アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄「復帰」と「日の丸」と聖火リレー

2021年05月17日 | 沖縄と日米安保

    

 「5・15」は沖縄「本土復帰」(1972年施政権返還)から49年でした。「核持ち込み」「基地自由使用」の「密約」が隠された「復帰」でした(写真左、中は「復帰式典」。佐藤栄作首相の後ろは天皇裕仁)。
 13日付沖縄タイムスは「復帰50年」企画の1つとして、1面と社会面に「日の丸 本土と一体感」という大見出しの記事を載せました。抜粋します(カッコ内、太字は私)。

<米施政権下だった1964年9、沖縄であった東京五輪の聖火リレー当時禁じられた日の丸が沿道にはためいた。沿道は興奮と熱気に包まれ、本土との一体感に浸る住民もいた。
 その象徴が日の丸だった。子どもは学校で作るなどした日の丸を必死に振っていた。「終戦してから、外でみんなで日の丸を振るなんてことはなかった。この日は、大人も子どももうれしそうに小旗を振っていた。ただの聖火リレーではなかった。その後の日本復帰につながる重要な意味があった」(当時の聖火ランナー73歳の言葉)

 45年に沖縄を占領すると、米軍は日の丸の掲揚を禁止した。沖縄では教職員会(教職員組合の前身)を中心に「日の丸を掲げよう運動」が起きていた。
 聖火リレーが始まると、米兵による日の丸の毀損が相次いだ。復帰協(祖国復帰協議会)や沖縄教職員会は「国家への侮辱」などとして抗議している。教職員会で会長秘書などを務めた石川元平さん(83)は、「日の丸は占領下で住民が得た自由のシンボルだった。それが毀損され、日本への復帰を思う気持ちを強めた人は多かったはずだ」。

 県公文書館の豊見山和美さん(58)は、日の丸は沖縄にいた人たちの日本への「心象」だったとみる。戦争を思い出し、嫌悪感を覚えた人がいた一方、沿道で国旗を振り、毀損に反発した動きからは日本への愛着も垣間見える。「掲揚を求め、毀損に反発する一連の動きがなければ、復帰が遅くなっていた可能性がある」

 復帰後沖縄には基地が残り、米軍による事件・事故は後を絶たない。聖火リレー時にあれほど希求した日の丸を、石川さんは今、喜んで見られない。「当時、沖縄の人が日の丸に感じた希望や憧憬は消えてしまった」>(写真右は1964年の聖火リレーの沿道、上記記事より)

 この記事によれば、「日の丸」は米軍占領下での沖縄県民の「本土との一体感」「日本への愛着」の「象徴」でした。しかし、「復帰」後も変わらない基地負担によって、「日の丸に感じた希望や憧憬」は消えた―。
 ここには、「日の丸」と「聖火リレー」が「国家」への帰属・一体感を醸成する強力なツールであることが示されています。

 同時に問わなければならないのは、復帰協や教職員組合が、「日の丸」を「自由のシンボル」ととらえ、「日の丸を掲げよう運動」まで行ったことの問題です。それは果たして正しかったのか、「日の丸」によって促進された、しようとした「復帰運動」とは何だったのか。その歴史的省察はこの記事にはありません。

 沖縄教職員組合は「復帰」から14年後の1986年、日本政府による「日の丸・君が代」強制に反対する運動を繰り広げます。それは次のような認識に基づくものでした。

「日の丸」は国家が非常時になればなるほど国民をひとつに結びつける道具として機能した。あのアジア諸国を侵略した戦争の先頭には常に「日の丸」があった。この国民統合の役割を期待するからこそ、支配者は教育現場に強制してくるのである」(沖縄人権協会編『検証・沖縄の人権』1991年所収、津嘉山勉・沖縄高教組中部副支部長の論稿)

 「日の丸」に対するこうした捉え方がなぜ「復帰運動」の中で行われなかったのでしょうか。

 「施政権返還後も沖縄が抱える最大の課題は基地問題」(15日付琉球新報社説)であることは論を待ちません。であればこそ、その基地・日米軍事同盟と「日の丸」の歴史的・現在的関連を問い直すことが必要ではないでしょうか。それは沖縄と「本土」の共通の今日的課題ではないでしょうか。


日曜日記148・質問遮る内閣広報官・「命がこぼれていく」・スタッフ募集

2021年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム

☆記者の質問遮る内閣広報官

 先週、首相会見における再質問要求発言に注目し、「次回はぜひ実行を」と書いた。その結果が早くも14日午後8時からの菅首相会見で表れた。再質問の許可を求めていた東京・中日新聞のしみず記者がこの日、五輪開催問題で再質問しようとした。有言実行だ。

 ところが、それが遮られた。再質問しかけた声が打ち消された。消したのは、会見の進行役・内閣広報官の小野日子氏。首相の息子の接待疑惑で退官した山田真貴子氏の後任だ。

 小野広報官は12人の質問者(開始から50分)で強引に会見終了を宣告した。記者席から異論の声が出かかったときも、「自席からの発言は避けてください」と封じた。官邸による記者会見(記者団)の統制・支配が目に余る。

 菅氏の会見は何度聞いてもイライラする。質問になに1つまともに答えていないからだ。わざとはぐらかしているのか、答弁能力がないのか、その両方なのか…再質問封じがそれに輪をかけている。こんな会見は無意味だ。無意味なだけでなく、市民の知る権利の侵害であり、主権者に対する冒涜だ。

 官邸による記者会見(記者団)の統制・支配を打破し、会見を意味のあるものにしなければならない。それは記者団・メディアの使命であることを肝に銘じてほしい。

☆「命がこぼれていく」

 コロナ(変異株)に感染して死亡した20代の男性が、母親と交わした最期のメールがテレビに映し出され、胸を突いた。男性は入院を希望したが、叶わなかった。男性には訪問看護師がついていた。看護師さんが語った。

「お母さんから、「病院の廊下でいいから入院させてください」と手を合わせられた。それなのに…。私の手から命がこぼれていく。自分がやっていることに意味があるのだろうか」(15日のNHK「週間ニュース」)

 男性の悔しさ、息子の死を目前にしながら何もできない親の苦渋、看護師さんの無念…。こんな光景が全国各地で起こっているのだろう。そして加速度的に広がろうとしているのだろう。

 為政者の無責任・無能が市民を死に追いやる。コロナ禍だけではない。国家権力への日常の沈黙・追従が無念の死を招く。

☆「スタッフ募集」

 母のグループホームで、やっとワクチン接種の日程が6月中旬に決まったと15日連絡をもらった。14日に面会に行った時はまだ決まっていなかった。
 面会の際、入口に「スタッフ募集」の幟が立っていた。先週まではなかった。「誰かおやめになったのですか?」と聞くと、「いいえ、人手不足なので」という答え。安心する一方、スタッフの苦労があらためて思われた。

 面会と言っても、ガラス越しだ。このごろ母は、話しかけても反応しない。意識の薄れとともに、ガラス越しで声が聞こえにくいこともあるとスタッフさんが教えてくれた。
 その「面会」も15日から中止になった。昨年に続いて。今度母の顔が見られるのはいつだろう。

 閉ざされた空間の中で、スタッフのみなさんの苦労が続く。感謝の言葉もない。
 医療従事者と介護従事者のかたがたには、誰もがお世話になる。自分も家族も。人生の終末を共に過ごすことになる大切な大切な人々だ。その人々をないがしろにし続けるこの国の政治は、根本的に間違っている。


宮古島前市長逮捕と菅義偉首相

2021年05月15日 | 沖縄・米軍・自衛隊

    

 宮古島の下地敏彦前市長(写真左)が陸上自衛隊の基地建設にからむ収賄容疑で逮捕されました(12日。写真中は13日付琉球新報、左から3人目が下地容疑者)。これは「「基地に島を売った」という批判は免れない」(14日付琉球新報社説)言語道断の事件ですが、見落としてならないのは、下地容疑者・今回の事件と菅義偉首相の関係です。

 下地前市長の容疑は、陸自駐屯地建設が千代田カントリークラブ(CC)の所有地(写真右)に決まる過程で、同クラブ社長(当時)の下地藤康容疑者から見返りに650万円受け取ったというもの。しかし、事件はこの2人の問題にとどまりません。

 五十嵐敬喜法政大名誉教授(公共事業論)はこう指摘します。
「自衛隊駐屯地の選定は、地元の市長が単独で決められることではない。…市の事務方にも防衛官僚にも協力者が必要で、周到な準備、根回しを要する。…根が深い事件だと思う」(13日付琉球新報)

 そもそも宮古島への陸自基地建設には地元の強い反対がありました。それを押し切って基地建設を強行したことが問題の根本で、そこには日米安保条約に基づく自民党政権の強硬姿勢があります。下地容疑者はその政府・自民党の先兵として動いたものと言えます。そこで問われるのが下地容疑者と菅氏の関係です。

 下地容疑者は2009年1月に市長に初当選。「市長になった下地容疑者は、中央とのパイプを築き、公共事業を推進」(14日付琉球新報)。そこで「菅義偉首相と官房長官時代から結び付きが強かった」(13日付琉球新報)といわれています。

 現に、「「チーム沖縄」(保守系首長のグループ―引用者)として、19年には菅義偉官房長官(当時)…と面談。沖縄関係予算の拡充を要請」(13日付沖縄タイムス)しています。

 今回の事件の経緯を振りかえってみましょう。

 武田良太防衛副大臣が下地容疑者(当時市長)に会って、宮古島への陸自配備の意向を伝えたのが2014年6月12。琉球新報が入手した防衛省の内部文書によれば、翌15年1月15に、下地容疑者は自衛隊沖縄地本に千代田CCを推奨しています。

 千代田CCが正式に候補地として浮上したのは15年5。 防衛省が千代田CCと土地売買の文書を交わしたのが17年8で、11月20に造成着工。650万円授受は18年5月24ごろとみられています。陸自駐屯地の開設は19年3月26です。

 この間(15年5月~19年)、「中谷元、稲田朋美、岸田文雄、小野寺五典、岩屋毅の5氏が防衛相を務めた」(14日付琉球新報)というように、防衛相は目まぐるしく変わりました。しかし、変わらなかった人物がいます。それが菅氏です。

 菅氏は第2次安倍晋三政権発足(2012年12月26)から一貫して官房長官であり、同時に沖縄基地負担軽減担当相を兼務して辺野古新基地建設はじめ沖縄の基地問題を統括してきました。15年4月6に官房長官として初めて沖縄を訪れ、辺野古問題などで翁長雄志知事(当時)と会談しました。その後菅氏は再三沖縄を訪れ、翁長氏や沖縄自民党の幹部らと会っています。
 下地容疑者と菅氏の関係もこうした中でつくられたもので、それは、「(下地容疑者が)落選した1月の市長選でも、菅義偉首相の秘書が宮古島入りし…強力にてこ入れ」(14日付琉球新報社説)するほどになりました。

 今回の事件は基地をめぐる構造的な問題の一端であり、下地容疑者と菅氏の関係、事件の深部は徹底的に解明される必要があります。問われるべきは、日米軍事同盟の下で自衛隊の拡大強化に狂奔している自民党政権そのものです。

 


「朝鮮半島の非核化」を「北朝鮮の非核化」にすり替える日本政府

2021年05月13日 | 日米軍事同盟と朝鮮・韓国

    

 コロナ対策の菅義偉政権の失政は深刻ですが、同政権の問題はもちろんそれだけではありません。コロナ禍で見過ごされがちですが、朝鮮半島・東アジアの平和への逆行・妨害もその1つです。

 韓国のムンジェイン(文在寅)大統領は10日、就任4年目の特別演説を行いました。大統領は「演説の中で、朝鮮半島の完全な非核化を目標とする米バイデン政権への支持を表明」(11日付東京新聞)しました。

 この5日前(今月5日)、日韓米3国の外相会談がロンドンで行われました。同日の記者会見で茂木敏充外相はこう述べました。「ブリンケン国務長官、鄭外交部長官との間で、北朝鮮の完全な非核化へのコミットメントを再確認し(た)」(外務省HP)。

 3カ国外相会談について日本のメディアは、「米政権による対北朝鮮政策見直し作業の完了を踏まえ、北朝鮮の完全非核化へのコミットメント(決意)を再確認した」「茂木氏は米国が朝鮮半島の完全非核化目標を維持したことを歓迎した」(7日付共同配信)と報じました。

 「朝鮮半島の完全な非核化」と「北朝鮮の完全非核化」。一見同じようですが明確に違います。日本の報道は2つが混同されています。この混同は何を意味しているでしょうか。

 バイデン政権の政策目標は、「朝鮮半島の非核化」です。先月30日、「対北朝鮮政策見直し」を記者会見したホワイトハウスのサキ報道官が、「朝鮮半島の非核化」と明言(5日付ハンギョレ新聞)したことからも明らかです。

 にもかかわらず日本政府はあくまでも「北朝鮮の完全非核化」だと強弁し、そう公式発表しているのです。先の日米首脳会談の共同声明(4月16日、写真左)でも、日本政府は「北朝鮮の完全な非核化へのコミットメント」(外務省HP)で合意したと発表しました。

 日本政府はなぜ「北朝鮮の非核化」にこだわるのでしょうか。
「朝鮮半島の非核化」と「北朝鮮の非核化」の違いは重大です。韓国はその違いに敏感です。

「韓米の目標が「北朝鮮の非核化」ではなく「朝鮮半島の非核化」であることが、なぜ重要なのか。南北が1991年12月に合意した「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」から2018年6月に朝米が署名した「シンガポール共同宣言」(写真右)に至るまで、この用語が過去30年あまり続いてきた北朝鮮核交渉の骨子となってきたからだ。

 米国が朝鮮半島の非核化という用語を受け入れた(注・3月18日の韓米外相・国防相会談で―引用者)ことは「朝鮮半島の完全な非核化に向けて努力することを確約」するという北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の誓約が盛り込まれたシンガポール共同宣言を継承することを意味し、この約束の土台となった2018年4月27日の板門店宣言(写真中)に生命力を吹き込むという意味と解釈することもできる。

 韓国がまず先に非核化(在韓米軍の非核化―引用者)して北の非核化を導くという「朝鮮半島の非核化」とは異なり、北朝鮮の一方的な核放棄を意味する「北朝鮮の非核化」は、外交的手段では到底達成できない「遠い夢」にすぎない」(5月5日付ハンギョレ新聞日本語電子版。改行は引用者)

 「朝鮮半島の非核化」にはこのような歴史的意味と現実的重要性があります。韓国政府の主張もあってバイデン政権はそれを政策目標とすることを再確認したのです。にもかかわらず、あくまでも「北朝鮮の完全非核化」だと言い張ってそれを公式発表し、半島の非核化を「遠い夢」にしているのが日本政府です。

 私たちは「朝鮮半島の非核化」と「北朝鮮の非核化」の違いに敏感になる必要があります。そして半島の非核化・平和的統一に対する日本政府の妨害を絶対に許すことはできません。


ハンセン病国家賠償判決から20年、教訓を今に

2021年05月11日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    
 きょう5月11日は、日本の裁判、戦後補償にとって記念すべき日です。20年前(2001年)のこの日、元ハンセン病患者による国家賠償請求訴訟で、熊本地裁が国の隔離政策を違憲と認定して賠償を命じる原告勝訴判決(確定)を下した日だからです(写真左=琉球新報より)。同判決と、その後の経過から今学ぶべきものは少なくありません。

 同判決に基づいて、元患者補償法が翌月(01年6月)施行されました。しかし同法は当初、帝国日本の植民地支配下にあった韓国・小鹿島(ソロクト)更生園、台湾・楽生院に隔離された元患者を補償から排除していました。

 これに対し韓国、台湾の元患者が04~05年、補償を求めて提訴(小鹿島更生園は原告敗訴、楽生院は勝訴)。これを受けて06年補償法が改正され、旧植民地の元患者も補償の対象になりました。

 国の隔離政策による差別に苦しめられたのは元患者の家族も同じでした。そこで元患者家族は16年、国に賠償を求める集団訴訟を起こしました。その判決が19年6月28日、熊本地裁であり、差別の被害と国の責任を認め、国に賠償を命じました(写真中、判決は確定)。

 これに基づいて同年11月、家族補償法が施行されました。注目されるのは、同法では最初から旧植民地の元患者家族への補償が含まれたことです。元患者補償法をめぐる経過が教訓になったのです。
 家族補償法に基づて韓国の元患者家族62人が今年4月19日、初めて厚労省に補償請求を行いました。

 こうした前進の背景には、日韓双方の弁護団の連帯と市民の活動がありました。元患者訴訟、家族訴訟の両方に携わった徳田靖之弁護士(写真右)は、日韓弁護士共同会見(4月26日、オンライン)で、「(ハンセン病補償法は)戦後補償の例外と言える。両国の不幸な歴史を乗り越え、新たな時代を切り開く大きな一歩となる」(4月27日付中国新聞=共同配信)とその意義を強調しました。元患者・家族補償法は、いずれにもその目的を「慰謝するため」として、日本政府の「謝罪」の意味が明記されています。

 ハンセン病補償法をめぐる教訓は、日本政府に旧植民地の元患者・家族に対する国家責任を認めさせ、謝罪の意味の補償を行わせたことです。ここに、同じく日本の植民地支配による被害者である元「慰安婦」(戦時性奴隷)、強制動員・労働者(「徴用工」)、さらに朝鮮民主主義人民共和国の原爆被爆者に対する未解決の補償問題を前進させるカギがあります。

 同時に、市民の役割が重要です。徳田氏は家族訴訟勝訴の際、その「第1の意義」は「国に責任を認めさせること」だとしたうえで、さらにこう述べていました。
「第2の意義は、家族を差別し、地域から追い出した社会の責任を明らかにすること。私たち一人一人が加害者だということを明らかにしなければ差別はなくならない」(2019年6月27日付沖縄タイムス)

 ハンセン病訴訟・補償法が示した「2つの教訓」を今に生かすのは私たちの責任です。