アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

首相会見で「東京五輪」を追及しない日本メディア

2021年07月31日 | 五輪と政治・社会・メディア

    
 30日午後7時から行われた菅義偉首相の記者会見(写真左・中)。新型コロナ感染のかつてない急拡大の責任と今後の対策を徹底的に追及しなければならない会見でした。とりわけ、東京五輪の無謀な開催強行が感染の急拡大を招いたことは明白で、五輪の即時中止をめぐる質疑が注目されました。

 ところが、1時間5分に及ぶ会見で、計13人の記者(日本の新聞・放送=10人、外国メディア=2人、フリー=1人)が質問しましたが、東京五輪開催の責任と中止を追及した日本のメディアの記者は1人もいませんでした。

 冒頭の「幹事社代表質問」で、北海道新聞の記者が「五輪は予定通り続けるのか」と“お伺い質問”を行っただけです。菅首相は例によって質問にまともに答えませんでしたが、幹事社は再確認・再質問することはありませんでした。

 その後の質問は、「人流の規制」「ワクチン」に終始し、東京五輪に関する質問は皆無でした。読売新聞記者に至っては、コロナ対策とまったく関係のない「解散・総選挙」についての質問で、菅首相への助け舟を出しました。

 これは全滅か、と思ったとき、最後の質問者となった外国メディアの記者(おそらく日本人の特派員)が、こう質問しました。
「感染拡大をデルタ株のせいにしているが、それは見通しが甘かったということではないのか。見通しの甘さでオリンピックを開催した。オリンピックの結果、感染がさらに拡大し医療体制が崩壊したら、菅首相は責任をとって総理を辞職するのか」

 これこそ多くの市民の声を代弁している質問ではないでしょうか。菅氏の答弁は「コロナ対策が私の責任だ」と相変わらず質問にまともに答えない(答えられない)ものでしたが、一瞬場の雰囲気が変わった質問でした。しかし、NHKは会見の中継を7時50分で止めたため、ユーチューブの中継を見ていなければこの質問は分かりませんでした。

 こうした質問を日本の記者はなぜやらない、できないのでしょうか。

 五輪の感染対策の甘さ・不備については追及しなければならないことは山ほどあります。政権に対して腰が引けている「専門家」でも、いまや「五輪の中止」を口にするようになっています。記者たちはなぜ東京五輪に固執している首相を追及することができないのでしょうか。社の方針として「五輪の中止」は質問するなと指示されているのでしょうか。

 コロナ禍の中で開会を強行し、かつてない感染拡大でも「中止」要求の声に全く耳を貸そうとしない。これは安倍政権から続く菅政権の反市民的・独裁的体質を顕著に示すものです。同時に、「金メダル」報道に狂奔し、連日五輪熱を煽っている日本のメディアも、菅政権と共犯であることが、この日の記者会見で改めて露呈したと言えるでしょう。




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在沖米軍基地、コロナ・デルタ株感染拡大の実態隠ぺい

2021年07月29日 | 日米安保・軍事同盟と政治・社会

    
 無謀な東京五輪強行によって、またまたコロナ感染の大きな波に襲われています。とりわけ沖縄は、東京とともに深刻で、27日は1日で過去最多の354人の感染者となりました。
 五輪報道に狂奔している「本土」メディアが報じないその重大な要因の1つが、在沖米軍基地内でのデルタ株感染の拡大と、検査さえ拒否し続ける米軍の実態隠ぺいです(写真左は普天間基地)。

 この問題が表面化したのは、沖縄で感染がふたたび急拡大をはじめた20日の翌々日、22日付の沖縄タイムスです。
基地内流行を懸念 デルタ株 県、実態つかめず」の見出しでこう報じました。

「県内で急拡大傾向にある新型コロナウイルスの変異株「デルタ株」に関し、県は在沖米軍基地内での広がりに懸念を強めている。県疫学統計・解析委員会の調べで、米兵と接触した県民の事例でデルタ株の感染が多いことが明らかになっている。だが、米軍は県が再三促しているものの、変異株検査を実施していない。県が実態を把握できていないのが実情だ」(22日付沖縄タイムス)

 沖縄県は感染力の強いデルタ株の流行を受け、米軍キャンプ瑞慶覧内にある海軍病院や米軍外交政策部に対し、デルタ株の検査を要求するとともに、県として検査することも要求しました。
 しかし、「米軍は及び腰だ。県関係者は「なぜ検査に応じないのか理解できない。基地内はブラックボックスだ」と批判する」(同沖縄タイムス)。

 その後の報道では、県が申し入れたデルタ株の検査について、在沖海兵隊からは、「検体を米国に送ってデルタ株の検査を行う予定」(24日付琉球新報)があるとの「回答」があっただけ。県による検査はあくまでも拒否し続けています。

 過去最多の感染者を出した27日段階でも、「在沖米軍は27日までに…(デルタ株に)米軍関係者が感染したかどうかを確認する検査を、米本国で開始した。同日までに29検体を米本国に発送したとの報告が県にあった」(28日付琉球新報)という状況です。「29検体」という信じがたい少量を「米本国」に送っただけです。

 軍隊・基地が感染症の温床になることは、スペイン風邪(1918~1919年)以来の常識です。たんに感染源になるだけでなく、「軍事機密」を口実にその実態が隠ぺいされます。沖縄で現在起こっていることはそれを実証するものです。この事実をしっかり記録・記憶する必要があります。

 軍隊・基地とコロナ(デルタ株)の関係は、けっして沖縄に特有のものではないはずです。全国の在日米軍基地あるいは自衛隊基地で同じ事態が進行していることが予想されます。ただ他府県では沖縄の「疫学統計・解析委員会」のような機関での調査が行われておらず、また報道するメディアもない、ということでしょう。

 そうした中で、事態をさらに悪化させる動きがあります。岸信夫防衛相とイギリスのウォレス国防相が20日会談し、空母「クイーン・エリザベス」(写真中)を中心とする英空母打撃群が9月に日本を訪れ、自衛隊と共同訓練を行うことで正式合意したのです(写真右)。

 寄港先は、空母「クイーン・エリザベス」が在日米軍横須賀基地、他の艦船は海自の横須賀、舞鶴、呉の各基地、さらに米軍佐世保基地ホワイト・ビーチ(沖縄・うるま市)と発表されています。
 英空母打撃群がどのようなコロナ感染状況になっているのか、また日本寄港にさしてどのような感染予防対策が取られるのかは、明らかにされていません。

 「東京五輪狂騒曲」のかげで、日米安保条約(軍事同盟)はさらに拡大・深化し、米軍のみならず英軍との関係も「新たな段階」(防衛省発表)に入り、軍事国家化がいっそう加速しようとしていることを見過ごすことはできません。
 それは同時に、コロナ感染における軍隊・基地の危険性がいっそう増大することでもあります。


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小山田・小林氏はダメで橋本・菅氏はいいのか

2021年07月27日 | 五輪と政治・社会・メディア

    

 小山田圭吾氏が「いじめ」で東京五輪開会式担当を辞任(19日)したのに続き、小林賢太郎氏がナチスのユダヤ人大虐殺を揶揄するコントを行っていた問題で解任(22日)。ふたりのクビを切ってすむ問題ではありません。

 五輪組織委の橋本聖子会長は「責任を痛感している」、菅義偉首相も「言語道断だ」と、まるで他人事です。トップにいる者の責任が問われているだけではありません。橋本氏、菅氏自身はどうなのか、ということです。

 橋本氏が過去に男性スケートアスリートにセクハラ(パワハラでもあります)行為を行ったことは、本人自身が認めている明確な事実です。しかし橋本氏は、その責任をなんらとっていません。責任をとらないまま、組織委の会長に就任しました。そして、小山田氏が過去の「いじめ」で辞任してからも会長のイスに座り続けています。どうしてこんなことが許されるのでしょうか。「セクハラ」「パワハラ」は「いじめ」よりも罪が軽いとでもいうのでしょうか。

 開閉会式統括の佐々木宏氏が女性タレントを侮蔑(人権侵害)して辞任(3月18日)したときも、橋本氏は涼しい顔でした。
 橋本氏がセクハラの責任をとらないまま会長に就任し、今もそのイスに座り続けていること自体、東京五輪組織委に「人権」を口にする資格がないことを示しています。

 ユダヤ人大虐殺を揶揄することが許されないことは言うまでもありません。しかし、民族虐待・虐殺の歴史に対する姿勢が問われているのは小林氏だけではありません。

 日本政府(安倍晋三政権)が「明治日本の産業革命遺産」(朝鮮半島侵略者・伊藤博文などを輩出した吉田松陰の松下村塾=安倍氏の地元を含む)をユネスコの世界文化遺産に登録させるため、長崎市・端島(通称・軍艦島=写真)における朝鮮人強制連行・虐待・暴行の事実を隠ぺいした問題(15日のブログ参照)。

 ユネスコの世界遺産委員会は22日、日本政府を厳しく批判する決議を全会一致で採択しました。「決議は、朝鮮半島出身者に関する産業遺産情報センター(センター長・加藤康子―引用者)の説明の在り方に関し、犠牲者を記憶にとどめる十分な展示がないとする報告を踏まえた上で、対応が不十分だと指摘。日本への「強い遺憾」を表明した」(23日付中国新聞=共同)のです。

 しかし菅政権は決議の指摘をまともに受け止めようともせず、逆に開き直っています。「言語道断」なのは菅氏の方です。

 この問題の本質は、日本政府が朝鮮人に対する強制連行・強制労働・虐待・暴行の事実、すなわち植民地支配の歴史を隠ぺいし、国際的ウソ・公約違反を指摘されてもなんら改めようとしていないことです。これが民族抑圧・虐待・暴行の歴史に対する冒とくでなくてなんでしょう。

 しかもそれは「揶揄」などというものではありません。確信犯的な隠ぺいであり歴史の改ざんです。しかもそれを行っているのは個人ではなく日本の政府であり、ユネスコという国際機関で全会一致で批判されている問題なのです。


 この歴史冒とくの中心人物は言うまでもなく、「(東電福島原発汚染水を)アンダーコントロール」の国際的大ウソで東京五輪を招致した安倍晋三前首相であり、「コロナに打ち勝つ」などと妄言を繰り返して東京五輪開催を強行した菅義偉現首相です。

 小山田氏、小林氏のクビを切ってすまそうとするのは、文字通りトカゲのしっぽ切りです。真っ先に辞任しなければならないのは橋本氏であり、安倍・菅政権下のオリンピックなど、即刻中止すべきです。

 


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東京五輪開会式で露呈した「象徴天皇制」の本質

2021年07月26日 | 天皇制と憲法

    

 徳仁天皇ができれば東京五輪の開会式(23日)に出席したくないと思っていたことはおそらく事実でしょう。雅子皇后や他の皇族の欠席がそれを示しています。しかし天皇は出席して「開会宣言」を行いました。なぜでしょうか。
 ここには、憲法の「象徴天皇制」の本質が表れています。

 第1に、天皇は、自分の意思で行動することはできないし、してはならないのです。

 五輪開会式への出席は天皇の「公的行為」です。憲法に規定のない「公的行為」が許されるかどうかには両論ありますが(私は許されないと考えます)、それが憲法第3条の適用をうけ、「内閣の助言と承認を必要」とすることに学説上の争いはありません。

 天皇(もちろん皇后はじめ他の皇族も)は、完全な「私的行為」以外は、自分の意思で行動(発言・意見表明含め)することはできず、その行為はすべて「内閣の助言と承認」によって決められる、つまり時の政権の意向によって行動し、政権に政治利用されることになっているのです。それが憲法の象徴天皇制です。

 これまでの「被災地訪問」や「皇室外交」などもすべてそうです。ただこれまでは、それが政権による政治利用だということは目立ちませんでした。大きな争点になる問題はなかった(ないように見えた)し、「国民」の関心もなかった(薄かった)からです。

 しかし、今回の東京五輪はそうはいきませんでした。「国民」の関心の高い問題で、しかも「国民」の過半が反対している問題でも天皇を担ぎ出さざるをえなかった。
 結果、徳仁天皇が菅政権の思惑通り開会式に出席したことで、政権による天皇の政治利用がきわめてわかりやすい形で表面化したのです。

 それだけではありません。

 今回の開会式出席について、天皇制を擁護する立場から、「仮に大会で感染が拡大したら、皇室にとって汚点となる。陛下(ママ)は大会と距離を置くべきだった。前例通りではなく、菅首相が宣言をしても問題はなかった」(坂上康博一橋大教授、24日付沖縄タイムス=共同)との意見がありますが、そうはいかない理由が政府・自民党にはありました。五輪憲章で「開会宣言」は開催地の「国家元首」が行うと定められているからです。

 天皇は日本の「国家元首」ではありません。「日本国の元首は内閣または内閣総理大臣ということになる(多数派)」(芦部信喜著『憲法第五版』岩波書店)のが憲法学の定説(多数派)です。だから本来、天皇は「開会宣言」を行うことはできません(13日のブログ参照)。

 しかし、それは政府・自民党にとってはきわめて不都合なのです。なぜなら、彼らは「我が国において、天皇が元首であることは紛れもない事実」(『日本国憲法改正草案Q&A』自民党憲法改正推進本部発行、2012年10月)と断言し、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在」(同)していたとして、改憲草案(2012年4月)の第1条に「日本国の元首は天皇」と明記しているからです。「日本国及び日本国民統合の象徴」であるとの文言は残しつつ、「元首は天皇」と明文化しようとしているのです。

 「天皇元首」化は、主権在民の現憲法を明治憲法型の憲法に変える自民党改憲の1丁目1番地です。だから、いくら天皇が開会式に出ることに難色を示しても、政府・自民党はどうしても天皇に「開会宣言」させる必要があったのです。

 天皇徳仁の今回の東京五輪開会式出席・「開会宣言」は、「象徴天皇制」が政権(国家権力)に都合よく利用される支配装置に他ならないことを露呈しました。
 それは同時に、主権在民の社会に天皇制(憲法第1~8条)はあってはならないことを改めて示したとも言えます。


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日曜日記158・山田洋次監督が語る「寅さん」と在日朝鮮人

2021年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 山田洋次監督(89)が月刊誌「イオ」(朝鮮新報社発行)8月号のインタビューで、自身の敗戦後の体験、「男はつらいよ」から最新作「キネマの神様」へ至る映画づくりの思いを語っている(写真)(引用は抜粋)。

 中国・大連で敗戦を迎えた監督は、47年(16歳)、日本に引き揚げてきた。貧乏のどん底だった。

<お金がなくて生活のために、山口県の田舎町にある炭鉱でアルバイトをしました。炭鉱にはいろんな組が入っていたのですが、朝鮮人の親方のいる組は、日本人の組みよりはるかに(アルバイトの)待遇がよかったのです。うそを言わないのね。

 僕は朝鮮人の親方に可愛いがられました。今思うと、栄養失調気味でひょろひょろしていて可哀そうだと思われていたんです。炭鉱はかなりきつい仕事です。けれど親方は「部屋の掃除をしてろ」と楽な仕事を任せてくれてね。温かかった。

 その時に思いました。つい何年か前まで、日本人は、この人たちを人間以下に思っていた、ひどい差別をしていた。その人たちに、今こうして僕は世話になっている。そんなことで済まされるだろうかと…。>

 「キネマの神様」は、挫折した人を周りの人々が支え合う物語。

<辛い思いを知っている人だけが、本当に辛い人の気持ちがわかるのではないでしょうか。「この人は私の苦しみを分かってくれるんだな」ということが大事なんだと思う。「こうすれば解決するよ」という回答ではなくてね。「どうすればいいかよくわからないけど、あなたの辛さはわかるよ」と。

 寅さんの値打ちはそこにあるのね。彼は、明快な答えなど出せない、頭も悪い、お金も、地位も、名誉も何もないのだけれど。
 「この人はわかってくれるだろう」と思えた時に、辛い思いを抱えた人は気持ちが少しだけ救われるんじゃないかと思います。

 本当に辛い思いをしている人のことは、同じように辛い思いを共有できる人によって慰められる。だから、そういう意味では、僕が中国から引き揚げてきてから、貧乏をしていた時代に、僕を慰めてくれたのは、炭鉱で真っ黒になって働いていた朝鮮の人たちでした。そのことがずーっと尾を引っ張って、「寅さん」になっている。

 寅さんは、実は辛い思いをたくさんしている人間で、在日コリアンの同年配の友人が、たくさんいるんじゃないかな。寒い冬の夜に冷たい水で一生懸命牛の腸を洗って、「辛かった」とこぼすおばさん(山田監督が「学校」の制作を通じて知り合った大阪のオモニ―引用者)の苦労を「わかるよ」、と受け止められるのが寅さんじゃないかと思います。>

 大学1回生のとき、オールナイトで初めて「寅さん」を3本立てで観た。映画館を出て、ぼんやり明るい朝の冷気の中で、なんともいえない温かさに包まれた。以来、「寅さん」にどれだけ慰められただろう。どれだけ笑い、泣いただろう。

 寅さんは渥美清さん自身であり、そして山田洋次監督自身だった。あのやさしさの根底には、山田監督自身が受けた在日朝鮮人の人たちのやさしさがあった。
 そのやさしさに、「寅さん」を愛するどれだけの日本人が救われたことだろう。


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天皇(制)守るため五輪憲章の解釈を変更

2021年07月24日 | 五輪と政治・社会・メディア

    
 23日夜行われた「東京五輪開会式」は、重大な汚点を残すものとなりました。天皇(制)に傷がつくのを避けるため、天皇徳仁、日本政府(菅義偉政権)、小池百合子都知事、五輪組織委員会(橋本聖子会長)、そしてIOC(国際オリンピック委員会、トーマス・バッハ会長)が一体となって、五輪憲章の解釈を変更したのです。

 午後11時12分、天皇徳仁は「開会宣言」を行いました(写真左)。これは五輪憲章(第5章「プロトコル」の「55」)が、「オリンピック競技大会は、開催地の国の国家元首が以下のいずれかの文章を読み上げ、開会を宣言する」(JOC訳)としていることに基づくものです(天皇が「開会宣言」を行うこと自体の問題は7月13日のブログ参照。後日、さらに取り上げます)。

 五輪憲章が規定している「以下の文章」とは次の文章です。

「わたしは、第〇回近代オリンピアードを祝い、〇〇(開催地名)オリンピック競技大会の開会を宣言します」(JOC訳。「いずれかの文章」とあるのは、夏季大会と冬季大会の2つが示されているためで、夏季大会の開会宣言文はこれのみです)

 一方、天皇徳仁がこの日行った「開会宣言」はこうでした。

「私はここに、第32回近代オリンピアードを記念する東京大会の開会を宣言します」

 憲章で示されている文章とは明らかに違います。「祝い」が「記念する」に変わっているのです。元になる英文は「celebrating」で、JOCはこれを「祝い」と訳してきました。JOCのHPにはそう書いています。現に、1964年の東京大会では天皇裕仁が「祝い」と述べています。

 今回の徳仁天皇の「開会宣言」がJOCの五輪憲章解釈と違っていることは明らかです。この内容はもちろん事前に、天皇の意向をくんで、政府、東京都、組織委が協議して作成し、IOCが承認したものです。すなわち彼らは談合のうえ五輪憲章の解釈を変えたのです。

 なぜこのようなことをしたのでしょうか。天皇が東京五輪の開会を「祝う」と宣言するのはまずいと考えたからです。

「感染状況が急速に悪化する中、開催を巡り賛否が割れており、国民統合の象徴である陛下(ママ)の宣言にも配慮が必要として、異例の判断を迫られたとみられる」(21日付中国新聞=共同配信)

 「開催をめぐり賛否が割れて」いるというより、各種世論調査では「中止」「再延期」が多数です。その反対の強い東京五輪の開催を、「祝う」と言えば、「国民統合の象徴」としての天皇に傷がつく、というわけです。

 つまり、「象徴天皇(制)」を守るために、天皇徳仁の意向をくみ、菅首相、小池都知事、橋本会長、バッハ会長が結託して五輪憲章の解釈を変えたのです。

 


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東京五輪「小山田氏辞任は当然」に潜む危険な論調

2021年07月22日 | 五輪と政治・社会・メディア

    

 作曲家の小山田圭吾氏が、障害者らに対する過去の暴行・虐待で東京オリ・パラ開会式のスタッフを「引責辞任」(19日)した問題。
 小山田氏の当時の行為、その後それを反省もなく2つの雑誌で語った(1994、95年)ことが言語道断であることは言うまでもありません。

 しかしそのこととは別に、小山田氏の辞任を当然とする論調の中には、賛同できない危険なものがあります。

 小山田氏への批判が収まらないとみた加藤勝信官房長官は、19日の記者会見で、「政府としては共生社会の実現に向けた取り組みを進めている」「組織委において適切に対応していただきたい」と“小山田切り”を求めました。東京五輪がこれ以上批判を浴びれば菅政権にとって致命傷になりかねないという政治的思惑です。

 一方、小山田氏の辞任は当然とする新聞の社説はこう述べています。

人間の尊厳を重んじ、あらゆる差別の否定を掲げる五輪の式典に、こうした人物が関わることがふさわしいとは思えない」「まさかこんな悲惨な状況で迎えるとは予想もしなかった「平和の祭典」の幕開けである」(21日付朝日新聞社説)

五輪憲章は、あらゆる差別を禁止している。東京大会は「多様性と調和」を理念に掲げ…小山田氏が担当者として不適任なのは明白だ」「組織委が、人権への配慮を欠く体質を根本的に改めなければ、五輪と国民の距離は広がるばかりだ」(21日付毎日新聞社説)

 また、社会学者の大澤真幸氏は、こう述べています。
「小山田氏は雑誌で(「いじめ」を)武勇伝のように語っていました。その人が五輪開会式という国家的祭典の作曲を担うことになり、人の痛みが分からない人が「勝ち組」になるのかと怒りを抱いた人もいたのではないでしょうか」(19日朝日新聞デジタル)

 こうした論調には共通性があります。小山田氏は五輪の理念(憲章)に照らしてふさわしくない、「平和の祭典」「国家的祭典」を担当するのは不適格だ、「五輪と国民の距離を広げる」ことになる、というものです。
 ここにあるのは、五輪の美化・神聖化、あるいはそうあってほしいという願望です。そこには、東京五輪を「国家的祭典」として強行しようとしている菅政権との危険な共通性があります。

 「あらゆる差別を否定」する「多様性と調和」の「平和の祭典」、などという五輪・東京五輪のスローガンが真っ赤なウソであることは、それが世界の紛争、貧困、格差、人権侵害を隠ぺいして行われる「先進諸国」主導の政治イベントであること、さらに、招致買収「疑惑」以降の東京大会をめぐる不祥事のヤマ、路上生活者の排除などを見れば明らかです。

 「国家的祭典」であることは否定しません。しかしその意味は、「国旗」「国歌」に包まれ、「国家」がメダルの争奪戦で「国威」の発揚と「国民」の結束を図るという意味での「国家的祭典」ということです。そこにあるのは偏狭ナショナリズムであり、「先進諸国」の「国家戦略」です。

 国家主義と大資本の商業主義、五輪ファミリーの利権にまみれた五輪はとうの昔に耐用年数を過ぎており、廃止すべきです。コロナ禍の東京五輪は、そのことを提起しているのではないでしょうか。

 小山田氏の問題は、そうした五輪のウミ、宿痾の表れの1つであり、小山田氏が辞任したからといって五輪の問題はなんら解決へ向かいません。開会式が強行されようとしているいま、考えねばならないのは、五輪の存廃そのものです。

 


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「平和の少女像」水曜デモ1500回と日本の落差

2021年07月20日 | 日本軍「慰安婦」・性奴隷・性暴力問題

    

 ソウルの「平和の少女像」前で毎週行われている水曜デモが、今月14日で1500回を迎えました。この日はコロナ禍で「1人デモ」となりましたが、正義記憶連帯(正義連)と世界14カ国・1565人の市民が共同主管し、世界各国から寄せられた連帯や支持のメッセージ、被害女性たちのあいさつ映像が紹介され、ユーチューブで生中継されました(写真)。

 水曜デモは、宮沢喜一首相(当時)の訪韓をきっかけに1992年1月8日に第1回が行われ、1000回を迎えた2011年12月14日に「少女像」(正式名称は「平和の碑」)が建てられました。碑文には、「1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する」と刻まれています(碑文はハングル、『<平和の少女像>はなぜ座り続けるのか』世織書房より)。

 日本軍性奴隷(「慰安婦」)の被害者(サバイバー)のイ・ヨンス(李容洙)さん(93)はオンラインでこうあいさつしました(以下、発言の引用は15日付ハンギョレ新聞電子版より)。

日本はいまだに妄言と嘘ばかり言っています。しかし歳月はどれほど待ってくれるのか分かりませんが、私は(日本が謝罪する)その時までがんばります

 高校生のキム・ジウォンさんは、「あきらめずに頑張って闘ってきたハルモニ(おばあさん)たちに感謝を伝えたい。ハルモニたちの力になりたい。団結すれば強くなると思う。生徒たちがもっと関心を持てるように(日本軍性奴隷に関する内容が)教科書にも詳細に記述されることを願う」と訴えました。

 正義連のイ・ナヨン(李娜榮)理事長はこう強調しました。
日本政府が性奴隷制を重大な反人道的、反人権的犯罪として認め、法的責任を全うした時に初めて、被害者たちの名誉が回復され、人権が保障されるだろう。その日が来るまで、1500回つないできた岩のように強い連帯の力でこの場を守る

 こうした発言は、これからの運動の決意として述べられていますが、そのまなざしが日本に向けられていることは言うまでもありません。
 その日本の現状はどうでしょうか。

 日本政府(菅義偉政権)は日本軍性奴隷を反人道的・反人権的犯罪と認めるどころか逆に、「従軍慰安婦」という表現は「誤解を招く」から単に「慰安婦」とすべきだという「政府統一見解」を閣議決定(4月27日)し、日本軍関与の隠ぺいを図ろうとしています。
 これは日本軍の関与を認め「心からお詫びと反省」を表明した政府の河野洋平官房長官談話(1993年8月4日)を自ら否定するものです。

 そして菅首相は、この閣議決定に基づいて、教科書検定で「従軍慰安婦」の表現を不可とする可能性を示唆しました(5月10日の衆院予算委員会)。韓国の教科書に日本軍性奴隷の詳細な記述を求めた高校生のキム・ジウォンさんの願いとは逆に、日本では教科書から「従軍慰安婦」の言葉さえ消されようとしているのです。

 こうした日本政府と歩調を合わせるように、「少女像」を展示する「表現の不自由展」が、東京、愛知、大阪で相次いで妨害されました。重大なのは、そのことにメディアをはじめ、日本社会が大きな関心と危機感を示していないことです。

 歴代日本政府、とりわけ安倍晋三政権とそれを継承する菅政権の歴史修正主義、反人権・反人道的言動は、世界の常識・良識からますます孤立しています。
 それは政府だけの責任ではありません。「日本市民」の無関心・無責任がそれを支えています。

 水曜デモ1500回を機に、私たちは日本の朝鮮半島侵略・植民地化の事実、その歴史的責任に、改めて正面から向き合う必要があります。

 


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東京五輪―侵略の旗は良くて侵略と戦った言葉は悪いのか

2021年07月19日 | 五輪と政治・社会・メディア

    

 IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は17日の記者会見で、東京五輪選手村で韓国選手団が掲げていた横断幕(写真左の下段)を撤去するよう要求したと述べました。

 その横断幕とは、「豊臣秀吉の朝鮮出兵に抗した李舜臣(イ・スンシン)将軍にまつわる標語を一部改変した応援幕」(18日付東京新聞=共同)。李将軍が「日本の兵を迎え撃った際に「臣にはまだ十二隻の船が残っております」という文を王にささげた…これをまねて「臣にはまだ五千万国民の応援と支持が残っております」と記していた」(同)ものです。
 IOCはこれが、「政治的な宣伝活動を禁じる五輪憲章五〇条に反する」(同)としたのです。

 これに対し、韓国のオリンピック委員会を兼ねる韓国体育会は17日、撤去を決めました。なぜ撤去に応じたのでしょうか。

韓国体育会は、競技場内での旭日旗を掲げた応援を問題視した。横断幕の撤去に応じた理由について、同体育会はIOCはすべての五輪会場で旭日旗に第50条を適用して判断すると約束した」としている。一方、大会組織委員会は、「旭日旗のデザインは日本国内で広く使用されており、政治的主張にならない」として、旭日旗を競技会場への持ち込み禁止物品にはあたらないとしている」(17日朝日新聞デジタル)

 旭日旗(写真中)は言うまでもなく、帝国日本の朝鮮半島侵略・植民地支配、中国・東アジア侵略の文字通り旗印となった軍旗です。現在は帝国陸海軍を継承する自衛隊が隊旗としています。

 今回のことには背景があります。

 韓国はすでに2年前、国会(文化観光委員会)で「(旭日旗は)日本が帝国主義と軍国主義の象徴として使用した」ものであるとし、「侵略と戦争の象徴である旭日旗が競技場に持ち込まれ、応援の道具として使われることがないよう求める」とする決議をあげ(2019年8月29日)、日本の大会組織委員会(森喜朗会長=当時)に申し入れを行っていました。

 しかし組織委はこの要求を一蹴し、競技会場への旭日旗の持ち込みを禁止しない(許可する)と決定しました(2019年9月3日)。安倍政権の菅偉義官房長官(当時)は記者会見(同9月12日)でこれを追認しました(2019年9月14日のブログ参照)。

 大会組織委の旭日旗容認の見解は、今も当時と変わっていません。侵略の旗印は許可するが、それと戦った朝鮮の合言葉に似た横断幕(しかも競技場内ではなく選手村の自分たちの部屋の外)は撤去させる。これが日本の組織委員会・政府の立場です。これこそまさに政治的行為、最悪の政治的行為と言わねばなりません。

 IOCは韓国体育会に「約束した」通り、すべての競技会場での旭日旗の使用を禁じなければなりません。そのことを会見で明確にする必要があります。今回は無観客のため実際に旭日旗が競技場で振られることはないでしょうが、今後のためにも明確にする必要があります。

 それがなされないなら、IOCの偏狭的政治性が露呈することになります。そして、五輪が「平和の祭典」などというのは真っ赤なウソで、東京五輪は開催されるべきではないことがあらためて明確になります。


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日曜日記157・「上を向いて歩こう」秘話・「ダイアナ妃の逆襲」

2021年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「上を向いて歩こう」秘話
 坂本九さんが歌って大ヒットし、「SUKIYAKI」の名前で日本の歌としては空前絶後、全米チャート1位を記録した「上を向いて歩こう」(1961年)。作詞・永六輔、作曲・中村八大。小学生のころから歌っていた。「好きな歌は?」と聞かれると、この歌を挙げた。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜…幸せは雲の上に 幸せは空の上に…」

 失恋の歌だとずっと思っていた。しかし、そうではなかった。
 7月3日放送のNHK「あの人に会いたい」(亡くなった著名人を過去の映像で偲ぶ番組)で、永六輔さん(1933~2016)自身がこの曲の作詞のいわれを語っている場面が流れた。

 当時、「60年安保闘争」があった。永さんも「安保反対」だった。デモにも参加した。しかし国会へのデモは岸信介政権によって弾圧され、新安保条約は、1960年6月19日、「自然承認」した。悔しくて、涙があふれてきた。その思いを書いたのがこの歌詞だった、という。

 「上を向いて歩こう」は、安保闘争の、その「敗北」の歌だったのだ。

 永六輔という人の偉大さを改めて思う。政治に主体的に向き合い、発言し、それを自分の仕事でも表現する。そんな文化人が、いま、いるだろうか。

 同時に思う。もしこの事実が当時から知れ渡っていたら、この歌はあれほどヒットしなかったのではないだろうか。まして全米でチャート1位になることはなかったのではないだろうか。

☆ドキュメント「ダイアナ妃の逆襲」に思う
 Eテレ「ドキュランドへようこそ」で、「ダイアナ妃の逆襲―世紀のインタビューの舞台裏」が2週にわたって放送された(7月9・16日)。2020年にイギリスで制作されたドキュメンタリーだ。

 「世紀のインタビュー」とは、故・ダイアナ妃が夫・チャールズ皇太子の「不倫」や自身の皇太子妃としての苦悩を赤裸々に語ったインタビューで、1995年11月20日、BBCがスクープとして放送した。その「舞台裏」が多くの関係者によって語られた。

 インタビューは当時日本でも放送されたらしいが、見ていなかった。たいへん興味深い内容だった。ダイアナ妃の告白内容ももちろん衝撃的だが、それ以上に、こうしたインタビューが実現したことが驚きだ。

 事情は違うが、皇太子妃として精神的圧迫に苦しんだ(今も苦しんでいる?)のは「雅子妃(当時)」も同じだろう。「雅子妃」がインタビューで皇室の実情を告発する、などということが想像できるだろうか。

 イギリスと日本の大きな違いは、BBCとNHKの違いだ。どちらも国営放送だが、権力・国家的タブーに対する姿勢には雲泥の差がある(もちろんBBCにも問題はあるが)。

 同時に、イギリス王室と日本の皇室の共通性を思わずにはいられない。それはどちらも人間の、とりわけ女性の人権・人間性が極度に否定されるということだ。それが「王制」「天皇制」の本質であり、だからこそあってはならない制度なのだ。

 ダイアナ妃は「世紀のインタビュー」から約9カ月後にチャールズ皇太子と正式に離婚。それから約1年後に、「交通事故」で急死した。


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