アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記174・がん治療と自然治癒力、そして死

2021年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

☆がん治療と自然治癒力、そして死
 大腸がん手術から2カ月、標準治療の抗がん剤の副作用は、それほど強くはないが、確実に身体に影響を及ぼしている。手足のしびれ、胃のむかつき、食欲減退…。先日の血液検査では白血球などの数値が低下する「骨髄抑制」が起き、服薬を一時延期した。

 このまま、抗がん剤治療を続けていいのだろうか。

 そんな迷いの中で、『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書、11月30日のブログ参照)を読んだことは、なにやら因縁を感じる。福岡伸一氏(生物学者)はこう言っている。

<私は、ピュシス(自然)としてのウイルスに真の意味で対抗できるものは、ピュシスとしての自分自身の柔軟な免疫系だけだと思っています。…ピュシスとしての自分の身体性を信じる…身体性を信じる、というのは、ありのままのピュシスを受け入れるということでもあると思います。>

<病気は、社会のさまざまな現象と連続的につながっている。「病気に罹ること」も「病気が治ること」も、そんなに明確な線を引くことはできません。コロナ禍でも、死者を隔離して、家族であってもふれてはいけないということにされましたけれども、これは医学の「健康」と「病気」の線の引き方が非常に強い証拠だと思います。ポストコロナの時代には、もう少し違った形で病気を定義するということが必要なのかもしれません。>

<個体が死ぬということは、その生物が使っていた空間や時間や食料資源を他の生物に手渡し、自分の体という有機物を土壌細菌や植物などの他の生物に手渡すということですから…死は究極の利他行為です。ですから、病気や死というものを排除しようとする視点は非常にロゴス(論理)的な浄化思想と言えます。今こそ病気や死を肯定的に捉えるという視点が必要ではないかと思います。>

<人は必ず死にます。生命は有限です。有限であるからこそ、価値があり、輝きがあり、そして有限であるからこそ、その限定の中で利他性が意味を持ちます。ですから、私が思うには、長い時間軸で考えるべき生命系と、個別固有の有限時間の中にしかない自分の生命とのあいだを、いつも往還しながら、ピュシスとしての生命、つまりいつかは必ず死ぬものとしての生命を考えるしかないと思います。どのみち、早晩、私たちは、たとえウイルスに感染しなくても、いつかは必ず死を受け入れざるを得ないわけです。そういう諦観を持つことが、逆に生命を輝かせることになると思います。>

 「ウイルス」を「がん」に置き換えても同じだと思う。「科学的データ」では、抗がん剤(劇薬)が効けば「5年生存率」は十数パーセント延びるらしい。しかし、それにどれほどの意味があるだろうか。自然の細胞・身体を痛めつけてまで。

 抗がん剤はやめて、自分の身体性、自然治癒力にかけようかと思った。
 しかし、決断がつかず、もう1サイクル(2週間)薬を飲むことにした。結論を先に延ばした。
 福岡氏の言葉を手掛かりに、あらためて考えようと思う。

※「スマホデビュー」に伴い、ネット環境を変えました。なにぶんPCに疎いので、もしかしたらブログが数日更新されないことがあるかもしれません。でも、必ず修復してブログは続けますので、今後ともよろしくお願いいたします。


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コロナ禍ー日米安保・地位協定の2つの危険と沖縄

2021年12月04日 | コロナ禍と政治・社会

     

 新型コロナウイルスの「オミクロン株」に対して世界中が警戒を強め、岸田政権も「水際対策」を強化するとしています。しかし、日本ではどんなに政府が対策を強めようと、それをすり抜ける大きな穴があります。それは在日米軍です。

 米軍関係者は日本の「水際対策」の対象になりません。隔離はおろか自主待機の対象にもなりません。すべては米軍任せです。その結果、感染者が出てもどのような措置がとられたか日本政府にも明らかにされません。闇の中です。

 それが重大な事態を招いた事例が、10月末に発生したばかりです。沖縄のキャンプシュワブに所属する20代の男性米兵が、私服で米国から成田空港に到着。PCR検査で陽性が判明しましたが、翌日に民間機で成田から沖縄へ移動するというとんでもない事が起こったのです。成田で米兵であることを告げた瞬間、日本の規制から外れ、米軍の管理下に入ったからです(11月20日のブログ参照)。

 この治外法権の根源は、日米軍事同盟=安保条約であり、それを運用する日米地位協定です。

 時を同じくして、日米安保・地位協定がいかに日本の市民にとって危険なものであるかを示す事件が起こりました。青森県三沢基地所属の米軍F16戦闘機が燃料タンクを2つ、民家付近に投げ捨てたのです(11月30日、写真中)。

 器物落下・投機に限らず、米軍機による事故・事件は後を絶ちません。その元凶も日米地位協定です。

トラブルがなくならない背景には、日米地位協定の特例法により日本の航空法が米軍に適用されない問題が指摘され続けている。住民が危険性を訴えても、米軍の飛行を止める手段が日本にはないのが実態」(2日付琉球新報)

 青森の事件の1週間前、11月23日には沖縄・普天間基地(写真左)所属の米軍輸送機オスプレイから民家の敷地内に水筒が落下する“事故”がありました。器物落下はじめ沖縄での米軍機事故はまさに日常茶飯事です。

 ところが、同じ米軍機による事件・事故であるにも関わらず、その事後処理には沖縄と青森(「本土」)で大きな相違があることが、今回改めて浮き彫りになりました。

 3日付の琉球新報によれば、米軍は、青森では副司令官が地元自治体を訪れて「謝罪」しましたが(写真右)、沖縄では「謝罪」どころか、沖縄県が抗議のために呼び出してもこれを拒否しました。
 また日本政府も、青森では米軍に同型機の飛行中止を求めましたが(米軍は拒否)、沖縄では飛行中止を要求しませんでした。

 ここに沖縄に対する「構造的差別」が厳然としてあります。それは沖縄に米軍基地の70%が集中しているという量的問題だけでなく、沖縄が植民地的に蔑視され差別的に扱われているという現実を示しています。

 コロナ禍は日本の様々な宿痾を浮き彫りにしていますが、日米安保条約・地位協定の危険性、脅威はその根幹をなすものです。そしてその犠牲を最も集中的に受けているのが沖縄であることを私たち日本人は直視しなければなりません。

 


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秋篠宮の危険なメディア「反論基準」発言

2021年12月02日 | 天皇制と人権・民主主義

       
 皇嗣(皇太子に相当)である秋篠宮は11月25日、誕生日にあたっての会見を行いました(11月30日付各紙)。各紙は長女の結婚に関する質疑を大きく報じていますが、見過ごすことができないのは、秋篠宮が週刊誌などのメディア報道に対して「反論」を行うための「基準を設ける」必要があると言明したことです。秋篠宮はこう述べました。

「記事の中にはもちろん創作もあれば正確なことを書いていること両方混ざっているわけですね。…今言われたような関係の記事(「秋篠宮家そのものへの批判やバッシング」―引用者)に対して反論を出す場合にはですね,何かやはり一定のきちんとした基準を設けてその基準は考えなければいけないわけですけれども,それを超えたときには例えば反論をする,出すとかですね。何かそういう基準作りをしていく必要が私はあると思います。…今後もこういうことは多分続くでしょう。その辺も見据えて宮内庁とも相談しながら…考えていくことは私は必要だと思っております」(宮内庁HPより)

 一般市民の場合、虚偽・名誉毀損報道に対しては、訴訟も含めて反論・抗議していく権利は当然保障されています。しかし、皇嗣である秋篠宮が「反論」を当然視し、そのための「基準作り」の必要にまで言及したことには、少なくとも2つの問題があります。

 第1に、「象徴天皇制」の下、天皇・皇族に対するタブー・特別視が存在する日本で、メディアに対する皇族の反論・批判は、言論・報道の自由への圧力となる危険性が大きいことです。

 秋篠宮自身が言っているように、「反論」やそのための「基準づくり」は宮内庁(政府)と相談して行うことになります。それは一般市民のそれと違い、政府・政権のメディア批判と同じ意味をもちます。宮内庁はさっそく、「どういう在り方がふさわしいか研究していく」(11月30日朝日新聞デジタル)としています。

 第2に、憲法第4条は、天皇には「国政に関する権能」はないとしてその政治的言動を禁じています。皇嗣である秋篠宮のメディア批判はこれに抵触する可能性が大です。

 今回の秋篠宮発言は、長女の結婚という公私の区別があいまいな問題に関連して行われたものですが、たとえばメディアが天皇(制)を批判したり、その趣旨の論稿が掲載された場合、それを「天皇や皇族の名誉毀損」として、皇嗣が「反論・批判」することに道を開く恐れがないとは言えません。これがきわめて重大な政治的言動であることは言うまでもありません。

 今回の秋篠宮発言に関連して、さらに考えるべき問題があります。それは、そもそも週刊誌をはじめとする一部メディアやネットの皇室に対する「誹謗中傷」の下地をつくったのは、国家権力と天皇自身だったということです。

 憲法学者の横田耕一氏は、「世論」による皇族への誹謗・中傷について、こう指摘しています。

「これには天皇・皇族側にも原因がある。「開かれた皇室」を演出して私的生活が国民の面前にある程度開示されたこと、特に平成天皇が国事行為よりも「公的行為」や「お祈り」を天皇の務めとして前面化した…皇室は一種の「神聖家族」のみならず「理想の家族」「倫理的家族」といった像を示すようになり、その結果、公私にわたる行為への論評や批判・誹謗も多くなっている」(月刊「靖国・天皇問題情報センター通信」11月号)

 「開かれた皇室」は、敗戦後、日本が天皇裕仁の戦争・植民地支配責任を隠ぺい・棚上げし、「象徴天皇制」を定着させるためにとった基本政策です。「ミッチーブーム」(1959年)が大きな画期となったことは周知の事実です。

 自民党政権は日米安保体制と一体の「象徴天皇制」を維持するため、皇族の私生活をさらし、「開かれた皇室」政策を推進してきたのです。

 しかし、皇族にも基本的人権がある以上、「誹謗・中傷」を座して甘受すべきであるとは言えません。ではどうするか。この矛盾の根源が「象徴天皇制」自体にあることに目を向ける必要があります。

「言うまでもなく、皇族が一般国民と同様の「人権」を獲得する最終的道は、制度(「象徴天皇制」―引用者)の終焉しかない」(横田耕一氏、前掲)のです。


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「危機の時代」と「人種主義」と「天皇制」

2021年11月30日 | コロナ禍と政治・社会

     
 「今の政治、経済、社会、科学から抜け落ちていること、それは「いのち」に対する基本的な態度の表明、つまり、生命哲学です。」

 表紙の裏にこう書かれている『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然の歌を聴け』(福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史、集英社新書2021年9月)はたいへん示唆に富んだ本です。

 取り上げられている問題は、「自然(ピュシス)とテクノロジー(「ロゴス」)」「食」「利他性」「障がい」「ふれる」「当事者性」「病気・死」など、多岐にわたっています。ここではその中から、コロナ禍があぶり出した日本社会の排他性、差別性とその元凶について考えます。

 藤原辰史京都大准教授はこう指摘します。

危機の時代において、さまざまな不安にかられている人々が求めがちなのは、分かりやすく、単純なメッセージです。…1929年の世界恐慌の後、ナチスが人々に語ったのも、「血と土」という、やはりとても分かりやすいメッセージでした。…「アーリア人種は優秀であるが、そうでない人種は劣等だ」という分断線」

危険で甘い人種主義の罠は今も生き続けています。日本ではコロナの感染者が少ないことを受けて政治家が発した「日本人は民度が高いから」という言葉は、「血」で分断を図る、明らかにナチス的な発言ですし、自治体が保育所や幼稚園などに配布するマスクを朝鮮学校の幼稚部には配らなかったというさいたま市の判断も、のちに撤回したとはいえ、やはり、「境界線の外」にいる人々を容赦なく排除したものと言えます」

「自分たちが健康で清潔でありたいからと、「汚れた」人々を排除しようとする動きは、水俣病でもありましたし、最近では、福島第一原発事故の後、放射性物資を浴びた人々は…差別されました。そうした強烈な排除の目線がつくられていくときには、同時に、国家は「私たちは健康で清潔である」という物語を展開していきます。この並行した物語に取り込まれることで差別や排除が起こっていく

 この指摘から、改めて想起したのは、その東電福島原発「事故」直後の2011年3月16日、天皇明仁(当時)が行った「ビデオメッセージ」(史上初、写真中)です。この中で、明仁天皇はこう述べました。

「海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」(宮内庁HPり)

 ここには、「日本人」は「秩序ある」国民だと海外で認められているという優越思想がにじみ出ています。そしてその上に立って「不幸な時期」すなわち危機の時代を乗り越えることを訴えています。

 これこそ、ナチスの「血と土」に匹敵する“日本人は優秀”という人種主義であり、コロナ禍で自民党政権が発した「日本人は民度が高い」発言と通底するものです。

 そして、コロナ禍でまん延している「消毒文化・潔癖主義」(藤原氏)の根底にあるのも、「天皇家」というまさに「潔癖」な血統思想ではないでしょうか。それは、小室圭氏に対するメディア、ネットのバッシングとも無関係ではないでしょう。

 ここに、「象徴天皇制」の今日におけるきわめて危険な役割があります。天皇を頂点とする「血統」「人種主義」こそ日本に根深い差別の根源です。「危機の時代」だからこそ、それは国家権力にとって存在意義があります。コロナ禍の中で進行する戦争国家化で、その国家権力にとっての利用価値がますます大きくなる恐れがあります。


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日本はなぜ「生理」がタブー視されてきたのか

2021年11月29日 | 天皇制と政治・社会

     

 生理痛は病気であるにもかかわらず、生理休暇すら取りづらい日本の職場。辛くても家事労働を休めない男尊女卑の家庭。そうした生理への無理解の中で、とりわけ苦しんでいるのが、車いすや介助を必要とする障がいを持つ女性です。
 Eテレ「バリバラ」は2週(11月18日、25日)にわったて「生理を語ろう 障害×生理の悩み」を放送しました。その中からいくつかの事例を紹介します。

  • 外出時に最も困るのは、多機能トイレが圧倒的に少ないこと。ベッド付はさらに少ない。そのためナプキンを取り換えることができない。多機能トイレを求めて1時間遠回りしたこともある。

  • 脳性マヒの女性は、13歳の時学校で生理が始まったが、そのときヘルパーに「臭い、汚い」と言われた。それがトラウマになり、今でもトイレ(生理)介助を受けることに躊躇がある。
  • その女性は施設で、本人の意思にかかわらず男性職員が担当になり、入浴やトイレの介助を男性職員から受けざるをえなかった。女性職員からは、「子どもが産めるか分からないのだから、生理はいらないでしょう。面倒だから手術(子宮摘出)で生理を止めなさい」と言われた。

 こうした生理への無理解・偏見は、正しく教えない日本の学校教育の影響が大きいと思われます。

 外国の状況は違うようです。たとえば台湾では、小学校で男子児童にも生理についての教育がちゃんと行われています。知識として教えるだけではなく、担任は男子児童に「お母さんが生理のとき、どうしますか?」と問いかけます。男子児童は「白湯をつくります。お母さんが喜ぶから」と答えていました(11月3日放送NHK「ハロー生理」)。生理中の母親への配慮まで教育されるのです(写真中は妻の生理中の家事分担について話し合う台湾の夫婦=同番組から)

 学校教育をはじめとする日本社会の「生理タブー」には、さらに根い元凶があると考えられます。それは天皇制です。

 天皇制の宗教的ルーツである神道は、「血」を不浄なものとしています。たとえば、天皇家の祖先とされる天照大神を祀っている伊勢神宮には、『皇太神宮儀式帳』なるものがあり、その中に14の「忌詞(いみことば)」が挙げられています。そこには「死」や「病」などとともに、「血」が含まれています(小倉慈司・山口輝臣著『天皇と宗教』、講談社学術文庫2018年)より)。

 「血」を不浄なものとして遠ざける神道は、生理のある女性を相撲の土俵に上げない、「入山禁止」など、女性差別の風習を今日まで残しています。

 そうした女性蔑視・差別を国家が是認し、法的・制度的に固定化しているのが、「象徴天皇制」です。
 皇室典範で女性を皇位継承から排除していることをはじめ、皇位継承時の「剣璽等承継の儀」(国事行為、写真右)に女性皇族を同席させないなど、皇室の神事には女性差別が多く、日本政府はその一部を「国事行為」として公認しています。

 根深い女性蔑視・差別・ジェンダー問題の根源には天皇制があり、侵略戦争・植民地支配を強行した明治以降の近代天皇制がそれを固定化し助長してきました。
 諸外国と比べても異常な日本人・日本社会の「生理タブー」は、そうした天皇制の宗教性・歴史と無関係ではないと考えます。


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