アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

コロナ対策・学ぶべき「韓国モデル」

2020年03月31日 | 安倍政権と日韓関係

  
 安倍政権が東京五輪強行の思惑から、新型コロナウイルス感染検査を抑制し、「延期」と同時に感染者数の発表が急増したことは昨日書きました。こうした安倍政権の政略が、感染のまん延・重症化を招く危険はきわめて大きいといわねばなりません。

 そんな安倍政権とは対照的に、早期に広範に検査を行い、感染状況を把握して対策を行った結果、重症化を抑え、致死率を極めて低く抑えている国があります。お隣の韓国です(日本の致死率は30日現在約3・0%、韓国は21日のNHK報道では1・4%)。「韓国モデル」は世界から注目されています。

 カナダのトルドー首相は3月26日、文在寅大統領と電話で会談し、韓国の対応を高く評価しました。

 「トルドー首相は『科学を基盤とし、MERS(中東呼吸器症候群)当時の経験を生かした韓国の対応は、国民の安全を守るのに成果をあげながらも、医療体系に過度な負担をかけていない』とし、『カナダも韓国に類似したモデルを目指したい』と述べたと、カン・ミンソク大統領府報道官が伝えた。
 トルドー首相は特に、『韓国で行われた広範囲で速い検査、接触者の追跡は非常に重要だと考えている。韓国から学びたい』とし、『韓国のデータを得られれば多くの教訓を学ぶことができるだろう。カナダと韓国保健当局が対話できるよう、協力してほしい』と要請した」(27日付ハンギョレ新聞日本語電子版)

 カナダだけではありません。韓国同様、感染者数は多いものの、重症化・致死率をきわめて低く抑えている国がイスラエルです。イスラエルの当局者は「韓国を手本にしている」と述べています(21日のNHKラジオニュース)。

 こうした文政権の先駆的対応によって、韓国国内は日本とまったく異なる状況になっています。

 ソウル在住の友人が、ブログで「韓国で買いだめが起きない理由」をレポートしています(「シンナラ・カンコク」http://sinnara9.com/stock-up/

 「韓国ではいつもと変わらずスーパーの棚にはたくさんの品物が並んでいます。マスクはソウルの街中で買えます。もちろんオンラインでも買えます」(写真左はマスク=3月27日撮影、中は日用品=26日撮影。いずれもソウル市内。同ブログより)

 韓国では「なぜ買いだめが起こらないのか」という特集番組が放送されました。主な理由は、 SARSや新型インフルエンザ、マーズの経験から、韓国の流通業界は非常時の需要を想定し多くの蓄えをしてきたオンライン配送の物流システムの発達で一時的な需要の増加にも耐えられるほとんどの大型マートが全国配送システムを備え、独自のオンラインモールを持っている―だといいます。

 それに加えて友人は、「韓国で買いだめ現象が起きないのは精神的な理由が大きい」と言います。

 「韓国は早い時期からコロナ19に対し、総力をあげて対応してきました。感染を避けるためにどのように生活したらよいか、感染の経緯、検査数、地域ごとの新たな確定診断者、死亡、完治数などはリアルタイムで常にテレビ画面上を流れます」
 徹底した情報の公開・共有。これは台湾も同じです。

 「現状を伝えるのは文在寅大統領でもあり(写真右)、中央防疫対策本部長やソウル市長などが、時間をたっぷりとって事実を報告し、丁寧に質問に答え、語りかけます」
 記者が手を挙げているのにわずか15分の質疑で会見を打ち切った安倍首相(2月29日)とは雲泥の差です。

 「事実と状況を知り、感染しないため、また体調が悪くなればどう行動したらよいのか、わかっている安心感がとても大きいです。状況を知らせる報道の合間には、感染で苦しんでいる人や現場で尽力している医療陣に、また初めての事態に戸惑っているすべての人に向けたメッセージが流れます。
 例えば中央防疫対策本部長は会見のたびにこう語りかけます。『苦しい状況を経て感染症を克服している確定診断者と家族、そして苦しい生活を送っている自家隔離者、また完治者の方々にあたたかい配慮とお疲れさま、という応援をお願いいたします』。毎日繰り返し、このような言葉を聞いていることで、精神的に落ち着いていられます。韓国に住むすべての人に安心感を与えてくれます。
 温かく、おせっかいでもあり困っている隣人を助ける国民性。それはこれまでの歴史の中で長い時間をかけて少しずつ形成されたものです。いまの韓国では、何かあっても国が、社会が、隣人が、誰かが助けてくれる、という安心感があります。そしてわたしも隣人を助けたい、という思いがあります」

 友人は最後のこう呼びかけます。
 「韓国は早い段階から積極的な防疫対策を行ってきました。コロナ19に対する対応は、国ごとにまったく異なりますが、オリンピック開催のため、感染者を少なく見せようとしてきた日本の姿勢は、外国では周知の事実です。本当に心配しています。手作りマスクでもなんでもいいんです。今は身を守ってください!」


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「東京五輪延期」の翌日に感染者数が急増したのはなぜか

2020年03月30日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義

    
 新型コロナウイルス対策の安倍政権の姿勢は、今月25日から変わりました。小池百合子都知事が緊急会見して「感染爆発の重大局面」を強調したのがきっかけです。その根拠となったのは、25日からの感染者数の急増です。

 発表された都の感染者数は、3月23日=16人、24日=17人、25日=41人、26日=47人、27日=40人、28日=63人、29日=68人。明らかに25日を境に変わっています(写真左)。なぜ25日から急増したのでしょうか。報道をみる限りその理由は明らかにされていません。

 25日とはどういう日だったでしょうか。
 小池知事も同席した安倍首相とILO・バッハ会長の電話協議で、東京五輪の「1年延期」が正式に決まった日の翌日です。24日まで東京五輪の「中止はあり得ない」と繰り返していた小池氏の会見は、一夜明けて、「感染爆発の重大局面」を強調する場となりました。

 これを受けて安倍首相も28日記者会見し、新型コロナとのたたかいは「長期戦」だとし、緊急事態宣言について「瀬戸際」だと述べました(写真右)。同日の政府の会議では「検査体制の強化」も確認されました。

 「東京五輪延期」が正式に決まった翌日から、発表される感染者数が急増した。これははたして偶然でしょうか。

 そもそも感染者は検査しなければ顕在化しません。安倍政権がこれまでその検査を抑制してきたのは周知の事実です。それは諸外国から見れば、不思議であり不自然でした。

 「米紙ニューヨーク・タイムス電子版は26日、新型コロナウイルスの日本での感染状況について…日本が医療崩壊を避けるため、意図的に検査を制限しているとの見方を紹介。米コロンビア大の専門家は、日本のやり方は『ばくち』であり、『事態が水面下で悪化し、手遅れになるまで気付かない恐れがある』と警鐘を鳴らした」(28日付琉球新報=共同電)

 政府・厚労省の感染対策責任者の押谷仁東北大教授は、「PCR検査を抑えていることがクラスターの発生を抑えている」と述べ、検査を「抑えている」こと認めました(24日NHK)。

 日本の検査数の少なさに対しては、日本国内でも批判の声が出ています。
 感染症に詳しい岡田晴恵白鴎大教授(元国立感染症研究所研究員)は、市中から無作為抽出して検査を行って感染者数を把握することが感染の広がりと重症化を防ぐうえで有効だとしたうえで、「どうして(それを)やらないのでしょう」と首とかしげています(27日のNスタ=TBS系ニュース)。TBSの牧嶋解説室長も「東京都はPCR検査数が少ない。かなり絞っていると思う」(同)と述べています。

 安倍政権が検査を抑えてきたのは、「医療崩壊」を避けるため(だけ)でしょうか。
 クルーズ船対策の時から外国メディアは、「安倍政権が東京五輪への影響を恐れるあまり、方策を間違えた」(2月21日付琉球新報=共同配信)という見方をしていました。韓国の京郷新聞は、「安倍晋三首相の最大の関心事は、東京五輪が影響を受けないよう日本国内の感染者数を抑制することにある」と報じていました(同)。

 安倍首相が東京五輪を強行しようとして、検査を抑制し、感染者数を小さく見せていたのは間違いないでしょう。その東京五輪が「延期」と決まり、小さく見せる必要がなくなった感染者数の発表数字が急増した…。
 そして今度は逆に、感染者数の急増、「重大局面」をテコに、緊急事態宣言の機会をうかがう。それが安倍政権の姿ではないでしょうか。

 未知のウイルスに対し私たちにできる防衛策をとることは必要で重要です。同時に、時の政権(国家権力)は、そのウイルス対策をも、感染データの操作も含め、国家戦略・国民支配に利用しようとするものであることを肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。

 

 


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日曜日記91・再びコロナ対策の与野党協議から木村議員を排除

2020年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

☆再び新型コロナウイルス対策の与野党協議から木村議員を排除した日本の国会の差別実態

 新型コロナ対策の与野党協議会から、参加を希望した木村英子参院議員(れいわ)が排除された問題については3月23日のブログで書いた。与野党は反省して木村議員の参加を認めるどころか、25日の第2回会合で再び排除した。

 しかもただ排除を繰り返しただけでなく、前回よりもさらに不当・悪質な言動を行った。これは国会という場で、差別が公然と行われ、固定化され、それを与野党(すべての政党)が共謀し、メディアがそろって沈黙(容認)しているという、きわめて重大な問題だ。

 木村議員のブログ(25日)によれば、木村氏は2回目の協議会の前に、立憲民主党の安住淳国対委員長に、「なぜ参加できないのかという理由と障がい者の現状を直接お話ししたい」と面談を申し入れた。これに対し安住氏は、「もう結果は出ているのでお会いできない」と門前払いした。これが立憲民主党国対委員長の姿だ。

 安住氏は24日の野党統一会派の会合で、木村議員を排除したことについて、「全く事実は違う」とし、「れいわを含め所属国会議員が2人の少数会派は協議体の枠組みに加えないのが慣例」と言ったという(27日付産経新聞)。
 木村議員を入れなかったのは障がい者差別ではなく「慣例」で問題ないと言いたいのだろう。

 あきれた言い分だ。これがまさに差別、しかも二重の差別だ。

 第1に、「少数会派は協議体に加えない」という「慣例」をまるで“葵の印籠”のように持ち出すが、これ自体が少数会派に対する明白な差別だ。安住氏にはその認識がまったくない。国会で少数会派を協議の場から締め出し、少数意見を排除して、「立憲民主」とはよくも言ったものだ。

 この安住氏の「慣例」発言に対し、れいわ代表の山本太郎氏は、「一刻も早く政府に新型コロナウイルスの感染拡大に伴う障害者の窮状を伝えたいだけだ。慣例で少数政党は協議会には入れないということだが、なんの慣例か」と「反論した」(同産経新聞)という。当然の抗議だ。

 第2に、結果、与野党協議の場に障がい者の声が直接届くことが阻まれた。これがまさに障がい者差別だ。なぜそれが認識できないのだろうか。

 木村議員は舩後靖彦議員と連名で、与野党協議会に12項目の「新型コロナウイルス対策についての障害者関連施策の要望」(3月25日付)を文書で提出した。ここには、障がい者の切迫した実情、切実な要望が網羅されている。この要望を木村議員が与野党協議会で直接主張する意味はきわめて大きい。それが「障がい者の声を国政に反映させる」ということではないのか。
 それをあえて阻止・妨害することが、障がい者差別でなくてなんだろう。

 「差別」と認識せず(できず)、「差別ではない」と思いながら(言いながら)、差別をする(続ける)。これほど悪質で危険なことはない。

 山本太郎氏は記者団の質問に答えて「反論」するだけでなく、与野党協議会のメンバーに正式に抗議し、排除撤回を申し入れるべきだ。

 これは自民党と立憲民主党だけの問題ではない。この実態=差別を黙認(容認)しているすべての政党、すべてのメディア、そしてすべての「国民」の問題だ。


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福島「聖火リレー」に隠された安倍政権の思惑

2020年03月28日 | 五輪とメディア・政治...

     
 東京五輪の「延期」により「聖火リレー」も「延期」になりました。「聖火」はしばらく福島に置かれます。26日にスタートするはずだった「聖火リレー」(実質的起点は20日の自衛隊松島基地=写真右)が福島Jビレッジを出発点にしようとしたのは、「復興五輪」を演出する安倍晋三首相と森喜朗組織委会長の策略でしたが、福島の「聖火リレー」には、さらに安倍政権の隠れた思惑がありました。

 それは、東電福島原発(写真左)や今も生々しく残る原発事故の爪痕(写真中)をあえて避け、原発事故の深刻さ、安倍政権の無為無策を隠蔽しようとしたことです。

 「双葉町に限らず、あちこちの町や村に、汚染土などを詰め込んだ保管袋が積み上がる。聖火リレーのコースからは目に入りづらい光景だ。住民には『復興のアピールはパフォーマンスにすぎない』とも映る」(3月11日付朝日新聞社説)

 「南相馬市出身の会社員菅野奈央さん(25)は『聖火リレーのコースは新しい施設やきれいな風景ばかり強調されて、福島はもう元通りになったと思われるのではないか。お金をかけた上っ面だけのアピールならかえって迷惑だ』と訴える」(3月11日付中国新聞)

 この仕組まれた「聖火リレーコース」は、昨年末の福島県知事定例会見(12月23日)ですでに問題になっていました。

 「まず朝日新聞の記者が質問した。『12市町村のルートを実際に歩いてみたが、僕らが日頃見ている浜通りの風景とはだいぶ違う。聖火ランナーが通るルートから原発も除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグの山も見えない。朽ち果てた家も空き地になった市街地も見えない。知事は日頃「福島の光も影も見てもらう」と発言しているが、このルートが福島の今を伝える手段として最適だと思いますか。知事の言う「影」はどこにあるのでしょうか』」
 「河北新報記者が『私もルートを見ると「光」だけで「影」はどこにもない』『「光」が何で、「影」が何で、このルートを通じて何を発信しているのか』などと質問した」
 内堀雅雄知事は、「今回のルートについては…組織委員会とも相談しながら、総合的に決定(したと答えた)」。
(「今、憲法を考える会・通信」3月2日号、会津放射能情報センター・片岡輝美氏のレポートより)

 汚染水の処理はもちろん、除染廃棄物についても、安倍政権は最終処分の方針・見通しもないまま「中間貯蔵」の名目で引き続き福島に犠牲を押し付けようとしています。まさに現在進行形の重大な問題です。安倍首相はそれを「聖火」で隠そうとしたのです。

 五輪の「聖火リレー」がベルリン大会(1936年)のヒトラーによる国威誇示、軍事利用目的から始まったことはすでに書きましたが(21日のブログ参照)、東京五輪において東電原発事故の爪痕を隠蔽するように設定された安倍首相・森会長による「聖火リレー」は、今日における悪質な政治利用にほかなりません。

 このほか全国の「聖火リレー」には、伊勢神宮、熱田神宮をはじめ天皇・神道関連施設を軒並み回り、天皇制と関連付けようとする思惑もあります(19年12月23日、20年1月28日のブログ参照)。

 もし来年東京五輪が強行されるなら、「聖火リレー」はそのまま復活するとみられます。「国民」を巻き込んだ一大キャンペーンとしてわれる「聖火リレー」で、政権(国家権力)は何を目論んでいるのか、その狙いを見抜く必要があります。


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今こそ「五輪」の廃止含めた抜本的見直しを

2020年03月26日 | 五輪とメディア・政治...

    
 安倍政権とIOCは24日やっと東京五輪(パラリンピックを含む)の「1年延期」を決めました。諸外国やアスリートからの批判が高まってきたためです。しかし、「延期」では問題の解決になりません。現在の五輪は、「廃止」を含め抜本的に見直すべきです。

 「延長」に至る経過の中で、五輪の本質的問題が改めて浮き彫りになりました。

 第1に、五輪の政治利用です。東京五輪は招致(2013年9月)の時から安倍晋三首相と森喜朗組織委会長の政治利用の標的になっています。
 今回、安倍氏の最大の狙いは「中止」の回避でした。「政権にとって五輪開催は政治的遺産(レガシー)と位置付けられ、中止回避は『最優先の課題』(関係者)」(25日付共同配信)だったからです。

 「延長」を2年でなく1年としたのも、「首相の自民党総裁3期目の任期満了は2021年9月末。『2年延期』で22年夏の五輪となれば首相の退任後となる」(25日付毎日新聞)からです。そこには、東京五輪を政権の“業績”にし、あわよくば総裁4選、そして安倍政権のさらなる続行を狙う思惑があります。

 第2に、五輪の商業主義です。IOCはコロナ感染の広がりにもかかわらず数日前まで頑強に「予定通り開催」にこだわりました。収入減を避けるためです。
 「IOCの強硬な姿勢は異様にも映る。背景には巨額の協賛金を払うテレビ局や企業への配慮や、中止による大幅な減収への懸念が考えられる」(19日付沖縄タイムス=共同)
 そのIOCが「延期」に踏み切った背景にも、「IOCの収入源の一つで、五輪大会への影響力がある米テレビ局NBCが、延期を受け入れる意向を打ち出したのも大きかった」(25日付朝日新聞)といわれています。

 第3に、巨額の税金投入です。中止でなく「延期」することによってさらに巨額の追加費用が必要になります。大会組織委関係者は、「1年程度の延期で追加費用は3000億円」(25日付毎日新聞)と試算しています。

 そもそも「組織委は大会経費の上限を総額1兆3500億円(予備費を除く)と設定したが、会計検査院は関連経費を含めれば3兆円を超えると指摘」(同毎日新聞)しています。
 
 東京都の幹部は、「延長」によって都が負担することになる追加費用は「1千億円はくだらないのではないか」(25日付朝日新聞)とみています。「大会招致時に、都の負担として明確に示されたのは新しい会場の整備費1538億円のみ」だったにもかかわらず、すでに「都はこの4年間、関連経費を含めると大会予算計1兆3700億円を計上」(同)しています。「延期」はこれにさらに「1千億円」以上追加することになるのです。

 それでなくても新型コロナ対策で財政出動が求められているとき、五輪にこれだけの巨費(税金)を投じることが妥当かどうかは明らかでしょう。

 第4に、招致問題です。五輪にこうした巨額の費用がかかることから、招致に名乗りを上げる都市(国)は減少の一途をたどっています。今回、IOCが「中止」を回避したかったのも、「中止になれば、五輪の開催費高騰に伴う立候補都市のさらなる減少を招く恐れがある」(25日付共同配信)と考えたからだとも報じられています。

 招致をめぐってはIOC委員への賄賂も後を絶ちません。武田恒和JOC会長(当時)もその疑惑で会長の座を降りた(19年1月)ことは記憶に新しいところです。

 こうした諸問題のほか、商業主義とあいまって各国のメダル至上主義が強まり、五輪が「憲章」の精神にも反して国家間の競争、国威発揚、国民統合の舞台となっていることは周知の事実です(日本の場合、これに天皇制が絡みます)。

 記録や勝利に向けて努力・健闘するアスリートの姿、フェアプレーの試合は感動的です。だからこそ、アスリートの努力が生かされ、スポーツの素晴らしさが発揮される場を、国家の壁を越えて(壊して)、新たにつくる必要があるのではないでしょうか。現在の五輪がその場になりえないことは明白です。


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国政(外交)左右する「天皇会見1カ月ルール」

2020年03月24日 | 天皇制と憲法

      
 新型コロナ問題に報道が集中する中であまり注目されませんでしたが、見過ごすことができないことがありました。天皇(制)が国政(外交政策)を左右した重大な出来事です。

 昨年6月、安倍晋三首相と中国の習近平主席が会談した際、習氏がことし4月中にも国賓として初来日することで同意しました。日中双方にとってことしの重要な外交になるはずでした。

 その訪日計画は、3月5日に「延期」と発表されました。「新型コロナ」のためですが、注目されるのはその決定・発表の時期です。
 「4月中」の訪日計画の延期が3月の初めに早々と決定されたのです。延期の判断はコロナの感染状況をみながら直前に行ってもよかったはずです。たとえば、天皇・皇后は4月中にもイギリスを訪問する計画でしたが、その「延期」が発表されたのは3月19日です。

 習氏の「訪日延期」も今月下旬の決定でもよかったはずです。が、そうはいかない理由がありました。少なくとも「1カ月前」には実施か延期かを決める必要があるのです。「天皇との会見」のためです。

 「外国要人が国賓として日本を訪れる場合、宮内庁の慣行に基づき1カ月前までに天皇陛下との会見日程を確定させなければならない。…宮内庁の1カ月ルール』と呼ばれる慣行は、同庁と外務省の間の取り決め。これに基づき外務省は、外国要人の天皇との会見要請を、原則として希望日の1カ月前までに出すこととしている」(3日付中国新聞=共同)(写真はトランプ大統領、フランシスコ法王と会見する徳仁天皇)

 この「慣行」がいつ、なぜ生まれたのか、なぜ「1カ月」なのかはわかりませんが、いかなる理由・経過があろうと、これはおかしな話です。

 日本国憲法は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(第4条)と明確に規定しています。その「国事行為」は第6条と第7条で計12項目挙げられていますが、この中に「国賓との会見」はありません。拡大解釈できるような項目もありません。強いて言えば第7条第10項の「儀式を行うこと」ですが、「国賓との会見」を「儀式」というのも無理な話です。

 つまり天皇と外国の国賓の会見は、憲法が規定する天皇が行いうる行為ではないのです。いわば天皇の私的行為です。しかし、国賓の外国要人にとっては天皇との会見は重要な政治的行為とされています。したがって天皇が外国の国賓と会見することは、天皇による国政(外交)への関与となる疑いが濃厚です。これは憲法第4条に反するものです。

 しかも、憲法上疑義のあるその「国賓との会見」に「1カ月ルール」なるものを設定し、外交日程に影響を及ぼすことは、天皇が政府の上に立つ存在であることを示すものであり、国民主権の原則にてらして二重に問題です。

 こうした重大な問題を含む「1カ月ルール」なるものに対し、どの政党、メディアも異議を唱えず容認していことは極めて異常です。

 百歩譲って現行憲法の「象徴天皇制」を当面認めるとしても、「1カ月ルール」を含む天皇の「国賓との会見」は直ちに廃止すべきです。


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コロナ対策協議から木村英子議員(れいわ)を排除した与野党

2020年03月23日 | 差別・人権

    
 20日の東京新聞に次のベタ記事がありました。全文転記します。

< 重度障害のあるれいわ新選組の木村英子参院議員は十九日、国会内で記者会見し、新型コロナウイルス対策に関する政府・与野党連絡協議会への参加を断られたと明らかにした。「障害者は感染すると重篤になる恐れがある。私も障害者の防御対策に意見を述べたい」と与野党に抗議した。
 立憲民主党に出席を要望し、立民が自民党と協議したが、れいわが少数政党であることを理由に合意に至らなかったという。
 木村氏は、感染拡大で障害者宅にヘルパーが派遣されないといった問題が起きていることに触れ「一番実行力がある協議会に要望しないと、当事者までケアが届かない」と語った。>(写真左は記者会見する木村議員。木村議員のオフィシャルサイトより)

 翌21日、琉球新報も次のベタ記事を載せました。全文転記します。

< れいわ新選組の木村英子参院議員は19日、国会内で記者会見し、新型コロナウイルス対策政府・与野党連絡協議会への参加を断られたと明らかにした。「理由が分からず、怒りを感じる。障害者差別と考えざるを得ない」と与野党を批判した。>

 毎日新聞ウエブサイト(19日)によると、木村議員から参加の要望を受けた立憲民主党の安住淳国対委員長は記者団に、「自民党にれいわの意向を伝えたが、『既成政党の中で話し合いを続けてきたので、れいわも新たに(加える)というのは難しい』とのことだった」と釈明した」。

 これはきわめて重大な問題です。

 第1に、コロナウイルス対策の協議から参加を希望する議員(政党)を排除することは、国会の存在意義を自ら否定する愚挙です。木村議員によれば、「協議会の設置にあたって、れいわ新選組には参加の呼びかけすらなかった」(オフィシャルサイト)といいます。

 第2に、自民党の言い分はまったく理由になっておらず、木村議員が指摘するように、障害者差別であると断ぜざるをえません。こうした差別が国会でまかり通っていることはきわめて異常です。コロナ対策はじめ災害対策において障害者が軽視・放置されているこの国の実態を象徴しています。

 第3に、「既成政党の中で…」という自民党の言い分は、少数政党の排除・差別にほかなりません。

 第4に、自民党の理不尽な「回答」を唯々諾々と受け入れた立憲民主党も自民と同罪です。国会運営を自民と立憲民主2党の国対委員長が協議(談合)して決めるきわめて不正常なことが常態化していますが、今回のことはその弊害・害悪の端的な表れです。

 第5に、自民、立憲2党だけの問題ではありません。協議会に参加したすべての政党の問題です。しかし木村議員が排除されたことについて、どの党からも異議・批判は出ていません。この問題に沈黙している党はすべて自民、立憲と同罪と言わねばなりません。

 第6に、メディアの鈍感さです。これはベタ記事で扱うような問題ではありません。それでも記事にした新聞はまだマシです。木村議員の会見を受けながら記事にしなかった新聞社・メディアはいったい何を考えているのでしょうか。その存在意義が改めて問われます。

 第7に、「新型コロナ対策」に乗じた「挙国一致」「ワンチーム」(安倍首相)の危険性については先に書きましたが(17日のブログ参照)、今回の問題は、与野党一体の翼賛体制が少数意見、マイノリティを排除・差別するものであることを白日の下にさらけ出したと言えるでしょう。

 コロナ対策の与野党協議会に木村議員を直ちに参加させるべきです。すべての政党はこの問題に対する見解を明らかにする必要があります。メディアは取材し直し、あらためて問題点を報道すべきです。

 


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日曜日記90・映画「Fukushima50」の功罪・「パラサイト」の罪

2020年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

☆映画「Fukushima50」の功罪

 「3・11」から9年を前に、9日、映画「Fukushima50」を観た(原作・門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」、監督・若松節朗)。
 2時間があっという間の緊迫感、映像の巧みさ、佐藤浩市、渡辺謙をはじめとする俳優陣(すべてハマり役)の熱演。見ごたえのある映画だった。

 現場で体を張って原発事故に立ち向かうスタッフたちと、無責任・無能な東電本社幹部、首相(当時は菅直人)はじめ政治家の対比もよく描かれていた。

 しかし、いくらよくできた映画でも、実際の原発事故はあまりにも深刻だ。どんなに優れた映画でも福島の現実を描ききることはできない。それは想定内だ。

 それを割り引いても、この映画には重大な毒が含まれている。それは自衛隊と米軍の美化だ。

 自衛隊は徹底的に住民の味方として描かれている。「民間の人が戦っているのに、我々自衛隊が退去するわけにはいきません。国を守るのが我々の仕事ですから」という指揮官のセリフは、宣伝用チラシにも載せられている。

 米軍(横田基地)も、福島にゆかりのある司令官が市民を助けるために「トモダチ作戦」を展開したという筋書きになっている。

 自衛隊は世界有数の軍隊であり、その本分は災害出動ではなく戦闘行為だ。それは自衛隊法にも明記されている。被災地での「救助・復旧活動」を大々的に宣伝するのは、自衛隊の違憲性を隠蔽する国家戦略だ。

 米軍は「トモダチ作戦」と称して日本の被ばくを自国のためのサンプルにした。そもそも日本の原発政策は、中曽根康弘、正力松太郎の出発点からアメリカに従属したものだ。原発の背景にも日米安保がある。

 自衛隊、米軍の美化は、劇映画であっても、根本的欠陥と言わねばならない。「復興五輪」の名の下で自衛隊のアピールが強まっているときだけに、その「罪」は重い。

☆映画「パラサイト」の罪

 「Fukushima50」の「罪」は想定内だが、想定外だったのは「パラサイト」だ。韓国の格差社会、貧困問題を描き、アジアで初のアカデミー作品賞を受賞した映画として注目したが、期待は大きく裏切られた。

 確かに、貧困(家族)と富裕(家族)が対比して描かれてはいる。しかし、その格差社会の根源の追及はきわめて乏しい。結末が暴力事件なのは、どうしようもない悲劇を象徴したかったのかもしれないが、それでは生きる意欲も希望も生まれない。

 こした点は、映画の不十分さと評すればすむが、無視できない場面があった。朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の「飛行物発射」を揶揄した場面だ。このシーンは映画の展開上必ずしも必要ない。あえて挿入した印象だ。朝鮮への蔑視・感覚的反発を助長するだけだ。
 これは「パラサイト」の不十分さではなく「罪」だ。「功」なくして「罪」だけが気になる映画だった。

 「映画だから語れる、真実の物語」。これは「Fukushima50」のキャッチフレーズだ。たしかに映画の力は大きい。それだけに、その中に含まれる「毒」「罪」を見抜く眼を持ち続けたい。


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東京五輪・「聖火リレー」と自衛隊・軍隊

2020年03月21日 | 五輪とメディア・政治...

    
 20日、東京五輪の「聖火」がギリシャから日本へ運ばれました。到着したのは自衛隊基地、宮城県の松島基地(東松島市、写真左)です。

 民間の仙台空港ではなく、あえて自衛隊基地に「聖火」を降ろしたのは、森喜朗五輪組織委会長(元首相)の意向です。森氏は自衛隊基地が、「不屈の精神を示す象徴的な場所…一番理想的」(2018年7月31日付産経新聞)と言って松島基地に決めました。

 「聖火到着式」では森氏のあいさつ(写真中)などに続き、上空で自衛隊のブルーインパルスが「五輪」を描きました(写真右)。1964年の東京オリンピック開会式の再現です。

 安倍政権は「復興五輪」を演出するため、「聖火リレー」のスタートは福島のJビレッジ(3月26日)だとしていますが、実質的には20日の松島基地がスタートです。「聖火」はこの日から宮城、岩手、福島の東北3県を回ります。
 「聖火リレー」の起点を自衛隊基地にしたことは、東京五輪を利用して自衛隊(日本軍)の存在をアピールし社会に浸透させようとする安倍首相、森会長の思惑を象徴するものです。

 安倍政権は「2020年東京五輪」の開催が決まった直後に「防衛省・自衛隊2020年東京オリンピック・パラリンピック特別行動員会」を組織し、2013年9月に第1回会合を開きました。冒頭、小野寺五典防衛相(当時)はこうあいさつしました。

 「1964年の東京オリンピックでは開会式でブルーインパルスが五輪マークを東京の空に大きく描き、音楽隊がオリンピック・マーチやファンファーレを演奏し、防大生が選手団入場に各国のプラカードを掲げ、三宅選手や円谷選手のような自衛官の選手が活躍した。2020年のオリンピックでも、防衛省・自衛隊がオリンピックで果たす役割は大きい。…これからも日本の安全保障のために全力で働き、しっかりと、われわれも大会の成功に向けて努力していきたい」(渡邉陽子著『オリンピックと自衛隊』並木書房2016年より)

 防衛省・自衛隊が東京五輪を「日本の安全保障」すなわち「国防」の延長線上に位置づけ、自身の存在をアピールする場にしようとしていることは明らかです。

 松島基地を事実上の起点として始まった「聖火リレー」。その起源はナチス政権下のベルリン大会(1936年)です。ヒトラーは、「聖火」でギリシャとベルリンを結ぶことにより、「ギリシャ文明の正当な継承者はドイツだと世界にアピールする国威発揚の意図があった」(15日付琉球新報=共同)といわれています。

 ベルリン大会で「聖火リレー」のコースを決め、準備を整えたのはドイツ軍でした。そして、「大会後の第2次世界大戦でドイツ軍は聖火(リレー)のルートを逆にたどり、各国に侵攻。リレーが軍事利用されたとの指摘も出(た)」(同)のです。

 「ヒトラー政権下でオリンピックを政治・軍事に利用したという批判も大きかったが、軍隊の協力による大会運営の成果があったことも事実である。ベルリン大会以降、オリンピックにおける軍隊の果たす役割が大幅に増えたことがその証明ともいえるだろう」(前掲『オリンピックと自衛隊』)

 ベルリン大会と今回の東京大会では「聖火リレー」の方式は異なります。もちろん露骨な軍事利用は見られません。しかし、今回の「聖火リレー」にも決して見過ごすことができない政治利用が隠されています。それについては後日書きます。


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植松被告とトランプ大統領

2020年03月19日 | 事件と政治・社会・メディア

    
 相模原事件(2016年7月26日)の植松聡被告(30)に、「死刑判決」が言い渡されました(16日横浜地裁・青沼潔裁判長)。犯行の動機、事件の背景については未解明な点が多く、軽々に論評することはできませんが、限られた情報でも意見を述べることは必要だと考え、以下、限定的な感想を述べます。

 「日本社会の基底に、相模原の事件は太いくいを打ち込むような出来事でした。なぜなら、この時代と社会に静かに組み込まれ、巧妙に隠されてきた優生思想が表出したからです」。作家の辺見庸氏はこう指摘し、その意味で「(植松被告は)『社会的産物』であり、事件は『一人格の問題』ではない」(13日付沖縄タイムス=共同配信)とみます。

 雨宮処凛氏(作家・社会運動家)は、「自己責任」論がまん延する中、「多くの人が『自分の苦しみの原因』がどこにあるのかわからないまま、『敵』を欲しがり、叩きたがる」、そんな日本社会でこの事件は起きたとし、「私自身の『内なる植松』との対話」の必要性を主張します(編著『この国の不寛容の果てに』2019年大月書店)。

 注目されるのは、植松被告が強い影響を受けた人物が、アメリカのトランプ大統領だったことです。

 獄中の被告と何度も面会したジャーナリストの神戸金史氏は、雨宮氏との対談でこう述べています。
 「影響を受けたのはトランプ大統領だと言っていましたね。彼はすごい、と。…タブーとかポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を恐れず、みんなが内心思っている本音を言うことで社会を変えようとしている、と。自分もそれをやったのだと言っていました」(前掲書)

 植松被告はトランプ氏への「憧れ」を口にするようになり、「金髪にし、黒いスーツや赤いネクタイを身に着けた」(17日付沖縄タイムス=共同)といいます。そして公判でも、「国境に壁をつくるとのトランプ氏の発言に影響を受けたと説明し、こう発言した。『もう言っていいんだと思った。真実を。意思疎通できない方を安楽死させるべきだと』」(同)

 植松被告が「この時代と社会に巧妙に隠されてきた優生思想を表出」させた、言い換えれば露骨な差別思想を公言し行動に移した、その有力な引き金になったのがトランプ大統領の言動だったことは間違いないでしょう。
 「重度障害者を殺害すれば不幸が減る。障害者に使われていた金がほかに使えるようになって世界平和につながる」という被告の主張は、荒唐無稽に聞こえますが、実はトランプ氏の経済第一主義、差別主義と通底するものです。植松被告が「社会的産物」なら、その「社会」をつくっている代表的人物がトランプ氏だと言えるでしょう。

 そして、植松被告は言及していませんが、日本でそうした「社会」をつくっている人物の筆頭が、トランプ氏との親密ぶりを誇示する安倍晋三首相であることは明らかです。朝鮮・韓国や中国への偏見・差別をむきだしにし、福祉を切り捨てて貧富の格差を拡大する安倍氏の思想、新自由主義政策が、この「社会」をつくってきました。

 だからこそ、植松被告にはもっと語ってもらわねばなりません。犯行動機、事件の背景を植松被告とともに徹底的に解明しなければなりません。

 しかし、植松被告は死刑になろうとしています。国家によって抹殺され、事件の背景はうやむやにされようとしています。一方、トランプ氏や安倍氏は引き続き国家の最高権力者として、この「社会」に君臨し続けます。市民が人を殺傷すれば犯罪として処罰されるが、国家が犯す大量殺人(戦争など)は放任され、ときに賞賛さえされる。そんな不条理な構図がここにもあるのではないでしょうか。

 「死刑」は国家による殺人であると同時に、国家の暗部を隠蔽するものです。それは私たちが「内なる植松」を凝視し、「社会」を変えていくことを阻みます。だからこそ「死刑制度」は廃止しなければなりません。


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