アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄における天皇観の「変化」と戦後「同化教育」

2022年10月24日 | 沖縄と天皇
  

 今回の徳仁天皇訪沖に際し、沖縄県民の天皇(制)観の「変化」が強調されました。
 「本土」のメディアには、「上皇ご夫妻の長年の努力もあって、沖縄の人たちの皇室への感情はかなり好転した」(河西秀哉・名古屋大准教授、23日付朝日新聞デジタル)という明仁天皇・美智子皇后(当時)美化があふれています。

 「本土」だけでなく沖縄のメディアも、「平成の時代を経て、県民の皇室イメージは大きく変化した」(21日付琉球新報)と報じています。NHKの「沖縄県民世論調査」では、「天皇は尊敬すべき存在か」との問いに「そう思う」と答えた県民は、2002年が30%だったのに対し、12年は51%に大幅増加したというデータもあります。

 世論調査の数字が額面通り受け止められないことは、天皇観に限ったことではありませんが、県民の天皇(制)への批判が減少していることは確かでしょう。その内容・要因はさらに調査・研究される必要があります。

 河西氏や琉球新報が強調するように、明仁天皇の「平成」時代が画期となったことも事実でしょう。それは「周辺の民」としての沖縄県民を「国民的統合」に包摂しようとする自民党政権と明仁天皇、それを後押しするメディアの合作によるものです(22日のブログ参照)。

 さらに、見過ごせないのは、沖縄の戦後教育とそれを担った教職員の問題です。

 沖縄タイムスは12日から、ジャーナリストの新川明氏(沖縄タイムス元編集局長・社長・会長)による連載「「復帰=再併合」50年 同化幻想の超克」を掲載しています(随時)。

 その中で新川氏は、屋良朝苗氏(のちの初代公選知事=写真右)が会長として率いた沖縄教職員会(1952年4月結成、のち沖縄教職員組合)について、こう書いています。

「同会は、屋良会長の強力なリーダーシップのもと、「日の丸掲揚」運動「日の丸購入」運動を展開、脱琉球=日本人化の機運を教育現場で琉球全域に広げる活動に専念、60年の「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)結成を主導して「復帰」運動の中核組織となる」(13日付沖縄タイムス)

 さらに新川氏は、「戦後沖縄における同化教育を先導したのは、台湾、朝鮮などかつての日本植民地から引き揚げてきた教師であった」とするアーキビスト・久部良和子氏の論稿(3月23日付琉球新報)から、次の部分を引用しています。

彼らは植民地で現地の人々に日本人教育(皇民化教育)を行ってきた指導者である。(略)植民地政策への反省もなく、今度は戦後沖縄の「日本人教育」を担っていくことになった

 私は、屋良氏をはじめ沖縄の教師たちは、戦後の「民主教育」を担ってきたと思っていたので、驚きでした。

 新川氏や久部良氏の指摘によれば、戦後沖縄で新たな「皇民化教育」ともいえる「同化教育」が、台湾・朝鮮で「皇民化教育」を推進してきた教師たちによって、「植民地政策への反省なく」行われてきたことになります。

 これはきわめて重大な問題です。沖縄で天皇(制)観が大きく変化したとすれば、自民党政権、天皇明仁、メディアの3者の合作に加え、そのベースに戦後沖縄の教師たちによる「同化教育」があったことになります。

 新川氏は「沖縄の同化教育における屋良朝苗研究の深化が望まれる」と指摘していますが、「屋良研究」に限らず、沖縄戦後教育の検証が必要です。それは日本の植民地支配の責任追究にとっても重要な問題です。



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ミサイル基地化すすむ中の徳仁天皇沖縄訪問

2022年10月22日 | 沖縄と天皇
   

 天皇徳仁はきょう22日、即位後初めて沖縄を訪れます。玉城デニー知事は早々に、「県民にとって大きな喜びになる。…心からお待ちしている」とのコメントを発表しました(9月30日付琉球新報)。天皇の沖縄訪問ははたして県民にとっての「喜び」でしょうか。
 
 天皇として沖縄に一度も足を踏み入れることができなかった裕仁に代わって、息子の明仁は皇太子時代から2019年の退位まで11回にわたって沖縄を訪問。裕仁の戦争責任、沖縄を基地の島としてアメリカに売り渡した「天皇メッセージ」((1947年9月)の事実を隠ぺいし、天皇(制)に対するイメージを変えることに懸命でした。

 その明仁天皇(当時)が最後に沖縄を訪れたのは2018年3月27日。日本の最西端・与那国島に初めて行きました(3月28日、写真中)。

 当時、安倍晋三政権はすでに「島しょ防衛」の名の下に、アメリカの対中国戦略に基づいて沖縄を前線基地化する構想を着々とすすめていました。
 その一環として、安倍政権・防衛省は、全国5つの陸自方面隊を一元的に指揮・監督する「陸上総隊」を新たに創設。同時に、「日本版海兵隊」といわれる「水陸機動団」を発足させました。それがまさに明仁天皇が沖縄を訪れた3月27日だったのです。

 天皇の行動(「公的行為」)計画を決めるのは言うまでもなく時の政権です。明仁の「与那国訪問」が安倍政権の「島しょ防衛」=沖縄前線基地化の戦略に沿ったものであったことは明白です。

 「象徴天皇制」の研究者・瀬畑源龍谷大准教授は、明仁の皇太子時代からの度重なる沖縄訪問の意味をこう指摘しています。

米軍基地問題など、「本土」に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、「国民」として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを「日本国民」として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも「国民国家」の枠内に「国民」を統合する点が徹底されている」(瀬畑源「明仁天皇論」、『平成の天皇制とは何か』岩波書店2017年所収)

 天皇徳仁は即位以来、一貫して「上皇陛下(明仁)のこれまでの歩みに深く思いを致し…象徴としての責務を果たす」(2020年2月21日の記者会見)と明仁に倣うことを表明しています。

 徳仁天皇が今年5月15日の「沖縄復帰50周年記念式典」(写真左)のビデオメッセージで「命どぅ宝」の言葉を引用したことについて、「平成の天皇の路線を継承したいという志の表れ」(我部政明氏、21日付琉球新報)と高く評価する論調がありますが、それは「周縁」としての沖縄を「国民国家の枠内に統合」しようとする明仁路線の踏襲に他なりません。

 明仁の与那国訪問から4年。
 安倍政権とそれを踏襲した菅義偉政権、そして岸田文雄政権は、辺野古新基地建設を引き続き強行すると同時に、与那国、石垣、宮古などの自衛隊ミサイル基地化を急ピッチで進めています。
 米軍と自衛隊の一体化、自衛隊の太平洋方面への進出も急速に拡大しています。来月10日からは対中国を想定したかつてない規模と内容の日米実動共同軍事演習が行われます(21日のNHKニュース)。

 まさにこのタイミングで行われる徳仁天皇の「即位後初の沖縄訪問」が、こうした自民党政権の対米従属軍事戦略と一体不可分であることは明らかです。

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「沖縄復帰50年式典」に天皇が出席した特別な意味

2022年05月16日 | 沖縄と天皇
   

 15日の政府・県共催「沖縄復帰50年記念式典」に徳仁天皇と雅子皇后がオンラインで出席しました。これには天皇の一般的な儀式出席とは異なる特別な意味があります。

 全員起立した「君が代」で始まった式典で、徳仁天皇は、「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄」「その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致し」などと述べる一方、50年前の「本土への復帰」は「日米両国の友好と信頼」に基づくものだと述べました。

 住民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦は、徳仁天皇の祖父・裕仁が「本土防衛」の時間稼ぎのために沖縄を「捨て石」にした結果であり、「その後の苦難」の元凶である米軍占領・軍事植民地化も、天皇裕仁の「沖縄メッセージ」(1947年9月)がもたらしたものです。

 徳仁天皇のあいさつは、そうした天皇裕仁の沖縄に対する加害性・犯罪性を隠ぺいするとともに、講和条約・日米安保条約(軍事同盟)の対米従属的本質を歪曲するきわめて政治的な発言と言わねばなりません。

 それだけではありません。天皇の「復帰式典」出席には特別な意味があります。それは50年前の「復帰」と天皇制の関係にさかのぼります。

 天皇裕仁は「沖縄メッセージ」で、沖縄を軍事基地としてアメリカに差し出すとともに、主権を日本に残す「信託統治制度」を提案しました。裕仁はなぜ主権を日本に残すことにこだわったのか。

 豊下楢彦・元関西学院大教授はこう指摘します。
「仮に沖縄が日本から完全に切り離されるならば、沖縄の米軍と日本本土(裕仁における「日本本土」とは、「皇大神宮の鎮座する神州」<1944年7月26日の『昭和天皇実録』>―私)の防衛との関係性が薄まる恐れがある以上、形だけでも日本の主権が残されることが必須の課題なのである」(『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)。

 豊下氏は、それは評論家・仲里効氏が言う「排除的包摂」、すなわち「排除しつつ包摂すること」にほかならないと言います。そしてこう続けます。

「逆に、1972年の沖縄の「本土復帰」は、それまでの排除しながら繋ぎ止める「排除的包摂」に代わり、繋ぎ止めながら排除する「包摂的排除」への移行に他ならない。つまりは、つとに指摘される「沖縄差別」という問題である」(前掲書)

 50年前に天皇裕仁が正面に座って行われた「復帰式典」(写真中)は、「繋ぎ止めながら排除する」=「包摂的排除」の儀式でした。

 そして50年後の「式典」も、沖縄戦に起因する経済的・社会的困難を放置し続けながら、日米軍事同盟をさらに強化し、高江へリポートや辺野古新基地建設強行に加え、沖縄諸島をミサイル基地化する自衛隊増強という新たな「包摂的排除」、新たな「沖縄差別」を図る政治的意図のもとで強行されたのです。

 天皇はまさに「包摂的排除」の「象徴」であり、だからこそ日本政府(国家権力)にとって天皇の「式典」出席は不可欠だったのです。

 それは、安倍晋三首相(当時)が2013年の「4・28」(講和条約発効、沖縄の屈辱の日)の政府主催式典に明仁天皇(当時)を出席させ、「天皇陛下、万歳」と叫んだ(写真右)ことと同じ政治的意味を持つものです。

 天皇裕仁が「沖縄メッセージ」でおこなった「排除的包摂」は、「復帰」によって「包摂的排除」に転化し、子の明仁、孫の徳仁がその象徴となって継承されています。ここに沖縄差別と天皇制の連続的関係性が端的に表れています。

 蛇足ですが、その天皇に対し、「式典」で玉城デニー知事が、「ご健勝と皇室の弥栄(いやさか)」を祈ると、岸田文雄首相も山東昭子参院議長も言わなかったことを口にしたのには、唖然としました。

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米軍沖縄支配の不法性と「天皇メッセージ」

2022年05月13日 | 沖縄と天皇
   

 「沖縄「復帰」ゼロ年」を特集した月刊誌「世界」(5月号)に、「沖縄返還交渉の歴史的陥穽 講和条約三条をめぐって」と題した豊下楢彦・元関西学院大教授の興味深い論稿があります。

 豊下氏は、「そもそも米軍には沖縄を支配(敗戦~1972年5月15日―私)する国際法上の根拠があったのか、という根本的な問いへの本格的な検証が不十分と言わざるを得ない」として、要旨、以下のように指摘しています(丸カッコ、太字は私)。

 対日講和条約(1951年9月8日調印=写真中、52年4月28日発効)第三条は、「米国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおくとする提案を国連に行い可決されるまで、米国は沖縄住民に対して全権を行使できる」と規定した。

 「信託統治制度の提案」は、米軍による沖縄の排他的軍事支配という要求を満たしつつ、「領土不拡大原則」の建前を繕う巧妙なレトリックであった。
米国は1953年にダレス国務長官が、「極東に脅威と緊張の状態が存在する限り」沖縄の全権を行使すると声明を出している(そもそも「信託統治」を国連に提案するつもりなど全くなかった)。

 第三条の本質的な問題性は、1956年に日本が国連に加盟したことでさらに鮮明になった。なぜなら国連憲章78条は、「国連加盟国では主権平等の原則から信託統治制度は適用しない」と規定しているからだ(少なくともこの時点で第三条による米国の沖縄統治の法的根拠は消滅した)。

 さらに1960年12月、国連総会は「植民地と人民に独立を付与する宣言」を採択した。この宣言は講和条約三条の前提を切り崩すものであった。なぜなら、米国にとって「琉球におけるアメリカの立場を『植民地主義』とする攻撃」(米国務省日本課長)が危惧されることになったからだ。

(こうしてあらゆる点において講和条約第三条の矛盾・問題は明らかになり、国会でも追及された。ところが…)

 佐藤栄作政権は1965年9月7日、「沖縄の法的地位に関する政府統一見解」を出し、「米国が、信託統治の提案を行わないことをもって、同条(講和条約第三条)違反であるとか、米国による施政権行使の根拠が失われたとかいうことはできない」「沖縄問題は、本来国連に付託すべき日米間の紛争という性格のものではなく、日米友好関係を背景とする日米間の相互信頼に基づき解決を図るべき問題である」とした。
 これによって佐藤政権は、施政権返還を求める法的根拠を欠き、交渉にあたっての重要なカードを自ら放棄する致命的な誤りを犯した(写真左は「復帰式典」の佐藤栄作、その右に見えるのが天皇裕仁)。

 その結果、「返還」にあたって本来なら沖縄住民に賠償が支払われるべきところ、逆に「財政密約」で巨額の税金が米側に投じられ、「核密約」が押し付けられたのである。

 以上の豊下氏の論稿は、講和条約第三条(「信託統治提案」のレトリック)のそもそもの問題性、「返還交渉」における対米従属の実態を明らかにした注目すべきものです。

 しかし、この優れた論稿にも「画竜点睛を欠く」と言わざるを得ないものがあります。それは、問題の元凶である「信託統治提案」のレトリックは、そもそも天皇裕仁の「沖縄メッセージ」(1947年9月19日、宮内府の寺崎英成が連合国最高司令部のシーボルトに、「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望する」などと伝達)から生まれたものだということです。豊下氏自身が、こう指摘していました。

「天皇のメッセージは、米国に沖縄の長期にわたる軍事占領を保証し、「日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべき」と提言…「沖縄メッセージ」から4年を経た1951年9月に調印された講和条約の第三条は…信託統治の用語が用いられているが、右の「沖縄メッセージ」が米国に送られた1947年当時は米国内では戦略的信託統治(普通の信託統治と違って国連の査察を拒否できる制度だが実現性の乏しいものだった―私)が議論されており、天皇のメッセージはその「代案」として検討されたのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 天皇裕仁が「沖縄メッセージ」で米軍の沖縄占領を希望・進言したことは周知の事実です。同時に裕仁の「メッセージ」は、米軍支配の不法性、「返還」時の「密約」の元にもなった講和条約第三条・「信託制度」レトリックの呼び水にもなったのです。


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沖縄に対する天皇裕仁の加害責任隠ぺいする徳仁天皇の誕生日会見

2022年02月24日 | 沖縄と天皇

    
 徳仁天皇は21日、「誕生日に際しての記者会見」を行いました(メディア解禁は23日)。この中で、今年が「沖縄本土復帰」から50年になることから「沖縄の歴史や人々への思い」について質問され、こう答えました。

先の大戦で,悲惨な地上戦の舞台となり,その後,27年間も日本国の施政下から外れた沖縄は,人々の強い願いの下,50年前日本への復帰を果たしました。この間,今日に至るまで,沖縄の人々は本当に多くの苦難を乗り越えてきたものと思いますし,このことを決して忘れてはならないと思います。本土復帰から50年の節目となる今年,私自身も,今まで沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し,沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたいと思います」(宮内庁HPより)

 この発言は、沖縄戦とそれ以降の沖縄の苦難の歴史に対する天皇制、とりわけ天皇裕仁(昭和天皇、写真右)の責任、加害責任を隠ぺいし、逆に天皇が沖縄に「心を寄せて」いるかのように描くもので、きわめて重大な問題をはらんでいます。

 第1に、沖縄を「悲惨な地上戦の舞台」にしたのは、徳仁天皇の祖父・裕仁にほかなりません。

 誰の目にも日本の敗戦は明白だった1945年2月14日、近衛文麿(元首相)は、裕仁に直ちに戦争を終結することを進言しました(いわゆる「近衛上奏」)。しかし、裕仁はこれを一蹴したのです。

「上奏文のなかで近衛は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し…ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)

 遅ればせながら裕仁が「近衛上奏」を聞き入れていれば、沖縄戦(4月1日米軍上陸)も広島(8月6日)長崎(同9日)への原爆投下もなかったのです。

 第2に、敗戦後、沖縄がアメリカの施政権下に置かれ、日本国憲法の適用から外されたのは、天皇裕仁がそれを望む「メッセージ」をマッカーサーに送ったからです(1947年9月19日の「天皇メッセージ」)。

 裕仁が側近・寺崎英成を通じて送った「メッセージ」の内容は、「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである」(1947年9月19日付『昭和天皇実録』)だったのです。

 第3に、徳仁天皇は沖縄の「今日に至る多くの苦悩」の内容にあえて触れていませんが、それが日米安保条約による沖縄へ米軍基地の集中であることは明白です。その日米安保条約締結においても、裕仁は、天皇の政治関与を禁じている憲法を破って、米側に直接働きかけ、実現させました。

「昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな「国体」となった。つまりは、「安保国体」の成立である。
 だからこそ昭和天皇は、(サンフランシスコ)講和条約と安保条約が調印されてから10日を経た1951年9月18日…「有史以来未だ嘗(かつ)て見たことのない公正寛大な条約」として講和条約を高く評価するとともに、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」…と安保条約の成立を絶賛したのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 天皇裕仁の言動は、戦中から敗戦後まで一貫して、天皇制(「国体」)の維持と自身の延命(戦争責任追及の回避と在位の継続)を図ることに徹していました。そのための「捨て石」となったのが沖縄にほかなりません。

 こうした歴史を一切捨象して裕仁の加害責任を隠ぺいし、明仁天皇(現上皇)や自身が沖縄に「心を寄せて」きたと強弁する徳仁天皇の会見は、「復帰50年の節目」に、改めて沖縄と天皇の歴史を改ざんし、天皇制と日米安保体制の維持を図ろうとするものと言わねばなりません。


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沖縄戦と朝鮮人軍夫と「慰安婦」

2021年06月28日 | 沖縄と天皇

    
 「沖縄慰霊の日」の3日前の6月20日、琉球新報社会面に、「強制連行 歴史へ思い 読谷・恨之碑、朝鮮人を追悼」という見出しの記事が載りました。

「沖縄戦で日本軍が朝鮮半島から強制連行した軍夫や慰安婦らを慰霊する読谷村瀬名波の「恨之碑」で19日、NPO法人沖縄恨之碑の会が追悼会を開いた。碑は2006年に建てられ追悼会は15回目。参加者は歴史を学び、平和を求める気持ちを新たにした」

 「恨之碑」(写真中)の作者は沖縄在住の彫刻家・金城実さん(82)。碑は日本軍に虐待される朝鮮人軍夫とその母親を描いています。軍夫とは武器も十分な食料も与えられないで日本軍の下働きをさせられた人々です。

 金城さんはこの日の追悼会で、完成したばかりの朝鮮人「慰安婦」のレリーフも紹介しました(写真左、琉球新報より)。この「慰安婦」像については、6月17日付の沖縄タイムスに詳しい記事がありました。

 記事によれば、金城さんの「慰安婦」をテーマにした作品は2作目で、今回は「朝鮮人女性らが送り込まれた戦時下の沖縄の慰安所について史料や証言を基に書いた書籍『沖縄戦の記憶と「慰安所」』に触発された」といいます。

「衝撃だったのは『沖縄の女性と子どもを守るために慰安所が必要』との証言。つまり、慰安婦を盾にしたということだ」「沖縄にも慰安所があったことを忘れてはいないか、問題提起したい」(金城さん、17日付沖縄タイムス)

 レリーフには4人の「慰安婦」が描かれています。左から「悲しみ」「祈り」「誇り」「怒り」の表情です(写真右、沖縄タイムスより)。

 沖縄戦で朝鮮人軍夫、「慰安婦」はどういう状態に置かれていたか。その一端を示す「手記」と証言が、奇しくも同じ20日付の琉球新報の別の面で紹介されていました。手記を寄せ新報に証言したのは本部町の渡久地昇永さん(90)です。(以下、記事から抜粋。《》は手記、「」は証言)。

<多くの民家に兵士が暮らしました。渡久地さんの家もその一つ。
 《最も多人数が停留していたのは朝鮮から徴用された軍夫20人余であった。畳一枚の広さに大の男2人が寝ていた計算になる。》
 日本軍は軍夫を命令で縛り、暴力を振るいました。
 《ある下士官が朝鮮人軍夫に自分の下腹部をさらけ出して毛ぞりをさせているのだ。僕は一瞬、目を背けてしまった。
 また、どういう命令違反があったのか、自分の銃剣の先で軍夫の耳を突き刺してせっかんする日本兵もいるではないか。軍夫は「アイゴー、アイゴー」と声を上げて泣いていた。》

 近所の家はまるごと日本軍の「慰安所」として接収されました。
 「慰安所には5、6人の朝鮮の女性がいました。日曜になると日本の兵隊が並んでいました。私たちは中に入れない。木の間から中の様子をのぞいたことがあります。朝鮮の女性はかわいそうでした」>(20日付琉球新報)

 冒頭の追悼会で、「恨之碑の会」共同代表の安里英子さんは、「慰安婦や軍夫という非人道的な存在を生み出したのは日本だ。被害と加害を背負うオキナワ人の責任を自ら問わなければならない」と訴えました(20日付琉球新報)。

 誰よりも「責任を自ら問わなければならない」のは、「本土」のわれわれ日本人です。日本は琉球を武力で植民地化し、朝鮮半島を侵略・植民地支配し、沖縄を戦場にし、朝鮮人軍夫、「慰安婦」を虐待し、多くの沖縄の人々を死に追いやり、また自ら殺害しました。

 沖縄戦でわれわれ日本人が本当に知らなければならないのは、米軍による被害ではなく、天皇制国家・日本の沖縄人、朝鮮人に対する加害の実態、今に続く加害の歴史です。


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沖縄「6・23」と自衛隊と天皇

2021年06月22日 | 沖縄と天皇

    
 6月23日は「沖縄慰霊の日」。沖縄戦で15万人を超える住民を死に追いやった帝国日本軍第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決した日とされています(実際は6月22日説が有力)。この日を「慰霊の日」とすることには以前から強い批判があります(ちなみに、沖縄戦の降伏文書が調印され文字通り沖縄戦が終結したのは9月7日)。

 「6・23」には糸満市の摩文仁の丘で沖縄県主催の式典が行われますが、それに先立ち、夜が明けきらないうちから、同じ摩文仁の丘の頂上にある「黎明之塔」(写真中)の前で、ある集団による「慰霊祭」が行われます。集まるのは沖縄駐屯の陸上自衛隊第15旅団の面々です(写真左は昨年のもよう=沖縄タイムスより)「黎明之塔」は牛島司令官と長参謀長をまつったものです。

 沖縄タイムス(5月30日付)によれば、「黎明之塔」の前で自衛隊による「慰霊祭」が最初に行われたのは1976年。しかし批判を受け、頓挫しました。それが復活したのが2004年。「再興したのは、第1混成団(当時)の団長だった君塚栄治さん(故人)。沖縄を離れた後は東日本大震災時の東北方面総監、陸自トップの陸上幕僚長を務めた人物」

 君塚栄治東北方面総監。この名前には憶えがあります。

 天皇明仁(当時)は2011年3月16日、東日本大震災にかんして「ビデオメッセージ」をテレビで流しました(写真右)。天皇の「ビデオメッセージ」は史上初で、憲法上重大な疑義がある行為です。

 この中で明仁天皇は、「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする…努力に感謝…」と述べました。その7年前の2004年10月の中越地震のときに出した「ねぎらい」の文書では、「消防、警察、自衛隊」の順になっていました。それが「3・11」では自衛隊が最初になったのです。この微妙な順番の変化に感激したのが、君塚氏でした。

「天皇のビデオメッセージが一斉に放送された。夜、録画でそれを見た君塚は、あっと思った。…自衛隊に真っ先に言及していただいた―。君塚は感動した。「今まで以上に自衛隊がたよりにされている、と感じました」」(2014年4月28日付朝日新聞)

 その「ビデオメッセージ」から約1カ月後の4月27日、天皇・皇后は「被災地訪問」で宮城県を訪れました。このとき、天皇・皇后が乗った自衛隊機を、東松島市の松島基地で出迎えたのが君塚総監でした。天皇・皇后は松島基地で昼食をとりましたが、これには村井宮城県知事(自衛隊出身)らとともに君塚総監も同席しました。基地で天皇が自衛隊幹部と会食したのは史上初です。

 「黎明之塔」前の「慰霊祭」を再興した君塚氏が、天皇に対する強い忠誠心を持つ人物であったことは明らかです。

 天皇と君塚氏にはこんな因縁もあります。

 天皇明仁は2018年3月27日、自衛隊の配備強化が図られ反対運動が起こっていた与那国島を初めて訪問しました。この日は、「日本版海兵隊」といわれる「水陸起動団」の発足日でした。「陸幕長…在任中、水陸両用部隊の整備や機動力向上…に着手した」(ウィキペディア)のが君塚氏だったのです。

 ちなみに、君塚氏が「黎明之塔」前の「慰霊祭」を復活させた2004年は、陸上自衛隊が初めてイラクに派遣され(1月)、沖縄国際大に普天間基地の米軍ヘリが墜落し(8月)、アテネ五輪に興じていたメディア・日本人がそれを無視した年でもありました。

 天皇明仁は「忘れてならない4つの日」として、「8・6」「8・9」「8・15」とともに「6・23」をあげ、これらの日には皇居内で「追悼」するといいます。徳仁天皇もこれを引き継いでいます。
 これら「4つの日」は、いずれも日本の戦争被害性を象徴する日であり、そこに日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任の自覚はありません。「6・23」も「敗戦」の記憶であり、日本軍の加害の意識はありません。

 そのことは、日米安保条約の下で米軍基地が集中する沖縄が、自衛隊のミサイル基地・前線基地にされようとしており、「6・23」に自衛隊幹部が「黎明之塔」前で「慰霊祭」を繰り返し、自衛隊(軍隊)と天皇の親密な関係が今も連綿と続いていることと、けっして無関係ではありません。


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首里城復元と天皇制・皇民化政策

2020年10月24日 | 沖縄と天皇

    
 沖縄・首里城が炎上して今月31日で1年になります。沖縄では復元・再興の計画、議論が進んでいますが、その中で問題になっているのが、正殿の上り口にある2本の大龍柱の向きです。正面向きか対面か。

 ささいな問題のように思われますが、決してそうではありません。沖縄の人々にとっては大きな問題です。いいえ、沖縄の人たちだけでなく、「本土」の私たち日本人にも深いかかわりがあります。いやむしろ、私たちこそ注視しなければならない重要問題です。

 1年前に首里城が焼失する前は、大龍柱は左右向き合っていました(写真左)。「大龍柱を考える会」(大田朝章代表)はこれを正面向きに直すべきだと主張しています。その理由を、大田代表はこう説明します。

  1. 昭和初期に首里城正殿が沖縄神社の拝殿として解体修理される前の写真では全て正面向きだった。
  2. 沖縄神社拝殿は国家神道の名残であり、そこで採用された相対向きは、日本国憲法第20条の信教の自由の趣旨に反する。(10月2日付沖縄タイムス)

 沖縄戦(1945年)で破壊された首里城の復元(1992年)に中心的役割を果たした西村貞雄琉球大名誉教授もこう指摘します。
 「大龍柱の存在意義や前脚の構え、龍が持つ宝珠の位置付けなど、総合的に考えると、御庭に対して正面向きだったと判断される」(10月23日付琉球新報)

 これに対し、国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」の高良倉吉委員長(琉球大名誉教授=写真右。仲井真弘多県知事時代の副知事で、2013年4月28日=沖縄屈辱の日に安倍政権が行った「主権回復」式典―天皇・皇后出席―に、県民の反対を押し切って仲井真知事代理として出席)は、首里王府の公式記録(「寸法記」1768年)などで「大龍柱は向き合っている」として、あくまでも対面を主張しています(10月14日付琉球新報)。

 首里城の大龍柱は正面向きに直すべきか、対面のまま復元すべきか。その判断は今後沖縄の人々によって進められるでしょう。しかし私たち「本土」の日本人が忘れてならないのは、大龍柱の向きの変遷が示す琉球・沖縄と日本の関係史です。

 1879年、琉球は明治天皇制政府によって武力で併合・植民地化され、首里城は日本人に乗っ取られました。その後、帝国日本が東アジア侵略・植民地支配をすすめる中で、沖縄の皇民化政策が強化され、首里城正殿は沖縄神社の拝殿とされました(1933年)。そして、沖縄戦で帝国日本第32軍がここに司令部を置いたことにより、首里城は破壊されたのです。

 「1879年3月28日夕(日本による武力侵攻―引用者)、大龍柱はどこを向いていたのか。それを確認することは、国を滅ぼされ、王を失った城のその後の歳月を知ることでもある。国王や国の火ヌ神が不在となり、日本軍兵士が跋扈した首里城。そこでなされた大龍柱をへし折る行為と、向きを改変するなどの破壊行為は同一線上にあるといっていい。

 折られ、短小化され、向きを変えられた大龍柱は、沖縄の近現代の歩みを象徴しているように思う。誰が向きを変えたのか。その意味は何か。昨年の首里城火災は不幸な出来事だったが、歴史を根源的に問い直す機会を沖縄社会にもう一度与えたと考えたい」(後田多敦神奈川大准教授、10月7日付沖縄タイムス)

 琉球侵略・植民地化、天皇制・皇民化政策の歴史。それを「根源的に問い直す」必要があるのは、「本土」の私たち日本人の方です。


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日曜日記72・「即位礼」と沖縄・「皇室世論調査」が示すもの

2019年10月27日 | 沖縄と天皇

 ☆「即位礼」と沖縄

  「即位礼正殿の儀」(22日)に王貞治や澤穂希、松本白鴎らが招待され、嬉々として参列したことは別に珍しくもないが、沖縄の相良倫子さん(15)が参列したことには心が痛んだ。
 相良さんは昨年の「沖縄慰霊の日」(6月23日)で「平和の詩」を読み上げた(当時中学3年)ことが“評価”されて招待された。儀式後、相良さんが「平和を祈り、願う気持ちは陛下も私も同じ」(23日付琉球新報)とコメントしたようすはテレビでも流された。 

 沖縄の青年が「陛下」(天皇への忠臣の表明)という言葉を使ってこうしたコメントをし、それを沖縄の県紙が好意的に大きく報じる。なんともやるせない。そう仕向けた「本土」の国家権力に怒りが湧いてくる。

 相良さんだけではない。NHKはこの日、朝の放送開始から深夜まで「即位礼」一色だったが、その中で何度か沖縄の国立戦没者慰霊碑と中継し、遺族代表に天皇賛美のコメントをさせた。

 明仁天皇の「在位30年記念式典」(2月24日)もそうだった。沖縄出身の三浦大知を起用し、天皇賛美の歌を歌わせた。天皇・皇室の重要な儀式があるたびに「沖縄」を引き込む。

 「沖縄」に負い目があるからだ。沖縄を捨て石にして地上戦の地獄をつくり、戦後は「天皇メッセージ」で沖縄をアメリカに売り渡したのは、天皇裕仁だ。その責任に一貫してほうかむりする一方、逆に「沖縄」を取り込もうとする。これは今日版皇民化政策にほかならない。

 琉球新報、沖縄タイムスを含め沖縄の人々がそれに疑問を持たず、むしろ歓迎しているようにみえるのはきわめて不幸なことだ。いや、そういう状況をつくりだしている「本土」の「日本人」こそ、罪が深い。

 ☆最新「皇室世論調査」が示すもの

  「即位の礼」の前日、NHKは皇室に関する世論調査結果を流した。それによれば、「皇室への親しみ」…「感じている」71%、「感じていない」27%。「皇室と国民の距離」…「近くなった」69%、「変わらない」24%、「遠くなった」3%。
  これをNHKは「7割が皇室に親しみ」との見出しで皇室が国民から親しみを持たれていると報じた。そうだろうか。

 2つの質問項目に対する回答傾向はぴったり一致している。27%の「国民」は皇室に「親しみ」を感じていない、距離も近くなったとは思っていない、ということだ。
 この数字はきわめて大きい。なにしろ、NHKはじめすべてのメディアが天皇・皇后、秋篠宮家をはじめとする皇室の動きを逐一賛美する報道を流し続けている中で、しかも「即位礼」を目前にして行われたNHKの世論調査だ。ほとんどが「親しみを感じている」と答えてもおかしくない。
 にもかかわらず約3割が「ノー」と答えた。国家・メディアがどんなに笛を吹いても、踊らない「国民」がこれだけいるということだ。

 憲法第1条は、天皇の「象徴の地位」は「主権の存する日本国民の総意に基づく」としている。「象徴天皇制」の土台だ。しかし、約3割の「国民」はそうは思っていないということだ。「親しみ」を感じられない「象徴」などありえない。少なくとも「象徴の地位」が「国民の総意」でないことは否定できない事実だ。「3割」はけっして無視できる数字ではない。「象徴天皇制」は根本から問い直されなければならない。

 


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「拝謁記」で本土メディアが無視した裕仁の本音

2019年08月22日 | 沖縄と天皇

     

 前回のブログで、NHKは「拝謁記」を全文公開すべきだと書きましたが、19日、NHKはその一部だけを報道各社に公開し、各社はそれを大きく報じました。

 同じ情報源(公開された「拝謁記」の一部)でも、扱うメディアの視点によって紙面は大きく異なることを改めて痛感しました。
 21日付の本土各紙(放送も同様)は、「(戦争)反省といふ字を入れねば」という裕仁の発言を大きく見出しにとりました。しかし、沖縄の琉球新報は違いました。沖縄タイムスも翌21日付で新報に続きました。両紙が1面トップで大きく報じた裕仁の発言は、「一部の犠牲やむを得ぬ」です。

 琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
 「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)

  琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
 「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」

  朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じ共同通信を使っても中国新聞などは「要旨」の中で一部だけ載せていますが、記事にはしていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。

  米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。

  裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
 「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)

 沖縄戦研究の第一人者・石原昌家沖縄国際大名誉教授は、「一部の犠牲」発言とともに裕仁が米軍基地反対運動に否定的な発言をしていることに着目し、こう述べています。
 「現在の米軍への思いやり予算や名護市辺野古の新基地建設の問題での政府の姿勢は、昭和天皇のこうした発言の意を酌んでいるかのようで、現在にもつながっている」(21日付沖縄タイムス)

 「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています(だからこそ全文を公開する必要があります)。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。

 それを指摘するメディアが、犠牲の当事者である沖縄の県紙だけだというところに、今日の、いや戦前から一貫している日本のメディア・言論界の思考停止・体制順応・天皇タブーが如実に表れているのではないでしょうか。


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