来なければならなかったのか。そして、なぜ今も日本で安心して暮らせないのか。日本人はそれを忘れてはいけない。この映画は、日本人を告発しているドキュメンタリーです」

 胸に突き刺さりました。ほんとうにその通りです。それがこの映画の真髄だと思います。

 ハルモニたちは撮ってくれた金監督に感謝し、会場におそらく多くおられたと思う在日の方々は、映画から勇気を得られたと思います。
 しかし、日本人である私は、そうしたみなさんと同じ感動でとどまっていることはできません。笑い、拍手し、涙するだけではいけない。日本人がこの映画から受け取らねばならないものは、在日のみなさんのそれとは違うものでなければならない。

 鈴木さんは「だから、私は私にできることをやり続けます」と言われました。

 この映画は、日本人こそが見なければならない映画です。
 そして、ただ感動するだけでなく、「自分にできること」を考え、実行する契機にしなければなりません。植民地支配と在日差別の加害を謝罪し、差別と戦争のない社会をつくるために。

あすもブログを更新します。

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「朝鮮戦争の元凶は米国」カミングス教授の告発と日本

2023年06月26日 | 日米軍事同盟と朝鮮・韓国
  
 
 73年前(1950年)の6月25日、朝鮮戦争が「開始」されました。朝鮮戦争は朝鮮半島の分断を決定づけた戦争ですが、その「起源」をめぐって韓国のハンギョレ新聞(6月10日付日本語電子版)に興味深い記事が載りました。

 朝鮮戦争の真相を論究した書物として定評がある『朝鮮戦争の起源』(第1巻1981年)の韓国語完訳が今年完成。著者のブルース・カミングス氏(米シカゴ大客員教授=写真中、同紙より)が長文の序文で執筆の契機と所感を明らかにしたことに注目した書評記事です。記事の要点を抜粋します。

<「起源」は「開始」とは違う。カミングス氏は「誰が先に撃ったか」を問う前に「なぜ撃たざるをえなかったのか」を問わねばならないと述べる。

 カミングス氏は、朝鮮戦争の起源は、1945年8月15日の解放(日本の敗戦)直後の数カ月間に形成されたと述べる。9月8日にソウルで軍政を始めた米軍は、左派勢力が布陣した朝鮮人民共和国を認めることなく、保守・親日勢力と手を握った。さらに、日帝の警察機構をそのまま再活用し、日帝軍人を集め、国防警備隊を創設した

 ソウルの米軍政とワシントンが、米国の覇権戦略によって南側の勢力のうち一方の肩を持つ過度な内政介入をしなかったならば、南北分断という悲劇は起きなかったと、この本は語る。

 まさにそうした理由から、カミングス氏は韓国語版の序文で「1945年以降、この由緒ある国を軽率かつ無分別に分断させた米国の高位指導者」の過ちを追及し、「朝鮮を分断させたのがわが祖国であったため、私はいつも責任を感じていた」と告白する。
 ならば、朝鮮戦争を終結させる責任も米国にあるだろう。>

 カミングス氏は、朝鮮戦争を引き起こした元凶はアメリカの覇権主義による内政介入だったと告発し、アメリカ人として「いつも責任を感じていた」と自らに厳しい目を向けています。

 自らに厳しい目を向けなければならないのは、アメリカ人だけではありません。

 日本は朝鮮戦争でアメリカ主導の「国連軍」の兵站基地になったばかりか、掃海艇を出動させ、元日本兵らが戦闘に参加もしています。また、「朝鮮戦争特需」で主要企業が「死の商人」としてぼろもうけし、その後の「経済復興」の基盤をつくりました。

 さらに、今とりわけ強調しなければならないのは、今日の自衛隊増強・大軍拡の「起源」もまさに朝鮮戦争だったという事実です。

 朝鮮半島の最前線を視察した国連軍最高司令官のマッカーサー元帥は1950年7月8日、吉田茂首相に次のような書簡を送りました。

「私は日本政府に対し7万5000人から成る国家警察予備隊を設置すると共に、海上保安庁の現有海上保安力に8000人を増員するよう必要な措置を講じることを許可する」

 この「マッカーサー書簡」を受け、8月10日、警察予備隊が正式に発足しました。憲法違反の再軍備の開始です。

「米国軍占領下での日本政府の朝鮮戦争への協力は、その後の日米安保体制下での1960年代以降のベトナム戦争、91年の湾岸戦争、21世紀はじめのアフガニスタンでの対テロ戦争協力、そしてイラク戦争への自衛隊派遣による協力と続く、戦後日本の対米戦争協力のまさに第1歩であったのである」(大沼久夫・共愛学園前橋国際大学名誉教授『朝鮮戦争と日本』新幹社2006年)(写真右は横須賀の基地から朝鮮戦争に出航した米軍空母=月刊「イオ」7月号より)

 銘記しなければならないのは、この朝鮮戦争は休戦協定(1953年7月27日)が結ばれただけで、いまだに平和協定が締結されていない、すなわちまだ終わっていないということです。

 そして最大の問題は、日本人は朝鮮戦争が終わっていないことどころか、朝鮮戦争そのものの事実さえ知らない、まして日本とのかかわりなど知らない人が圧倒的多数だということです。都合の悪い歴史は隠ぺいする日本の国家戦略がここでも貫かれているのです。

 いまだ終結していない朝鮮戦争は、今日の朝鮮半島と日本の関係、日米安保条約(軍事同盟)による自衛隊の大軍拡に直結しています。今に続くその歴史を知ることは日本人の責務です。

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日曜日記254・「天皇報道」で記者の功罪を考える

2023年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

  今回の天皇のインドネシア訪問を、朝日新聞は主に2人の記者が報じた。ひとりは宮内庁記者クラブから同行したT記者、もうひとりは現地インドネシア駐在のH記者(いずれも女性)だ。

 その記事・視点に大きな違いがあった。一例を挙げればこうだ。

「天皇陛下は…戦争や歴史と向き合いつつ、世界共通の課題や社会の変化にも目を向け、時代に応じた新しい皇室を模索する。今回はその一歩となる機会になりそうだ」(15日付、T記者)
「若者と交流し、天皇陛下がライフワークとして研究する水問題と関連した視察も重ねるなど、「未来志向」の姿勢を印象づけた」(23日付、T記者)

「ジャカルタにある国立歴史博物館には労務者の展示があり、「人々は強制労働にかり出され」「何千人もが極度の疲労や食料不足で死亡した」との説明書きがある」(21日付、H記者)
「オジェールさん(労務者遺族)は…「労務者の歴史も、戦争中に起きた『真実』だ。天皇陛下にも知ってもらいたい」と話した」(同、H記者)

 この違いは、個人的資質や思想性(だけ)の問題ではなく、宮内庁クラブと現地特派員というポジショニングの違いからくるのだろう。クラブにいて宮内庁が主要な取材源である記者と、現地で当事者や市民とじかに接する機会が多い記者の違いだ。
 どちらが市民にとって有益な記事・情報であるかは言うまでもない。ほかにもH記者の記事はいろいろ参考になった。

 記者のポジショニングからくる記事の違いが端的に表れるのは政治記事だ。
 政治記事が政局記事に堕しているのは、官邸クラブ、各政党クラブに属している記者たちが、政権や政治家の側から政治課題を見ているからだ。だから記事が面白くない。市民とはかけ離れたものになり、政治不信を招く大きな原因になっている。

 これに対して、当事者・市民と接触することが多い社会部記者の記事には、同じ問題でも政治部の記事と違って市民の視点、生の声がある(ことが多い)。最近の入管法改悪問題、LGDTQ法案問題を見てもそれは顕著だ。

 新聞はじめメディアは言うまでもなく市民のものだ。市民の視点・立場に立った記事こそ求められる。

 政局報道は政治部(記者)の宿命だから仕方がないと逃げてはいけない。政治記事をいかに市民の視点から書くか。簡単ではないが、模索しなければならない。

 辛淑玉さんがかつて雑誌にこう書いたことがある。

「耳を澄ましてほしい。見えていないものを見てほしい。そして、一人でも泣いている人がいたら、その人のそばに寄り添ってほしい。それが、ジャーナリストの仕事ではないだろうか。」

 すべての記者・ジャーナリスト、とりわけ政治部記者が肝に銘じるべき言葉ではないだろうか。

<今週のことば>

 杉村昌昭さん(龍谷大名誉教授)
(フランス哲学者エドガール・モラルの『戦争から戦争へ』を翻訳-今月人文書院から出版-して。23日付京都新聞インタビュー)

  必要なのはウクライナ支援ではなく、停戦の支援

「ウクライナ情勢が切迫している今、一刻も早く日本の読者に届けたい思いだった。というのも日本の報道は非常に一面的。「ウクライナが正義」「ロシアが悪」を絶対的な前提にしてしまっている。実は欧米の報道も反ロシア一色。そのスタンスでは、この戦争を終わらせることができない」
「何より重要なのは一刻も早く戦争をやめさせること。ロシアとウクライナ、どっちが勝つかという問題ではなく、戦争自体が悪であるという考えに立ち戻るべき。いまこうしている間にも、兵士や市民の命が失われ、地球環境の破壊も進んでいる。必要なのはウクライナ支援ではなく、停戦の支援。」  



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「ハンセン病患者に人体実験」軍隊と天皇制の裏面史

2023年06月24日 | 天皇制と差別・人権・民主主義
   

 6月25日はかつての「救らいの日」。政府は現在、同日を含む週を「ハンセン病を正しく理解する週間」としています。

戦中のハンセン病患者人体実験 解明に向け検証開始 熊本の療養所
 こんな見出しの記事が先月京都新聞(5月18日付)に載りました。「戦時中、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者に投与されていた薬剤「虹波(こうは)」に関し、恵楓園が事実解明に向けて検証作業を始めたことが分かった」

 「虹波」。初めて聞く単語でした。同記事によれば、京都新聞と熊本日日新聞が昨年12月、恵楓園が開示した関連資料をもとに「9人が死亡」と報じたスクープが発端でした。

 恵楓園が開示した資料は両紙が情報公開請求したもの。「同園での人体実験で死者が出たことは知られているが、1次資料の全容が明らかになったのは初めて」(2022年12月5日付京都新聞)。以下は同記事の要点です。

「虹波」とは、写真の感光剤を合成した薬剤で、防衛研究所戦史研究センター所蔵の旧陸軍資料によると、その研究目的は「戦闘に必要なる人体諸機能の増進」「極寒地作戦における耐寒機能向上」とされている。実験は機密軍事研究の一環だった。

 1944年5月の報告では、37歳の男性患者が注射約10時間後に「全身の血管に針の差入した様な」痛みや頭痛を訴え、けいれんを起こした末に意識が混濁し死亡した例が記載されている。

「虹波人体実験」を主導した宮崎松記同園園長、第7陸軍技術研究所嘱託だった波多野輔久・熊本医科大教授、遺体を解剖した鈴江懐・熊本医科大教授はいずれも京都帝大(現京大)医学部出身。

 吉中丈志・京大医学部教授は、「強制収容所という閉鎖空間で人体実験を行ったことは、中国人捕虜らに生物化学兵器開発のため人体実験を行った陸軍731部隊とも共通する」と指摘する。(731部隊を創設した石井四郎軍医中将も京都帝大医学部出身―私)

 藤野豊・敬和学園大教授は、「虹波」を巡る実態が歴史の闇に埋もれることを懸念し、「虹波の治験という非人道的な行為が、隔離された療養所という環境の中で行われた。新たな人権侵害として国の責任が問われるべきだ」と訴える。(写真中は「虹波」、右は開示された資料)

 恐るべき歴史です。恵楓園入所者自治会の太田明副会長は「関連資料はほかにも膨大にある。明らかになっていない事実はまだ多くあるはずだ」と話しています。事実の徹底究明と国の責任追及が急務です。

 見落としてならないのは、ハンセン病療養所内人体実験の背後にある権力構造です。入所者はなぜ人体実験(注射・薬)を拒否できなかったのか。
 
 入所者自治会の志村康会長は「園長の言うことは絶対で、反対すれば監禁室に送られる時代だった」と言います。療養所の園長には「らい予防法」によって「懲戒検束権」が与えられていたのです。

 それだけではありません。

 なぜ6月25日が「救らいの日」とされ、それが「理解する週間」として今に継承されているのか。それはこの日が大正天皇(嘉仁)の妻・貞明皇后(節子=さだこ)すなわち裕仁の母の誕生日だったからです。

 貞明皇后は1930年に手許金24万8000円を全国の療養所に寄附。この一部をもとに翌年「らい予防協会」が設立され、同協会が患者隔離を主導しました。全国の療養所には貞明皇后の歌碑が建てられました。

貞明皇后は「救らい」の象徴となっていく。…ハンセン病療養所は限りなく「皇恩」がもたらされる場、というイメージが作られていった。(中略)「皇恩」や「御仁慈」は、絶対隔離政策を正当化する思想的支えとなると同時に、病者にも隔離を受容させ、療養所に入ることが国家的使命と意識づける役割を果たした」(吉川由紀・沖縄国際大非常勤講師「皇室とつれづれの碑」、『入門沖縄のハンセン病問題 つくられた壁を越えて』2009年所収)

 ハンセン病患者に対する軍事目的の人体実験。その土壌をつくった人権蹂躙の隔離・収容。それを「皇恩」「御仁慈」で納得させた皇族・皇室の役割。
 これは軍隊と天皇制の隠された暗黒の裏面史といえるでしょう。その歴史を究明し責任を追及することこそ「ハンセン病の正しい理解」ではないでしょうか。

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象徴天皇制の末路示した「インドネシア訪問」

2023年06月23日 | 天皇制と憲法
   

 徳仁天皇と雅子皇后のインドネシア訪問(17日~23日)は、「国際親善の新たな時代をひらくか」(15日付朝日新聞デジタル)というメディアの“期待”とは裏腹に、象徴天皇制の末路を示すものとなりました。

 それが端的に表れたのは、ジョコ大統領夫妻との昼食会(19日)でのスピーチ(いわゆる「お言葉」)が、急きょとりやめになったことです。「天皇の親善訪問では公式の席上、双方がスピーチを交わすのが通例」(20日付共同配信)であるにもかかわらずです。

 天皇のスピーチとりやめは、ジョコ大統領の「より和やかで打ち解けた雰囲気の中で話ができるように」という意向によって前日決まりました。天皇がスピーチすると「和やかで打ち解けた雰囲気」でなくなるというわけです。なぜでしょうか。

 出発前の15日、天皇は記者会見しました(写真右)。在日外国報道協会から次のような質問が行われました。
「グルーバル・サウスといわれる新興国、途上国との連携の重要さが強調され、G7 広島サミットでも注目された。一方でこれらの国の多くはG7 諸国に支配された過去があり、日本も例外ではない。日本とインドネシアの友好や連携を深めるうえで、先の戦争にかかわる両国間の歴史をどう考えればよいか?」

 徳仁天皇はこう答えました。

「先の大戦においては、世界の各国で多くの尊い命が失われ、多くの方々が苦しく、悲しい思いをされたことを大変痛ましく思います。インドネシアとの関係においても、難しい時期がありました」(宮内庁HPより、太字は私)

 日本によるインドネシア占領を「難しい時期」としか言えない。まるで他人事です。

 天皇は残留日本兵の墓地に供花する一方(写真中)、日本の占領支配による強制労働の犠牲となったインドネシアの人々の墓地・慰霊碑には行きませんでした。その問題性はすでに書きましたが(17日のブログ参照)、遺族からは、「労務者の歴史も、戦争中に起きた『真実』だ。天皇陛下にも知ってもらいたい」(21日付朝日新聞デジタル)という声があがっています。

 ジャカルタにある国立歴史博物館には労務者の展示があり、「人々は強制労働にかり出され」「何千人もが極度の疲労や食料不足で死亡した」との説明書きがあるといいます(同朝日新聞デジタル)。
 インドネシアは政府も市民も、日本の占領支配(侵略)の歴史を忘れてはいないのです。

 真の友好を深めようと思うなら、日本はその問題に明確な反省・謝罪を行う必要がある。しかし日本の天皇は「難しい時期があった」としか言わない。現に残留日本兵の墓には供花しても強制労働の犠牲者には見向きもしない。そんな天皇がスピーチしても、インドネシア市民の気持ちを逆なでするだけだ―ジョコ大統領が前日にスピーチを断ったのはこうした思いからだったのではないでしょうか。

 戦争中の占領支配の問題だけではありません。

 19日、天皇と会見したジョコ氏は、「核のない世界が実現することを願っている」と言いました。これに対し天皇は、「大統領の原爆資料館への訪問に感謝を述べた」だけでした。
 また、ジョコ氏が「インドネシアとして、ウクライナの平和を実現するために様々な努力をしている」と述べました(おそらくアジア安保会議で提起した和平案を説明したと思われます)が、天皇は「敬意を表した」だけでした(19日付朝日新聞デジタル)。

 今日の世界情勢においてきわめて重要な諸問題でジョコ氏が水を向けても、天皇は何一つまともに答えることができなかったのです。

 これはけっして徳仁氏の個人的能力の問題ではありません。天皇は政治的発言をしてはならないのです(憲法4条)。
 だから天皇にも政治的発言の自由を与えるべきだ、というのは本末転倒です。天皇に政治発言の自由・政治的権能を与えることは、戦前戦中の君主制への逆戻りであり、日本国憲法を根底から瓦解させることにほかなりません。

 重要な政治的問題でまともな会話もできない(してはならない)のに、「皇室外交」を展開し、それを政権が政治利用する。そんな「日本国の象徴」(憲法1条)などいらない、いてはならないということです。

 人権・平等・自由という人間の根本理念に反するだけでなく、現実社会において百害あって一利もない象徴天皇制はなくするしかない、なくなるのが歴史の方向性。そんな末路が見えたインドネシア訪問だったといえるでしょう。

 

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「6・23」はやはり「沖縄慰霊の日」にふさわしくない

2023年06月22日 | 沖縄と戦争
   

 あす6月23日は「沖縄慰霊の日」です。沖縄戦を風化させることなく、犠牲者を悼むことはもちろん重要です。しかし、「6・23」はその日にふさわしくありません。その理由はいくつもあります。

 第1に、「6・23」は周知の通り、沖縄第32軍の牛島満氏司令官と長勇参謀長(ともに南京大虐殺の中心人物、写真中)が「自決」した日です(6月22日説も)。
 牛島や長は沖縄住民を戦争に巻き込んだばかりか、壕からの追い出し、集団強制死、スパイ容疑による虐殺など、日本軍が直接沖縄住民を虐殺した最高責任者です。
 彼らが「自決」した日を「慰霊の日」とするのは、帝国日本軍中心の歴史観と言わねばなりません。 

 「6・23」が牛島・長の命日であるため、この日の未明には沖縄駐屯の陸上自衛隊第15旅団の自衛官らが制服で牛島・長を祀った「黎明の塔」に参拝することが恒例化しています(昨年は問題になったため中止。写真右は20年のもよう)。これには天皇制も絡んでいます(2021年6月22日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20210622)

 第2に、「6・23」は「沖縄戦の組織的な戦いが終結した日」とされています。牛島と長が死んだことによってそう言われています。しかし、牛島は自分が死んでも絶対降伏はするなという無責任な「遺言」を残したため、「6・23」以降も戦闘は続きました。
 
 沖縄戦の「降伏文書」が調印されたのは9月7日です。「6・23」を「慰霊の日」とすることは、それ以後の2カ月半に犠牲になった人々をなきものにすることに通じます。「慰霊の日」を設けるなら、「9・7」にすべきです。

 さらにもう1つ付け加えます。

 「沖縄慰霊の日」が米軍占領下の琉球政府によって制定されたのは1961年です(当初は「6・22」)。それはどのような状況の中で決められたのでしょうか。

 戦傷病者戦没者遺族等援護法が施行されたのは1952年。それが沖縄に適用されるようになったのは翌53年3月です。しかし、援護法は軍人・軍属ではない一般住民を対象にしていませんでした。沖縄では多くの一般住民が戦争に巻き込まれて犠牲になっており、その人々・遺族をどう救済するかが課題でした。そこで行われたのが「戦闘参加者」という概念を設けた援護法の「改正」です(1958年)。

「日本政府は、この法律(改正援護法-私)によって、国家が行った誤った戦争による被害を補償するのではなく、沖縄戦を「祖国防衛戦」と位置づけ、戦争への貢献に応じたかたちで援護を行った。このようなかたちでの「戦闘参加者(準軍属)」の認定においては、日本軍によって家族が殺されたとの申し出は拒否されるため、事実を歪め、日本軍に積極的に協力したかを明確にすることが求められていた」(『沖縄戦を知る事典』吉川弘文館2019年)

 例えば、日本軍による壕からの追い出しは「壕の提供」と書き換えられました。

 さらに重大なのは、「戦闘参加者」として援護法の対象にするのと同時に、遺族の意向に反して、すべて靖国神社に祀られたことです。

 これが「沖縄の靖国化」です。

 牛島・長の命日が「慰霊の日」と決められたのは、こうした「沖縄の靖国化」と無関係ではないでしょう。

 帝国日本軍を継承する自衛隊の拡大・ミサイル基地化が沖縄を再び戦場にしようとしている今、「6・23」を「慰霊の日」とすることはとりわけ妥当ではありません。
 「慰霊の日」を日本軍・自衛隊とは関係のない日に変えることを検討すべきです。

あすもブログを更新します。

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ウクライナのアフリカ和平案拒絶は妥当か

2023年06月21日 | 国家と戦争
   

「プーチン氏 和平に懐疑」(19日付琉球新報)、「ロ、ウクライナ和平に懐疑」(19日付京都新聞)
 ロシアを訪れた南アフリカのラマポーザ大統領らアフリカ代表団(アフリカ平和ミッション)とプーチン氏が会談した共同配信記事の見出しです。

 この見出しを見れば、ロシアがウクライナ和平に懐疑的すなわち後ろ向きととるのが普通でしょう。しかし、プーチン氏の発言の趣旨はそうではありませんでした。

「ウクライナ侵攻を巡って早期停戦と外交的解決を求めるアフリカ側に対し、プーチン氏は「交渉を拒んでいるのはロシアではなくウクライナだ」と述べて和平交渉に懐疑的な見方を明らかにした」(19日付共同)

 ウクライナが拒んでいる限り和平交渉は難しい、というのがプーチン氏の発言の趣旨でしょう。それをプーチン氏が「和平交渉に懐疑的」とするのは、事実関係を真逆に描くものと言わざるをえません。

 事実、ウクライナはアフリカ諸国の和平提案を拒絶しました。その記事はきわめて小さい扱い(ないしは無視)でしたが、こう報じられました。

「(アフリカ)代表団は16日にウクライナ首都キーウ(キエフ)でゼレンスキー大統領と会談した。ラマポーザ氏は…和平仲介に意欲を示した。ゼレンスキー氏は「交渉にはロシア軍の完全撤退が不可欠だ」と訴えた」(18日付京都新聞=共同)

 「ロシア軍が完全撤退」しない限り和平交渉には応じない。これがウクライナ政府の一貫した立場です。レズニコフ国防相はアジア安全保障会議(6月4日、シンガポール)で、インドネシアが提示した和平案に対し、「自宅に殺人犯が侵入、家族が殺されたとしたら、殺人犯がまだ家の中にいるのに、交渉で解決をと言われ受け入れられるか」と一蹴しました。

 NHKは17日の「時論公論」で、同国防相の発言を当然の主張として紹介しました。なお、NHKはこれまで同国防相が拒否したのは「インドネシアの和平案」だと報じてきましたが、この日は「インドネシア」の国名を伏せました。いかにもNHKという政治性です。

 同国防相は分かりやすいたとえ話で和平交渉拒否の正当化を図ろうとしたのでしょうが、それははたして妥当でしょうか。

 今回のロシアの軍事侵攻には、NATOの東方拡大というアメリカの約束違反、ウクライナのNATO加盟の動き、米政府が暗躍したマイダンクーデター(2014年2月)、ウクライナによるミンスク合意(2014年9月)違反など、いくつもの重要な政治的背景があります。
 それを卑近なたとえ話といっしょくたにすることは、あまりにも不穏当と言わねばなりません。

 同国防相のたとえ話に合わせても、殺人犯が凶器を持ってまだ家の中にいるのなら、何よりも必要なのは凶器を使わせない状況をつくることでしょう。
 双方がこれ以上犠牲者を出さないために、土地・自然をこれ以上破壊しないために、停戦協議を最優先すべきです。

 ラマポーザ氏はプーチン氏に対し、アフリカの和平提案を「7月のロシア・アフリカ首脳会議でも協議する意向を表明」(19日付共同)しました。
 アフリカ平和ミッションの和平案をたたき台に、停戦協議の1日も早い開始が切望されます。


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