徳仁天皇は21日、「誕生日に際しての記者会見」を行いました(メディア解禁は23日)。この中で、今年が「沖縄本土復帰」から50年になることから「沖縄の歴史や人々への思い」について質問され、こう答えました。
「先の大戦で,悲惨な地上戦の舞台となり,その後,約27年間も日本国の施政下から外れた沖縄は,人々の強い願いの下,50年前日本への復帰を果たしました。この間,今日に至るまで,沖縄の人々は本当に多くの苦難を乗り越えてきたものと思いますし,このことを決して忘れてはならないと思います。本土復帰から50年の節目となる今年,私自身も,今まで沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し,沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたいと思います」(宮内庁HPより)
この発言は、沖縄戦とそれ以降の沖縄の苦難の歴史に対する天皇制、とりわけ天皇裕仁(昭和天皇、写真右)の責任、加害責任を隠ぺいし、逆に天皇が沖縄に「心を寄せて」いるかのように描くもので、きわめて重大な問題をはらんでいます。
第1に、沖縄を「悲惨な地上戦の舞台」にしたのは、徳仁天皇の祖父・裕仁にほかなりません。
誰の目にも日本の敗戦は明白だった1945年2月14日、近衛文麿(元首相)は、裕仁に直ちに戦争を終結することを進言しました(いわゆる「近衛上奏」)。しかし、裕仁はこれを一蹴したのです。
「上奏文のなかで近衛は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し…ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)
遅ればせながら裕仁が「近衛上奏」を聞き入れていれば、沖縄戦(4月1日米軍上陸)も広島(8月6日)長崎(同9日)への原爆投下もなかったのです。
第2に、敗戦後、沖縄がアメリカの施政権下に置かれ、日本国憲法の適用から外されたのは、天皇裕仁がそれを望む「メッセージ」をマッカーサーに送ったからです(1947年9月19日の「天皇メッセージ」)。
裕仁が側近・寺崎英成を通じて送った「メッセージ」の内容は、「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである」(1947年9月19日付『昭和天皇実録』)だったのです。
第3に、徳仁天皇は沖縄の「今日に至る多くの苦悩」の内容にあえて触れていませんが、それが日米安保条約による沖縄へ米軍基地の集中であることは明白です。その日米安保条約締結においても、裕仁は、天皇の政治関与を禁じている憲法を破って、米側に直接働きかけ、実現させました。
「昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな「国体」となった。つまりは、「安保国体」の成立である。
だからこそ昭和天皇は、(サンフランシスコ)講和条約と安保条約が調印されてから10日を経た1951年9月18日…「有史以来未だ嘗(かつ)て見たことのない公正寛大な条約」として講和条約を高く評価するとともに、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」…と安保条約の成立を絶賛したのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)
天皇裕仁の言動は、戦中から敗戦後まで一貫して、天皇制(「国体」)の維持と自身の延命(戦争責任追及の回避と在位の継続)を図ることに徹していました。そのための「捨て石」となったのが沖縄にほかなりません。
こうした歴史を一切捨象して裕仁の加害責任を隠ぺいし、明仁天皇(現上皇)や自身が沖縄に「心を寄せて」きたと強弁する徳仁天皇の会見は、「復帰50年の節目」に、改めて沖縄と天皇の歴史を改ざんし、天皇制と日米安保体制の維持を図ろうとするものと言わねばなりません。
「沖縄慰霊の日」の3日前の6月20日、琉球新報社会面に、「強制連行 歴史へ思い 読谷・恨之碑、朝鮮人を追悼」という見出しの記事が載りました。
「沖縄戦で日本軍が朝鮮半島から強制連行した軍夫や慰安婦らを慰霊する読谷村瀬名波の「恨之碑」で19日、NPO法人沖縄恨之碑の会が追悼会を開いた。碑は2006年に建てられ追悼会は15回目。参加者は歴史を学び、平和を求める気持ちを新たにした」
「恨之碑」(写真中)の作者は沖縄在住の彫刻家・金城実さん(82)。碑は日本軍に虐待される朝鮮人軍夫とその母親を描いています。軍夫とは武器も十分な食料も与えられないで日本軍の下働きをさせられた人々です。
金城さんはこの日の追悼会で、完成したばかりの朝鮮人「慰安婦」のレリーフも紹介しました(写真左、琉球新報より)。この「慰安婦」像については、6月17日付の沖縄タイムスに詳しい記事がありました。
記事によれば、金城さんの「慰安婦」をテーマにした作品は2作目で、今回は「朝鮮人女性らが送り込まれた戦時下の沖縄の慰安所について史料や証言を基に書いた書籍『沖縄戦の記憶と「慰安所」』に触発された」といいます。
「衝撃だったのは『沖縄の女性と子どもを守るために慰安所が必要』との証言。つまり、慰安婦を盾にしたということだ」「沖縄にも慰安所があったことを忘れてはいないか、問題提起したい」(金城さん、17日付沖縄タイムス)
レリーフには4人の「慰安婦」が描かれています。左から「悲しみ」「祈り」「誇り」「怒り」の表情です(写真右、沖縄タイムスより)。
沖縄戦で朝鮮人軍夫、「慰安婦」はどういう状態に置かれていたか。その一端を示す「手記」と証言が、奇しくも同じ20日付の琉球新報の別の面で紹介されていました。手記を寄せ新報に証言したのは本部町の渡久地昇永さん(90)です。(以下、記事から抜粋。《》は手記、「」は証言)。
<多くの民家に兵士が暮らしました。渡久地さんの家もその一つ。
《最も多人数が停留していたのは朝鮮から徴用された軍夫20人余であった。畳一枚の広さに大の男2人が寝ていた計算になる。》
日本軍は軍夫を命令で縛り、暴力を振るいました。
《ある下士官が朝鮮人軍夫に自分の下腹部をさらけ出して毛ぞりをさせているのだ。僕は一瞬、目を背けてしまった。
また、どういう命令違反があったのか、自分の銃剣の先で軍夫の耳を突き刺してせっかんする日本兵もいるではないか。軍夫は「アイゴー、アイゴー」と声を上げて泣いていた。》
近所の家はまるごと日本軍の「慰安所」として接収されました。
「慰安所には5、6人の朝鮮の女性がいました。日曜になると日本の兵隊が並んでいました。私たちは中に入れない。木の間から中の様子をのぞいたことがあります。朝鮮の女性はかわいそうでした」>(20日付琉球新報)
冒頭の追悼会で、「恨之碑の会」共同代表の安里英子さんは、「慰安婦や軍夫という非人道的な存在を生み出したのは日本だ。被害と加害を背負うオキナワ人の責任を自ら問わなければならない」と訴えました(20日付琉球新報)。
誰よりも「責任を自ら問わなければならない」のは、「本土」のわれわれ日本人です。日本は琉球を武力で植民地化し、朝鮮半島を侵略・植民地支配し、沖縄を戦場にし、朝鮮人軍夫、「慰安婦」を虐待し、多くの沖縄の人々を死に追いやり、また自ら殺害しました。
沖縄戦でわれわれ日本人が本当に知らなければならないのは、米軍による被害ではなく、天皇制国家・日本の沖縄人、朝鮮人に対する加害の実態、今に続く加害の歴史です。
6月23日は「沖縄慰霊の日」。沖縄戦で15万人を超える住民を死に追いやった帝国日本軍第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決した日とされています(実際は6月22日説が有力)。この日を「慰霊の日」とすることには以前から強い批判があります(ちなみに、沖縄戦の降伏文書が調印され文字通り沖縄戦が終結したのは9月7日)。
「6・23」には糸満市の摩文仁の丘で沖縄県主催の式典が行われますが、それに先立ち、夜が明けきらないうちから、同じ摩文仁の丘の頂上にある「黎明之塔」(写真中)の前で、ある集団による「慰霊祭」が行われます。集まるのは沖縄駐屯の陸上自衛隊第15旅団の面々です(写真左は昨年のもよう=沖縄タイムスより)「黎明之塔」は牛島司令官と長参謀長をまつったものです。
沖縄タイムス(5月30日付)によれば、「黎明之塔」の前で自衛隊による「慰霊祭」が最初に行われたのは1976年。しかし批判を受け、頓挫しました。それが復活したのが2004年。「再興したのは、第1混成団(当時)の団長だった君塚栄治さん(故人)。沖縄を離れた後は東日本大震災時の東北方面総監、陸自トップの陸上幕僚長を務めた人物」
君塚栄治東北方面総監。この名前には憶えがあります。
天皇明仁(当時)は2011年3月16日、東日本大震災にかんして「ビデオメッセージ」をテレビで流しました(写真右)。天皇の「ビデオメッセージ」は史上初で、憲法上重大な疑義がある行為です。
この中で明仁天皇は、「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする…努力に感謝…」と述べました。その7年前の2004年10月の中越地震のときに出した「ねぎらい」の文書では、「消防、警察、自衛隊」の順になっていました。それが「3・11」では自衛隊が最初になったのです。この微妙な順番の変化に感激したのが、君塚氏でした。
「天皇のビデオメッセージが一斉に放送された。夜、録画でそれを見た君塚は、あっと思った。…自衛隊に真っ先に言及していただいた―。君塚は感動した。「今まで以上に自衛隊がたよりにされている、と感じました」」(2014年4月28日付朝日新聞)
その「ビデオメッセージ」から約1カ月後の4月27日、天皇・皇后は「被災地訪問」で宮城県を訪れました。このとき、天皇・皇后が乗った自衛隊機を、東松島市の松島基地で出迎えたのが君塚総監でした。天皇・皇后は松島基地で昼食をとりましたが、これには村井宮城県知事(自衛隊出身)らとともに君塚総監も同席しました。基地で天皇が自衛隊幹部と会食したのは史上初です。
「黎明之塔」前の「慰霊祭」を再興した君塚氏が、天皇に対する強い忠誠心を持つ人物であったことは明らかです。
天皇と君塚氏にはこんな因縁もあります。
天皇明仁は2018年3月27日、自衛隊の配備強化が図られ反対運動が起こっていた与那国島を初めて訪問しました。この日は、「日本版海兵隊」といわれる「水陸起動団」の発足日でした。「陸幕長…在任中、水陸両用部隊の整備や機動力向上…に着手した」(ウィキペディア)のが君塚氏だったのです。
ちなみに、君塚氏が「黎明之塔」前の「慰霊祭」を復活させた2004年は、陸上自衛隊が初めてイラクに派遣され(1月)、沖縄国際大に普天間基地の米軍ヘリが墜落し(8月)、アテネ五輪に興じていたメディア・日本人がそれを無視した年でもありました。
天皇明仁は「忘れてならない4つの日」として、「8・6」「8・9」「8・15」とともに「6・23」をあげ、これらの日には皇居内で「追悼」するといいます。徳仁天皇もこれを引き継いでいます。
これら「4つの日」は、いずれも日本の戦争被害性を象徴する日であり、そこに日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任の自覚はありません。「6・23」も「敗戦」の記憶であり、日本軍の加害の意識はありません。
そのことは、日米安保条約の下で米軍基地が集中する沖縄が、自衛隊のミサイル基地・前線基地にされようとしており、「6・23」に自衛隊幹部が「黎明之塔」前で「慰霊祭」を繰り返し、自衛隊(軍隊)と天皇の親密な関係が今も連綿と続いていることと、けっして無関係ではありません。
沖縄・首里城が炎上して今月31日で1年になります。沖縄では復元・再興の計画、議論が進んでいますが、その中で問題になっているのが、正殿の上り口にある2本の大龍柱の向きです。正面向きか対面か。
ささいな問題のように思われますが、決してそうではありません。沖縄の人々にとっては大きな問題です。いいえ、沖縄の人たちだけでなく、「本土」の私たち日本人にも深いかかわりがあります。いやむしろ、私たちこそ注視しなければならない重要問題です。
1年前に首里城が焼失する前は、大龍柱は左右向き合っていました(写真左)。「大龍柱を考える会」(大田朝章代表)はこれを正面向きに直すべきだと主張しています。その理由を、大田代表はこう説明します。
- 昭和初期に首里城正殿が沖縄神社の拝殿として解体修理される前の写真では全て正面向きだった。
- 沖縄神社拝殿は国家神道の名残であり、そこで採用された相対向きは、日本国憲法第20条の信教の自由の趣旨に反する。(10月2日付沖縄タイムス)
沖縄戦(1945年)で破壊された首里城の復元(1992年)に中心的役割を果たした西村貞雄琉球大名誉教授もこう指摘します。
「大龍柱の存在意義や前脚の構え、龍が持つ宝珠の位置付けなど、総合的に考えると、御庭に対して正面向きだったと判断される」(10月23日付琉球新報)
これに対し、国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」の高良倉吉委員長(琉球大名誉教授=写真右。仲井真弘多県知事時代の副知事で、2013年4月28日=沖縄屈辱の日に安倍政権が行った「主権回復」式典―天皇・皇后出席―に、県民の反対を押し切って仲井真知事代理として出席)は、首里王府の公式記録(「寸法記」1768年)などで「大龍柱は向き合っている」として、あくまでも対面を主張しています(10月14日付琉球新報)。
首里城の大龍柱は正面向きに直すべきか、対面のまま復元すべきか。その判断は今後沖縄の人々によって進められるでしょう。しかし私たち「本土」の日本人が忘れてならないのは、大龍柱の向きの変遷が示す琉球・沖縄と日本の関係史です。
1879年、琉球は明治天皇制政府によって武力で併合・植民地化され、首里城は日本人に乗っ取られました。その後、帝国日本が東アジア侵略・植民地支配をすすめる中で、沖縄の皇民化政策が強化され、首里城正殿は沖縄神社の拝殿とされました(1933年)。そして、沖縄戦で帝国日本第32軍がここに司令部を置いたことにより、首里城は破壊されたのです。
「1879年3月28日夕(日本による武力侵攻―引用者)、大龍柱はどこを向いていたのか。それを確認することは、国を滅ぼされ、王を失った城のその後の歳月を知ることでもある。国王や国の火ヌ神が不在となり、日本軍兵士が跋扈した首里城。そこでなされた大龍柱をへし折る行為と、向きを改変するなどの破壊行為は同一線上にあるといっていい。
折られ、短小化され、向きを変えられた大龍柱は、沖縄の近現代の歩みを象徴しているように思う。誰が向きを変えたのか。その意味は何か。昨年の首里城火災は不幸な出来事だったが、歴史を根源的に問い直す機会を沖縄社会にもう一度与えたと考えたい」(後田多敦神奈川大准教授、10月7日付沖縄タイムス)
琉球侵略・植民地化、天皇制・皇民化政策の歴史。それを「根源的に問い直す」必要があるのは、「本土」の私たち日本人の方です。
☆「即位礼」と沖縄
「即位礼正殿の儀」(22日)に王貞治や澤穂希、松本白鴎らが招待され、嬉々として参列したことは別に珍しくもないが、沖縄の相良倫子さん(15)が参列したことには心が痛んだ。
相良さんは昨年の「沖縄慰霊の日」(6月23日)で「平和の詩」を読み上げた(当時中学3年)ことが“評価”されて招待された。儀式後、相良さんが「平和を祈り、願う気持ちは陛下も私も同じ」(23日付琉球新報)とコメントしたようすはテレビでも流された。
沖縄の青年が「陛下」(天皇への忠臣の表明)という言葉を使ってこうしたコメントをし、それを沖縄の県紙が好意的に大きく報じる。なんともやるせない。そう仕向けた「本土」の国家権力に怒りが湧いてくる。
相良さんだけではない。NHKはこの日、朝の放送開始から深夜まで「即位礼」一色だったが、その中で何度か沖縄の国立戦没者慰霊碑と中継し、遺族代表に天皇賛美のコメントをさせた。
明仁天皇の「在位30年記念式典」(2月24日)もそうだった。沖縄出身の三浦大知を起用し、天皇賛美の歌を歌わせた。天皇・皇室の重要な儀式があるたびに「沖縄」を引き込む。
「沖縄」に負い目があるからだ。沖縄を捨て石にして地上戦の地獄をつくり、戦後は「天皇メッセージ」で沖縄をアメリカに売り渡したのは、天皇裕仁だ。その責任に一貫してほうかむりする一方、逆に「沖縄」を取り込もうとする。これは今日版皇民化政策にほかならない。
琉球新報、沖縄タイムスを含め沖縄の人々がそれに疑問を持たず、むしろ歓迎しているようにみえるのはきわめて不幸なことだ。いや、そういう状況をつくりだしている「本土」の「日本人」こそ、罪が深い。
☆最新「皇室世論調査」が示すもの
「即位の礼」の前日、NHKは皇室に関する世論調査結果を流した。それによれば、「皇室への親しみ」…「感じている」71%、「感じていない」27%。「皇室と国民の距離」…「近くなった」69%、「変わらない」24%、「遠くなった」3%。
これをNHKは「7割が皇室に親しみ」との見出しで皇室が国民から親しみを持たれていると報じた。そうだろうか。
2つの質問項目に対する回答傾向はぴったり一致している。27%の「国民」は皇室に「親しみ」を感じていない、距離も近くなったとは思っていない、ということだ。
この数字はきわめて大きい。なにしろ、NHKはじめすべてのメディアが天皇・皇后、秋篠宮家をはじめとする皇室の動きを逐一賛美する報道を流し続けている中で、しかも「即位礼」を目前にして行われたNHKの世論調査だ。ほとんどが「親しみを感じている」と答えてもおかしくない。
にもかかわらず約3割が「ノー」と答えた。国家・メディアがどんなに笛を吹いても、踊らない「国民」がこれだけいるということだ。
憲法第1条は、天皇の「象徴の地位」は「主権の存する日本国民の総意に基づく」としている。「象徴天皇制」の土台だ。しかし、約3割の「国民」はそうは思っていないということだ。「親しみ」を感じられない「象徴」などありえない。少なくとも「象徴の地位」が「国民の総意」でないことは否定できない事実だ。「3割」はけっして無視できる数字ではない。「象徴天皇制」は根本から問い直されなければならない。