小池百合子氏が「右翼政治家」であり、今回の総選挙でも「自民党圧勝」の陰の立役者であることは、このブログでも再三指摘してきました。したがって小池氏を擁護するつもりは、さらさらありません。しかし、希望の党の連中が選挙結果の責任を小池氏に押し付けている姿は、あまりにも醜悪だと言わざるをえません。
選挙前は「小池人気」にあやかって、主義主張などお構え無しに「希望」になびき、それが思い通りにならなかったら今度は小池氏をこきおろす。彼らには政治家としての、いや人間としての矜持などかけらも見られません。
なかでも見過ごせないのは、小池氏の「排除します」発言(9月28日)があたかも「希望」敗北の元凶であるように言われていることです。
これは「希望」の議員・候補者だけでなく、「小池氏は衆院選直前、民進党出身者の公認申請を巡り、一部を「排除する」と発言して党勢は一気に失速」(26日付共同配信)など、メディアにも広く流布しています。
「希望」失速の原因を「排除」発言に求めるのは全くのお門違いです。
それは2つの意味で間違っています。
第1に、「希望」の候補者に対して有権者から集中した批判は、「排除」ではなく「変節」「無節操」です。安保法制(戦争法)について、民進党にいたときは「憲法違反」と言って反対しておきながら、賛成・推進の「希望」に行くとは何事か、というきわめて当然の批判です。
安保法制や改憲をめぐって、「希望」が自民党の補完勢力でしかないことが露呈した。それが「希望」失速の主な原因です。それを「排除」発言のせいにするのは事態の本質を見誤らせます。
第2に、「排除」発言自体は、なんの問題もありません。
排除とはふるい落とし、選別です。小池氏は「政策協定書」(写真右)を示し、これに同意できない者は「排除」する、すなわち公認できないと言ったのです。「政策」の内容はともかく(自民党政治の補完そのものですが)、政党が「政策協定」を基準に公認のふるいにかけるのはきわめて当然であり、なんら批判されるべきことではありません。
にもかかわらず「排除」発言がこれほどやり玉に挙げられるのはなぜでしょうか。
そこには、「排除」という言葉が意味する内容に対する批判ではなく、語感、さらには小池氏のものの言い方、態度に対する反発があるのではないでしょうか。いわば一種の個人攻撃とも言えます。
乗松聡子氏(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)は、ネットや新聞紙上で「小池氏をその政策で批判するのではなく「〇〇婆あ」とか、女性であることを標的にした攻撃が氾濫している」と指摘したうえで、こう強調しています。
「私は小池知事の防衛政策やマイノリティーに対する差別的姿勢を批判する立場だ。しかしこのような個人攻撃やセクハラは誰に対するものでも容認できない」(9日付琉球新報)。政治家に対する「個人攻撃」の問題点を指摘した重要な指摘です。
「排除」発言の取り上げ方とセクハラは同一ではありませんが、通じるものがあります。それは、本来政治家や政党を判断する基準であるべき政策や政治理念は棚上げし、本質から外れたところで批判・攻撃がされていることです。
政治家・政党を判断する基準は、政策・政治理念である。この基本が定着しない限り、選挙は何度やってもブームに漂うただの「人気投票」に終わってしまうでしょう。
※28日、30日、31日はお休みし、次回は11月1日に書きます。