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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「天皇訪沖」を照射するウチナーンチュの視点

2025年06月11日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 天皇一家の沖縄訪問(4~5日)を絶賛した玉城デニー知事の発言については先に書きましたが(7日のブログ参照)、問題は玉城氏だけではありません。

 仲地博・元沖縄大学長は、「平和への強い意志示す 寄り添う姿 愛子さまに継ぐ」の見出しで、「豊かで真摯なスケジュールが組まれている。…平和憲法下の象徴天皇たらんとする天皇の強い意志が見てとれるように思う」(6日付沖縄タイムス)と賛美しています。

 しかし、もちろん賛美するコメントばかりではありません。

 石原昌家・沖縄国際大名誉教授は、「戦後80年の年に(天皇)一家が来県したことは、国防の名の下に「沖縄の軍事強化は日本のためにやむを得ない」という全体主義的な国家体制を望む人たちが皇室を利用しようとする思惑も感じられる」(6日付沖縄タイムス)と指摘しています。

 注目されたのは、田仲康博・元国際基督教大教授の視点です。5日付沖縄タイムスに「談」として掲載されました。

<日の丸を振っている子どもたちを見ると、自分の子ども時代を思い出す。復帰運動を担う「少国民」として動員された悔しさがよみがえる。一つの国家の体制になびいてしまう心証が現れており、沖縄はあまり変わっていないのではないか。1960年代ごろの復帰運動は姿や形を変えて今も続いている。天皇に対する沖縄の人たちのまなざしが気になる。

 どのように天皇制がつくられ、戦争につながっていったのか、考え続けなければならない。天皇が代替わりする中で戦中、戦後の責任について言葉を発したことはなく、責任はないがしろになっている。

 明治以降、国家の頂点にいたのが天皇で、戦時中は昭和天皇がその頂点にいた。(「近衛上奏文」「天皇メッセージ」の問題を指摘―略)
 平成、令和に時代が移り変わったから、象徴天皇になったからと言って、国家が沖縄を支配する構造そのものは変わっていない。

 戦後80年がたち…沖縄では米軍占領下の時代から、今や自衛隊が急速に増強される時代となった。その中での天皇来県である。天皇本人の思いとは別に、天皇制をうまく利用しようとする人たちもいる。歴史修正主義がどう動いていくのか注意深く見なければならない」(5日付沖縄タイムス=写真中)

 「天皇に対する沖縄の人たちのまなざし」についてのウチナーンチュとしての警鐘です。

 これに対し、「本土」の日本人はどうでしょうか。

 今回の「天皇訪沖」を社説で取り上げた全国紙(東京新聞を含め)は産経新聞(もちろん大絶賛)だけでした。「本土」の識者からの論評も見られませんでした。

 本来、「沖縄と天皇制」の関係、自衛隊が急速に増強されている沖縄に天皇が行く意味・危険性について論評しなければならないのは、「本土」のメディアであり学者・研究者の方です。

 そして多くのヤマトンチュ(日本人)は、この問題に関心すら持っていないでしょう。

 沈黙や無関心は、「国家が沖縄を支配する構造」に加担していることに他なりません。


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再び問う、天皇はなぜ「海鳴りの像」へ行かないのか

2025年06月10日 | 天皇・天皇制と沖縄
  

 天皇一家は5日、対馬丸記念館(那覇市)を訪れる前に記念館近くの「小桜の塔」(対馬丸犠牲者の慰霊碑)に行って供花しました(写真左)。
 しかし、「海鳴りの像」(写真右)には行きませんでした。同じく沖縄戦による船舶犠牲者の慰霊碑にもかかわらず。対馬丸記念館のすぐ裏にあるにもかかわらずです。なぜなのか。

 この問題を再び問わねばなりません。再びとは、11年前(2014年6月27日)に明仁天皇・美智子皇后が対馬丸記念館を訪れた際も、今回と全く同様に「小桜の塔」には行っても「海鳴りの像」には足を向けなかったからです(14年6月28日のブログ参照)。

 徳仁天皇はおそらく「海鳴りの像」の存在自体を知らなかった(今も知らない)のでしょう。なぜなら、対馬丸記念館でこんなやりとりがあったからです。

<天皇陛下は「対馬丸だけが狙われたのですか」と質問。…平良次子館長は「当時は制海権が米国に渡っている状況で、日本の船という船が狙われている危険な状況でした。対馬丸が注目されていますが(戦時遭難船舶は)沖縄関係でも30隻ほどあります」と説明した。>(6日付琉球新報)

 天皇は対馬丸以外に沖縄戦で撃沈された船舶があったことを知らなかったのです。認識不足も甚だしいと言わねばなりませんが、これはただの認識不足ではすまされません。

 なぜなら11年前、明仁天皇の訪沖に際し、沖縄の戦時遭難船舶遺族会が、ぜひ「海鳴りの像」も訪れて船舶犠牲者全体を慰霊してほしいと、宮内庁に文書で申し入れていたからです(14年6月20日)。にもかかわらず宮内庁そして明仁天皇はこれを無視しました。

 宮内庁が遺族会の要請を明仁天皇に伝えていれば、明仁天皇は対馬丸以外に犠牲になった船舶があり、それを慰霊する「海鳴りの像」があり、遺族が訪れることを望んでいることは知っていたはずです。知っていながら息子には伝えなかったのか。それともそもそも宮内庁が遺族会の要請を握りつぶしたのか。いずれにしても看過できない問題です。

 「小桜の塔」と「海鳴りの像」の違いは何でしょうか。
 それは「小桜」が日本軍(大本営)の命で児童らを疎開させた軍用船・対馬丸の慰霊碑なのに対し、「海鳴り」は民間船舶の慰霊碑だということです。

 日本政府は軍人・軍属の犠牲者には手厚い(相対的に)補償を行っていますが、民間の犠牲者にはまったく補償を行っていません(「受忍論」)。同じ天皇制国家の国策による犠牲者であるにもかかわらずです。東京や大阪、そして沖縄(10・10空襲)など各地の米軍による空襲犠牲者が補償を求め続けていても、政府が一貫してこれを拒否しているのはその表れです。

 天皇が「小桜の塔」には行くが「海鳴りの像」には見向きもしない、それどころか徳仁天皇は対馬丸以外に犠牲になった民間船舶があることすら知らない。その背景には、日本政府が戦争犠牲者を「軍人・軍属」に限定し、民間人を切り捨てている「戦後処理」における重大な根本問題があります。

 そしてそれは、明仁天皇や徳仁天皇の「慰霊の旅」とは、そうした政府の差別政策・歴史改ざんの上で演じられているパフォーマンスにすぎないことを示しています。


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「天皇訪沖」を絶賛した玉城デニー知事の問題発言

2025年06月07日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 沖縄の玉城デニー知事は5日、天皇一家を那覇空港で見送ったあと、2日間の「天皇訪沖」を振り返って記者団にこう述べました。

「両陛下、そして初のご来県となった愛子内親王殿下には広く県民との触れ合いを深めていただき、思い出深いものとなられたことを願うとともに、県民を代表し深く御礼を申し上げる」(6日付琉球新報、写真左も)

 さらに記者団から「近衛上奏文」(1945年2月)や「天皇メッセージ」(47年9月)に関連して「複雑な県民感情があるが…」と問われたのに対し―。

<玉城知事は…昭和天皇や上皇さまが国内外を訪問して「再び戦争を起こしてはならないという努力を続けてきた」と説明。「天皇、皇后両陛下はそのお考えを聞いてきたことから、さらに平和な時代、社会をつくっていくための務めに徹しておられるのだろう」と述べ、両陛下の気持ちを推し量った。また「陛下の平和に対するお気持ちやお姿、お言葉を広く国民が共有できる環境にしていくことが私たち行政の責任」と語った。>(同琉球新報)

 「天皇メッセージ」についてはこうも述べたと報じられています。

「『天皇メッセージ』など歴史的な課題は、多くの方々にそれぞれ意見が異なると思う」(6日付沖縄タイムス)

 驚くべき発言で、絶対に看過できません。

 これは知事としての儀礼的な発言を大きく超え、沖縄戦と戦後の米軍占領の天皇責任を完全に捨象し、逆に天皇を平和主義者として賛美するものです。天皇訪沖に対しては県内に様々な意見があるにもかかわらず、「深く御礼」の一語に集約しています。

 記事によれば「昭和天皇」=裕仁も反戦に「努力を続けてきた」と言っていますが、何を根拠にしているのでしょうか。とんでもない妄言です。

 「天皇メッセージ」についても、「それぞれ意見が異なる」と言い捨てたのは、歴史に対する甚だしい認識不足か、故意に歴史を隠ぺい・改ざんするものと言わねばなりません。

 石原昌家・沖国大名誉教授は今回の「天皇訪沖」について、「現天皇には「天皇メッセージ」と共に近衛上奏を拒んだことが沖縄の運命を決定づけていることを学ばれてほしい」( 4日付琉球新報)と指摘しています。玉城氏はこうした識者の警鐘もまったく耳に入っていないようです。

 とりわけ問題なのは、上記の太字の部分です。

 天皇の言動を「広く国民が共有できる環境にしていくことが行政の責任」だと強調しています。自分が天皇を「平和主義者」と賛美するだけでなく、それを国民の共通認識にするのが「行政の責任」だというのです。
 これは現行憲法の「象徴天皇制」の規定すら飛び越え、天皇主権の大日本帝国憲法における天皇と行政(天皇制官僚)の関係に逆戻りさせようとするに等しいきわめて危険な発言です。

 こうした発言を臆面もなく行う玉城氏は、沖縄の県知事としてはもちろん、政治家として完全に失格だと断ぜざるをえません。

 自民党の西田昌司参院議員が沖縄戦の歴史を歪める発言を繰り返して問題になっていますが、沖縄県知事が、しかも「オール沖縄」の支援で当選した知事が、こうした暴言・妄言をおこなって恥じないのは、ある意味ではそれ以上に問題です。
 玉城発言を徹底追及し、撤回・謝罪させるべきです。

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明仁天皇はなぜ再三沖縄を訪れたのか

2025年06月03日 | 天皇・天皇制と沖縄
  

 琉球新報は5月31日付で、<戦後80年、沖縄で慰霊>の見出しで、天皇一家が4日から6日まで沖縄を訪れることに関する記事を掲載しました(共同配信、写真左)。この中でこう記しています。「昭和の戦争と向き合い、(沖縄に)心を寄せ続けた上皇さま(明仁―私)の思いを継ぎ、天皇陛下は平和への願いを改めて示す」

 明仁天皇は皇太子時代の初訪沖(1975年7月)から2018年までに11回沖縄を訪れました。それは果たして沖縄に「心を寄せた」からでしょうか。

 かつて明仁・美智子夫妻が2018年3月27日に沖縄を訪れた際、作家の目取真俊氏は琉球新報(18年4月25日付「季刊・目取真俊」)への寄稿でこう書いていました(抜粋)。

<「慰霊の旅」や「沖縄への思い」を前面に出した明仁天皇の度重なる来沖が、県民の反発を鎮静化する効果をあげたのは事実だ。しかし、それによって昭和天皇の戦争責任問題が深められたわけでもなければ、天皇制が持つ問題が解決されたわけでもない。

 サイパン島やペリリュー島まで足を運んだ明仁天皇も、韓国を訪れることはできていない。近代日本のアジア侵略と植民地支配、戦争による加害の問題の中心にある天皇制に対し、被害を受けた側はその深さを忘れることはない。

 沖縄にとっても忘れてすまされるものではない。1879年に武力による威嚇のもと琉球国が滅ぼされ、日本国に併合された(いわゆる「琉球処分」)。それは日本の帝国主義的なアジア侵略の先駆けであったが、そういう被害の側面と同時に沖縄は、日本への同化が進むとともにアジア侵略の一翼を担った加害の側面を持つ。被害と加害の二重性を持つ独自の位置から、沖縄と天皇制、アジア諸国との関係を問い直す作業が常に必要だ。

 明仁天皇が来沖した3月27日は、「琉球処分」が行われた日だった。また、与那国島を訪問した28日は、陸上自衛隊沿岸監視隊が発足して2年の記念日だった。同日は慶良間諸島の渡嘉敷島で強制集団死(いわゆる「集団自決」)が起こった日でもあり、このような日程の組み方はただの偶然ではあり得ない。

 明仁・美智子夫妻が初めて先島地域を訪れたのは2004年の1月。その3カ月後、辺野古では海底ボーリング調査の工事が始まり、陸上と海上で激しい抗議行動が取り組まれた。この頃から自衛隊の南西方面重視や島嶼防衛の強化が言われ出す。

 明仁・美智子夫妻が最初に先島地域を訪れてからの14年間とは、辺野古新基地建設が強行されると同時に、先島地域への自衛隊配備が着々と実現されていった時期でもあった。沖縄戦の犠牲者に対する慰霊の裏で、中国に対抗するために沖縄のさらなる軍事要塞化が進められていたのだ。

 それは沖縄が今でも、日本=ヤマトゥの利益のために戦争の前面に立たされ、いざとなれば切り捨てられる「捨て石」の位置に置かれていることを意味する。>(目取真俊氏、2018年4月25日付琉球新報)

 明仁は再三沖縄を訪れながら、父・裕仁が天皇制維持(自らの保身)のため沖縄を「捨て石」にしたこと、さらに敗戦後もアメリカに沖縄を売り渡したこと(47年9月20日「沖縄メッセージ」)について、一言も謝罪していません。

 逆に明仁は誕生日会見などで裕仁賛美を繰り返してきました。明仁が再三沖縄を訪れたのは、父・裕仁の沖縄への加害責任、さらに戦争責任を隠ぺいし、天皇制の維持を図るためにほかなりません。

 それを自民党政権は、米軍基地・自衛隊基地の強化、日米軍事同盟強化に対する沖縄市民の反対を抑えるために政治利用してきたのです。目取真氏の指摘はまったくその通りであり、それは今日でも何も変わっていません。

 その「天皇訪沖」の本質をまったく捨象して天皇賛美に狂奔するメディアの劣化も、この問題に関心さえ示そうとしない「本土」日本人の思考停止も、何も変わっていません。

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沖縄戦と天皇裕仁―林博史氏の近著にみる

2025年05月14日 | 天皇・天皇制と沖縄
 

 自民党・西田昌司参院議員の暴言で、沖縄戦の歴史を正確に学ぶ重要性が改めてクローズアップされています。折しもそのための最良の著書が先月出版されました。
 長年、沖縄戦や米軍基地などの研究に携わり、沖縄県史編集委員も務めた林博史・関東学院大名誉教授の『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社新書、2025年4月発行)です。

 沖縄戦研究の集大成とも言えるものですが、この中からとくに、天皇裕仁と沖縄戦の関係をピックアップしてみましょう(数字は洋数字に変えています。改行は私)。

< 本土防衛の捨て石としての沖縄
 第32軍は米軍の上陸に対して水際で決戦を挑む考えで作戦計画をつくっていたが、44年11月台湾の防備強化のために第9師団を台湾に引き抜かれることになった。
 第32軍の要請を受けて大本営は1個師団の増派を検討したが、本土防衛準備を優先させるために1月下旬、大本営は増援を送らないと通告した。

 その背景を見ると、1945年1月20日、大本営が天皇に上奏して決定した「帝国陸海軍作戦計画大綱」がある。ここで作戦の目的は「皇土特に帝国本土の確保」とし、沖縄本島以南の南西諸島などは「皇土防衛の為(ため)縦深作戦遂行上の前縁」とされ、そこに敵が上陸してきた時は「極力敵の出血消耗を図り且(かつ)敵航空基盤造成を妨害す」ることとされた。

 つまり、沖縄は皇土=本土とは見なされず、本土防衛のための「前縁」とされ、本土防衛のために敵の損害を増やし時間稼ぎをすること、すなわち沖縄は本土防衛のための捨て石とされたのである。

 太平洋戦線において米軍の進攻によって日本軍が次々と敗退を余儀なくされていくなかで、天皇は「決戦」をおこなって米軍を叩くことを軍に要求するようになった。2月に天皇が元首相ら重臣7人を個別に呼び戦局について所信を聴取した際に、元首相の近衛文麿は上奏文を提出し、敗戦は「最早(もはや)必至」だとして「国体」すなわち天皇制を守るために「速やかに戦争終結の方途を講ずるべき」だと提言した。

 しかし天皇は、「もう一度戦果を挙げてから」と言って戦争継続の意思を示して近衛の上奏を斥(しりぞ)けた。天皇は、米軍に一撃を与えることによって国体護持=天皇制維持が保証されることを期待したのである。>

 米軍が最初に沖縄・慶良間列島に上陸したのが45年3月26日。その2カ月前の1月20日に天皇裕仁の裁可によって決定した「帝国陸海軍作戦計画大綱」ですでに沖縄を捨て石にすることを決めていたのです。

 それから1カ月後、天皇裕仁が近衛の上奏を聞き入れて敗戦を認めていれば、沖縄戦も大阪大空襲も東京大空襲も原爆投下もありませんでした。

 天皇裕仁が沖縄を捨て石にし、敗戦(終戦)を引き延ばした責任の大きさは計り知れません。それはすべて、「国体」=天皇制護持のためです。

 そして敗戦後も、裕仁は沖縄をアメリカに差し出して(「沖縄メッセージ」47年9月19日)自己保身と天皇制延命を図りました。

 西田氏が固執し、参政党の神谷宗幣代表が西田氏に同調(10日の青森での街頭演説)しているのは、こうした天皇裕仁をめぐる沖縄戦・15年戦争の歴史の打ち消し・改ざんにほかなりません。


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西田議員は確信犯、問題発言の核心は何か

2025年05月10日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 自民党の西田昌司参院議員(京都選挙区)は9日記者会見し、「丁寧な説明なしにひめゆりの塔の名前を出して講演したこと自体、非常に不適切だった」「私が発言したところは訂正削除したい。本当に申し訳ない」(NHKニュース)と述べました。

 NHKは9日夜のニュースで、「西田議員が発言を謝罪・撤回」と報じました。この報道は誤りです。なぜなら、西田氏はこの会見でこうも述べているからです。

「(西田氏は)一方で「自分の言っていることは事実だという前提でいまも話している。問題は、事実(かどうか)ではなく、県民の感情を分かっていなかったことだ」とも主張。講演の中で「沖縄の場合には、地上戦の解釈を含めて、かなりむちゃくちゃな教育のされ方をしている」などと発言したことについては、「(謝罪・撤回は)しません」と述べた」(9日付朝日新聞デジタル)

 西田氏が「申し訳ない」と言っているのは「県民の感情を分かっていなかった」ということについてだけです。それも問題が大きくなってきたから口にしただけで、心からの謝罪でないことは明らかです。

 この日の会見でも西田氏は、「自分の言っていることは事実」だと繰り返し、「(謝罪・撤回は)しない」と断言しました。これを「発言を謝罪・撤回」と報じたNHKの報道には、自民党に打撃になるこの問題を早く収束させたいという政治的思惑が透けて見えます。

 西田氏は歴史改ざんの確信犯です。発端の3日の講演でも「自分たちが納得できる歴史を作らないと、日本は独立できない」と言っています。
 西田氏は「問題は、事実(かどうか)ではない」と開き直っていますが、発言が「事実かどうか」こそまさに最大の問題です。

 では西田発言(3日の那覇市でのシンポ)は何が問題だったのか、改めて確認しましょう。発言の問題部分は次の個所です(各紙の「西田氏発言要旨」から)。

「ひめゆりの塔ですがね、何十年か前にお参りに行ったことがあるんですけれど、ひどいですね。説明のしぶりを見ていると、要するに日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆりの隊が死ぬことになっちゃった。そしてアメリカが入ってきて、沖縄は解放されたと。そういう文脈で書いているじゃないですか。歴史を書き換えられるとこういうことになっちゃうわけですね。…沖縄の場合には地上戦の解釈を含めて、かなりむちゃくちゃな教育のされかたをしてますよね」

 大きく言って問題は2つあります。

 1つは、「ひめゆりの塔(の展示)が(沖縄戦の)歴史を書き換え(ている)」とする「ひめゆりの塔」への非難・中傷です(これをとします)。
 もう1つは、その「書き換えられた」歴史とは、「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになった」という「地上戦の解釈」です(これをBとします)。

 沖縄タイムスの第1報(4日付)が主に問題にし、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長らが事実無根と反論し、琉球新報、沖縄タイムスの社説(8日)が主に批判しているのはです。が問題であることは言うまでもありません。西田氏は9日の会見でこのも「撤回」していません。

 さらに問題なのはBです。
 1944年から日本軍が沖縄に「どんどん入ってきて」、それによって「ひめゆり隊」はじめ沖縄の住民4人に1人が「死ぬことになった」のは歴史の事実です。西田氏はこの事実を否定(改ざん)したいのです。

 なぜ日本軍が大量に沖縄に入り、大勢の犠牲者を出したのか。それは天皇裕仁を頂点とする大本営が、「国体」=天皇制護持のため、沖縄を「捨て石」にしたからです。さらに皇民化教育・政策によって沖縄住民を様々な形で戦争に巻き込んだからです。沖縄は天皇制維持の犠牲になったのです。

 さらに、「軍隊は住民を守らない」、それどころか住民を殺すという軍隊の特性もあります。自衛隊の拡大強化が進行している沖縄で、この事実はきわめて重要です。

 これが沖縄戦の真相です。その歴史を打ち消そうとしていることが西田発言の核心です。

 Aの批判だけでは不十分です。B の問題すなわち沖縄戦とは天皇(制)延命のために沖縄が「捨て石」になった地上戦だったという歴史の真実をあらためて確認・強調する必要があります。

 それができるかどうか。メディア、「識者」は問われています。西田暴言はその反面教師です。この沖縄戦の真相を打ち消そうとして、6月4日には天皇・皇后がまた沖縄にやってきます。

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「対馬丸記念館」と天皇の危うい関係

2024年08月23日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 1944年8月22日、「国策」による疎開で、沖縄の学童、教員ら1788人を乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷で撃沈され、名前が判明しているだけで1484人(うち学童は784人)が犠牲になりました。対馬丸事件です。

 那覇市若狭には対馬丸記念館があります。事件の概要を知り、犠牲者を追悼する重要な記念館です。が、同館には天皇との浅からぬ関係があります。

 記念館が設立・開館したのは2004年8月22日。それには次のようないきさつがありました。

 1997年12月12日、対馬丸が悪石島沖水深870㍍の海底で発見された、という一報が、橋本龍太郎首相(当時)に届けられました。

「首相は直ちに皇居に向かった。上皇さま(当時は天皇陛下)が犠牲になった学童らと同世代で疎開経験もあり、思い入れが深いと知っていたためだ。…船体の発見を陛下は大変喜ばれ、歌にされた」(16日付沖縄タイムス=共同、表記はママ)
 その歌とは「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見いだされけり」。

 対馬丸を引き揚げるかどうか検討されました。その背景には天皇明仁の「思い入れ」があったと推測されます。結果、「政府は引き揚げは不可能と判断。代わりに対馬丸記念館が那覇市に建設され、2004年に開館した」(20日付京都新聞夕刊=共同)のです。

 2005年4月、橋本龍太郎氏は対馬丸記念館を訪れ、天皇明仁の歌のいきさつを話しました。そのことが「対馬丸通信」(第8号=05年8月22日発行)に大きく掲載されています(写真左)。
 同通信には、開館1周年を記念した企画展で、天皇の歌が大きな額縁に入れて記念館に贈られたことも写真付きで紹介されています。

 今年5月に同館を訪れたとき、入口正面に明仁天皇・美智子皇后の写真が飾ってあったことを書きましたが(5月16日のブログ参照)、同記念館(対馬丸記念会・遺族会)と天皇の強い親和性がうかがえます。

 明仁天皇と皇后は2014年6月27日、初めて同館を訪れました(写真中)。
 天皇・皇后は15人の生存者・遺族と「懇談」し言葉をかけるとともに、近くの対馬丸慰霊塔「小桜の塔」に向かいました。

 ところが、同じく米軍に撃破された民間船舶を慰霊する「海鳴りの像」(写真右)には行きませんでした。戦時遭難船遺族会が事前に宮内庁にぜひ天皇に訪れてほしいと要請していたにもかかわらず。「海鳴りの像」は記念館のすぐ裏にあり、「小桜の塔」よりはるかに近いにもかかわらずです(2014年6月28日のブログ参照)。なぜなのか。

「1962年から対馬丸事件の遺族に対し見舞い金の支給などがあった。しかし、対馬丸以外の撃沈船舶の犠牲者遺族への補償は十分とはいえず、中には補償を受けていない遺族がいる現状があり、軍人軍属の戦没者等と比較するとその扱いに大きな差がある」(吉浜忍、林博史、吉川由紀編『沖縄戦を知る事典』吉川弘文館2019年)

 対馬丸記念館には国家予算からの助成があります。同館は開館のいきさつ以来、天皇(明仁)の「思い入れ」がありました。他の民間撃沈船舶の犠牲者とは扱いに差がある、いわば“靖国化”された側面があるといえるのではないでしょうか。

 14年に天皇・皇后が訪れた際、生存者らとの「懇談」が演出された中、これに出席することを拒否した生存者がいました。昨年7月に亡くなった平良啓子さんです。「戦前の教育(皇民化教育)を考えると、足が向かない」。それが平良さんが天皇・皇后との「懇談」に応じなかった理由でした。

 今年4月、同館の館長に平良次子さんが就任しました。平良啓子さんの次女です。平良館長はこう述べています。

「対馬丸だけでなく、他にもたくさんの船舶が遭難して多くの命が失われ、遺族もたくさんいる。疎開や他の戦時遭難船舶についても、この記念館で調査して発信する場所にしていきたい」「80年前の疎開と同じことが繰り返されようとしていることが悲しい。私たちは今の動きに敏感にならないといけない。戦争に対する一切の準備をするな、と強く言いたい」(22日付沖縄タイムス)

 平良館長の下で、同記念館が大きく脱皮し、沖縄戦および敗戦後の沖縄軍事植民地化と天皇(制)の関係(「天皇メッセージ」を含め)についても展示され学習できる場になることを期待します。

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対馬丸記念館から撤去された「天皇・皇后の写真」

2024年05月16日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 15日、約10年ぶりに対馬丸記念館(那覇市若狭、写真左)を訪れました。沖縄戦直前、国策で九州に疎開させられた学童らを乗せた対馬丸は、1944年8月22日、米軍潜水艦の魚雷によって撃沈、約1500人が犠牲になりました(対馬丸記念館自体の問題については今回は言及しません。2013年2月20日、21日のブログをご参照ください)。

 入口を入ってすぐ、驚きました。いきなり明仁天皇・美智子皇后(当時、現上皇・上皇后)の額縁入り写真(写真中)が目に飛び込んできたからです。

 明仁天皇らは10年前の2014年6月27日に初めて対馬丸記念館を訪れました。その時の写真です。この訪問自体、たいへん問題のあるものでした(14年6月28日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/m/201406)。

 しかし、問題があるなしにかかわらず、対馬丸記念館の入口正面のテーブルに「天皇・皇后の来館記念写真」を置くこと自体がきわめて重大な問題です。
展示の最後に「感想文」を書くコーナーがあるので、住所・氏名・電話番号を明記の上、大要次のような「感想」を書きました。

「入口正面に天皇・皇后の写真が置いてあるのは極めて問題です。なぜなら、沖縄戦は天皇裕仁が国体(天皇制)を維持するために沖縄を「捨て石」にしたものです。その裕仁の息子である天皇の来館を称えて写真を飾るとは。もっと天皇制に対して厳しい視点を持っていただきたい。写真は撤去すべきです」

 記念館を出て30分ほどたった時、記念館から電話がありました。掛けてこられたのは平良次子館長でした。大要次のように言われました。

「あの写真についてはスタッフの間でも意見があり、検討していたところでした。ちょうどその時に感想文をいただきました。検討の結果、写真は撤去することにしました」

 なんというタイミングでしょう。わざわざそれを電話でお知らせいただいた平良館長に感謝です。

 他のスタッフの話では、平良館長は最近就任されたとか。そして、対馬丸の生存者で語り部として尽力され昨年7月に亡くなられた平良啓子さんの娘さんだそうです。

 なるほど納得です。なぜなら、平良啓子さんは、10年前の天皇・皇后来館の際(写真右)、政府がおぜん立てした「天皇・皇后と生存者の面談」に対し、「戦前の教育(皇民化教育)を考えると、足が向かない」として面談に応じなかった貴重な信念の人だったからです。

 写真の撤去は小さなエピソードかもしれませんが、その意味は決して小さくありません。もちろん自分の「感想文」が取り上げられたからではありません。

 対馬丸記念館に限らず、そして沖縄に限らず、「戦争・平和」に関する記念館・資料館には問題がある場合が少なくありません。

 中でも最大の問題は、天皇裕仁の戦争責任、それを棚上げして今日まで継続している天皇制についての視点・批判がきわめて脆弱・不十分だということです。ひとことで言えば、「天皇制タブー」が戦争・平和関連の記念館・資料館に、さらには平和・民主勢力の中にも濃厚に存在しているということです。

 平良館長の英断は、そんな現状を打ち破る貴重な一石です。平良館長と今後の対馬丸記念館に期待し、応援したいと思います。

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問題多い琉球新報の「沖縄と天皇」記事

2023年11月29日 | 天皇・天皇制と沖縄
   

 琉球新報は27日付2面トップの大型コラムで、「沖縄と天皇」と題し、ケネス・ルオフ米ポートランド州立大教授(日本近現代史)へのインタビューをもとにした記事を掲載しました。その内容はきわめて問題の多いものです。主な問題点を挙げます。

①天皇裕仁(昭和天皇)の戦争責任

 ルオフ氏は沖縄には「昭和天皇に戦争責任があると言う人が特に多い」とし、「もっと早く戦争を終わらせることができたら被害を減らすことができたという考え方からだろう」と述べています。

 裕仁が戦争を早く終わらせようとしたけれどできなかったかのように読めますが、大変な誤りです。自身の護身と天皇制(国体)護持のために戦争を長引かせ、沖縄(琉球)を「捨て石」にしたのは裕仁自身です。「近衛上奏」(1945年2月14日)の拒絶1つとっても明白です。そもそもアジア・太平洋戦争の「開戦詔書」を書いたのは裕仁であり、その責任から問わなければなりません。

②「天皇メッセージ」

 裕仁がアメリカに琉球諸島の軍事占領を長期に続けるよう望んでいると表明した「天皇メッセージ」(1947年9月20日)。ルオフ氏は「恐らく昭和天皇は…日本の潜在主権を守ろうとしたのだろう」と述べています。

 たしかに表面的にはそういう側面もあります。しかし、「メッセージ」の本質は、「昭和天皇にあっては、沖縄の主権の問題や「沖縄の安全」よりも、日本本土の防衛に主眼があったと見るべきで…沖縄を「日本の保護」の手段とみなす昭和天皇の基本的な考え方」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)の表明、それが「天皇メッセージ」です。

③「男系天皇」

 天皇制の「男系男子の万世一系」についてルオフ氏は、「男女平等が世界標準になった今、男系天皇を守ることは世界的に日本のイメージを悪くする。もし男系天皇を守るとしたら、国際社会にどう説明するか」と指摘しています。

 天皇制が男女平等に反している「世界標準」以下の制度であるという指摘は正当です。しかし、それは「日本のイメージを悪くする」から問題なのではなく、女性差別が基本的人権の重大な侵害だから容認できないのです。天皇制は人権侵害の制度であると指摘しなければなりません。

④現上皇明仁が果たし、徳仁天皇が引き継ごうとしている役割

 最も問題なのがこの点です。ルオフ氏はこう言います。「沖縄は本土から離れていて日本の共同体の一員との意識が希薄な面もある。上皇さまは沖縄と本土の距離が離れないように国を統合する役割を努めていた。天皇陛下も上皇さまから沖縄のことをいろいろ学んでいるはずだ」

 まさに「本土」の国家権力側からの見方です。これを沖縄・琉球民族の側から言えばこうなるでしょう。明仁は天皇時代、父親である裕仁の戦争・戦後責任を隠蔽するのに腐心した。とりわけ批判の強い沖縄で「天皇制反対、琉球民族独立」の声が高まらないように、何度も沖縄に足を運び、琉球は日本だ、琉球人は「日本国民」だという意識を植え付けるよう努めた。息子の徳仁にもそれを引き継がせた―。

 沖縄のメディアであれば、どちらの立場に立つべきか明りょうでしょう。しかし琉球新報は、上記のように問題の多いルオフ氏のインタビューを無批判に掲載しました。そればかりか、記者の地の文で「上皇さま」など絶対敬語を多用し、「ご夫妻は沖縄戦の遺族と交流し、心を寄せ続けた」などと明仁夫妻を賛美しています。

 こうした天皇(制)への拝跪は、もちろん琉球新報だけではありません。日本のメディア全体の宿痾です。が、とりわけ琉球新報、沖縄タイムスには、明治以降の天皇制の歴史に立脚した記事・論評を望みます。

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沖縄における天皇観の「変化」と戦後「同化教育」

2022年10月24日 | 天皇・天皇制と沖縄
  

 今回の徳仁天皇訪沖に際し、沖縄県民の天皇(制)観の「変化」が強調されました。
 「本土」のメディアには、「上皇ご夫妻の長年の努力もあって、沖縄の人たちの皇室への感情はかなり好転した」(河西秀哉・名古屋大准教授、23日付朝日新聞デジタル)という明仁天皇・美智子皇后(当時)美化があふれています。

 「本土」だけでなく沖縄のメディアも、「平成の時代を経て、県民の皇室イメージは大きく変化した」(21日付琉球新報)と報じています。NHKの「沖縄県民世論調査」では、「天皇は尊敬すべき存在か」との問いに「そう思う」と答えた県民は、2002年が30%だったのに対し、12年は51%に大幅増加したというデータもあります。

 世論調査の数字が額面通り受け止められないことは、天皇観に限ったことではありませんが、県民の天皇(制)への批判が減少していることは確かでしょう。その内容・要因はさらに調査・研究される必要があります。

 河西氏や琉球新報が強調するように、明仁天皇の「平成」時代が画期となったことも事実でしょう。それは「周辺の民」としての沖縄県民を「国民的統合」に包摂しようとする自民党政権と明仁天皇、それを後押しするメディアの合作によるものです(22日のブログ参照)。

 さらに、見過ごせないのは、沖縄の戦後教育とそれを担った教職員の問題です。

 沖縄タイムスは12日から、ジャーナリストの新川明氏(沖縄タイムス元編集局長・社長・会長)による連載「「復帰=再併合」50年 同化幻想の超克」を掲載しています(随時)。

 その中で新川氏は、屋良朝苗氏(のちの初代公選知事=写真右)が会長として率いた沖縄教職員会(1952年4月結成、のち沖縄教職員組合)について、こう書いています。

「同会は、屋良会長の強力なリーダーシップのもと、「日の丸掲揚」運動「日の丸購入」運動を展開、脱琉球=日本人化の機運を教育現場で琉球全域に広げる活動に専念、60年の「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)結成を主導して「復帰」運動の中核組織となる」(13日付沖縄タイムス)

 さらに新川氏は、「戦後沖縄における同化教育を先導したのは、台湾、朝鮮などかつての日本植民地から引き揚げてきた教師であった」とするアーキビスト・久部良和子氏の論稿(3月23日付琉球新報)から、次の部分を引用しています。

彼らは植民地で現地の人々に日本人教育(皇民化教育)を行ってきた指導者である。(略)植民地政策への反省もなく、今度は戦後沖縄の「日本人教育」を担っていくことになった

 私は、屋良氏をはじめ沖縄の教師たちは、戦後の「民主教育」を担ってきたと思っていたので、驚きでした。

 新川氏や久部良氏の指摘によれば、戦後沖縄で新たな「皇民化教育」ともいえる「同化教育」が、台湾・朝鮮で「皇民化教育」を推進してきた教師たちによって、「植民地政策への反省なく」行われてきたことになります。

 これはきわめて重大な問題です。沖縄で天皇(制)観が大きく変化したとすれば、自民党政権、天皇明仁、メディアの3者の合作に加え、そのベースに戦後沖縄の教師たちによる「同化教育」があったことになります。

 新川氏は「沖縄の同化教育における屋良朝苗研究の深化が望まれる」と指摘していますが、「屋良研究」に限らず、沖縄戦後教育の検証が必要です。それは日本の植民地支配の責任追究にとっても重要な問題です。



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