5月28日午後2時、ソウル市内から高速バスで約4時間、中南部の慶尚南道の陜川(ハプチョン)に移動。翌朝「陜川原爆資料館」を訪れるためだ。陜川は「韓国の広島」と言われている。今回の韓国訪問で最も楽しみにしていたものだ。
広島、長崎の原爆被害者の約10%にあたる10万人が韓国被害者で、その70~80%が陜川出身者だ。
陜川自体が山あいの自然豊かな町で、資料館も緑に囲まれた静かなところにある。2017年8月6日オープン。韓国で唯一の原爆資料館だ。
資料館の隣には、被爆者らが利用できる福祉施設が赤十字に委託して運営されている。
29日午前9時、開館と共に同館へ。学芸員の金藝志さんがコーヒーで迎えてくれた。事前に連絡していたので、韓国原爆被害者陜川支部の沈鎮泰支部長もわざわざ駆けつけてくださった。
入ってすぐのドーム型展示室では、被爆の実相を映像で見ることができる。展示室はぐると1周して、原爆の解説から被爆者補償の問題点まで分かるしくみになっている。被爆物の実物は被爆者・支援者から寄贈されたものだと金さんが説明してくれた。
2階は資料室だ。沈支部長に案内していただいた。被爆認定書などの実物や書籍が書庫に収められている。安重根の本もあった。
展示スペースはけっして広くない。しかし、内容は充実している。最も感心したのは、資料館しおりの解説文だ。
「日本の植民地時代(1910~1945)、戦争に狂奔した日本軍国主義により、強制的に徴用工として連れて行かれ、軍事基地の要塞だった日本広島に強制的に配置され、飢えと人権さえ踏みにじられ、大変苦労していた中…多くの原爆被害者が発生した」(日本語版より)
この短い一文には、原爆がなぜ広島に落とされたのか、なぜ陜川出身者の被害者が多いのが、端的に凝縮されている。とりわけ、広島が「軍事基地の要塞だった」すなわち軍都だったために原爆が投下されたという記述は、広島の原爆資料館にはない。
同じ原爆資料館だが、広島のそれは10日まえにはG7 広島サミットで世界のメディアが注目した。片や陜川のそれは、訪れる人とて多くなく、世界はもとより日本でもその存在自体を知っている人は多くないだろう。
しかし、その「被爆解説」の的確さでは、陜川はけっして広島にひけをとっていない。否、むしろ広島よりも優れていると言って過言ではない。
韓国語ができない私は、スマホの翻訳機能で、そして金さんも同じくスマホの翻訳機能で、「会話」した。結構できるものだ。
金さん(のスマホ)を通じて、沈支部長に、「日本人に一番望むことは何ですか?」と訊いた。沈支部長の答えは、「二度と戦争を起こさないこと」だった。
沈さん、金さんのご厚意ご親切に感謝し、笑顔で資料館を後にした。
ここにもいまなお原爆の被害に苦しみながら、不十分な補償の改善を要求し、平和を希求してたたかっている人々がいる。加害国の日本人の自分が日本の軍事大国化を阻止するためにたたかわなくてどうする。
短い時間だったが、素晴らしい出会いで決意を新たにした貴重な時間だった。
(写真は陜川原爆資料館の外観、館内、そして沈さんと金さん)