アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「敗戦70年」から「満州事変85年」「開戦75年」へ

2015年12月31日 | 戦争の加害責任

  

 「敗戦70年」が、終わります。
 安倍首相は「戦後70年談話」で、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べました。
 この「安倍談話」を、40%の「世論」が「評価」しました(8月25日付朝日新聞世論調査。「評価しない」は31%)。

 しかし、海外の「眼」は甘くはありませんでした。門奈直樹立教大名誉教授(メディア論)は、イギリスの高級紙「タイムズ」が8月15日の社説でこう書いたと紹介しています。
 「原爆忌や終戦記念日で日本の民衆は加害者というよりも被害者であるという神話を維持している」「(この)神話が克服されなければ日本と周辺国との関係は良好なものにならないし、また、日本の外交政策を歪めるもととなる」(「マスコミ市民」10月号)

 残念ながらこの指摘は、「日韓『慰安婦』問題合意」でもはっきり実証されました。

 「タイムズ」紙の社説で注目しなければならないのは、それが日本政府に(だけ)ではなく、「日本の民衆」に対して向けられているということです。これが海外の「眼」なのです。
 門奈氏は「日本の民衆の被害者神話」を考えるうえで、メディアの責任を強調します。
 「加害者史観に立った、過去の日本の体制に対する道義的責任、政治責任、歴史責任の追及は、戦中、戦後を産業的に切り抜け、既得権益を守り得た既存メディアがなさねばならなかったことだ既存メディアはやってこなかった」(同)。

 「敗戦70年」を、日本の過去・現在・未来を考えるきっかけにすることは無意味ではないでしょう。しかし、それが「被害者」の視点からのみ行われるなら、「被害者であるという神話」と批判されても仕方がありません。

 そこで、2016年です。来年はどういう年でしょうか。

 85年前の1931年9月18日、板垣征四郎大佐率いる大日本帝国関東軍は、瀋陽北部の柳条湖付近の南満州鉄道を爆破し、張学良らにその濡れ衣を着せ、中国侵略に本格的に踏み出しました。いわゆる満州事変です。

 さらにそれから10年後の1941年12月8日、帝国海軍はハワイ真珠湾に奇襲攻撃をかけました。これが「太平洋戦争の開戦」と言われています。しかし、実は真珠湾攻撃よりも1時間5分早い同日午前2時15分(日本時間)、帝国陸軍はイギリス軍との戦闘のすえ東南アジアのマレー半島に上陸したのです。この事実は長く隠ぺいされ、林博史関東学院大教授らの調査でようやく明らかになりました。
 なぜマレー半島だったのか。「東南アジアを占領しそこから資源を獲得することこそがアジア太平洋戦争の最大の目的だった」(林氏)からです。その事実を隠すために、「開戦」を「東南アジア」から「真珠湾」に移す「歴史観」がつくられ、いまだに多くの「日本国民」がその虜(とりこ)になっているのです。

 2016年は、「満州事変85年」であり、「アジア太平洋戦争開始75年」です。

 この事実を明日以降、「戦後70年」では大騒ぎした日本のメディアがどれだけ指摘し、問題提起するでしょうか。

 「戦後70年」が「被害者神話」の年であったとするなら、2016年は加害者としての日本の戦争責任を究明する絶好の機会であり、それが私たちの責任です。

 最後に、今まさに傾聴すべき加藤周一氏の言葉をあらためて噛みしめ、来る年への決意とします。

 「私は戦後世代の戦争に至る責任というのは直接にはないと思っています。しかし戦争をかつて生み出したような考え方、あるいは文化が今日持続していれば、それの持続か断絶かということは戦後世代に責任があります。・・・戦争を生み出した、あるいは戦争犯罪の背景にある文化は持続している。そしてその中で育っているわけですから、その文化に対してどういう態度を取るのかについては、もちろん責任があります。・・・要するに過去に対して責任はないけれども、未来に対して責任がある。
 もう少し具体的にいうと、ではどういう文化に対して責任があるのかといえば、たとえば大勢順応主義に対して責任がある。大勢順応主義が最も危険なのは、その大勢が戦争に向かったときですから。・・・戦争はもういっぺん起こり得る」(2000年『私にとっての二〇世紀』)

 ☆1年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
 


「慰安婦問題」は“ひとごと”か

2015年12月29日 | 戦争・安倍政権

   

 ※予定を変更して、「翁長氏『戦う民意』を読む②」は後日に回します。

 28日の日韓両政府による「慰安婦問題合意」に対し、日本のメディアはほとんどすべて「歓迎」「評価」しています。恐るべき事態です。
 今回の「合意」は、これまで被害者たちが求めてきた「法的責任」の明言をさけ、したがって「賠償金ではない」と断言し、さらには被害者と支援団体が「歴史の象徴物であり公共の財産」とする「少女像」(平和の碑)の撤去を要求し、なによりも当事者の被害者たちを蚊帳の外に置いた「政治決着」という点で、絶対に容認できません。

 とりわけ重大なのは、日本のメディアや「街の声」(あくまでもテレビ放映の範囲ですが)が、この問題を「日韓政府間」の問題とし、まるで私たち「日本国民(日本人)」には直接関係ないかのような論調・空気が蔓延していることです。
 「慰安婦」問題は、けっして“ひとごと”ではありません。

 第1に、今回「準備不足」といわれる中で、両国政府が「合意」を急ぎ、それを「不可逆的な最終解決」などと強弁するのは、いったいなぜでしょうか。

 今回の「合意」は、「日韓共通の同盟国である米国から関係改善を求められていた」(29日付毎日新聞社説)結果であり、「日韓双方の背中を押したのは米国だった」(29日付東京新聞社説)のです。「米国の国益に直結するアジアの安定にためには、いずれも米国の同盟国である日韓の協力が不可欠」(29日付共同配信記事)だからです。
 外相会談直後の記者会見で、岸田外相が「日韓、米日韓の安全保障協力も前進する素地ができた」と述べたのは、今回の「合意」の本当の狙いが、米日韓の軍事同盟強化にあることを吐露したものです。

 しかも、この時期の「米日韓の安全保障協力」には特別の意味があります。

 施行間近な戦争法(安保法制)と東アジアの関係について、浅井基文氏(元広島平和研究所所長)はこう指摘します。
 「危険極まることは、米韓同盟は朝鮮に対する先制攻撃の可能性を織り込んだ戦略を採用していることだ。米韓が朝鮮に対する軍事力行使を開始すれば、日本が集団的自衛権行使として参戦する可能性が現実味を帯びるのである。
 正確に言えば、日本が集団的自衛権を行使するには、韓国の要請がなければならない。韓国の要請がない限り、日本は集団的自衛権を行使できないというのは国際法として確立している原則だ。安倍政権に対して不信感が強い韓国政府は、この点を繰り返し強調している」(「マスコミ市民」10月号)

 日本が戦争法によって朝鮮半島で集団的自衛権を行使して参戦するには、日韓の「関係改善」が不可欠。アメリカを間に挟んだ日米韓の軍事同盟を強化し、戦争法による日本参戦の条件を整える。それが今回の「慰安婦合意」の真相ではないでしょうか。

 第2に、元「慰安婦」を支援している挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)は今回の「合意」に対する批判の「声明」を発表しました。その中でこう指摘しています。

 「今回の発表では、日本政府が加害者として日本軍『慰安婦』犯罪に対する責任認定と賠償などの後続措置事業を積極的に履行しなければならないにもかかわらず、財団を設立することでその義務を被害国政府に放り投げて手を引こうという意図が見える。そして、今回の合意は日本内ですべき日本軍『慰安婦』犯罪に対する真相究明と歴史教育などの再発防止措置に対しては全く言及しなかった」

 帝国日本による「慰安婦制度」は、元「慰安婦」の「名誉と尊厳」のみならずあらゆる人権を踏みにじったもので、当時の国際法・国内法に照らしても明白な犯罪行為です。挺対協が指摘しているのは、その加害の責任を明確にせよ、ということです。
 「慰安婦制度」の加害性は、いうまでもなく侵略戦争と植民地支配の加害責任と一体不可分です。「慰安婦制度」の加害責任を明確にすることは、侵略戦争と植民地支配の加害責任を明確にすることにほかなりません。
 そして日本は、私たち日本人は、いまだにその加害責任を明確にしていないのです。
 それは、天皇制の下、敗戦から今日の安倍政権まで引き継がれている歴代自民党政権の一貫した政策です。しかし、政府だけの問題ではありません。私たち「日本国民(日本人)」にももちろん責任があります。歴史の真実を究明し、それを今日に生かす「戦後責任」があります。

 とりわけ「慰安婦制度」についていえば、戦争に駆り出された私たちの祖父、曾祖父が、その“利用者”(加害者)となった可能性はけっして小さくはないのです。その孫、ひ孫である私たちが、どうしてこの問題を“ひとごと”だと傍観することができるでしょうか。

 「慰安婦制度」はじめ、日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任を明らかにし、被害者(国)への謝罪とともに、その教訓を今日に生かす。生かして米日韓軍事同盟体制の強化を許さない。戦争法を廃止し、日米軍事同盟を廃棄して非同盟・中立の日本へ向かう。
 それが私たち「日本人」一人ひとりの責任です。それなしに「最終解決」などありえません。


翁長氏『戦う民意』を読む① 石破氏との驚きの秘話

2015年12月26日 | 沖縄・翁長知事

  

 翁長雄志沖縄県知事が『戦う民意』(角川書店)と題した本を「緊急出版」(12月15日)しました。
 ほとんどはこれまでの主張の繰り返しですが、注目される“秘話”が含まれていました。その部分を引用します。

 <私が知事選に出馬するかどうか、まだはっきりと決めていないころのことです。
 当時の石破茂自民党幹事長から二回にわたって出馬しないよう説得される機会がありました。私は出馬の意向については判断を示さず、「私は日米安保体制については賛成です」と安保体制に言及したところ、石破氏は国土防衛に関するかねてからの持論である「郷土部隊」について語り始めました。
辺野古には将来、自衛隊による海兵隊をつくったらどうかと思っているんですよ。それは沖縄の若者で百パーセント編成をする。そうすると、日米地位協定の問題もなくなり、沖縄県民による自衛隊の基地にもなるので、沖縄の人たちは喜んでくれるんじゃないでしょうか>(125㌻、太線は引用者)

 これに対し、翁長氏はどう答えたか。

 <私は即座に反論しました。
「とんでもないですよ。もともと私たちは基地そのものに反対しているんですよ」
「そうですか、喜びませんか」
「喜びません」>(同)

 「百パーセント沖縄の若者」による「郷土部隊」とは、開いた口がふさがりません。どこまで沖縄を踏みつけにすれば気が済むのでしょう。これが自民党を代表する幹事長(当時)の「持論」なのです。
 しかし、これをたんにバカな男の妄言、と見過ごすことはできません。新「日米ガイドライン」や戦争法制の中での沖縄への自衛隊配備強化に通じる話だからです。
 
 翁長氏が「即座に反論」したのは当然でしょう(それが事実だとして)。「喜びません」どころか、もっと怒りをぶつけてしかるべきですが。

 しかし、この“秘話”は、単に「石破氏の暴言」ではすまされない問題を含んでいます。

 第1に、翁長氏はなぜこれを1年以上も明らかにしなかったのでしょうか。
 翁長氏は「これは明確な意図をもって、辺野古を恒久的な軍事基地にしようとしているとしか思えません」(126㌻)と述べています。その通りです。だからこそ、もっと早く、知事選の時から暴露していれば、辺野古新基地の安倍政権・自民党の意図がより明確になったでしょう。
 さらに、辺野古新基地が自衛隊の沖縄配備強化と一体のものであることもより鮮明になり、宮古、石垣、与那国への自衛隊配備反対の世論も高まったでしょう。
 そんな重大発言を、翁長氏が1年以上明るみに出さなかったのはなぜでしょうか。

 第2に、翁長氏は石破氏との密室の会談の中で、自ら「私は日米安保体制については賛成です」と「安保体制に言及」したのです。それを受けて石破氏の暴論が飛び出した。
 ここからうかがえることは、知事選出馬をめぐる翁長氏と石破氏とのやりとりの中で、日米安保体制に対する見解・態度が焦点になり、翁長氏がすすんで「賛成」を明言したことから、石破氏は心を許して持論を述べた、ということではないでしょうか。

 「イデオロギーよりアイデンティティ」「保革を乗り越える」。これがこの本の中でも繰り返されている翁長氏のキャッチフレーズです。しかし、「日米安保体制に賛成」こそ、「イデオロギー」の最たるものであり、「保守」と「革新」を分ける分水嶺ではないでしょうか(憲法への態度とともに)。
 翁長氏は「革新」を取り込むためにこのキャッチフレーズを何度も口にしながら、実際は、知事選に出馬表明する前の自民党幹事長との密談で、最大の「保守のイデオロギー」である「日米安保堅持」を石破氏の前で公言(約束)して、知事選に出馬したのです。

 このことは、辺野古新基地はもちろん、高江ヘリパッド、那覇軍港移転、嘉手納を含む沖縄の全基地撤去、さらに自衛隊配備問題に対する翁長氏の態度にかかわる重大な事実として銘記される必要があります。

 そこで問わなければならないのは、翁長氏のもう1つのキャッチフレーズ、「品格ある日米安保」とはいったい何なのか、ということです。
 次回、『戦う民意』からそれを検証します。
 


驚いた「報道ステーション」の天皇賛美

2015年12月24日 | 天皇制とメディア

  

 23日の「天皇誕生日」にNHKが「天皇皇后両陛下 戦後70年慰霊の旅」と題した「特番」を流したのは意外ではありませんでした。しかし、「報道ステーション」(テレビ朝日)が「天皇陛下 沖縄への思い受け継がれた『つとめ』」として、かなりの時間を割いて「天皇賛美」の特集を行なったのには驚きました。
 その内容、政治的効果(狙い?)は、けっして見過ごすことができません。

 「報道ステーション」の特集の概要はこうです。
 裕仁天皇は沖縄への特別の思いがあったが、ついに訪れることはできなかった、息子の明仁天皇はその思いを受け継いで、沖縄に思いを寄せることを自らの「つとめ」と考え、たびたび足を運んでいる。「何が起こっても受ける」という「覚悟」で、火炎瓶(1975年、皇太子当時)にも「平然としていた」。そんな天皇の姿に、沖縄戦の遺族を含む沖縄県民は、当初の反発が消え、今では多くが慕っている。

 キャスターの古館伊知郎氏は、「昭和天皇は沖縄への後悔があったのではないか。それを今上天皇が果たされようとしている」「沖縄への強い覚悟がおありだと思う」。
 コメンテーターの中島岳志氏(北海道大学)は、「陛下(明仁天皇)が重要視されているのは、『旅と祈り』だと思う。その深い内省のお姿が多くの人の心を動かす」と述べ、同日報道された「天皇誕生日に際しての記者会見」(12月18日実施)での天皇のコメントを全面的に賛美しました。最後に古館氏が「陛下の内省を見習わなければならない」と締めくくりました。

 天皇裕仁の沖縄に対する責任・罪状は一言ではいい尽くせませんが、少なくとも、戦争中は自己保身(国体護持)のために沖縄を「捨て石」にし、戦後もまた「沖縄メッセージ」(1947年)で沖縄をアメリカに売り渡したことは特筆しなければなりません。その責任を問わずして、何が「沖縄への思い」でしょうか。

 確かに天皇明仁はしばしば沖縄を訪れています。しかし彼は一度たりとも、父・裕仁天皇の沖縄に対する罪を認めて謝罪したことはありません。「つとめ」というなら、まず天皇の沖縄に対する責任を謝罪することこそ「つとめ」ではないでしょうか。

 中島氏が賛美した「誕生日の記者会見」はどうだったでしょうか。
 この中で明仁天皇は、「この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。・・・輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」と述べました。まるでひとごとです。民間人が戦争に駆り出されたのは、天皇裕仁の御名御璽で発せられた国家総動員法による民間徴用の結果ではありませんか

 さらに明仁天皇は、今年のパラオ・ベリリュー島を「慰霊」に訪れたことにふれ、「先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならない」と述べました。「大きな負担」どころではありません。島民は「天皇の軍隊」によって戦争に巻き込まれ、命を奪われ、生活を破壊されたのです。それに対する「謝罪」の言葉はないのでしょうか。
 旧日本軍兵士への「慰霊の旅」の前に、天皇がまずしなければならないのは、「天皇の軍隊」が多大の被害を与えた東南アジアの人々に対する「謝罪の旅」ではないでしょうか。

 戦争責任の問題だけではありません。中島氏は天皇の「2年前の水俣訪問」も、「祈りの旅」として賛美しました。しかし、2013年に天皇が「全国豊かな海づくり大会」出席のために水俣を訪れた時機は、まさに政府が水俣病患者の認定を打ち切ろうとしていた時だったのです。
 またその前年、2012年の同大会の開催地は、沖縄(糸満)でした。オスプレイ配備と尖閣が問題になっていた沖縄だったのです。
 さらにその前年の2011年の開催地は、竹島と目と鼻の先の鳥取でした。これが「天皇の政治利用」でなくて何でしょう。

 古館氏が最後に触れたように、天皇・皇后は年明け早々にフィリピンを訪れます。これも「祈りの旅」などと賛美することはできません。これについてはあらためて述べます。

 報道ステーションはきのうが今年最後の放送とか。「敗戦70年」の年の最後に、同番組は大きな汚点を残したと言わざるをえません。

 同時に、この国のメディア、「識者」の中に、いかに「天皇タブー」が深く広く根を張っているか。それを「敗戦70年」の終わりに、あらためて見せつけられた思いです。


「母と暮せば」吉永小百合さんへ拍手とお願い

2015年12月22日 | 映画

  

 山田洋次監督の最新作「母と暮せば」(吉永小百合主演)を観ました。
 吉永さんはこの作品に「運命的な出会いを感じる」と語ったことがありますが、観ている方にもそれが伝わってくるようでした。
 抑えた演技の中で、原爆・戦争への怒りと平和への祈りが重い光を放っていました。吉永さんの映画のひとつの集大成ではないでしょうか。若い二宮和也さん、黒木華さんの好演も光っていました。

 吉永さんは胎内被爆の女性を演じた「夢千代日記」をきっかけに、1986年から各地で原爆詩の朗読を続けています。また、「3・11」以後は原発を告発した詩の朗読も行なっています。「いつまでも『戦後』が続きますように」。吉永さんがよく口にする言葉です。

 そんな吉永さんが、この映画の公開直前に掲載された新聞インタビューで、こう述べています。

 「でも今、戦争が近くなっているような気がします。とても怖く、何か胸騒ぎのするような」(12月6日付中国新聞=共同)

 吉永さんの思いは、雑誌「世界」の最新(1月)号の座談会(山田監督、早野透桜美林大教授と)にいっそう鮮明に表れています。
 日本の原発について、こう述べています。

 「原発が五四基もつくられていく過程で、大きな声を出さなかったことに対し、私は恥じ入る気持があります」

 そして注目されるのが、次の発言です。

 「時間が経っても、忘れてはいけないことがあるということですよね。この先の世代の子どもたちには謝罪はどうこうとおっしゃっている方もいますけれども・・・」

 明らかに安倍首相(「戦後70年談話」)への批判です。
 戦争(安保)法案を強行し、原発を再稼働させ、侵略の歴史を「修正」しようとする安倍政権への厳しいまなざしが、この短い言葉に凝縮されています。

 人気・実力ともに文字通り日本を代表する女優(文化人)である吉永さんの、叡智と勇気にあふれた発言に大きな拍手を送ります。
 吉永さんにこの叡智と勇気を与えたのは、30年近く続けている原爆詩の朗読であり、その中で接し、知り合った多くの市井の市民ではないでしょうか。

 そんな吉永さんに、そんな吉永さんだからこそ、要望・お願いがあります。

 吉永さんは広島の被爆詩人・栗原貞子(1913~2005)の「生ましめんかな」を、「大変難しい」と言いながらよく朗読しています。被爆直後の惨状の中での新たな生命の誕生(出産)を詠んだ感動的な詩です。
 吉永さんに、同じ栗原貞子の「ヒロシマというとき」をぜひ朗読していただきたいのです。

<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といいえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ 
 (中略)
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を きよめなければならない

 「ヒロシマというとき」は、15年戦争の日本の加害責任を被爆者の立場から告発した、希有な詩なのです。(全文はこちらを参照ください。http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/hiroshimatoiutoki.html

 「夢千代日記」以来、吉永さんは原爆・戦争の悲惨さを告発し、平和の尊さを訴え続けてきました。そんな吉永さんだからこそ、原爆・戦争の被害だけでなく、日本の戦争・植民地支配の加害責任へも視点を向け、告発していただきたい。そんな作品にも出演していただきたい。
 それはきっと、吉永さんの「こころ」にも沿うことだと思います。
 


被爆地・長崎にある“加害の資料館”

2015年12月19日 | 戦争の加害責任

   

 18日退職した橋下徹氏の“悪しき業績”は数々ありますが、その1つは、「ピースおおさか」(公益財団法人・大阪国際平和センター)の展示内容に圧力をかけて変更させたことです。

 「大変厳しい時代を迎えている日本で、加害の史実の展示は困難でしょう。大阪でもピースおおさかの加害の展示をなくし、今日をもってリニューアルする動きとなっています。・・・こうして継続して続けられるのも、みなさんの多大なご努力の結果と思います。もっと多くの方、若い方たちにこの展示を観て頂けるよう、大阪に帰ってから、微力ながらできることをやっていこうと思います。ありがとうございました」(大阪府・女性・60歳)

 NPO法人・岡まさはる記念長崎平和資料館を訪れた人の感想文です(会報「西坂だより」2014年10月1日号より)。
 同館は牧師であり長崎市議会議員、平和活動家だった岡正治さん(1918~1994)の遺志を継いで、1995年10月1日、市民の手によって設立されました。「設立の趣旨」は、次の文章で始まります。

 「日本の侵略と戦争の犠牲となった外国の人々は、戦後50年たっても何ら償われることなく見捨てられてきました。加害の歴史は隠されてきたからです。加害者が被害者にお詫びも償いもしないという無責任な態度ほど国際的な信頼を裏切る行為はありません

 長崎平和資料館(写真)は4階建て(展示は1、2階、3、4階は会議室と書庫)。決して広くありません。というより狭いです。しかし、その限られたスペースに、「南京大虐殺」「日本軍『慰安婦』」「朝鮮人・中国人強制連行」「韓国・朝鮮人、中国人被爆者」など、教科書ではけっして教えられない史実が、写真や記録などの資料で埋め尽くされています。

  設立経費、運営費用はすべて会員の会費と寄付で賄われ、公的助成は一切受けていません。受け付けはじめ運営はすべてボランティアによって支えられています。それが長崎平和資料館の大きな特徴であり、「ピースおおさか」などと違って展示内容や運営への公的介入を許さない力の根源です。

 同館の高實康稔理事長(長崎大名誉教授)は、「風雪20年を支えた三つの力」として、岡正治氏の提唱・遺志・人望、会員・ボランティア、そして、毎号の「西坂だより」に載る「来館者の声、とりわけ中高生の声」を挙げます。

  「日本が中国人や韓国人にしてきたことをリアルに見たのは初めてで、中国や韓国が日本を怒るのが理解できた。日本が被害者のように思っていたが、今回ここを訪れて考えが変わった」(広島県・女性・15歳)

 「教科書ではたった一文で済まされること、テレビをみているだけじゃ絶対に伝えられないコト・モノ・写真・事実が知れた。目をそむけたくなったし、目まいがするようなことが日常風景としてあった時が存在するなんて、今の自分には考えられない。日本人として胸をはって生きて行くためには、このことをどう自分なりに受けとめ、社会に反映していくかが大切だと思った」(愛知県・女性・16歳)

 「日本は他の国にひどいことをしてきたとわかりました。中国人を殺害したのに笑みを浮かべる日本人はとても怖かったです。その他にも朝鮮人を強制連行したり中国人を生き埋めにしたりなど、いろいろひどいことをやっているということがわかりました。日本は原爆をおとされた国ですが、それ以前にひどいことをしたということを忘れてはいけません」(三重県・男性・14歳)

 来館者は20年間でのべ78658人(おとな27428人、学生51230人)にのぼります。年間平均約4000人です。最も多かった時(03~04年)は年間6036人。この1年間は3750人です。

 「設立の趣旨」はこう結んでいます。
 「政治、社会、文化の担い手は、たとえ小さく見えようとも、一人ひとりの市民です。当館を訪れる一人ひとりが、加害の真実を知るとともに、被害者の痛みに思いを馳せ、一日も早い戦後補償の実現と非戦の誓いのために献身されることを願ってやみません」

 この訴えは、残念ながら、過去のものではありません。いいえ、むしろいま現在、より切迫した、重い問い掛けとなっています。

 被曝70年、敗戦70年は、長崎平和資料館設立20年です。
 その年が暮れようとしているいま、被爆地・長崎に、市民の手による”加害の資料館”が存在することの意味を、かみしめたいと思います。

 ※「岡まさはる記念長崎平和資料館
  所在地:長崎市西坂町9-4(JR長崎駅から徒歩5分) ☎095-820-5600
  開館時間:午前9時~午後5時、休館日:毎週月曜日・年末年始、入館料:大人250円、高校生まで150円


「オール沖縄会議」はなぜ「建白書」から後退したのか

2015年12月17日 | 沖縄・翁長知事

   

 「翁長知事の闘いを全面的に支えていく」(設立趣意書)と宣言して結成(14日)された「オール沖縄会議」に対しては、「『島ぐるみ会議』など既存の組織があるとして『屋上屋を架すようだ』など、新組織の形骸化を懸念する声も上がる」(15日付沖縄タイムス)と言われています。

 「島ぐるみ会議」(2014年7月27日)が存在し、辺野古へのバス配備など活動を続けてきたのにもかかわらず、なぜ新たに「オール沖縄会議」を発足させる必要があったのでしょうか。
 「島ぐるみ会議はあくまで個人参加による組織であり、団体単位では加入していない」(16日付琉球新報社説)ことが「オール沖縄会議」との違いとされています。それだけでしょうか?

 2つの「会議」には重大な違いがあります。それぞれの「アピール」「趣意書」から抜粋します。

 「2013年沖縄『建白書』の実現を求め、辺野古強行を止めさせ、未来を私たちのものとするために、沖縄の心をひとつにし、島ぐるみの再結集を、全沖縄県民に呼びかけます」(沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議結成アピール)

 「2013年の『建白書』の精神を基軸に、翁長知事を支え、県民を鼓舞し辺野古現地の闘いを大きな支援の輪で包んでいく」(オール沖縄会議設立趣意書)

 一目瞭然です。「島ぐるみ会議」はその正式名称自体が示しているように、「『建白書』の実現」を明確な目的に掲げています。
 ところが「オール沖縄会議」においては「建白書」は、「精神」の「基軸」にすぎず、その「実現」は明言されていません。明らかな後退です。

 これはたんなる“言葉づかい”の問題でしょうか。そうとは言えません。なぜなら、翁長氏によって「建白書」の実質的な変質・形骸化が進行しているからです。

 「建白書」(2013年1月28日)の具体的な要求項目は次の2点です。①オスプレイの配備を直ちに撤回すること②米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。

 このうち、②の「県内移設断念」について、翁長氏は「2015年度県政運営方針」(2月19日県議会で所信表明)で、「普天間飛行場の県外移設を求めてまいります」とのべ、明らかに「建白書」に反した「県外移設」の持論を公式方針としました。その後、安倍政権との「集中協議」(8月10日~9月9日)の中でも「県外移設」を公言しています。

 ①の方はどうでしょうか。翁長氏は就任以来、「集中協議」を含め、安倍政権に対して面と向かって「オスプレイを撤去せよ」と主張したことはありません(少なくとも主張したという報道はありません)。逆に、次のようなことがありました。

 「菅義偉官房長官が29日の集中協議で、東村高江へのヘリパッド建設について県の協力を求めた。・・・翁長雄志知事はヘリパッドが建設されれば県が配備撤回を求める米海兵隊のオスプレイ配備が予想されることから協議の場では『要請を受けた形とする』と答えるにとどめた」(8月30日付琉球新報)

 翁長氏は、菅官房長官に「高江ヘリパッド建設反対」を言うどころか、逆にオスプレイ配備強化に直結するヘリパッド建設へ「協力要請」をされ、それを突き返すどころか「受けた形」にしてしまったのです。

 14日付沖縄タイムス(平安名純代・米国特約記者)は、オスプレイが10日カリフォルニア州沖合で重大な着艦事故を起こしていたことをスクープしました(写真左)。オスプレイの危険性が改めて浮き彫りになっています。

 ところが翁長氏はこの事故について、一言もコメントしていません。代わりに町田優知事公室長が、「事故の状況が分からないので何とも言えないが、けが人がなかったからいいわけではない。・・・県民の不安は募るばかりではないか」(15日付沖縄タイムス)と言いましたが、「配備撤回」の言葉は報じられていません。

 そもそも「建白書」自体、「高江ヘリパッド」や「八重山への自衛隊配備」などについては一言も触れないきわめて不十分なものです。しかし、それが「オール沖縄」の旗印になっていることは確かです。
 翁長氏がその「建白書」からの逸脱・形骸化をすすめ、「オール沖縄会議」がそれをたんに「精神的」なものにして実行要求を棚上げするなら、県民への重大な背信と言わねばなりません。

訂正
 12月1日の「翁長知事はなぜ全国知事会議をすべて欠席したのか」の中で、「翁長氏は就任以来、1度も知事会議に出席したことがありません」としたのは、「翁長氏は今年度、1度も-」の誤りでした。お詫びして訂正します。
 翁長氏は2015年1月8日の知事会議に出席しています。翁長氏の知事会議出席はこの1回だけです。


「オール沖縄」がはらむ「翁長翼賛体制」化の危険

2015年12月15日 | 沖縄・翁長知事

   

 今月11日付の沖縄タイムス、琉球新報両紙に、驚くべき記事が載りました。

 「県議会、質問権生かさず  与党 時間を大幅短縮」(沖縄タイムス)
 「与党県議12人 “県に配慮”質疑短縮」(琉球新報)

 「県議会の代表・一般質問が10日に終了した。一般質問の中では、登壇した与党全員の13人が事前に申し合わせ、宜野湾市長選の応援や執行部への“配慮”を理由に、質問時間を大幅に短縮した。・・・議員の質問時間は17分だが、与党は『1人10分以内』という水面下の申し合わせをした」(沖縄タイムス)

 「与党は平均すると1人当たり7分10秒を残して質疑を終えた。2分6秒の質問時間で切り上げた議員もいた。与党会派が質問した9日は、夜に宜野湾市内で来月の市長選に向けた立候補予定者の総決起大会があった。県議らによると、同日の質問切り上げは、翁長知事をはじめ県議らが応援に駆け付けるため自粛したものだった」(琉球新報)

 翁長知事の与党会派は、宜野湾市長選での自陣営の予定候補応援のため、水面下で申し合わせ、17分しかない質問時間を全員が大幅に削減したというのです。信じ難いことです。

 「翁長与党会派」とは、日本共産党、社民党、生活の党、社大党、県民ネットです。

 「ある与党県議は『基地問題など重大局面が続き、(執行部の)負担を考えればやむを得ない』と釈明」(同、琉球新報)したといいます。まさに確信犯です。
 「一方、別の与党県議は質問権を自ら制限する与党内の空気に『17分の質問は議員に与えられた最大の特権だ。それを自己規制することは、県民の負託に応えていないことになる』と危機感を抱いた」(同、琉球新報)とも報じられています。「与党」の中にも良識ある議員はいるようです。
 しかし、報道以降も、この問題で「与党会派」から正式な釈明や謝罪があったという報道はありません(「しんぶん赤旗」を含め)。

 たんに時間が短かったという問題ではありません。時間を短縮すれば、当然質問内容がカットされます。
 例えば、10日に一般質問に立った嘉陽宗儀県議(日本共産党)は、事前の質問通告の中から、「高江のヘリパッド建設問題について」「西普天間地区の環境調査の現況と対策について」「泡瀬干潟埋立問題について」の3項目を「取り下げ」ました。いずれも沖縄県政の重大問題であると同時に、翁長氏が態度を明確にしていなかったり(高江ヘリパッド)、「辺野古」と相反して容認している(泡瀬干潟埋立)、いわば翁長氏にとっては突かれると痛い問題です。

 さらに問題なのは、事前通告からの取り下げだけではありません。
 沖縄と日本の平和にとってきわめて重大な、石垣、宮古、与那国の八重山諸島への自衛隊配備・強化について、与党会派はだれ1人質問していません。これも翁長氏が、「辺野古新基地」への態度とは裏腹に、賛成・容認している問題です。

 付け加えれば、共産党は、いま最も重視している「戦争法廃止の国民連合政府」について、代表質問(4日)も含め、質問していません。「9月議会」では質問したのに、なぜでしょうか。
 9月議会では共産党の質問に翁長氏は答ませんでした。戦争法に反対せず、したがって「国民連合政府」にも賛成しない翁長氏の立場が明確になることを避けたからではないのですか?

 「オール沖縄」の名の下に、翁長氏への必要な批判・追及を避け、「全面的に支えていく」(10日、共産党・西銘議員)という姿勢は、沖縄の県政、そして「世論」を一色に染める翼賛化の危険をはらんでいます。
 その兆候はすでにメディアなどに表れていますが、それが議会にも蔓延し、「翼賛議会」の様相を呈し始めていることを、今回の事態は示しているのではないでしょうか。

 時あたかも14日、「オール沖縄会議」が結成されました(写真左。琉球新報より)。「オール沖縄」が持つ「翁長翼賛体制」化の危険を常に凝視しなければなりません。
 沖縄の「民主・革新」勢力、市民、メディアは、いま、大きな岐路に立っていると言えるでしょう。



 13日のブログ「『12月13日』を、忘れない」の中で、「南京大虐殺」が行われた期間について、当初書いたものに対して貴重なご意見をいただき、修正しました。その個所を採録します。

 78年前の1937年12月13日、日本帝国陸軍が中国の首都(当時)南京を陥落。南京攻略作戦に伴う虐殺は37年12月4日前後から始まり、作戦が終了する38年2月14日まで、さらには中華民国維新政府が成立する3月28日ごろまで続いたと言われています(笠原十九司著『南京事件』より)。「12・13」はその大虐殺を象徴する日なのです。 


「12月13日」を、忘れない

2015年12月13日 | 戦争の加害責任

   

 「12月13日は何の日?」と問われて、答えられる日本人が、はたして何人いるでしょうか。

 78年前の1937年12月13日、日本帝国陸軍が中国の首都(当時)南京を陥落。南京攻略作戦に伴う虐殺は37年12月4日前後から始まり、作戦が終了する38年2月14日まで、さらには中華民国維新政府が成立する3月28日ごろまで続いたと言われています(笠原十九司著『南京事件』より)。「12・13」はその大虐殺を象徴する日なのです。

 日本の戦争加害責任を追及し続けている「岡まさはる記念長崎平和資料館」は、中国の「南京大屠殺紀念館」と友好館提携を結んだ2000年以降、毎年「長崎と南京を結ぶ集い―南京大虐殺生存者長崎証言集会」を開催しており、12日、その第15回が長崎市内で行われました。私は初めて参加させていただきました。

 証言してくださったのは石秀英さん(89歳)。それに、元日本兵の証言ドキュメント「南京の松村伍長」(松岡環監督)と、当時南京市民の救護にあたった英国人牧師が命がけで撮影した記録フィルム「マギー牧師の証言」の2本のビデオが上映されました。

 「松村伍長」の証言やマギー牧師の映像は、「南京大虐殺は虚構」という右翼・歴史修正主義者の妄言を、当事者の声と当時の実写で疑問の余地なく粉砕するもので、必見です。

 石秀英さんは当時11歳。その日、日本軍が南京城へ侵攻してすぐに、父と長兄が消息を絶ちました。数日後、2人は日本軍に銃剣でめった刺しにされ、殺されたと親戚から聞きました。遺された母と幼いきょうだい5人。生計も断たれ、山の中でムシロを囲って暮らしました。間もなく2番目の兄も日本軍に拉致されて殺され、母は病で死去。姉妹は身売り同然でバラバラになりました。
 「私たち姉妹はだれ1人、学校へ行けませんでした。お湯を届けに(わずかな収入を得るため)学校へ行くのに、教育はまったく受けられませんでした」

 身振り手振りで、それでも怒りを抑えてはっきりした口調で語ってきた石さんが、左手の白いハンカチを握りしめ、歯を食いしばり、涙で声を震わせたのは、次の証言のときでした。
 「日本軍は悪事の限りを尽くしました。町のいたる所に死体がありました。溝は死体でいっぱいでした。死体の間にはまだ生きている人が這い回っていました・・・」

 最後に石さんは言いました。
 「どうか日本と中国が仲よく、平和でありますように。私の苦労はとても言い尽くせるものではありません。だから今、胸にあることだけ話しました。平和があれば、それ以上のことは望みません

 南京に侵攻した「松村伍長」らは、「中国人は男も女も大人も子供も全部殺せ」と命じられました。地図を指さしながら淡々と説明する「松村伍長」。「銃は撃つな、(銃剣で)突いて殺せ、という命令だった」と言います。「音を立てると恐怖心を高めるし、弾がもったいない」から。

 あなた自身も女性や子どもを手にかけたのか、との質問に、「松村伍長」はしばし沈黙し、こう言いました。「分隊の中ではタマにあった。殺された戦友の仇をとらんといけんからな」

 「松村伍長」の証言は次の言葉で終わります。
 「あとになって考えると、殺さんでもよかったのにと思う。敵も哀れやが、日本も哀れや」

 何年かかけて何度かに渡って行われたインタビューでしたが、「松村伍長」の口からは、遂に謝罪の言葉は一言も聞かれませんでした。その顔に、笑みはあっても、涙はありませんでした。「日本も哀れ」とは!

 石さんと「松村伍長」。なんという対照でしょう。その言葉と表情、そして人間性のあまりの落差・・・。 これが「被害者」と「加害者」というものでしょうか。

 「松村伍長」は「日本人」そのものでした。南京大虐殺を当時の日本の新聞は「帝都は歓喜のどよめき そらッ!南京陥落だ 宮城前に奉祝の群れ」(東京日日新聞)と報じ、天皇裕仁は「速ニ都南京ヲ陥落シタルコトハ、朕深ク満足ニ思フ」との「御言葉」を発したのです(いずれも「岡まさはる資料館」の展示より)。

 明仁天皇には「忘れない日」が4つあるそうです。「6・23」「8・6」「8・9」「8・15」です。その中に「12・8」を、そして「12・13」を加えるべきでしょう。「8・15」は忘れても。

 集会のあと、私は石さんに握手を求め、「謝謝」とお礼を言いました。89歳でよく日本まで。そして辛いお話をよくお聞かせくださいました。
 石さんはやさしく微笑んで握り返してくれました。その手の柔らかさ、温かさに救われる思いでした。89歳。母と同い年です。

 でも、あとで気が付きました。私が石さんに言うべきは、「ありがとうございました」ではなく、「すみませんでした」だったと。

 15年続いた「長崎証言集会」は今年で終わりです。生存者の高齢のためです。


就任1年ー辺野古へ1度も行かない翁長知事

2015年12月10日 | 沖縄・メディア

  

 きょう10日で翁長雄志氏が沖縄県知事に就任して1年です。
 県紙は「政治家の言葉と行動の重さを再確認した1年であった」(10日付琉球新報社説)などと翁長氏を全面的に賛美しています。しかし、事実はどうだったでしょうか。翁長氏の「言葉と行動」を振り返ってみましょう。

 政策面において、「公約の95%に着手」(「翁長会見一問一答」、10日付琉球新報)どころか、いかに「公約」に違反しているか、あるいは不履行を続けているかはすでに検証しました(11月17日ブログ参照http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20151117)。

 付け加えれば、「高江ヘリパッド」は「公約」にすら入れておらず、いまだに「反対」を明言していません。「はっきり反対だと言ってほしい。高江のことも、思いの中に入れてほしい」(高江住民・安次嶺現達さん、10日付沖縄タイムス)との痛切な声は当然です。

 同じく「公約」に入れなかった、八重山への自衛隊配備問題で、これを容認・賛成していることがいかに重大かも述べました(11月28日、12月8日のブログ参照)。

 ここでは「政策」以外の、翁長氏の「政治姿勢」を検証します。

 翁長氏は就任以来、1度も辺野古の現場に足を運んでいません。

 翁長氏が辺野古に行ったのは、知事選前の2014年9月20日(集会参加)と、選挙後の同11月19日(当選御礼)の2回だけです。
 辺野古では連日市民・支援者のたたかいが続いています。翁長氏は知事として現地を訪れてこれを「激励」したことは、1度もないのです。

 「激励」しないだけではありません。翁長氏には、県警の「過剰警備」や警視庁機動隊への派遣要請をやめるよう県公安委員会に指示する権限と責任があります(11月10日のブログ参照)。その責任を放棄したうえに、顔さえ見せないのです。

 翁長氏が行かない代わり(?)に、妻の樹子(みきこ)さんが11月7日辺野古を訪れ、こう言いました。「万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している」(11月8日付琉球新報)。おかしくないですか?市民は「万策尽きた」から座り込みをしているのですか?「万策尽き」なければ辺野古へは行かないつもりなのですか?

 さすがにまったく辺野古へ行かないのはまずいと思ったのか、側近の安慶田光男副知事は、「承認取り消し」を行った10月13日、与党県議らに「ゲート前の抗議行動を激励するため、翁長知事が直接現地を訪れる考えがある」(10月14日付琉球新報)と述べました。しかしこれも“空手形”だったことはその後の経過が示す通りです。

 翁長氏が「行かない」のは辺野古だけではありません。

 久米島の大田治雄町長は、「県庁に翁長雄志知事を訪ね、翁長知事が就任以来まだ久米島入りをしていないことを引き合いに・・・時間をやりくりして来てほしいと誘い水をかけた。・・・知事からは具体的な回答はなかったと言いつつ、『離島振興にも目を向けてほしい』と期待を寄せた」(10月18日付沖縄タイムス)。
 翁長知事はいまだに久米島へは行っていません。

 翁長氏が就任以来「離島」を訪れたのは、11月4日の「伊江島視察」が最初で最後です。
 「基地問題で翻弄もされ・・・時間を割いた」(同「一問一答」)などという言い訳は通用しません。毎日の「知事動静」を見れば、「終日事務調整」がいかに多いか、つまりその気があれば時間は十分あったことは明らかです。

 関連して、翁長氏が「できる限りの機会をとらえ、理不尽な基地政治の現実を訴えた」(10日付沖縄タイムス社説)という評価は、まったく事実に反しています。翁長氏が、知事としての重要な責務である全国知事会議に、理由もないのにすべて欠席してきたことをどう説明するのでしょうか(12月1日ブログ参照)。

 さらに指摘しなければならないのは、翁長氏は市民・県民の所へ「行こうとしない」だけでなく、「会おうともしない」ことです。

 就任以来、県内で活動している市民(グループ)は何度も「翁長知事宛て」の要請・申し入れを行っています。県紙に載ったものだけを拾っても、次の通りです。

 〇 2月10日 「宮城康博氏ら市民有志」 沖縄防衛局の岩礁破砕の中止勧告を要求
 〇 2月16日 「名護市二見以北住民の会」 埋立承認早期撤回を要求
 〇 4月13日 「ニュー・ウェーブ・トゥ・ホープ」 埋立承認撤回を要求
 〇 5月 1日 「撤回問題法的検討会(新垣勉弁護士ら)」 撤回は可能との「意見書」
 〇 8月18日 「沖縄・生物多様性市民ネットワーク」 政府との「集中協議」について
 〇 8月28日 「高江ヘリパッド建設に反対する現地行動連絡会」 建設反対を要求
 〇 10月25日 「泡瀬干潟を守る連絡会」 埋立事業の撤回を要求

 しかし翁長氏は、これらの市民たちに会って直接要望を聞くことは、ただの1回もしませんでした。
 その一方で翁長氏は、陸上自衛隊西部方面隊・小川清史総監の就任あいさつ(9月15日、写真右=琉球新報より)、海上自衛隊佐世保地方隊・山下万喜総監の就任あいさつ(10月13日)には、いずれも自らきっちり応対しています。

 翁長氏が、市民の要請と自衛隊幹部の就任あいさつと、どちらを重視しているかは明白です。

 市民に背を向けた翁長氏のこうした政治姿勢は、「私と前知事の政策面での違いは埋立承認以外に大きなものはありません」(代執行訴訟「陳述書」)と公言するように、日米軍事同盟堅持をはじめとするその自民党的政策とけっして無関係ではありません。

 仲井真前知事の破廉恥な埋立承認以降、沖縄市民・県民のたたかいが大きく広がっていることは間違いありません。その沖縄にとって、そして日本にとって、最大の不幸は、そのたたかいの旗頭に翁長氏を立てていることです。
 そして、「翁長タブー」ともいうべきメディア、「革新」政党・会派、市民の手放しの「翁長賛美」が、その不幸を増幅していると言わねばなりません。

 ※土曜日は取材で長崎へ行くため、次回は13日(日)に書きます。