アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

韓国日記<下>陜川原爆資料館の力

2023年05月30日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
     

 5月28日午後2時、ソウル市内から高速バスで約4時間、中南部の慶尚南道の陜川(ハプチョン)に移動。翌朝「陜川原爆資料館」を訪れるためだ。陜川は「韓国の広島」と言われている。今回の韓国訪問で最も楽しみにしていたものだ。

 広島、長崎の原爆被害者の約10%にあたる10万人が韓国被害者で、その70~80%が陜川出身者だ。

 陜川自体が山あいの自然豊かな町で、資料館も緑に囲まれた静かなところにある。2017年8月6日オープン。韓国で唯一の原爆資料館だ。
 資料館の隣には、被爆者らが利用できる福祉施設が赤十字に委託して運営されている。

 29日午前9時、開館と共に同館へ。学芸員の金藝志さんがコーヒーで迎えてくれた。事前に連絡していたので、韓国原爆被害者陜川支部の沈鎮泰支部長もわざわざ駆けつけてくださった。

 入ってすぐのドーム型展示室では、被爆の実相を映像で見ることができる。展示室はぐると1周して、原爆の解説から被爆者補償の問題点まで分かるしくみになっている。被爆物の実物は被爆者・支援者から寄贈されたものだと金さんが説明してくれた。

 2階は資料室だ。沈支部長に案内していただいた。被爆認定書などの実物や書籍が書庫に収められている。安重根の本もあった。

 展示スペースはけっして広くない。しかし、内容は充実している。最も感心したのは、資料館しおりの解説文だ。

日本の植民地時代(1910~1945)、戦争に狂奔した日本軍国主義により、強制的に徴用工として連れて行かれ、軍事基地の要塞だった日本広島に強制的に配置され、飢えと人権さえ踏みにじられ、大変苦労していた中…多くの原爆被害者が発生した」(日本語版より)

 この短い一文には、原爆がなぜ広島に落とされたのか、なぜ陜川出身者の被害者が多いのが、端的に凝縮されている。とりわけ、広島が「軍事基地の要塞だった」すなわち軍都だったために原爆が投下されたという記述は、広島の原爆資料館にはない。

 同じ原爆資料館だが、広島のそれは10日まえにはG7 広島サミットで世界のメディアが注目した。片や陜川のそれは、訪れる人とて多くなく、世界はもとより日本でもその存在自体を知っている人は多くないだろう。

 しかし、その「被爆解説」の的確さでは、陜川はけっして広島にひけをとっていない。否、むしろ広島よりも優れていると言って過言ではない。

 韓国語ができない私は、スマホの翻訳機能で、そして金さんも同じくスマホの翻訳機能で、「会話」した。結構できるものだ。
 金さん(のスマホ)を通じて、沈支部長に、「日本人に一番望むことは何ですか?」と訊いた。沈支部長の答えは、「二度と戦争を起こさないこと」だった。

 沈さん、金さんのご厚意ご親切に感謝し、笑顔で資料館を後にした。

 ここにもいまなお原爆の被害に苦しみながら、不十分な補償の改善を要求し、平和を希求してたたかっている人々がいる。加害国の日本人の自分が日本の軍事大国化を阻止するためにたたかわなくてどうする。

 短い時間だったが、素晴らしい出会いで決意を新たにした貴重な時間だった。

(写真は陜川原爆資料館の外観、館内、そして沈さんと金さん)

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韓国日記<中>安重根と伊藤博文・渋沢栄一

2023年05月29日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
  
   

 5月27日、プサン港から歩いて15分ほどでプサン駅。KTX(高速鉄道)に約2時間40分乗ってソウルへ。

 まず向かったのは「安重根(アンジュンクン)義士記念館」だ。
 安重根(1879~1910)は日帝の植民地支配(強占)に抗し、祖国の独立を求めて抗日運動の先頭に立った。1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文をピストルで射殺。ちょうど5カ月後の1910年3月26日、早々と死刑が執行された。

 日本政府は今日まで一貫して「安重根は暗殺者」と規定するだけで、その経歴や事件の背景には触れようとしない。日本の教科書もその政府方針に従っている。

 しかし、韓国では違う。安重根は「義士」であり、「民族の英雄」なのだ。

 「記念館」には公判での安重根の陳述が紹介されている。伊藤射殺の動機は「祖国の独立と東アジアの平和」のためであり「けっして伊藤への私恨ではない」と強調している。

 安重根の評価は、日本と韓国で見方がまったく異なる典型的な例だ。
 必要なのは、歴史の事実を、その経緯と背景を含めて多面的に知ること、教えることだ、とあらためて思う。ウクライナ戦争下、なおさらそう思う。

 記念館展示の最後には、来館者が一言感想を欠いて付箋を貼る壁がある。多くの付箋が貼られていたが、日本人(日本語)のものは1枚もなかった。日本語で「日本では伊藤博文が美化されていて恥ずかしい」と書いて、隅に貼らせてもらった。

 次に行ったのは「韓国銀行貨幣博物館」だ。「安重根義士記念館」からタクシーで5分ほど、同じ南大門エリアにある。近い。

 ここもぜひ行きたかった。この目で確かめたいものがあったからだ。それは1907年に始まったこの建物の建設工事の「定礎」と書かれた石碑だ。この文字を書いたのが伊藤博文だからだ。これが「安重根記念館」の近くにあるのは興味深い。

 石碑の説明版には、伊藤が「植民地支配の元凶」であること、その歴史を忘れないためにこの碑を残すのだということが明記されている。

 この(旧)韓国銀行の建物は、もともと日本第一銀行が使用するために造られた。通貨・経済面から植民地支配を完成・強化する拠点となった。伊藤が「定礎」を書いたのはそのためだ。

 伊藤と二人三脚で経済面から植民地支配の先頭に立ったのが、日本第一銀行の頭取だった渋沢栄一だ。「貨幣博物館」には韓国歴代の紙幣が展示されているが、最初の紙幣の肖像は3種類ともすべて渋沢だ。

 日本では伊藤とともに渋沢も美化されている。NHK大河ドラマのモデルにもなった。
 そして、来年の貨幣肖像画変更では、福沢諭吉に代わってついに渋沢が最高額紙幣の肖像になる。渋沢が韓国紙幣の肖像になったのは植民地支配の象徴だったが、それが来年から日本紙幣で再現される。あまりにも象徴的・戦略的と言わねばならない(福沢も朝鮮侵略主義者であり、その本質が隠蔽されて美化されていることでは渋沢と変わらないが)。

 伊藤博文、渋沢栄一、そして安重根。この3人の歴史的評価が韓国と日本で百八十度違うのは、日本が植民地支配の歴史を風化・隠ぺいしてきたこと、さらにさせようとしていることに共通の原因がある。根は1つなのだ。

(写真は上左から、記念館入ってすぐにある安重根の像と血で書かれた「大韓獨立」の旗のレプリカ、安重根の写真、射殺される直前の伊藤=正面奥、「貨幣博物館」、伊藤の筆による定礎の石碑、渋沢が肖像にあった韓国紙幣)

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韓国日記<上>「玄界灘」か「玄海灘」か

2023年05月28日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 5月26日19時45分下関港発の大型高速フェリー「はまゆう」でプサン(釜山)へ。3年10カ月ぶり、4回目の韓国訪問だ。

 プサン港へ着いたのは翌日の6時半。正味約11時間の船旅だった。船で行くのは初めて。船酔いを心配したが、大型船で揺れはほとんどなかった。真夜中の漆黒の海、夜明け前の白んだ空気の向こうに見えるプサンの高層ビル群。船旅ならではの贅沢な風景を堪能した。

 特に目的があったわけではない。コロナのヤマがまた来る前に、そして元気なうちに、少しでも行っておこうという思いの、4泊5日(船中泊2日を含む)の短い旅だ。

 フェリーから玄界灘を眺めながら、たまたま数日前に読んだ四方田犬彦の本の一節を思い出した。

「日本では「玄界灘」と書き、韓国では「玄海灘」と書く。日本語での発音は同じゲンカイナダだが、韓国語ではヒョンケタン・ヒョンヘタンと違いがでる。「玄海」とは単なる黒い海だが、「玄界」とは黒い境界だ。日本語で話しているかぎり、人はこの差異に気付かない。韓国語に切り替えた瞬間から、発音の違いが明確になる。語っている者の立場が露わになってしまう」(『われらが<無意識>なる韓国』作品社2020年)

 韓国の「玄海灘」が「単なる黒い海」なのに対し、日本の「玄界灘」は「黒い境界」。いかにも象徴的な話だ。

 「韓国語に切り替えた瞬間」すなわち韓国の側からものを見た瞬間、ものの見え方が変わってくる。日本人の特異な「立場が露わになる」。それはもちろん、日本と朝鮮半島の間の「黒い海」だけではない。

 今回の旅に「特に目的はない」と言ったが、韓国と日本のものの見え方の違いをできるだけ体感したい。朝鮮半島から日本を考えたい。それがいつの訪韓でも変わらない主要な目的の1つだ。

(写真左は乗船した高速フェリーの100分の1の模型。写真中・右は午前6時ごろフェリーから見たプサンの街並み)

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「ジャニー喜多川性暴力事件」と統一教会問題

2023年05月27日 | 人権・民主主義
   

 ジャニー喜多川氏の性暴力事件は、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモト氏の記者会見(4月12日)以降、告発が相次ぎ、事実の徹底究明と対策が急務になっています。NHKはじめ、当初オカモト氏の会見を無視・軽視したメディアも(4月15日のブログ参照)、被害者の相次ぐ勇気ある告発に押されて報道を行うようになりました。

 しかし、報道回数は増えても、根本的な問題は完全にスルーされています。それは、問題を知っていながら報道してこなかったメディアの責任、その経過と反省の自己検証が全くなされていないことです。

 NHKクローズアップ現代は5月17日にこの問題を取り上げました(写真左)。
 冒頭、桑子真帆キャスターは「永年問題が指摘されながら日本のメディアが大きく取り上げることはありませんでした。なぜ報道してこなかったいのか、私たちは重く受け止めています」と反省の弁を述べました。しかし、なぜ取り上げてこなかったのかという肝心な問題についての言及はありませんでした

 ゲストのジャーナリスト・松谷創一郎氏は、問題の元凶として、「事務所(ジャニーズ事務所)の体質」とともに、「メディア・社会の状況」を挙げ、次のように指摘しました(写真中)。

「これまで報道してこなかったNHKはじめメディアは今も抑制的だ。これが一番大きな問題。メディアはある種の共犯関係にあるといえる。各社は過去を振り返って検証すべきだ。逃げないで向き合わねばならない。この問題は社会として議論する必要がある」

 この問題を当初から追及してきた元文春記者の中村竜太郎氏(写真右=朝日新聞デジタルより)は、新聞やテレビが報じてこなかった「理由」について、こう指摘しています。

 「テレビ局とスポーツ紙について言えば、ジャニーズ事務所との商売上の利害関係が構造的に強かったためだと思います。NHKは公共放送ですが、やはりジャニーズにべったりでした」

「大手新聞が書けなかった理由は、深刻な人権問題だという認識が薄かったためでしょう。この問題は芸能ゴシップではないのだと私は訴えてきましたが、理解されませんでした。加えて、週刊誌が報道したことを新聞が取り上げるなんて恥ずかしいという意識もあったかもしれません。背景には『週刊誌の書いていることなんてウソだ』という偏見がありそうです」(5月22日付朝日新聞デジタルのインタビュー)

 松谷氏や中村氏の指摘ですぐに想起されるのは、統一教会問題です。

 事実を把握し、被害者らが苦しんでいることを知っていながら報道してこなかった(自己規制・責務放棄)。被害者の告発が相次ぎ(あるいは事件が起こり)、問題が大きくなって無視できなくなるといっせいに報道を始める。その根底には、権力をもつ加害者(側)(政界・芸能界の絶対権力者)への忖度があった―2つの問題と日本のメディアの関係はまったくの相似形なのです。

 松谷氏や中村氏が指摘する通り、今こそメディアの責任・体質に徹底的にメスを入れない限り、メディアの腐敗を食い止めることはできず、同様の問題は繰り返されるでしょう。

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再び「ゼレンスキー来日」経過の問題性を問う

2023年05月25日 | 国家と戦争
   

 ゼレンスキー大統領の来日・G7 広島サミットへの対面参加をめぐる経過には、重大な問題があると先に書きました(22日のブログ)。その後、23日の朝日新聞デジタルがその背景を報じました。記事の概要はこうです。

< 3月21日に岸田首相がウクライナを訪問した際、オンラインによる参加を要請し、了承を得ていた

 4月下旬、対面参加の希望が外交ルートを通じて伝えられた。首相は「詰めるべき論点はたくさんあるな」と漏らしたが、来ないでくれとは言えない、との思いから調整を始めるよう指示した。

 19日、外国メディアが「訪日」を報じたが、政府関係者は取材に「オンラインで変わりない」と口をそろえた。首相自身も19日夜、ウクライナ政府がオンライン参加だと発表していると説明

 サミットの成果を埋もれさせないため、通常、最終日に公表される首脳声明を1日前倒しで公表。準備が追いつかず日本語訳は1日遅れとなった。>

 以上の記事が事実とすれば新たに分かったのは次の点です。

①岸田首相とゼレンスキー氏の間ではもともと「オンライン参加」での合意(3月21日=写真左)があり、「対面参加」はウクライナ側がそれを覆して要求したもの。岸田氏は「来ないでくれとは言えない」心境だった。

②「対面参加」の希望は4月下旬に伝えられたが、実際に決まったのは来日直前で、突然の決定に日本政府は「声明」の日本語訳も準備が追いつかないほどだった。

 一方、さらに疑問が深まったことがあります。それは、岸田首相が「来日決定」を正式に知ったのはいつかということです。

 19日には知っていた(ウクライナ政府から公式連絡があった)のなら、それでも同日夜記者団に「オンライン参加」だと言ったのは、すでに「秘匿」の意味もない、きわめて不可解なウソの繰り返しだったことになります。

 もしも19日夜の段階で公式な連絡がなかったのなら、ウクライナ政府は自国では発表していながら日本政府には伝えていなかったことになり、極めて重大な外交上の汚点と言わねばなりません。

 この点は明確にされる必要があります。なぜなら、これは戦時体制に急接近している日本(国家権力)とメディアの報道の自由=市民の知る権利との緊張関係を示す象徴的な問題だからです。

 戦争で真っ先に犠牲にされるのは真実である、という言葉の通り、ロシアでもウクライナでも政府による厳しい報道統制が行われています。日本はいま、「軍拡(安保)3文書」による大軍拡とウクライナ戦争に対するアメリカ追随によってその入口に立っています。

 こういう時だからこそ、メディアは国家権力を監視する本来の機能を果たさなければなりません。国家権力との対峙、報道の自由、知る権利の擁護のために、ゼレンスキー氏の来日を巡る経過、とりわけ5月19日夜の岸田首相発言の真相を、メディアは徹底究明し自己検証しなければなりません。

※27日から3日間、韓国へ行きます。その間、ネット環境によってブログが書けない可能性があります。その際はご了承ください。6月1日からは通常通り書きます。

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「ゼレンスキー・ルラ会談」不発が示したもの

2023年05月23日 | 国家と戦争
   

 21日終了したG7 広島サミットで、唯一注目されたのは、ウクライナ・ゼレンスキー大統領とブラジル・ルラ大統領の会談でした。ルラ氏が4月15日、グローバルサウスがウクライナ戦争の停戦を仲介するという和平案を明らかにしていたからです(4月25日のブログ参照)。

 しかし、予定されていたゼレンスキー・ルラ会談は行われませんでした。なぜなのか。どちらが避けたのか。両氏の主張(いずれも公式記者会見での発言)は真っ向から対立しています。

 ゼレンスキー氏は21日夜の記者会見でこう述べました。

私は(G7 で)世界各国のリーダーと会ったが、ブラジル大統領とは会えなかった。スケジュールが理由だったのだと思う」「(会談が実現しなかったことに失望しているかと問われ)いいえ。彼の方が失望しているのではないだろうか」(22日付朝日新聞デジタル)

 一方、ルラ氏は22日午前、広島市内で記者会見しこう述べました。

会談の予定はあり、私は話したいと思って待っていたが会えなかった」(22日朝日新聞デジタル)

うんざりしている。ゼレンスキー大統領と議論するために会談を予定していたのだから」(22日TBS「ニュース23」)

 朝日新聞デジタルの同記事はこう続きます。

<会見によると、ルラ氏は21日午後3時15分からゼレンスキー氏と二国間会談をする予定があり、ホテルで待っていたが、ゼレンスキー氏は姿を見せなかったという。ルラ氏は「彼は大人だ。来られなかったのは別の理由があるのだろう」と語った。>

 どちらがウソを言っているのか、限られた情報で断定は難しいですが、私はルラ氏の発言に真実みを感じます。いずれにしても確かなことは、この日の会見でもルラ氏は、G7 を批判し即時停戦の必要性を強調したことです。

<ルラ氏は22日の記者会見で、「G7 は戦争の話をする場ではない」と批判。「交渉したいという意思があれば、どこでも行く」と「仲介者」としての役割に意欲を示した上で、「ゼレンスキー氏とも、プーチン氏とも会いたい」と発言した。「合意は同じテーブルにつくことから始まる。双方とも100%譲らないというのは無理だ」とも述べ、両国に譲歩を求めた。>(22日付朝日新聞デジタル)

<ルラ大統領は、「ロシアとウクライナの戦争については、G7 ではなく国連で議論するべきだ」と述べ、先進国だけが参加できる現在の(G7 の)枠組みに疑問を呈した。「死者を出さないためにも今すぐ停戦すべきだ」と述べた。>(22日昼のANN=テレビ朝日ニュース)

<「交渉がなければこの戦争は長期化するだろう」と述べ、中国やインドなどと和平に向けて取り組む姿勢を示した。>(22日昼のNHKニュース)

 こうしたルラ氏の考え・主張は、ゼレンスキー氏にとっては容認しがたいものでしょう。会談が実現していれば、ゼレンスキー氏はルラ氏のこの停戦・和平案を直接聞くことになったはずです。

 今回のG7 広島サミットで改めて浮き彫りになったのは、「大反攻」のために欧米諸国に一層の兵器供与・軍事支援を求めるゼレンスキー大統領、それに呼応してさらなる軍事支援を約束した欧米・NATO諸国と日本、そして中立的立場から即時停戦へ向けて和平交渉の仲介を行おうとするブラジルはじめグローバルサウス―という構図です。その第3の立場・世論を大きくしていくことが、これ以上犠牲者を出さないために、緊急に求められているのではないでしょうか。

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「ゼレンスキー氏来日」めぐる経過に重大問題

2023年05月22日 | 国家と戦争
自国   

 ウクライナ・ゼレンスキー大統領の来日(20日)をメディアは大きく取り上げ、歓迎ムードを煽っています。しかし、ゼレンスキー氏の“突然”の来日の経過には、見過ごすことができない問題がいくつもあります。

 共同通信と朝日新聞デジタルによって経過を振りかえってみましょう(時間は朝日新聞デジタルの速報時刻)。

▶5月18日 ゼレンスキー氏と仏・マクロン大統領の会談(パリ)で、仏が訪日用に政府専用機を提供すると決定。
▶19日12:02 米ブルームバーグ、ゼレンスキー氏が広島を訪問すると報道。
▶同午後 松野博一官房長官は記者会見で「オンラインで参加する予定」と繰り返す。
▶同 14:58 ウクライナ政府高官がゼレンスキー氏の訪日を公式に認める。
▶同 22:15 岸田首相、記者団に改めて来日を否定。
▶20日午前 日本政府が「来日」を正式発表。
▶同午後3時半 ゼレンスキー氏、広島空港に到着。

 以上の経過から分かること、指摘しなければならない問題は次の3点です。

 第1に、ゼレンスキー氏の来日は、マクロン仏大統領との会談(飛行機提供)で最終的に決まり、米ブルームバーグはこれを受けて世界に打電。それを合図に日本のメディアも一斉に「来日決定」と報道したことです。

 つまりゼレンスキー氏の来日は、日本政府の頭越しに決められ、既成事実化されていったのです。主権侵害も甚だしいと言わねばなりません。

 「仏大統領筋は20日夜、「日本を説得した」と明らかにした」(21日付朝日新聞デジタル)と報じられています。

 第2に、ブルームバーグが報道した後も、ウクライナ政府の発表後も、松野官房長官(19日午後の記者会見)、岸田首相(同日夜記者団に)が重ねて「来日」を否定したことです。これは首相と官房長官による虚偽会見であり、「国民」を欺き、知る権利を奪ったもので、きわめて重大です。

 第3に、こうした異常な事態について、「政権幹部」は「戦況にも左右される。ゼレンスキー氏の身の安全を優先すれば、ぎりぎりまで発表できない」(20日付共同配信)、「官邸幹部」も「外交には最後まで言えないことがある」(同)と開き直っていることです。

 こうした政府・自民党幹部の発言は、虚偽の記者会見・政府発表を「戦況」「外交」を口実に正当化しようとするもので絶対に容認できません。

 想起する必要があるのは、岸田首相の電撃的なウクライナ訪問です(3月21日)。この時もメディアにはまったく知らざれず、会見で同行記者団を引き付けておいてその隙に飛行機に乗り込みました。

 こうして政府・自民党は、ウクライナがらみで、立て続けにメディアを欺いています。それはすなわち、主権者である市民を欺き、知る権利を剥奪していることにほかなりません。

 それは「非常時」を口実に報道統制を強化し、メディアの息の根を止めた戦争国家体制に限りなく接近していることにほかなりません。

 こうした重大な事態が進行しているにもかかわらず、メディア(官邸・外務省記者クラブ、新聞協会、新聞労連)は21日夜現在、岸田政権に対し一言の抗議も行っていません。それどころか政権と一体となって「G7 サミット成功」「ゼレンスキー大統領歓迎」の旗を振っています。メディアはこのまま座して死を迎えるつもりでしょうか。


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日曜日記250・父は廣島で毒ガスをつくった

2023年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
   

 イラクに「ヒロシマ通り」と名付けられた通りがあると、以前新聞で読んだ。イラン・イラク戦争で毒ガスによるクルド人虐殺(ハラブジャの虐殺)が行われ、約5000人が殺害された。遺族や後遺症で苦しむ生存者らは、「広島、長崎の原爆被害の苦しみと同じだ」と化学兵器の禁止を強く求めた。「クルドのヒロシマ」と呼ばれ、町内の道がそう命名されたという(4月29日付京都新聞夕刊=共同)。

 遺族・被害者の思いは痛切だ。が、この命名は適切ではない。なぜなら、広島はかつて毒ガス兵器製造の中心地であり、毒ガス被害の町には最もふさわしくない地名だからだ。

 広島市からわずか80㌔の竹原市・大久野島。帝国日本陸軍はこの島で1929年から15年間毒ガス兵器をつくり続けた。もちろん国際法違反だ。秘密裏に製造するため、島は地図から消された。

 毒ガス兵器は実際に中国での侵略戦争に使われた。のみならず、敗戦で日本軍がそれを無造作に投棄したため、中国の市民は今もその毒ガス被害に苦しんでいる。(写真は大久野島にある毒ガス資料館、工場跡、島の全景)

 1926年生まれの私の父は、敗戦時19歳だったが、17歳から約2年、大久野島の毒ガス工場に勤めていた。汽車と船で40分かけて通勤した。
 5人きょうだいの長男で、母親が早くに他界し、父親(私の祖父)とともに家庭を支えた。進学の希望は叶えられなかった。そんなとき、学校の教師から、「大久野島の工場なら、理科の勉強をしながら給料がもらえるぞ」と勧められた。そこが毒ガス工場だとは知る由もなかった。

 しかし、知らなかったとはいえ、毒ガス兵器製造の片棒を担いだことは事実だ。加害者の一人である責任は免れない。

 父は自ら大久野島の体験を語ることはなかった。私は高校生の時に知ったが、私から尋ねることもなかった。

 だが、社会に出て新聞記者の端くれになった時、父の体験は聞かねばならない、聞いて記録しなければならないと思うようになった。広島と東京で離れていたが、帰省したおり、テープレコーダーを挟んで父に向き合った。
 しかし、そのとき父はすでに認知症の症状が出始めていた。しつこく訊いても、確かな記憶は戻ってこなかった。

 それから数年後、父は85歳で他界した。毒ガスで肺を侵され、「肺がん」「肺炎」が死因だった。

 父は毒ガスの被害者でもある。根底に父子家庭の貧困もあった。辛い人生だったろう。

 だがそれでもやはり、加害者であったことは否定できない。知らなくて勤め始めても、やがて何をつくっているか分かったはずだ。分かってもどうすることもできなかったろうけれど、それでもやっぱり…。

 広島といえば「被爆地、原爆被害の地」、というのが国際的な認識だ。日本人の大部分もそう思っている。
 しかし、廣島は明治時代から日本を代表する軍都だった。原爆が落とされたのも、軍都であり、兵士を送り出す宇品港があり、軍需企業・三菱があったからだ。そして大久野島の毒ガス工場も。

 広島の「被爆被害」を語るなら、同時に、いやその前に、「軍都・廣島の加害性」を語らねばならない。加害を棚上げして被害だけを強調するのは、平和にも、人の道にも反する。


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G7サミット の本質示す「核のボタン」持ち込み

2023年05月20日 | 核被曝・放射能汚染と日米安保
   

 百聞は一見に如かず。百の文章より1枚の写真。左の写真は19日付京都新聞朝刊に載ったものです。
 記事(共同)の見出しは<「核のボタン」被爆地に>。写真のキャプションはこうです。「「核のボタン」とみられるかばんを運ぶ米軍関係者=18日午後、山口県岩国市の米軍岩国基地」

「「核のボタン」は軍から派遣された側近が持ち、大統領の行く先々に随行する。大統領は核使用に必要な暗号が書かれたカード、通称「ビスケット(BISCUIT)」を常に身に付けているとされる」(同記事)

 米大統領はいつでも核兵器使用・核攻撃ができるように「ボタン」を持ち歩いているのです。これこそ最大の「核の脅し」と言わねばなりません。

 「核のボタン」が19日に平和公園に持ち込まれた写真(映像)はまだ明らかになっていませんが、おそらく持ち込まれたでしょう。なぜなら、7年前に現職米大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏は、「核のボタン」を持って平和公園に入ったからです。

 米大統領が「核のボタン」を被爆地・広島に持ち込んだ。このことは、G7広島 サミットの本質を端的に表しています。

「高校卒業後に地元広島を離れ、2005年に帰郷した。街の変貌に驚いた。…市民運動は影を潜め、人々は牙を抜かれたように物分かりが良くなっていた。
 最たる例が16年のオバマ元大統領の広島訪問だ。「核のボタン」を携えて平和公園を訪れたオバマ氏を、被爆者を含む市民は盛大に歓迎し、米国の核を容認してしまった。市民は米国が核軍縮に向かうと本気で思ったのだろうか。
 オバマ氏訪問への反省がないままに、G7広島サミット を迎える。原爆の惨禍を経験した広島は、他の地域より「核兵器や戦争は嫌だ」という空気が強い。そこにつけ込まれて官民一体の歓迎ムードがつくられている」(評論家・東琢磨氏、18日付京都新聞夕刊=共同)

 「オバマ氏訪問への反省がないまま」という東氏の指摘は、再び「核のボタン」を広島に持ち込ませたことに端的に表れています。

 そもそもG7 サミットは、NATO(北大西洋条約機構)と日米軍事同盟(安保条約)による「西側」軍事同盟結束の場にすぎません。核兵器禁止条約に背を向け、核保有・核の傘に固執する国々が集まって、「核廃絶」が1ミリでも前進するわけがありません。

 広島サミットは、核保有国の「核抑止力」論にお墨付きを与え、岸田首相が支持率を上げて解散戦略を練るために、「被爆地ヒロシマ」が消費されるものにほかなりません。
 「少しでも核廃絶に向かうなら」という“善意”による「期待」は、メディアと一体となってサミットへの注目を集め同盟の力を誇示しようとするG7 陣営に悪用されるだけです。

 一方でG7 サミットは、ウクライナへの武器供与強化を確認し和平に逆行します。また、多額の税金を使った「猫の子も入れない」(地元市民)過剰・異常な「警備」、平和公園・原爆資料館への数日間の一般市民立ち入り禁止など、市民の生活・営業に多大の影響を及ぼしました(新大阪駅のコインロッカーまで使用禁止)。
 G7 サミットは百害あって一利もありません。

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ローマ教皇の和平仲介にクギ刺したゼレンスキー大統領

2023年05月18日 | 国家と戦争
   

 ウクライナのゼレンスキー大統領は13日からイタリア、ドイツ、フランス、イギリスを相次いで訪れ、一層の武器供与・軍事支援を要求しました。とくに戦闘機の供与を熱望し、「戦闘機連合」なるものの結成まで働きかけました。「ゼレンスキー大統領は…欧州各国を歴訪して支援を求め、「戦闘機連合」をつくるのが歴訪の目的の一つだと説明していた」(17日付朝日新聞デジタル)

 そんな中で見過ごせないのは、13日にバチカンで行ったフランシスコ・ローマ教皇との会談です。

「ゼレンスキー氏と教皇は約40分間にわたってロシアの侵攻で生じた人道的な問題や政治的な状況について議論。両者はウクライナの人々に対する支援を続ける必要性で一致した」(15日付朝日新聞デジタル)

 これでは会談の内容はよくわからず、友好的な会談であったような印象を受けます。さらにこうも報じられました。

「教皇との会談では、ゼレンスキー氏がロシア軍の撤退や食料安全保障など和平に向けた10項目の提案への支持を要請した」(15日付琉球新報=共同)

 そのゼレンスキー氏の意図をより明確に報じたのは、NHK国際報道2023(15日放送)でした。ゼレンスキー氏は教皇にこう言ったのです。

「ウクライナ領土内で戦争が続いているため和平案はウクライナ独自のものしかあり得ない」(写真左)

 「和平案」はウクライナ側が主張するものしかあり得ない。これは驚くべき発言です。自国の言い分しか認めない「和平案」などあり得ません。

 教皇がウクライナ戦争の早期停戦へ向けて水面下で仲介へ動きを始めていたのは周知のことでした。

「ロイター通信などによると、フランシスコ教皇は4月30日にハンガリー訪問を終えた帰路の飛行機の中で、戦争終結に向けてロシアとウクライナの和平の取り組みに教皇庁が関与していることを明らかにしていた」(15日付朝日新聞デジタル)

 ゼレンスキー氏はこの教皇の和平工作にクギを刺したのです。

 欧州各国には「戦闘機連合」まで呼びかけて武器供与を要求し、教皇の和平仲介は拒絶・否定する。それが今回のゼレンスキー氏の欧州歴訪の目的でした。

 今回のウクライナ戦争がロシアの軍事侵攻から始まったことは言うまでもありません。しかし、今求められているのは、これ以上犠牲者を出さないために、一日も早く停戦することです。クリミア半島やドンバス地域の問題はその中で協議すべきです。
 ゼレンスキー氏の言動は早期停戦に逆行するものと言わざるをえません。

「教皇フランシスコは、これまでウクライナの平和を追求し、発言し続けてきました。昨年12月8日の聖母マリアの祭日には…人々の前でしばし体を震わせて涙を流したほどです。全世界に広がるローマ・カトリック教会の信徒も、教皇の意向に合わせ、一貫して平和のために祈り続けてきました。…国際政治の厳しい現実の中で、教皇庁とカトリック教会のネットワークがどう前向きな役割を果たしていくのか、注目したいと思います」(大川千寿・神奈川大教授、15日付朝日新聞デジタル)

 ゼレンスキー氏の“妨害”をはねのけ、教皇庁とカトリック教会のネットワークが和平へ向けた活動を続け、強めることを期待します。

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