


雅子皇后は13日、明治神宮会館で行われた全国赤十字大会に日本赤十字社の名誉総裁として出席しました。名誉副総裁の秋篠宮妃紀子、常陸宮妃華子、三笠宮家信子、高円宮妃久子の各氏も出席しました(写真左・中=朝日新聞デジタルより)。
名誉総裁には歴代皇后が就任するほか、女性皇族の多くが副総裁に就くなど、日本赤十字社(以下、日赤)と皇室の関係はきわめて深いものがあります。天皇の長女・愛子氏の「就職」先も日赤です。
日赤と皇室とりわけ女性皇族の関係はなぜ深いのか。同社ホームページの「歴史・沿革」にその説明はありません。しかし、その歴史をたどれば、そこには決して無視・軽視できない重要な問題があります。
★西南戦争と「天皇の赤子」
赤十字の前身は西南戦争(1877年)に際して結成された「博愛社」(1887年に赤十字社に改称)です。HPにも「西南戦争の負傷者救護のため、佐野常民、大給恒が博愛社を設立」とあります。その出発点から、日赤と皇室は深い関係にありました。
「日本の赤十字事業の際立った性格は皇后ならびに皇室の恩眷(おんけん)であった。…佐野常民と大給恒が(西南戦争の征討総督だった)有栖川熾仁親王に提出した請願のなかで博愛社の設立を「朝廷ノ寛仁ノ御趣意(を)…感化スルノ一端トモ可相成」と訴えている。
まさに天皇や皇后、ひいては皇室の「慈愛」「仁愛」は、彼ら・彼女らが戦時・平時の赤十字事業に直接関わることで実体化し、国民は「天皇陛下ノ赤子」「皇家ノ赤子」であるという自覚を広く世上に促すことになる。この文脈で、博愛社と日赤の発展は、近代日本における報国恤兵(ほうこくじゅっぺい=国に報い兵を慰める)と博愛慈善という国民統合のあり方に大きな影響を与えることになる」(小菅信子・山梨学院大教授著『日本赤十字社と皇室 博愛か報国か』吉川弘文館、2021年)
西南戦争の最中に皇室は博愛社に金1000円を下賜。1877年9月には東伏見宮嘉彰親王が総長に就任し、以後、歴代の総長(日赤に改称後は総裁)には皇族が就任することになりました。
★昭憲皇太后(明治天皇妃)の役割
日赤の事業にとりわけ関心を寄せ物心両面でその活動を支えたのは、昭憲皇太后でした。
HPにも「1912年・昭憲皇太后から国際赤十字に基金下賜、昭憲皇太后基金 "Empress Shoken Fund"誕生」とあります。
日赤の社章は、佐野常民が昭憲皇太后に会った際に皇太后が頭にさしていた簪(かんざし)の模様(桐竹鳳凰)だとされています。
「昭憲皇太后は皇室にあって赤十字活動に最も関心を寄せた女性であった。…昭憲皇太后は、皇室の女性による災害救護と戦時慰問の嚆矢であり、博愛慈善と報国恤兵を表象する人物であった」(小菅氏前掲書)
★15年戦争と日赤
1931年の中国侵略以降、日赤は「天皇ノ赤子」としての国民を統合する役割を担います。学校では修身や国語の時間に「赤十字精神」が教えられました。
「学童たちにとって、赤十字とは国家そのものであった。赤十字とはいまや天皇であり皇后であり皇室であり、そして皇軍であった。実際には日本赤十字社の博愛慈善はほぼ崩壊し、報国恤兵のほうが突出してきたと言えよう」(小菅氏前掲書)
小菅信子氏は前掲書をこう結んでいます。
「皇室と赤十字社のつながりは今なお強い。他方、我々と日赤のつながりも強い。…私のような一国民から、あるいは一看護師から皇后そして皇室をつなぐものが日赤だといえよう。それは戦前から戦後そして今日まで変わらない。国民統合の装置としての日赤はきわめて身近で、かつ独特である」
この「身近で、かつ独特」な「国民統合の装置」である日赤が、今後、「報国恤兵」の装置となる恐れがないと言えるでしょうか。むしろその危険性は強まっているのではないでしょうか。それは、象徴天皇制がもつ危険性と言って過言ではありません。(写真右は市内に張り巡らされている日赤ポスター)