秋篠宮家の長女・眞子氏の結婚問題をメディアは連日大々的に報じてきました。それは量・質ともに異常で、日本のメディアの劣化を象徴的に示すものです。
「識者」のコメントの中には、「天皇や皇族が自分の意志を持ってそれを貫きたいと思う時、それと国民の反応をどう折り合いを付け、バランスを取っていくのか」(河西秀哉名古屋大大学院准教授、9月8日付中国新聞=共同)が課題だという問題の危険な矮小化もあります。
この問題の核心は、皇族に憲法上の人権が保障されていないことです。
秋篠宮は昨年の誕生日会見(2020年11月20日)でこう述べました。
「憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています」(宮内庁HP)
これは皇嗣である秋篠宮が、皇族にも憲法が適用されるべきだと公言したものとして注目されます。
この発言に正面から異を唱える人はまずいないでしょう。であるなら、これは個人の結婚の問題であり、メディアやそれに煽られた市民が「賛成・反対」で大騒ぎするのはよけいなお世話、人権侵害も甚だしと言わねばなりません。
結果、眞子氏はPTSDと診断され、一時金(1億5千万円)を辞退するに至りました。眞子氏に憲法24条の「婚姻の自由」は事実上保障されなかったのです。
なぜこういうことになったのか。それは彼女が皇族に生まれたから、それが唯一の理由です。つまり秋篠宮の憲法発言は建前論であり、実際は 皇族に「婚姻の自由」はないということです。
それはもちろん眞子氏だけではなく、また女性皇族だけでもありません。男性皇族の場合は皇室典範で、「皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」(第10条)と定められています。この過程で様々な調査が行われ、結婚相手が選別されます。
また、皇族に保障されていない憲法上の諸権利は、「婚姻の自由」だけでないことも周知の事実です。皇族には、移動の自由、職業選択の自由、言論・集会の自由などの基本的人権はありません。
立憲主義といわれている日本の社会に、憲法の基本的人権が保障されていない特別な一団が公然と存在するのです。きわめて異常な現実と言わねばなりません。
これは皇族だけの問題ではありません。基本的人権の保障に例外をつくることは、憲法体系・民主主義体制に風穴を開けることに他ならず、その影響は重大です。
皇族に憲法上の人権が保障されていない問題は、必然的に天皇制そのものの是非を問い直すことに直結します。なぜなら、天皇制を温存したまま皇族に基本的人権を保障することは不可能だからです。
「そういう不条理な制度をつくったのは、憲法(とりわけ第一条、第二条)なのであって、憲法自体を改めなければならないのである。個別の取り極めを違憲だと決めても片付くものではない。きつい言葉で言えば、それはお門違いである。
皇室典範の個々の規定を個別に改正して事態を収拾しようとする政策に頭から反対するつもりはない。しかし、これは対症療法でしかなく、暫定措置的な効果が期待されるにすぎない。天皇制(天皇家)が憲法上の制度たるをやめないかぎり、(皇族の―引用者)不自由・拘束は遺憾ながら制度とともに付いてまわらざるを得ない」(奥平康弘著『「萬世一系」の研究(下)』岩波現代文庫2005年)
「秋篠宮長女の結婚」が投げかけているのは、まさにこの問題にほかなりません。
徳仁天皇ができれば東京五輪の開会式(23日)に出席したくないと思っていたことはおそらく事実でしょう。雅子皇后や他の皇族の欠席がそれを示しています。しかし天皇は出席して「開会宣言」を行いました。なぜでしょうか。
ここには、憲法の「象徴天皇制」の本質が表れています。
第1に、天皇は、自分の意思で行動することはできないし、してはならないのです。
五輪開会式への出席は天皇の「公的行為」です。憲法に規定のない「公的行為」が許されるかどうかには両論ありますが(私は許されないと考えます)、それが憲法第3条の適用をうけ、「内閣の助言と承認を必要」とすることに学説上の争いはありません。
天皇(もちろん皇后はじめ他の皇族も)は、完全な「私的行為」以外は、自分の意思で行動(発言・意見表明含め)することはできず、その行為はすべて「内閣の助言と承認」によって決められる、つまり時の政権の意向によって行動し、政権に政治利用されることになっているのです。それが憲法の象徴天皇制です。
これまでの「被災地訪問」や「皇室外交」などもすべてそうです。ただこれまでは、それが政権による政治利用だということは目立ちませんでした。大きな争点になる問題はなかった(ないように見えた)し、「国民」の関心もなかった(薄かった)からです。
しかし、今回の東京五輪はそうはいきませんでした。「国民」の関心の高い問題で、しかも「国民」の過半が反対している問題でも天皇を担ぎ出さざるをえなかった。
結果、徳仁天皇が菅政権の思惑通り開会式に出席したことで、政権による天皇の政治利用がきわめてわかりやすい形で表面化したのです。
それだけではありません。
今回の開会式出席について、天皇制を擁護する立場から、「仮に大会で感染が拡大したら、皇室にとって汚点となる。陛下(ママ)は大会と距離を置くべきだった。前例通りではなく、菅首相が宣言をしても問題はなかった」(坂上康博一橋大教授、24日付沖縄タイムス=共同)との意見がありますが、そうはいかない理由が政府・自民党にはありました。五輪憲章で「開会宣言」は開催地の「国家元首」が行うと定められているからです。
天皇は日本の「国家元首」ではありません。「日本国の元首は内閣または内閣総理大臣ということになる(多数派)」(芦部信喜著『憲法第五版』岩波書店)のが憲法学の定説(多数派)です。だから本来、天皇は「開会宣言」を行うことはできません(13日のブログ参照)。
しかし、それは政府・自民党にとってはきわめて不都合なのです。なぜなら、彼らは「我が国において、天皇が元首であることは紛れもない事実」(『日本国憲法改正草案Q&A』自民党憲法改正推進本部発行、2012年10月)と断言し、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在」(同)していたとして、改憲草案(2012年4月)の第1条に「日本国の元首は天皇」と明記しているからです。「日本国及び日本国民統合の象徴」であるとの文言は残しつつ、「元首は天皇」と明文化しようとしているのです。
「天皇元首」化は、主権在民の現憲法を明治憲法型の憲法に変える自民党改憲の1丁目1番地です。だから、いくら天皇が開会式に出ることに難色を示しても、政府・自民党はどうしても天皇に「開会宣言」させる必要があったのです。
天皇徳仁の今回の東京五輪開会式出席・「開会宣言」は、「象徴天皇制」が政権(国家権力)に都合よく利用される支配装置に他ならないことを露呈しました。
それは同時に、主権在民の社会に天皇制(憲法第1~8条)はあってはならないことを改めて示したとも言えます。