アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

強まる「辺野古移設推進派」の動き

2013年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 29日の「普天間基地ゲート前行動・1年集会」で、たいへん気になる報告がありました。大山ゲート前で毎朝抗議活動を行っている「命どぅ宝・さらばんじぬ会」の宮平光一さんの話です。「オスプレイファンクラブ」など、政府・防衛省と一体となって抗議活動に敵対する勢力の動きが強まっているというのです。その手口はきわめて巧妙かつ悪質です。 
 宮平さんによれば、かれらは3月ごろからゲート前に現れ、抗議活動をしている人たちを撮影しはじめました。理由を聞くと、「那覇のPTA関係者で、平和教育のために撮影している」と返答(彼らにはそれが「平和教育」だとでも言いたいのでしょうか)。やがて公然と本性を表し、今では抗議活動の反対側で、「Thank you for your protecting」(守ってくれてありがとう)などと米軍にエールを送る横断幕を持って立つようになりました(写真左奥)。そんな彼らに米軍から「差し入れ」があったこともあるとか。
 さらに、「学生です」とか「マスコミの者です。FM○○の者です」などと言って抗議活動をしている人に話しかけ、その話のやりとりをFaceBookで流すということも。許せないのは、どこで調べたのか抗議活動をしている人の自宅や職場に電話をし、「お宅の○○さんはこんなことをしているが、いいのか」などと圧力をかけた例もあるとか。とんでもない話です。宮平さんは、「大山ゲート前はこちら(オスプレイ抗議)とあちら(推進)が25人前後でほぼ同数。私たちは彼らとのやりとりでエネルギーを使わないでいつも通り行動するようにしていますが、一人でも多くの人にゲート前に来てほしい」と訴えました。
 ゲート前での「ファンクラブ」の行動は大山だけではありません。野嵩で抗議活動を続けている赤嶺和伸さんの話では、米軍フェンスにくくりつけた「抗議の折り鶴」を、かれらは平気で切り捨てていきます。
 普天間基地の辺野古移設を推進する勢力の動きも活発になっています。彼らは「普天間基地の危険性を除去し辺野古の米軍基地に統合・縮小を実現する署名推進委員会」(委員長・中地昌平県工業連合会顧問・元第一製糖会長)なるものを結成し、辺野古移設推進の署名活動を展開しています。女の子を使ったチラシ(写真右)で、「私たちの願いは、沖縄の安全と安心。子供たちのために確かな一歩を」などと強弁。23人の「賛同人一覧表」には、嶺井政治(元副知事・元沖縄電力会長)、島袋吉和(前名護市長)ら地元政界、経済界、大学教授のほか、公約破りの自民党・西銘恒三郎衆院議員、島尻安伊子参院議員も名を連ねています。
 彼らの活動は今のところけっして県民に支持されているようには見えません。しかし油断は大敵です。辺野古移設問題の天王山、来年1月の名護市長選挙へ向けて、まさにつばぜり合いの様相になってきました。


普天間ゲート前行動1年・・・あきらめない!

2013年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 オスプレイが強行配備された10月1日を前に、「普天間基地ゲート前行動1年集会」が28日、宜野湾市中央公民館で行われました。県民の総意を無視してオスプレイ配備が強行され、その後も「オール沖縄」の「建白書」が一顧だにされないなど、これでもかとばかりに踏みつけにされながら、それでもたたかい続ける沖縄の人びとの、痛々しいばかりの決意が、そこにはあふれていました。満席の250余人の参加者の心は、厳しく辛い状況にありながら、ときに笑いを、ときに指笛を交えながら、おそらく、一つの言葉でつながっていたでしょう。「あきらめない!」

 主催者を代表してあいさつした普天間爆音訴訟原告団の島田善次団長(写真左)は、「今後どういうたたかいを構築すればいいのか、どんな策があるのか、ゆうべからずっと考えていたが、いい考えは浮かばなかった」と率直に切り出しました。そして、ある民事訴訟で差別的な判決を受けた女性が毎日毎日裁判官に働きかけた結果、次の裁判で逆転勝訴した実話を紹介し、こう述べました。「この女性は自分の主張を通しただけではなく、裁判官の人間性を回復させた。われわれのたたかいは、日本政府の“人間性”を回復させるたたかいでもある。それができるのは沖縄だけだ。あきらめてはいかん」。
 
野嵩ゲート前で活動を続けている赤嶺和伸さんは、ゲート前を通学する小学生の写真を示し、「重いランドセルをしょっている子どもの姿に沖縄が重なる。100人の中の1人の子ども(人口比1%の沖縄)が、74個のランドセル(74%の米軍基地)を背負わされている。あとの99人は見て見ぬふりだ」「しかしこの子たちが成人式を迎えるまでには普天間基地は必ず撤去させる。そしてあの真ん中で盛大な成人式をやってあげる」。大きな拍手に包まれました。
 
素晴らしい歌声を聞かせてくれた川満美幸さん(ハーフセンチュリー宮森)は、「1人の力は小さいけれど、集まれば暗い夜空を照らす星になる」と高校時代に友人が作った詩を紹介。さらに、宮森小事件(米軍ジェット機墜落)の遺族たちの、「忘れたいけど忘れられない。忘れてほしくない」との思いを胸に、「今この瞬間も仲間たちがニューヨークで訴えています。沖縄だからこそできる平和の発信を、これからもやっていきたい」。

閉会あいさつで城間勝さん(平和市民連絡会)は、「こんなに県民がそろって反対しているのに国は強行する。こんな所がほかにあるか。沖縄だけだ」と怒りをぶつけました。確かに沖縄だけです。でもそれは、こんなに県民がそろって、継続して「国策」に抗っているのが、抗う力があるのが、沖縄だけだからではないでしょうか。

沖縄は確かに差別されています。それとのたたかいはしかし、沖縄だからこそできること、沖縄にしかできないこと。それは沖縄の人びとに託された崇高な歴史的使命だと言えるのではないでしょうか。
 
そう思いながら、でもそれは、沖縄の人びとのこれまでの苦難・屈辱を知らないヤマトの私が口にすべきことではない、とも思うのです。

 <今日の注目記事>(29日付琉球新報1面トップ)

 ☆<オスプレイ異常飛行 普天間飛行場 低空ホバリング1時間 着陸後に緊急車 両>
 「28日午後6時50分すぎ、普天間飛行場に着陸した垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ1機に複数の緊急車両が近づき、作業員が機体の腹部などを調べる様子が確認された。機体に何らかのトラブルがあったとみられる。機体の確認作業は午後8時ごろまで約1時間続いた」
 ※欠陥機・オスプレイはまさにいつ墜落するか分かりません。あってはならない事態ですが、万一そういう事態が発生した場合、この国はどう変わるでしょうか。変わることができるでしょうか。


亀次郎とピカソを結び付けたもの

2013年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_2

Photo_3

瀬長亀次郎と民衆資料の「不屈館」(那覇市若狭)が、秋の企画として美術展を開催しています(10月末まで)。亀次郎ゆかりの美術品を展示したものです。例えば、85歳の誕生日に人間国宝の金城次郎氏から贈られた壺屋焼きの壺、沖縄独特の技法による漆器の大型飾り盆、儀間比呂志氏の版画、照屋勇賢氏の紅型など、一流の品々が揃い、これだけで琉球・沖縄美術の粋を総覧できるほどです。
 その中でもとくに注目されるのが、パブロ・ピカソ(1881~1973)の直筆の絵2点です(写真)。1971年に亀次郎が「インドシナ諸国民の独立と平和のためのパリ世界集会」に参加したさい、フランスの平和委員会から贈られました。
 
世界平和評議会は1969年、平和に尽くした世界の28人に、初代会長の名にちなんだジョリオ・キューリー賞を授与しました。この賞を日本人として唯一、初めて受賞したのが亀次郎でした。賞状とともに送られた金のメダルの裏にデザインされていたのがピカソの鳩です。その縁もあって、亀次郎は71年のパリ世界集会でぜひピカソに会いたいと希望しました。が、日程上叶いませんでした。代わりに贈られたのがこの作品です。亀次郎が国会議員当時、2枚の絵は国会議員会館の部屋に飾られていました。
 1973年4月9日、ピカソ死去の報を受け、亀次郎は日記にこう記しました(日記の実物も展示されています)。「ピカソが死んだ。電波にのって世界に伝わった。…(ピカソは)『パリ世界集会』に、わたくしはつねにインドシナ人民の側にあるとのメッセージをよせられた。…ピカソは世紀の繪の巨匠であっただけではない。ナチスに断固反対してフランスのために、世界のために、つねに戦争と独裁に反対して解放のためにたたかう人間の側にたって描きつづけた。このような巨匠を失ったのは、世界の大きな損失である」。
 ピカソの代表作は「ゲルニカ」です。1937年4月26日、ピカソの故国・スペインのゲルニカが、ナチス・ドイツによって無差別空襲を受けました。世界初の無差別爆撃といわれ、ピカソに大きな衝撃を与えました。ピカソの作風が変わる転機だったといわれています。それから7年後の1944年10月10日、那覇はアメリカによって無差別空襲を受けます(「10・10空襲」)。沖縄戦の実質的な開始です。ここにも、亀次郎とピカソをつなぐものがあります。
 ピカソはこう言っています。「芸術家を何とお思いか…芸術家は政治的な存在でもあり、世の中の悲しみ、情熱、あるいは歓びにもつねに関心を抱き、ただその印象にそって自らをかたちづくっている。他人に興味をもたずにすませるはずもない。日々これほど広く深く接する暮らしそのものから、冷めた無関心を装って、自らを切り離すことなどできるはずもない」(『ピカソの戦争<ゲルニカ>の真実』から)。
 仏共産党員となって政治・平和活動にも力を込めたピカソ。芸術家としての、人間としてのその立脚点、使命感こそ亀次郎を引き付けたものだったのでしょう。

 <今日の注目記事>(28日付沖縄タイムス2面平安名純代米国特約記者記事)

 ☆<首相演説 意図は何? 米映画の犯罪者せりふもじる 米メディアが疑問>

 「安倍晋三首相が米ニューヨーク証券取引所で25日に行った演説が米国で話題を呼んでいる。日本経済の再生について自身の手法をアピールしたものだが、米人気映画で犯罪者に転落する金融街の大物役を引き合いにしたからだ。…(安倍首相は)『(映画の主人公の)ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには3語で十分です。「Buy my Abenomics」(アベノミクスを買って!)』とアピールした。ゲッコーは、企業買収で富を築くがインサイダー取引で有罪となる役で、安倍首相がもじったゲッコーの名せりふ『貪欲は善だ(Greed is good)』は、米経済が過熱した1980年代を象徴する言葉となった。…米ABCやNBCなど大手テレビ局は、首相の演説の意図に疑問を投げ掛けた」
 ※引き合いに出された映画「ウォール街」のオリバー・ストーン監督も苦笑していることでしょう。安倍首相の口先外交の底の浅さを示すエピソードです。国連演説での「女性重視」発言のごまかしも許せません。


ヘイトスピーチと闘う辛さんらの決意

2013年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム

Shinsugo

在日の人たちなどを口汚く攻撃するヘイトスピーチ。根底に横たわるこの国の差別主義(レイシズム)。それを許してはいけないと、辛淑玉(しんすご)さん(写真はHPから)らが立ち上がりました。国際ネットワーク「のりこえねっと」の設立です。25日に東京で設立記者会見を行ったと新聞で知りました。代表世話人には沖縄からも、知花昌一さん、高里鈴代さんが加わっています。辛さんとは旧知の仲ですが、いつも教えられることばかり。今回もそうです。活動に注目し、できることで協力したいと思います。
 ヘイトスピーチの本質は何か、われわれとどういう関わりがあるのか。「設立宣言」が端的に教えてくれています。実に素晴らしい宣言です。一人でも多くの人にこの宣言を読んでいただきたいので、全文転載します。
 
<設立宣言>
 今、在日韓国・朝鮮人を標的とするヘイトスピーチが各地で凄まじい勢いで拡大している。多文化のもとで共生する人びとの平穏な生活を切り裂き、民族差別や人種偏見に満ちた、侮辱的、脅迫的言動が繰り返されている。
 ヘイトスピーチは、街頭だけでなく、ネットやさまざまなメディアでも繰り広げられ、差別、偏見、攻撃の言説を執拗に展開している。なかでも日本軍性奴隷被害者(いわゆる「従軍慰安婦」)とされた女性たちに向けられる侮辱と憎悪の表現は、人権の価値を根こそぎ破壊するレベルにさえ達している。
 
ナチス時代のユダヤ人などへの迫害、かつての南アフリカでのアパルトヘイトやアメリカ南部におけるKKK団のリンチを想起させるような激しい侮辱と憎悪表現に対して、日本社会からの反応は、いまだあまりに鈍い。
 
在日韓国・朝鮮人は、日本による侵略と植民地支配によって生み出された。その存在の歴史性に対する決定的な無知と、「言論の自由」の尊重という口実のもとで、この社会の多数派は、この卑劣で暴力的なヘイトスピーチを黙認し続けている。
 
ヘイトスピーチは、当面の標的とする在日韓国・朝鮮人だけではなく、女性を敵視し、ウチナーンチュ、被差別部落の出身者、婚外子、社会が障害となっている人たち(いわゆる「障がい者」)、性的少数者などの、社会的少数者にも攻撃を加えてきた。彼らが攻撃する人々は、日本の戦後体制の中で、人格権や生存権を政策的に奪われたり無視されたりしてきた人々と見事に重なっている。この意味において、日本におけるヘイトスピーチは、戦後体制が政策的に作り出してきた差別そのものなのだ。
 本質に立ち返って考えたい。ヘイトスピーチが傷つけるものとは何なのか、ということを。それは、在日韓国・朝鮮人だけではない。社会的少数派だけでもない。ヘイトスピーチは、良心を持つあらゆる人々を傷つけるのだ。国籍も、民族も、性別も、出自も関係なく、すべての人間には普遍的な尊厳と人権があると考える人々の信念、そして、なによりも平和に生きようとする人々の精神に対して、言葉と物理的な暴力で憎悪を投げつけ、侮辱し、傷を負わせる。国際社会がこれまで長い苦しみの歴史の中で築いてきた、世界人権宣言にも謳われる普遍的な人権概念を攻撃し、その価値をあざ笑い、踏みにじる。これが、ヘイトスピーチの本質なのだ。
 
だから、この暴力に対峙し、決然と対決することは、単なるマイノリティ集団の利益のための行動ではない。また、一国の国内問題を解決するためのものでもない。民族や国境の壁を超えて、人権の普遍的価値を擁護し、防衛する行動でもあるのだ。
 
それは、この日本社会にあっては、戦後体制によって市民的権利を剥奪されてきた人々の「市民として生きる権利」を希求する行動以外の何ものでもない。
 ここであらためて確認し、明記しておく。
 
人間の涙の歴史を無に帰そうとする挑戦に、私たちは、決して屈しない。

 <今日の注目記事>(27日沖縄タイムス2面)

 ☆<オスプレイ訓練 滋賀県で説明会 非難の声相次ぐ>
 「米軍新型輸送機MVオスプレイが参加し、滋賀県高島市の陸上自衛隊饗庭野演習場で行う自衛隊と米海兵隊の共同訓練について、防衛省は26日、高島市内の公民館で説明会を開き、市民らにオスプレイの参加日程などを説明した。/説明によると10月7~18日の期間中、16日の訓練に1~2機が参加。10日の参加も調整中としている。/午後7時ごろに始まった説明会では『訓練直前の説明会なんて、しらじらしい』『沖縄の負担軽減にはならない』などと非難の声が相次いだ。防衛省が同9時ごろに質問を打ち切ると、『質問したい人がまだいるのに失礼だ』と不満が出た」

※政府・防衛省の住民無視は沖縄も本土も同じです。沖縄の「負担軽減」にならないことは本土の人たちも見抜いています。記事は共同配信と思われますが、こうした本土の基地をめぐる動きは沖縄県紙でもっと大きく扱われていいと思います(琉球新報は3面ベタでした)。

 


平和講座で再確認「元凶・日米安保条約」

2013年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 毎月1回行われている平和教育講座(主催・沖縄平和ネットワーク)が20日那覇・教育福祉会館でありました。今月のテーマは「普天間・高江と日米安保条約」。講師は与儀喜一郎さん(平和ネット基地部会=写真右。写真左は沖縄での米軍・自衛隊共同訓練)です。分かったつもりでいた日米安保条約の問題点・本質が豊富な資料で改めて明らかになりました。
 ①日米安保は日本を守らない・・・安保条約には米軍の日本防衛義務は明記されていません。日本・極東に「脅威」が生じたときは、「協議する」(第4条)としているだけできわめてあいまいです。さらに日本に「武力攻撃」があった場合は、「自国の憲法上の規定に従って対処する」(第5条)としていますが、アメリカの憲法には米軍駐留国(日本など)の防衛を行うという規定はありません。かつて韓国が竹島を占領した時も、ソ連が歯舞・色丹を実行支配した時も、米軍は動こうとはしませんでした。アメリカはあくまでも自国の利益を守るために海外駐留しているのであり、駐留国を守るという発想はないのです。日本人が日米安保を「支持」する理由の多くは「日本を守ってくれるから」だと思われますが、それがまったく幻想であることを知る必要があります。
 ②日米地位協定の根拠・・・米軍基地への利便提供・治外法権、米兵犯罪の温床の根源が日米地位協定であることはよく知られています。その改定は沖縄では自民党まで口にします。しかし、その地位協定は日米安保条約第6条によって制定されることが決められているのです。地位協定の根源にメスを入れようと思えば日米安保自体を見直さざるを得ません。
 ③日本の通告で廃棄される・・・条約締結後10年(1970年)からは、日米どちらかの通告でこの条約は1年後に廃棄されることが明記されています(第10条)。よく知られていることですが、その意味をもう一度かみしめる必要があります。安保条約自体が、自らの廃棄を想定しているのです。それを日本の側があたかも不磨大典のよう聖域化し、なくせないものだととらえるのは、思考停止以外のなにものでもありません。
 沖縄における「オスプレイ反対」「普天間基地の辺野古移設反対」の運動も、「日米地位協定見直し」では一致するものの、「日米安保条約廃棄」にまで至らない主張が少なくありません。一致点になっていないというより、はじめから安保条約は棚上げされている印象があります。そのことと「基地は本土へ」論の広がりは無関係ではないと思います。
 日米安保条約こそ今日の沖縄と日本本土の主権侵害、軍事的・経済的危機の元凶です。そのことを常に問い続け、一致点にしていかなければならないと改めて痛感します。

 <今日の注目記事>(26日付沖縄タイムス1面トップ、社会面見開き)
   ※琉球新報も1面、社会面
 ☆<石垣市教育長に不信任 市議会決議 言動を問題視 法的拘束力なし>
 「石垣市議会(伊良皆高信議長)は25日の市議会9月定例会最終日で、議員提案された市教育委員会の玉津博克教育長の不信任決議案を無記名投票で採決し、賛成11、反対7の賛成多数で可決した。決議に法的拘束力はなく、議会後、玉津教育長は『意見を真摯に受け止め、業務にまい進したい』と職務を継続する姿勢を示した。/決議では、玉津教育長が19日の一般質問で県内の平和教育について『思考停止』と発言したことや、琉球大学との教育活動支援・協力事業で特定の准教授を事業から除外するよう求めた問題を挙げ、『公平中立を堅持しなければならない立場を大きく逸脱するもので、その資質が問われている』と指摘した」
 ※不信任案の可決は中立・与党議員4人が賛成に回ったため。玉津氏の個人的問題性の要素が大きいと言えますが、平和教育攻撃発言に対して市議会がクギを刺した意義は小さくありません。玉津氏の任命者であり、不信任案可決後もなお玉津氏を擁護する中山義隆石垣市長の責任が厳しく問われなければなりません。


「沖縄戦の図」が語りかけるもの

2013年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3Photo_4 沖縄に来たらすぐに行こうと思っていた佐喜眞美術館(宜野湾市)に、23日やっと行くことができました。佐喜眞美術館といえば丸木位里・俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」(1984年、4m×8.m=写真左はポスター)です。3つの展示室の中の一番奥、最も広い展示室の正面にそれは掲げられています。展示室のドアは開けてあり、最初の入口に立った瞬間、目に飛び込んできます。もともとこの美術館は、佐喜眞道夫氏(館長=写真右)が丸木夫妻と出会い、この絵を寄贈されたものの、沖縄には受け取る美術館がなかったことから、「では自分で美術館を」と決意して建てたもの(1994年)。佐喜眞美術館と「沖縄戦の図」は一体不可分なのです。
 巨大な絵の前には常に椅子が3つ、じっくり座って見てください、と置かれています。佐喜眞館長はこの場を「もの想う空間」と名付けています。「自分が何者かを考える所」です。事実、座って見ると、実に多くのことを語りかけている絵だと分かります。左下に丸木夫妻の言葉が書かれています。「恥かしめを受けぬ前に死ね 手りゅうだんを下さい 鎌や鍬でカミソリでやれ 親は子を夫は妻を 若ものはとしよりを エメラルドの海は紅に 集団自決とは 手を下さない虐殺である」
 
渡嘉敷島の「集団自決」(強制死)が主題ですが、それだけではありません。右下には「痛恨之碑」。久米島の日本兵による朝鮮人虐殺です。この絵には多くの人間が描かれていますが、兵士は1人もいません。女性、子ども、老人ばかりです。「一番ひどい目に遭う者たちの側から戦争を見た絵だから」(佐喜眞館長)です。多くの人間の中で、目に瞳があるのは、生き残った中央の3人の子どもだけです。その目で見たものは決して忘れないと言わんばかりに。右下の頭蓋骨の山の中には目を持ったものがいくつかあります。死者となって沖縄の行く末を見つめているように。私は右上に風車(カジマヤー)が9個描かれているのに目が止まりました。地獄絵に似つかわしくない風車。それだけに子どもたちのあわれさが際立ちます。同時に、カジマヤーは沖縄の97歳の長寿祝いの別名でもあります。戦争さえなければカジマヤーで飾られたお年寄りも多かったことでしょう…。
 佐喜眞美術館の魅力は館内だけではありません。庭に小さな石の山があります。その数23万6095個。今は消えていますが、1つひとつに通し番号が書かれていました。沖縄戦で犠牲になった人の数です。県内の高校生たちがつくったオブジェ「石の声」です。庭の端には沖縄独特の亀甲墓があります。美術館を設計した真喜志好一さんの構想です。屋上に上がれば、眼下に普天間基地が見渡せます。ここはもともと普天間基地の中。それを佐喜眞館長が米軍、沖縄防衛局と粘り強く交渉し、一部返還させたものです。佐喜眞美術館は中も外も、まさに沖縄の縮図なのです。
 
1時間の間に修学旅行の団体が2校来ました。そのたびに佐喜眞館長は「沖縄戦の図」の前で約20分間説明します。多い日は1日8回に及ぶことも。「この絵はただ眺める絵ではありません。何を感じますか?何を考えますか?」。多くの生徒の修学旅行がこの問い掛けから始まります。

 <今日の注目記事>(25日付沖縄タイムス社会面)

 ☆<「思考停止」撤回要請 石垣の団体「平和教育を否定」>
 「石垣市の玉津博克教育長が19日の市議会一般質問で県内の平和教育を『戦争の嫌悪感で思考停止』まどと発言したのに対し、市民でつくる『平和憲法を守る八重山連絡協議会』(渡辺賢一会長)が24日、市教委を訪れ、発言の撤回を求めた。/渡辺会長は『教育長の発言は教育現場を正確に把握せず、これまでの平和教育を否定し、教師との信頼関係を損なうもの』と指摘。…玉津教育長は取材に対し、『要請書をまだ見ていない』と言及を避けた」
 ※石垣市は沖縄における教育反動化の牽引車です。玉津発言は撤回させるまで注視していく必要があります。


めざせ「サイクリング都市那覇」!

2013年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_6Photo_8

21、22両日、那覇市国際通りの広場で、自家用車の使用を見直そうという催し「なはモビリティウィーク&カーフリーデー」が行われました。9月22日は国際的「ノーカーデー」でした。沖縄は車不可欠社会です。人口千人当たりの新規運転免許交付件数は、全国平均9・5件に対し沖縄は13・5件と断トツ1位。その主な原因は公共交通機関の貧困です。そんな現状をなんとかしようという催しです。歩いて那覇の魅力を再発見する「なはまちなかウォーク」や自転車で散策する「自転車まちめぐり」など多彩な企画でした(写真左は立ち乗り電動二輪車セグウェイの試乗)。
 
私はパネルで紹介されたヨーロッパ諸国の取り組みに興味を引かれました。とくにデンマークの首都コペンハーゲンです(写真右)。同市は2015年までに「世界一のサイクリング都市」を目指し自転車の普及に市を挙げて取り組んでいます。市内11カ所に無料で利用できるシティバイク2000台を設置。自転車専用道路を約300㌔整備。特に交通量が多い交差点では自転車専用の小型信号機を設置。すでに市民の36%が自転車通勤していますが、2015年までにこれを50%にする目標です。そうなれば年間8万㌧のCO2が削減されるそうです。
 
これを見て思いました。那覇こそ「サイクリング都市」を目指すべきだと。公共交通の整備・改善は不可欠ですが、自転車も決め手になり得ます。歴史・平和・自然の観光都市那覇にふさわしいのは自転車です。かく言う私の“愛車”が自転車。毎日愛車にまたがっている者として、那覇をサイクリング都市にするためにいくつか提言します。
 
    坂道対策…なんといっても那覇の自転車の大敵は坂道です。急な坂がじつに多いのです。少々回り道をしてもいいから自転車を降りなくてすむようにしていただきたい。難問ですが、専門家の知恵に期待します。
 
    無料レンタサイクル…コペンハーゲンにならって、市内各所に配置しましょう。坂道が多いことを考えて、ギアチェンジ付きに(電動自転車がベストですが予算的に無理でしょうから)。
 
    観光客用無料レンタサイクル…市民だけでなく観光客に無料で貸し出しましょう。昨年宮城県石巻市へ行ったら無料レンタサイクルがあり、たいへん便利でした。那覇でこそこれを実施し、観光のウリにしましょう。その際、貸し出し場所の告知やサイクル用マップの配布など周辺整備も不可欠です。
 
    自転車専用道路…現在はほとんどありません。これもコペンハーゲンにならって計画的に整備しましょう。
 
    メンテナンススポット…那覇には自転車屋さんが少なくて困っています。バイク屋さんは結構あるので、自転車屋さんだけでなくバイク屋さんとも提携し、パンク修理、無料空気入れなどメンテナンスが手軽に受けられる場所をつくりましょう。無料で飲める冷水器が設置されると最高ですね。
 
課題は多いですが、環境のためにも、家計のためにも、市民のためにも、観光客のためにも、めざせ「サイクリング都市那覇」!

 <今日の注目記事>(24日付琉球新報1面トップ)

 ☆<「差別全国へ訴え」 全国県人会交流会 アピール全会一致 県民と行動共に 基地撤去も初要求 兵庫・尼崎市>
 「2年に1度、全国の沖縄県人会が集う第12回全国沖縄県人会交流会が23日、全国14団体、約220人が参加して兵庫県尼崎市で開かれた。交流会では、オスプレイの沖縄配備や、沖縄が日本の施政権から切り離された『主権回復の日』として祝ったことを取り上げ『沖縄への基地の押し付け、本土の無関心が(沖縄への)「構造的差別」を生み出している』とし『本土の沖縄県人会は各都道府県で沖縄県・県民と行動を共にしていく』とのアピールを全会一致で採択した」
 ※アピールで「基地撤去」を要求したのが初めてだというのは逆に驚きですが、これまで親睦にすぎなかった同会も様変わりせざるを得ないほど、「沖縄」は変わってきているということでしょうか。


“沖縄のチャプリン”の人間性と先見性

2013年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 「終戦直後、避難民のひしめく旧石川市(現うるま市)で、家々を回って歌い、踊った男がいた。後に“沖縄のチャプリン”と呼ばれ親しまれた。戦場で傷ついた人々の心を笑いで癒し、希望をともした。歯科医の傍ら、芸能の復興と地域社会の再生に貢献した旧石川市の英雄」(うるま市の説明文)
 
さてこの人物は誰でしょう。分かる人はよほどの沖縄通です。その人の名は小那覇舞天(おなはブーテン、本名・全孝、1897~1969)。映画「ひまわり」で、市場に芸人がやってきて人々が取り囲む場面がありました。あれがブーテンです。大きな業績を残した割には資料が乏しく、あまり知られていません。そこで、ブーテンと交流があった人たちの証言によってその人物像を明らかにしようと、「ブーテンを語る集い」が22日うるま市内の舞天館でありました(主催は「石川・宮森630会」)。主催者も驚くほど多数(約100人)が参加し、立ち見が出るほどの盛況。ブーテン人気を実証しました。私は戦後沖縄社会の断面が知れるのではないかと出席しました。期待以上の発見がありました。
 
「集い」ではブーテンの長男・小那覇全人さんが講演。「父は天性のユーモリストで、自分が有名になることには興味を示さず、どうすれば人を喜ばせるか常に考えていた」と素顔を紹介しました。思った通りのエンターテイナーでした。しかし、ブーテンの素晴らしさはそれだけではありませんでした。ブーテンが生みの親となったフォーシスターズの佐次田久美子さんがエピソードを語りました。「移動中の車の中では政治の話ばかりされていました。この先沖縄はどうなっていくのだろと、そんな話ばかりでした」。笑いの奥に、沖縄の現実と将来への不安と苦悩がうかがえます。
 
さらに驚いたのは、その先見性です。2つあります。1つは沖縄語(うちなーぐち)です。「方言札」(方言を使った者への罰)で標準語が奨励されていた時代に、ブーテンはあえて漫談をうちなーぐちで貫き、うちなーぐちで多くの歌をつくりました。まるで今日の「しまくとぅばブーム」を半世紀前に予見していたかのようです。もう1つは、女性の社会進出です。当時の沖縄社会(芸能界)では女性が舞台に立つことはできなかったといいます。そんな男尊女卑の社会で、ブーテンはフォーシスターズを世に送り出したほか、乙姫劇団を育てハワイ公演まで行うなど、意識的に女性の活躍に道を開いたのです。人情味にあふれ、地域の人々に慕われ愛されていたことが旧知の人々からこもごも語られました。
 
ブーテンはただのエンターテイナーではなかったのです。地域を愛し、地域の人々に愛され、時流に流されず、時代の針路を洞察し自ら切り拓いた人でした。素晴らし沖縄人をまた1人知ることができました。
 
同時に感心したのは、地域にゆかりのブーテンの人物像を明らかにし、資料を集め、ゆくゆくは資料館も目指したいという「石川・宮森630会」の活動です。宮森小米軍機墜落事件だけでなく、こうして地域の歴史、人物を掘り起こそうとする会の活動こそ、ほんとうに地域に根付いた平和・民主主義活動といえるのではないでしょうか。

 <今日の注目記事>(23日付沖縄タイムス第2社会面)

 ☆<オスプレイ夜も横行 4日連続 運用制限超 騒音協定に「抜け道」>
 「米軍普天間飛行場に追加配備されたMV22オスプレイの夜間訓練が激化している。16日から19日まえ、4日連続で航空機騒音規制措置(騒音防止協定)で運用が制限されている午後10時を大幅に超えて帰還した。普天間や訓練場となっている伊江島の住民にとって眠れぬ夜となり、『騒音ではなく爆音だ』『どうして夜11時にオスプレイが飛んでいるんだ』と深夜の飛行に憤りの声が上がっている。…午後10時以降の飛行を制限する騒音防止協定に『必要と考えられるものに制限される』という文言があることや、伊江島補助飛行場は同協定から外れ、午後11時まで訓練が認められていることが“抜け道”となっていることも、あらためて浮き彫りになった」
 ※本土に限らず同じ沖縄にいても、那覇では基地周辺地域の日常的苦しみは分かりません。だからこそ、こうした報道が貴重なのです。


知られざる戦時性暴力-佐賀新聞の衝撃連載

2013年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 沖縄タイムス(9月7日~18日)に、地方紙ネットの提携を結んでいる佐賀新聞の、衝撃的な連載が転載されました。「引き揚げの闇-『佐賀診療所』の記憶」(井上武記者)です。

戦後、大陸からの引き揚げ船が着いた博多港近くの旧二日市保養所(福岡県筑紫野市)。その中の風呂場である手術が繰り返されました。堕胎手術です。ロシア兵らの強姦・輪姦によって妊娠させられた女性たちです。麻酔もなく、十分な器具もない中、胎児の頭に刃物を突き刺すなど、想像を絶するやり方で手術は続けられました。記者は乏しい資料、証言をたどり、佐賀県内にも同様の診療所があったことを突き止めます。佐世保港に引き揚げてきた人たちが送られた佐賀診療所(現東佐賀病院)です。さらに、旧二日市保養所の元看護師の証言記録から、これとは別に、「旧厚生省は、九州大学や佐賀の中原療養所など強制堕胎施設を設けていた」ことが判明します。当時、堕胎は法律で禁止されていました。それを政府自らが破って堕胎を強制したのです。目的は「性病の蔓延防止」つまり「社会秩序の維持」です。
 これはまさしく戦時性暴力の延長にほかなりません。戦時性暴力は戦場だけではなかったのです。さらに詳しく知りたくて、連載で紹介されていた本を県立図書館で探しました。地下書庫にありました。『水子の譜-引揚孤児と犯された女たちの記録』(上坪隆著、1979年)です。
 上坪氏は当時九州の民放テレビディレクターです。中原診療所に勤めていた人が引き揚げ者から聞いた証言が載っています。「引揚げの途中である村を通過する際に、人質を出すという。その発想が日本側の引率している団長さんから出たのか、あるいは向こうから要求されたのか、それはわかりませんがいずれにしても何人かの『生けにえ』を出して部落を通過させてもらう。どんな人が選ばれるかというと、まず最初に水商売をしていた人、その次に未亡人だったというんですね。…人質に選ばれて強制されて行くでしょう。そして朝帰ってくると、もうみんなが、同じ日本人の団員が白い眼でみていろいろいうらしいのね。それで人質にされた方はずっとその後非常につらい思いをして内地まで引揚げてきた」。
 
上坪氏は「あとがき」でこう述べています。「女たちへの凌辱は外国兵ばかりではなかった。日本人どうし、みずから女を人身御供にした場合もあった。それは大きくいえば『天皇制』によってもたらされたものである。たとえば日本人が集団を組んで引揚げる途中、『集団の安全のために』『みんなのために』というそれだけの理由で、その責任者の“命令”によって女性を外国兵や現地人にさしだし獣欲にまかせるケースが少なくなかった。それは、『お国のために』という理由で、死を強制された特攻兵の場合と変わるところがない。当の日本人が、日本の女性を凌辱したという事実を、われわれは決して忘れてはならない」。
 戦争について知らない事実、知らなければならない事実がまだまだたくさんある。それを痛いほど突き付けられました。

 <今日の注目記事>(22日付沖縄タイムス・琉球新報1面トップ=共同配信)

 ☆<辺野古移設先に食跡 防衛局、公表せず 昨年確認 知事判断に影響も>
 「米軍普天間飛行場の県内移設で埋め立て予定の名護市辺野古沿岸の海域を、絶滅の恐れが極めて高いジュゴンが昨年、3年ぶりに餌場として使っていたことを示す食跡を沖縄防衛局が確認していたことが21日、分かった。防衛局は3月、移設によるジュゴンへの影響は小さいとして埋め立て申請したが、『公表を目的とはしていない』として今回の情報は公表していなかった。/現場は、国内に数頭しかいないともされるジュゴンの餌となる海草が豊富に生えた貴重な海域として知られる。ジュゴンが繰り返し餌場としていることが分かったことで、県知事が今後出す埋め立て可否の判断にも影響を与えそうだ」
 ※都合が悪い情報は出さない。隠す。それが権力者の常套手段。「秘密保護法」が成立すれば、こうした事態がいたるところで起こることになります。


「しまくとぅば」とヤマトンチュウ

2013年09月21日 | 沖縄

PhotoPhoto_2この9日間に「しまくとぅば」(琉球諸語)をテーマに4回書いてきました。今日で5回目ですが、実は今日のテーマが最も言いたいこと、いいえ、最も考えねばならないことだと思っています。それは、われわれヤマトンチュウ(日本人)は、沖縄の言葉・しまくとぅばにどう向き合えばいいのか、です。
 しまくとぅばの復興・継承は沖縄の人の問題であり、自分とは直接関係はないと思っているヤマトンチュウは少なくないのではないでしょうか。私がそうでしたから。しかし果たしてそうでしょうか。
 琉球諸語研究の第一人者、宮良信詳琉球大名誉教授(写真右)は、しまくとぅばが絶滅の危機に瀕している歴史的理由をこう指摘します。「琉球諸語は1898年の琉球処分を機に日本語の方言にされ、済州語や韓国語は1910年の日韓併合により日本語の方言にされている。そこでは、伝統的に継承された言語(琉球諸語、韓国語)を日本語の方言の一つだと宣告した上で、外部から導入されたばかりの日本語の普及が強行されたという過去がある。・・・国家統制とさまざまな形の弾圧によって強制され、それによって自分たちの伝統的な言語や文化が押さえつけられ、今や絶滅の危機にさらされていることを忘れるべきではない」(9月18日付琉球新報)。
 しまくとぅばの危機は、沖縄の伝統的文化の危機であり、それは日本の植民地政策によってもたらされたものだということです。本土のヤマトンチュウが自分が使う言葉に無頓着ないのは(危機などとは考えもしないのは)、自分の言葉が奪われるという植民地政策を自ら(あるいは先祖が)体験していないからです。いや正確に言えば、自分が、韓国や沖縄を植民地にして言語・文化を弾圧した植民者の側に立っている(無意識に)からではないでしょうか。ヤマトンチュウはしまくとぅばの危機と無関係ではないのです。無関心であってはならないのです。それはアジア侵略・植民地政策という黒い日本の近現代史の中に、自分を位置づけ直すことにほかならないのではないでしょうか。
 ではヤマトンチュウはどういう立ち位置でしまくとぅばに向き合うべきなのでしょうか。その復興は沖縄の人たちが自らのアイデンティティを取り戻す活動であり、われわれは連帯しながらも見守るしかない。そう思ってきました。しかし、果たしてそれでいいのか。考え直させてくれたのは、沖縄語普及協議会会長の宮里朝光さん(写真左)の言葉です。宮里さんは14日のシンポで、「自分の足元すなわち“しま”の言葉・文化を守っていかねばならない」と強調したうえでこう言いました。「自分のしまとはどこか。それは自分の居住地である。よそから移ってきたにせよ、自分が住んでいる地域の言葉・文化を大事にし、守らなければならない」。
 人はいま自分が住んでいる地域で、その言語・文化の保存・継承にかかわるべきだという指摘です。だとすれば、私がいま住んでいるのは、沖縄です。たとえ移って10カ月にしかならないとしても。であれば私が大事にしなければならないのは、沖縄の文化であり、沖縄の言語(しまくとぅば)であるはず。だから私は客観的な応援者の立場ではなく、主体的な立場でしまくとぅばの復興・継承にかかわる義務があるのではないか。かかわる権利もあるのではないか。そう思い始めたのです。
 これは、「独立」を含む「沖縄の自己決定」に、ヤマトンチュウの私がどうかかわることができるのか、かかわるべきなのかという問題に直結します。だから即断は避け、さらに考え続けたいと思っています。本土のみなさん、沖縄にいるヤマトンチュウのみなさん、わたしたちは「しまくとぅば」にどう向き合うべきなのか、一緒に考えていきませんか。

 <今日の注目記事>(21日付沖縄タイムス社会面トップ)※琉球新報も1面

 ☆<斎場御嶽 男子禁制も 観光客急増 マナー問題に 南城市検討「尊厳取り戻す」>
 「南城市知念の世界遺産『斎場御嶽(せーふぁうたき)』を管理する市の古謝景春市長は20日、男性の入域制限を検討すると発表した。入域者数が急増し、参道石畳の表面の摩耗や観光客のマナーの悪さなどが問題視されていることから、琉球王国時代の古式に乗っ取り男子禁制にすることで入域者数を調整し、御嶽の古来の役割を再確認したい考え。市は年内に観光協会や御嶽のガイド、周辺の事業所などでつくる協議会を立ち上げ、2015年度にも結論を出す」
 ※「男子禁制」には「時代錯誤」との声もあがっていますが、これも沖縄とヤマトンチュウ(観光客はもちろん日本人だけではありませんが)の関係を考えさせられる事象です。御嶽は沖縄にとって特別の場所です。日本人はそれをどれだけ知って、わきまえて観光しているでしょうか。