アリの一言 

オキナワ、天皇制、朝鮮半島の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄・米戦闘機FA18の墜落は何を示すか

2018年11月15日 | 日米安保・沖縄

     

 米海軍所属のFA18戦闘機(原子力空母ロナルド・レーガン艦載、岩国基地配備、写真中)が12日午前、沖縄・南大東島南西約140㌔(那覇市の東南東約290㌔)の海上に墜落しました。エンジントラブルとみられています。

 沖縄では今年6月に米軍F15戦闘機が那覇沖に墜落したばかり。「県内で発生した米軍機の墜落事故は1972年の沖縄の日本復帰以降、計50件に上った」(13日付琉球新報)

  琉球新報、沖縄タイムスが1面トップ(13日付)で大きく報じたのはいうまでもありません。しかし「本土」全国紙の報道は今回も、社会面で小さく扱う程度でした。軍事基地・日米安保体制(軍事同盟)の危険を沖縄に押し付けて知らん顔をしている「日本本土」の実態がここでも表れています。

  今回の墜落事故は、2つの重要な問題を提起しています。

  第1に、米軍の存在による危険から住民を守るためには、普天間基地だけでなく、嘉手納基地を含むすべての基地を沖縄から撤去する必要があることです。

  FA18戦闘機は嘉手納基地や普天間基地に頻繁に飛来しており、今年3月には15機が嘉手納基地に暫定配備されたこともあります。
 嘉手納基地爆音差止訴訟原告団の新川秀清団長は今回の事故に対し、「『いったいどれだけの墜落事故が繰り返されているのか』と怒りに声を震わせた。『根っこからの危険性を除去してもらわなければ、当たり前の生活はできない。沖縄からの基地撤去そのものに踏み込まないといけない』と力を込めた」(13日付琉球新報)。
 「根っこからの危険性除去」「沖縄からの基地撤去そのもの」とはすなわち全基地撤去です。
 嘉手納基地爆音差止訴訟原告団は2016年から「嘉手納基地の撤去を含めた全基地撤去」を要求しています。

 第2に、米軍と自衛隊の一体化の危険です。

 今回の事故は、「自衛隊と日米で共同訓練を実施中」(13日付琉球新報)に起こったものです。
 沖縄では米軍と自衛隊の一体化=共同訓練・基地の共同使用が、嘉手納基地を中心に強まっています。今回の墜落はそうした中で起こったものです。
 「在日米軍再編計画は、日米の軍事一体化を図るために、嘉手納基地なども自衛隊と共同使用にする方向を打ち出しています」(中村重一北谷町町議、「前衛」9月号)

 軍事基地に反対するたたかいは、米軍だけでなく自衛隊の基地強化も含め、また米軍と自衛隊の共同訓練・基地共同使用にも反対することを含めてすすめることが絶対に必要になっていることを今回の事故はあらためて浮き彫りにしました。

 玉城デニー沖縄県知事は12日午前(日本時間12日深夜)、訪問先のニューヨークで「県民に不安を与え、甚だ遺憾だ」(13日付沖縄タイムス)と抗議しました。
 しかし玉城氏は11日午後(日本時間12日未明)にニューヨーク大学で行った講演ではこう述べていました。

 「沖縄は今、辺野古で新基地を強行しようとする日米両政府とぶつかっている。この対立は反米とか反基地というイデオロギー的な主張ではなくこれ以上基地はいらないという、生活者の声である」「私は全ての米軍基地の即時封鎖ではなく、辺野古の新基地建設というさらなる負担に反対している」(13日付沖縄タイムス「講演要旨」)
 「反基地」を「イデオロギー」として否定したうえで、全基地閉鎖・撤去の立場ではなく、「これ以上」の「さらなる負担」でなければ現在の基地は容認する立場を強調したのです。

 また、当選直後の新聞インタビューでは、「将来、自衛隊と米軍が基地を共同使用するときには、基地の使用協定を作りましょうという話が出てくるかもしれません」(10月2日付産経新聞)と述べ、自衛隊と米軍の基地共同使用を容認する考えを示していました。

 玉城氏のこうした発言の根底には、訪米前の日本外国特派員協会での会見(9日、写真右)で、「日本とアメリカの安全保障体制を認める立場」(10日付琉球新報)だと強調したように、日米安保条約(軍事同盟)支持の基本的立場があります。

 翁長雄志前知事同様、日米安保体制を容認・支持する玉城知事の下で反基地闘争をすすめるのはきわめて困難ですが、少なくとも、石垣、宮古、与那国など八重山諸島への自衛隊基地増強・ミサイル基地化や、米軍と自衛隊の基地共同使用には知事として明確に反対を表明してもらう必要があります。


「外国人労働者」と「徴用工・在日朝鮮人」

2018年11月13日 | 差別・人権・沖縄・在日

     

 安倍政権が「外国人就労拡大」のための入管難民法「改正」案を閣議決定したのが11月2日。その3日前の10月30日、韓国大法院(最高裁)は元徴用工の損害賠償請求を認める判決を下しました(写真中)。また同日、東京高裁は朝鮮学校を高校無償化から排除する差別を妥当とする不当判決を行いました(写真右)。

  相次いで起こったこれらの出来事は、けっして無関係ではありません。歴史の偶然か必然か、3者はあざないながら私たちに問題を突きつけています。

  安倍政権が進めようとしている「外国人就労拡大」は、労働力不足に悲鳴を上げている日本資本・企業の強い要求によるものですが、労働力不足の根底には、「少子化」も含め、政府の福祉・教育・労働行政の無策があります。政府の失政を外国人労働力で補おうとする日本の身勝手です。

  外国人就労を拡大するなら、賃金はじめ労働条件、さらに生活条件・環境が日本人と同等以上に保障されねばならないのは言うまでもありません。

  さらにその前に、外国人が各地の入管施設に不当に長期収容され、施設内での自殺・病死が多発(2017年以降全国で13人―10月29日付中国新聞=共同電)するなど、”入管地獄“といわれている外国人に対する重大な人権侵害を改めることが先決です。

  そもそも安倍政権に「外国人就労拡大」を口にする資格があるでしょうか。

  元徴用工判決は、「日本政府の朝鮮半島に対する不法な植民地支配及び侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権」(11月5日の「弁護士有志声明」)を認定したものです。

  帝国日本は植民地支配で朝鮮人の土地を奪い、日本への移住を事実上強制しました。さらに国家総動員法制定(1938年)以降は、侵略戦争による労働力不足を補うために朝鮮人、中国人に対して文字通り「強制連行」を行いました。苛酷な労働現場で酷使され、死線をさまよわされた労働者が損害賠償を求めるのは当然です。

  ところが安倍首相は判決に対し、「国際法に照らしてあり得ない。毅然と対応する」と敵意をむき出しにし、国際司法裁判所への提訴さえ示唆しました(写真左)。安倍政権は今後「徴用工」という用語を使わないとまで言い出しています。

  これは日本の植民地支配・侵略戦争への無反省・居直りを示すと同時に、労働者とりわけ外国人労働者の人権・権利保障などまったく眼中にない安倍政権の性格を端的に表しています。

  朝鮮学校は植民地支配によって日本に移住させられ、敗戦後も日本に住まざるをえなかった朝鮮人(在日朝鮮人)の子ども・孫たちの教育を保障するためのものです。「拉致問題」など朝鮮民主主義人民共和国との政治関係を口実に、朝鮮学校だけを無償化制度から排除していることは、植民地支配に対する無反省と朝鮮人差別以外の何ものでもありません。

  「在日朝鮮問題という厳粛な事実に目をそむけたままで、今日の外国人労働者の問題を論議することは歴史をないがしろにすることではないだろうか
 「かつての『強制連行』は、自由募集、官斡旋、徴用の三段階に区分されたが、日系人の特別受け入れは”自由募集“に、そして技能実習生は”官斡旋”にあたるかもしれない」
 「いま増加しつつある外国人労働者を、かつて受け入れた朝鮮人の子孫と重ね合わせながら、日本社会を”ともに生きる“社会に変革することを、現実はすでに迫っているのである」(田中宏著『在日外国人 第三版』岩波新書2013年) 

 「日本社会を”ともに生きる社会“に変革する」、その前提は植民地支配・侵略戦争に対する加害国(者)としての真摯な反省であり、在日朝鮮人差別の根絶です。


沖縄県と政府の「協議」はなぜ密室で行われるのか

2018年11月12日 | 沖縄・辺野古

  

 沖縄の玉城デニー知事は6日の菅義偉官房長官との会談で、「1カ月間話をする場を設けてほしい」(7日付琉球新報「一問一答」)と要請し、「集中協議」が行われることになりました。

  ところが、この日のテレビニュースや翌日の新聞報道に、玉城氏と菅氏のツーショット映像・写真はありませんでした。完全に取材がシャットアウトされたからです。この種の会談では少なくとも冒頭の撮影(頭撮り)は行われますが、それさえありませんでした。

  謝花喜一郎副知事と杉田和博官房副長官(写真右)による「第1回協議」が9日行われましたが、完全非公開はここでも徹底していました。会談後の両氏による会見・説明も行われませんでした。

  「9日に実施された初会合は非公開で行われた。会談内容は協議後に謝花喜一郎副知事や杉田和博官房副長官から報告を受けた玉城知事や菅官房長官が概略を説明した。2015年に行われた集中協議の際は会合の冒頭が公開されたり、終了後も出席者が直接説明したりしており、違いが際立っている。議論や政策決定の透明性の観点から疑問の声が上がりそうだ」(10日付琉球新報)

  非公開は沖縄県と政府の合意事項です。

 「菅長官は1回目の協議が行われたことを説明した同日(9日)の会見で、非公開としたことについて『(県と政府が)互いに話し合った上で決めた』」と、県との間で合意したとした上で『静かな環境の中で、忌憚のない意見交換が行われる』と”密室“で行う意義を語った。
 県側も率直な意見交換をするためとして、非公開で実施する認識を政府側と共有している」(10日付琉球新報)

 琉球新報は翁長県政の時の「集中協議」(2015年8月1日~9月9日)と「違いが際立っている」としていますが、前回の協議が公開されたわけではありません。非公開・密室という点では今回と同じでした。

 それについては当時も識者から批判が出ていました。
 「協議に応じるのであれば、透明性の確保が必要だ」(故・新崎盛暉沖縄大名誉教授、2015年8月12日付沖縄タイムス)。

 非公開・密室協議はたんに当日の内容が分からないだけではありません。重大なのは、協議の議事録がまったく残されないことです。

 これについても前回も批判されました。
 「議事録や議事概要を残さなければ検証ができない。…今回の対応は国民の知る権利や情報公開法・条例の精神、行政の説明責任に反している」(前津栄健沖縄国際大教授、2015年8月27日付琉球新報)

 「辺野古問題」をめぐる沖縄県と安倍政権の「集中協議」は、翁長県政でも玉城県政でも、非公開・密室で行われ、議事録も残されていないのです。きわめて重大なことです。

 それは「議論や政策決定の透明性」を損ない、「国民の知る権利」を侵害しているばかりか、後世への記録保存の義務にも反しています。

 「辺野古新基地」をめぐる沖縄県と政府の「対話・協議」が、なぜ非公開で行われなければならないのでしょうか。密室で行う必要性はどこにあるのでしょうか。
 密室でなければできない「忌憚のない意見交換」「率直な意見交換」とは、いったい何なのでしょうか。


日曜日記28・中村敦夫さん的生き方―俳優・報道・政界・仏教・原発

2018年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

     

 11月4日のEテレ「こころの時代」で中村敦夫さん(78)が取り上げられた(10日再放送)。<「反骨」中村敦夫の福島>。朗読劇「線量計が鳴る―元原発技師のモノローグ」の全国公演(写真右)に焦点を当てたものだが、その生き方・人生観にあらためて感銘を受けた。

  「中村敦夫」と言っても、50代以下の人にはなじみが薄いかもしれない。逆にそれ以上の人には「木枯し紋次郎」と言っただけで分かるだろう。最近では数年前のNHK朝ドラ「まれ」で漆塗りの師匠を演じた。現役の俳優だ。作家として著書も多数ある。

 しかし、中村さんの人生は「俳優・作家」という肩書だけでは収まり切れない。

 生まれ(1940年)は東京だが、小学1年から10年間、福島県いわき市に住んだ。東京外大を経て20歳で難関を突破して俳優座養成所に入った。そのころアメリカに留学し、ベトナム反戦運動を間近に見て、「戦争している国でこんな運動が起こるのか」と大きな衝撃を受けた。

  映画やテレビで主演を務め注目されるが、「この先に自分が求めるものはあるのか」と思い悩んでいたときに、テレビの報道番組(「地球発」)のキャスターにと声がかかった。

 世界の現場に飛んで取材し、貧困と貧富の格差を目の当たりにした(写真左)。それが「今に直接つながっている」人生観に大きな影響を与えた。

  この世の中を変えるにはどうすればいいのか。「最終的な決定権を持つのは政治家だ」との思いから、58歳で政界に身を投じ、参院議員になった。政治家として環境政党「みどりの会議」を立ち上げ、全国の地方議員選挙を支援した(写真中)。中村さんの「みどりの会議宣言」は素晴らしい文章だ。

  当時夕刊紙の記者をしていた私は、参院選の時から中村さんを取材し、当選後新聞への連載を依頼した。中村さんは快く引き受けてくれた(内外タイムス「紋次郎・世相を斬る」)。中村さんとはそれ以来のおつきあいだ。

  国会では文字通り「一匹狼」として「盗聴法阻止」などに孤軍奮闘した。が、「砂漠にじょろで水をまくような」無力感で、政界を退いた。
 以後、仏教を学び帰依する。エコロジーが仏教に近づけたのではないだろうか。

 このまま「静かに余生を」と思っていた矢先の「2011・3・11」。「まさか自分が生きている間に実際に原発が爆発するとは思わなかった」。かつていわき市に住んでいたことにとどまらない衝撃を受けた。

 「この事態を一般の人はトータルで理解できるだろうか」。自らのシナリオによる朗読劇を思い立った。原発を学び直し、関連のニュース記事は目につく限りスクラップした。スクラップ帳は数十冊にのぼり、今も続けられている。
 朗読劇の公演はこれまで1年半で全国40カ所以上、どこも満席だ。「呼ばれればどこにでも行く」。

 凄まじい人生だ。こうして概観しただけで圧倒される。「多才」という言葉だけでは言い尽くせない。
 中村さんの人生を貫いているのは何だろうか。
 番組を見ながら思い浮かんできたのは「知行合一」という言葉だ。「知識」と「行動」の合致。社会の現実の不正・不条理を知れば、それをなんとか変えたいと思う。そのために自分は何ができるか、何をすべきかを考え、それを実行する。言うは易いが簡単なことではない。

 「社会を変えたい」という、やむにやまれぬ思いはどこからくるのだろうか。中村さんは番組で、「人間はたいした存在ではない。そうした人間としての同情、慈しみ、共感、悲しみの共感こそ最高のもの」と語った。

 巧みなユーモアの持ち主でもある中村さんは最後にこう述べた。
 「(朗読劇の)元原発技師の怒りが乗り移って、私も怒りっぱなしだ。おかげで健康になった。怒ることは健康にいいようだ。高齢者の方は今まで以上に怒ってください。それが社会のためにもなる」
 冗談のようだが、中村さんの本音であり、真理ではないだろうか。中村さんの生きざまから学び続けたいと思う。


「園遊会」と象徴天皇制

2018年11月10日 | 天皇・天皇制

     

 明仁天皇が主催する最後の「園遊会」が9日、赤坂御苑で行われました。

 「園遊会」はたんに庭園で天皇とスポーツ・芸能・文化人らが歓談する場ではありません。それは天皇・皇族の権威を誇示するものであり、「天皇元首化」の動きとも密接に関係しています。

 園遊会についての宮内庁の公式な説明はこうです。

 「園遊会は,毎年,春と秋の2回,赤坂御苑で催されます。
 天皇皇后両陛下は,衆・参両院の議長・副議長・議員,内閣総理大臣,国務大臣,最高裁判所長官・判事,その他の認証官など立法・行政・司法各機関の要人都道府県の知事・議会議長,市町村の長・議会議長,各界功績者とそれぞれの配偶者約2,000人をお招きになって,親しくお話しになっています」(宮内庁HP)

 今年春(4月25日)の園遊会に招待者されたのは、「立法・行政・司法関係者、在日外交官等 1745人、各界功績者 754人」(同HP)でした。
 宮内庁のHPには書かれていませんが、「各機関の要人」の中には自衛隊の統合幕僚長も入っています。

 園遊会は、天皇が首相、衆参両院議長、最高裁長官ら「三権の長」、国家機構の要人、全国地方自治体の首長、さらに「国民」の中の「功績者」を「招待」する形で一堂に集め拝謁させる場です。

 それは天皇が日本の「要人」のすべてを束ねる超越した存在であるかのように見せるもので、天皇を「国家元首」視するものと言えるでしょう。

 その園遊会の性格・狙いは、歴史的経緯をみればよりはっきりします。

 園遊会の前身は、明治政府が始めた「観菊会」(第1回1880年11月18日)、「観桜会」(同1881年4月26日)です。

 「明治十二年(1879年)九月に外務卿に就任した井上馨は、日本が欧化して列強に安心感を与えることで条約改正を達成することを課題とした。明治十年代後半から本格化する欧化主義の時代、鹿鳴館時代である。来日する外国人や外国公使へ欧化を示すことが必要であり、明治十四年(1881年)八月五日には外賓接待略規を定めていた。そして井上は、天皇皇后が出御し立食パーティーを行う観菊会・観桜会と、新年宴会・紀元節宴会・天長節宴会の三大宴会に、外交官を招待することも企図した」(西川誠著『明治天皇の大日本帝国』講談社学術文庫、2018年)

 観菊会、観桜会は条約改正のための欧化主義の一環として、天皇の権威を外国公使らに示すものだったのです。

 戦争で中止になった観菊会、観桜会が戦後、園遊会として復活したのが1953年です。この年に園遊会が始まったのには意味があります。その前後に起こった主な出来事を挙げてみましょう。

1950・6 朝鮮戦争勃発
   8 警察予備隊発足
1951・9 サンフランシスコ「講和」条約・日米安保条約調印
   10 国民体育大会に天皇初出席(「三大行幸啓」の1つ)
1952・4 サンフランシスコ「講和」条約・日米安保条約発効
   4 全国植樹祭に天皇初出席(「三大行幸啓」の1つ)
   5 全国戦没者追悼式に天皇初出席
   10 保安隊発足(警察予備隊改組)
1953・7 朝鮮戦争休戦協定
   11 園遊会開始
1954・7 自衛隊発足

 「日本再軍備以降の天皇(制)利用は、一九五三年のイギリスのエリザベス女王の戴冠式に皇太子(現明仁天皇―引用者)を送ることから始まった。…天皇は、まず国内で、非政治的な装いのもとで、きわめて政治的に、国民体育大会全国植樹祭全国戦没者追悼式に出席し、象徴的権威を示威し、五三年十一月からは、天皇主催の園遊会が開始され、たいていの招待者は、天皇に『どうですか?』『あっそう』と声をかけられただけで、硬直人間と化し涙をながす―ようになった」(牛島秀彦著『昭和天皇と日本人』河出文庫、1989年)

 さらに、自民党の前身の保守政党による改憲策動がこれに重なりました。改憲の主要な柱は「天皇元首化」でした。

 「保守政党は一九五四年にそれぞれの改憲案を発表した。そこでの天皇の扱いは前述の通り天皇を元首とするとともに宣戦講和の権限を含む国事行為の追加によって天皇の権限を強化しようとしていた」(藤原彰・吉田裕・伊藤悟・功刀俊洋著『天皇の昭和史』新日本新書、1984年)

 園遊会はスポーツ・芸能・文化人らを巻き込んで、無意識のうちに天皇・皇室の権威を「国民」に刷り込む役割を果たしています。

 そして戦後、園遊会をはじめさまざまな仕掛けで天皇を権威化し、天皇元首化が再軍備・軍拡、改憲と三位一体で結び付けられました。その歴史が、いま繰り返されようとしています。