アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記308・沖縄・糸数壕に通う元日本兵の娘たち

2024年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
  5月に沖縄の糸数壕(アブチラガマ)(南城市)を訪れたとき、案内センターの展示品で目を引くものがあった。

 大けがでガマに運び込まれ、文字通り九死に一生を得た元日本兵(人形師)が、愛知県に戻った後も100回以上沖縄を訪れ、製作した雛人形を贈るなど、命を救ってくれた地元の人々との交流を続けきた。その人は日比野勝廣さん(享年85)。

 日比野さんが亡くなられた(2009年)あとは、娘さんたちが糸数との交流を続け、平和の尊さを訴え続けている。

 娘さんたちは今年も「6・23」に糸数壕を訪れた、という記事が29日付の琉球新報に載った(写真)。

 訪れたのは長女の日比野裕子さん(75)ら4姉妹。四女の中村桂子さん(71)は平和講話で父から聴いた戦争体験を語った。五女の柳川たづ江さん(69)は腹話術で、友人が相次いで亡くなる中で生き残ったことへの罪悪感で苦しんでいた父の胸の内を伝えた。次女の清水糸子さん(74)の名前は糸数からつけられた。双子の三女・数子さんは生後1週間で亡くなった。

 桂子さんは「戦争の記憶を語り継いでほしいという父の遺言を胸に、今後も姉妹で力を合わせて活動を続けていきたい」と話している(以上、29日付琉球新報より)。

 勝廣さんは生前、南城市が発行した『糸数アブチラガマ』(1995年)に体験記を寄稿している。破傷風が悪化し傷口に大量の「うじ」がわき、死の入口が見えたとき、救ってくれた「1人の看護婦さん」のことを書いている。

「まっ黒になった右手の包帯をていねいにはがし、ピンセットで「うじ」を一つ一つとってくれた。ざくろの割れ目に似た傷口深く喰いいっている「うじ」は汚く、若い女性でできる仕事ではないはずだが、黙々として彼女は手を動かした。その横顔の神々しさ「地獄で仏」とはこのことを言うのであろう。学徒動員で働いている現地女学生のこの人は、解散を告げられて最後の仕事に私を選んでくれたのであろう。明け方近く一言の言葉もなく静かに立って行った。私に深い慰めのまなざしを残して」

 そして、手記をこう結んでいる。

「今もって、沖縄の鍾乳洞の奥深く、永久に発見されるすべもなく眠っている「みたま」の幾多あることを思うと、「日本国民すべての人が、もう一度悲惨な戦争を想起してほしい」―英霊に代わって、私はそう叫ばずにはおられない」

 沖縄の人びとは、帝国日本の「国体(天皇制)護持」の「捨て石」にされ、日本軍に直接間接に虐殺されながら、一方で自分をかえりみず日本兵を救ったのだ。それはこの「看護婦さん」だけではない。この歴史の事実を、「本土」の日本人は知らなければならない。そして忘れてはならない。

 勝廣さんの偉大さは、沖縄の人びとに受けた恩を一生忘れず、100回以上沖縄を訪れたことだけではない。口にするのもためらわれたであろうことも含め、子どもたちに自らの体験と反戦の思いを語り継いだことだ。

 それを4人姉妹はしっかり受け止めた。そして手を取りながら、父の遺志を継いでいる。

 私は娘さんたちと同じ世代だ。14年前に他界した父が19歳で広島・大久野島の陸軍毒ガス工場で働かなければならなかった経過と、その思いを、しっかり聴いておくべきだったと、今さらながら悔やまれる。

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少女誘拐暴行事件・玉城知事はなぜ米司令官に会わなかったのか

2024年06月29日 | 沖縄と日米安保・米軍・自衛隊
   

 沖縄嘉手納基地所属の米空軍兵長の男が昨年12月24日、16歳未満の少女を誘拐し、性暴力をはたらいた事件。県は27日、県庁を訪れた嘉手納基地のニコラス・エバンス司令官に抗議しました(写真右=沖縄タイムスより)。

 きわめて卑劣・重大な事件で、被害者のケアとともに、加害者への厳正な処罰、そして、米軍・米政府、日本政府の徹底追及が必要なことは言うまでもありません。

 ところが、県紙が報じた27日の県庁での抗議のもように疑問を禁じ得ませんでした。エバンス司令官に抗議したのが玉城デニー知事ではなく池田竹州副知事だったからです。

 玉城知事はなぜその場にいなかったのでしょうか。なぜ直接エバンス司令官に抗議しないのでしょうか。

 この日の知事の日程は、琉球新報、沖縄タイムスともに「終日事務調整」としています。終日県庁にいたわけです。それなのになぜエバンス氏に会わなかったのか。

 この日のエバンス氏との面会は、「米側からの申し出を受けて設定された」(28日付沖縄タイムス)ものです。エバンス氏が26日にその意向を電話で県に伝えました(同)。
 そして、池田副知事が読み上げた抗議文は、「玉城デニー知事名」(28日付琉球新報)でした。

 エバンス氏の来訪を事前に知っており、自らの名前による抗議文も用意しながら、なぜそれを自らエバンス氏に突きつけなかったのか。きわめて不可解です。

 私が読んだ限りでは、新報にもタイムスにもその理由は載っていません。両紙とも知事の不在を疑問に思わなかったのでしょうか。

 今回の事件では、逮捕(昨年12月24日)から6カ月、起訴(3月27日)からでも3カ月、県にまったく連絡がなかったことが、「信頼関係において、著しく不信を招く」(玉城知事、25日)と問題視されています。確かにそれも問題ですが、それは事件の本質ではありません。

 絶えることがない米兵による性暴力事件の本質は、「軍隊とは力による鎮圧や支配を前提とした組織」(28日付沖縄タイムス社説)であり、性暴力事件は「基地あるが故に繰り返される犯罪」(同)であるというところにあります。

 したがって、米兵による性暴力を根絶するためには、全ての米軍基地を撤去する以外にありません。
 27日県庁で記者会見した「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」など県内6団体が、「在沖米軍基地の撤去」を要求し(28日付琉球新報、写真中)、名護市では抗議する市民が「米軍よ沖縄から去れ」と書いたブラカードを掲げた(写真左=27日付沖縄タイムス)のはそのためです。

 しかし、玉城氏は米軍基地の存在を容認しています。朝日新聞のインタビューで、「当面50%の米軍基地は認めざるを得ない」(2月2日付朝日新聞デジタル)と公言しているのです(2月5日のブログ参照)。

 米軍基地の存在を容認する玉城氏が、米軍の性暴力根絶の立場に立てないことは明白です。27日の不可解な欠席(雲隠れ)はそれと無関係ではないと思います。

 さらに重要なのは、「在沖米軍基地の撤去」のためには、日米安保条約の廃棄が必要不可欠だということです。
 今回の問題で県紙2紙や朝日新聞、東京新聞などの社説は「日米地位協定の改定」を主張していますが、それでは基地はなくなりません。地位協定は安保条約による米軍基地の存在を前提に、その運用を定めたものにすぎないからです。

 米兵の性暴力根絶のためには、すべての米軍基地を撤去すること、そのためには日米安保条約を廃棄しなければならないことを幅広い世論にしていく必要があります。

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天皇英国晩さん会「あいさつ」5つの問題点

2024年06月28日 | 天皇制と憲法
   

 徳仁天皇は日本時間26日午前(現地時間25日夜)、訪問先のロンドン・バッキンガム宮殿で、チャールズ国王夫妻主催の晩さん会であいさつしました。日本のメディアは「(両国の)関係発展や両国民の幸せを願い…」(27日付京都新聞=共同)などと最大限賛美していますが、実はきわめて問題の多い、しかも危険性を含むものでした。問題点を5点挙げます(カッコの引用は共同配信の「あいさつ全文」より)

1、日本の侵略戦争の責任棚上げ

  「日英両国には、友好関係が損なわれた悲しむべき時期がありましたが…」

 15年戦争(太平洋戦争)における日英交戦の歴史を述べたものですが、「悲しむべき時期」を招いたのは帝国日本の侵略戦争です。その責任を棚上げし、ひとごとのように述べることは、重大な歴史的事実の隠ぺいにほかなりません。

2、天皇裕仁の戦争責任に対する市民の抗議を隠ぺい

  「私の祖父は、1917年の晩さん会で、日英両国の各界の人々がますます頻繁に親しく接触し、心を開いて話し合うことを切に希望し…」

 裕仁の訪英が友好的だったかのような言いようですが、事実は違います。このとき裕仁はイギリスを含め欧州7カ国を訪れました。

「訪問した7カ国、とくにオランダ、西ドイツ、イギリスでは、憤慨したデモ参加者が彼(裕仁)の車列に物を投げつけたり、侮辱したりした。彼らは天皇を平和の象徴とは認めず…ヨーロッパでの抗議運動は、「戦争責任」がまだ過去の問題になっていないことを改めて教えた」(ハーバート・ビックス著・吉田裕監修『昭和天皇下』講談社学術文庫2005年)

3、天皇明仁にも向けられた非難・抗議を隠ぺい

  「私の父は、1998年に同じ晩さん会で日英両国民が…手を携えて貢献していくことを切に念願しておりました」

 明仁訪英時にも、天皇の戦争責任を追及する声は収まっていませんでした。元英国軍捕虜たちは、バッキンガム宮殿に向かう天皇の車に「背を向けて抗議」(22年9月16日付朝日新聞デジタル)したのです(写真右)。

 そんな明仁に救いの手を差し伸べたのはエリザベス女王でした。歓迎晩さん会でのスピーチで女王は、「いたましい記憶は今日も私たちの胸を刺すものですが、同時に和解への力ともなっています」などと述べ(同朝日新聞デジタル)、「和解」を強調したのです。

4、自民党政権の「政治・外交」を賛美する政治発言

  「われわれの時代においては、国王陛下からも言及があったとおり政治・外交、経済、文化・芸術、科学技術、教育など、実にさまざまな分野で…日英関係はかつてなく強固に発展しています」

 「水」やアニメの話をしている分には実害はないとも言えますが、この発言は見過ごせません。「政治・外交」を含めて両国関係を称賛することは、自民党政権によるイギリスとの政治・外交関係、すなわちG7(西側陣営)の一員としての「政治・外交」を賛美したものであり、天皇の政治的関与を禁じている憲法(第4条)に抵触する疑いがあります。

5、日英軍事協力推進を後押しする危険

  「今後とも日英両国が…永続的な友好親善と協力関係を築いていくことを心から願っています」

 この発言の危険性は、天皇の前に行ったチャールズ国王のスピーチとの関係で見る必要があります。天皇自身、4で引用したように、「国王陛下からも言及があったとおり」と、チャールズ国王のあいさつを念頭に発言しています。チャールズ国王はこう述べました。

  「日英両国は共通の安全保障のために、かつてないほど緊密に協力しています。…両国は、ハイレベルな軍事演習を行い、専門的知識を共有しています。…防衛と産業界の協働に至るまで…このような共通の努力のすべてを支えているのは…日英両国民間の永続的な絆です」

 あけすけに軍事協力を賛美し、いっそうの強化を主張しています。このチャールズ発言に呼応して日英間の「協力関係」を「心から願っ」た天皇のあいさつは、日英間の軍事協力(軍事演習、兵器開発など)の強化を客観的に後押しするきわめて危険な役割を果たしています。

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ハンセン病入所者への人体実験「紅波」の徹底追及を

2024年06月27日 | 差別・人権
  

 戦時中、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市=写真右)の入所者に対し、陸軍の機密研究によって、「紅波」という薬剤(写真左)を使った人体実験が行われていました。

 同園の自治会や熊本日日新聞、京都新聞の情報公開でその一端は分かっていましたが(2023年6月24日のブログ参照)、より詳しい実態が24日に同園が公表した中間報告書で明らかになりました。25日付の熊本日日新聞と京都新聞の同時掲載記事が報じました。その概要は以下の通りです。

<「紅波」投与の臨床試験は1942年12月~47年6月まで少なくとも4回行われた。初回だけでも当時の入所者1157人の3分の1に投与。全体で被験者は472人、投与された可能性も含めると842人に上る。被験者の年齢は6歳~67歳

「紅波」は発熱やおう吐などの副作用があり、試験中に少なくとも9人が死亡した。

 塗り薬や筋肉注射のほか、尿道、肛門、膣など「体内に入りさえすれば、どこからでも薬剤を入れていたように感じられた」(入所者の証言)。

 被験者は錠剤を宮崎松記園長の前で服用しなければならず、拒絶することができなかった

 43年11月には副作用を恐れ、投与を拒否する入所者が続出したが、中止しなかった

 報告書は、こうした行為は64年に世界医師会採択したヘルシンキ宣言の「医薬品の臨床試験の実施基準」に抵触すると言及した。

 「紅波」は、感光剤を合成した薬剤。旧陸軍第7陸軍技術研究所の機密研究で、「極寒地作戦での人体の耐寒機能向上」などが開発目的。研究を嘱託された宮崎松記園長や熊本医科大教授らは京都帝大(現京大)医学部出身。>(25日付熊本日日新聞・京都新聞)

 朝日新聞によれば、「報告書は、入所者に十分な説明がなされなかった▽医師への遠慮で試験参加の拒否を訴えることができなかった▽薬剤の効果について正直な感想を入所者が述べることができなかった▽副作用について何らの補償もなされなかった▽実施にあたり病理学・薬理学的な根拠が不足していた―など9項目を問題点として指摘する」(25日付朝日新聞デジタル=写真も)。

 驚くべき実態です。藤野豊・敬和学園大教授は、「虹波の治験という非人道的な行為が、隔離された療養所という環境の中で行われた。新たな人権侵害として国の責任が問われるべきだ」(22年12月5日付京都新聞)と指摘していました。

 この問題は、ハンセン病入所者に対するあからさまな差別・人権蹂躙であるとともに、旧日本軍の残虐性、さらに京都帝大(現京大)の責任も絡んだ根深い問題です。また、ハンセン病療養所と天皇制(皇室・皇族)の関係も見逃すことはできません(23年6月24日のブログ参照)。
 重大な歴史の闇です。真相を究明し、国はじめ関係者の責任を徹底追及しなければなりません。


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政治改革は小選挙区制廃止・完全比例代表制導入で

2024年06月26日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
   

「政治の劣化が著しい。国会の審議にしても政治資金の在り方にしても、何も変わらないままだ。国会議員に改革しようという気持ちがないからで、突き詰めていくと、こういうやる気のない議員しか選べない選挙制度の問題に行き着く」(15日付京都新聞夕刊=共同配信)

 通常国会閉会を前に、大山礼子・駒沢大前教授(政治制度論)がこう指摘していました。
 まったく同感です。メディアは今度の国会を「政治改革が焦点」などと評していましたが、選挙制度を変えないで「政治改革」などありえません。

 大山氏は具体的な提案を行っています。

<衆議院> 現行=小選挙区とブロック比例 ⇒ 定数5か6の中選挙区制にし、比例代表で当落を決定
<参議院> 現行=小・中選挙区制と全国比例 ⇒ 都道府県単位の選挙区を廃止し、全国比例を9ブロックに分割

 大山案のポイントは、衆参ともに①小選挙区制(1選挙区で当選者1人)を廃止する②比例代表制を基本とする―です。
 この2点はまさに選挙制度改革の要諦です。

 小選挙区制(小選挙区比例代表並立制)が導入されたのは1994年ですが、それより前から小選挙区制の弊害に警鐘を鳴らし続けている学者がいます。自民党の裏金追及の口火を切った上脇博之・神戸学院大教授です。

 上脇氏は憲法の議会制民主主義の原則に立って選挙制度はどうあるべきかを指摘します。

「代議制・議会制が民主主義と結び付いて議会制民主主義になるためには、(直接)民主制によって国家の意思形成が行われるのと可能な限り同じになるよう議会を構成することが要請されます。…議会制民主主義であるためには、国民の意思が議会に反映されること、すなわち、できるだけ死票が生じないようにし、かつ議会(国会)を「国民(投票者)全体の縮図」にすること(民意を正確・公正に国会へ反映すること)が要請されるのです」(『ここまできた小選挙区制の弊害』あけび書房、2018年)

 この原則から、上脇氏が指摘する小選挙区制の最大の欠陥は、膨大な死票を生むことです。そしてそれは投票率の低下を招きます。自分の票が死票(無駄)になる可能性が大きければ投票意欲がそがれるのは当然でしょう。

 上脇氏の前掲書によれば、第2次安倍晋三政権を誕生させた2012年12月16日の総選挙は、死票が有効投票の53・0%(約3163万票)にのぼりました。その結果、自民党は得票率43・0%で、79%の議席を獲得したのです。
 上脇氏は、小選挙区制こそが、「アベ「独裁」政権誕生の元凶」だと断言しています。

 では、小選挙区制に代わって、どのような選挙制度を導入すべきか。上脇氏はこう指摘します。

憲法上の要請に最も的確に応えられるのは、比例代表制しかないでしょう。比例代表制は、最も中立・公正でもあります。衆参のいずれの選挙制度も比例代表制にすべきです。その際、全国1区の比例代表制(完全比例代表制)が投票価値の平等を保障する点でも最適です」(前掲書)

 比例代表制の方法は大山氏と上脇氏で違いはありますが、比例代表制を基本とすべきだということは共通しています。

 小選挙区制を廃止して、比例代表制に代える。それによって死票はほとんどなくなりすべての投票が価値を持つ。そして、有権者の多様な意思・価値観を代表する議員が国会に現れる。女性の議会進出を阻んでいるのも小選挙区制です(2021年10月19日のブログ参照)。

 完全比例代表制こそ主権在民の憲法原則に沿った選挙制度です。それが実現すれば、腐りきった自民党が政権の座に居座り続けることはできなくなるでしょう。

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「日本と朝鮮戦争の関係」いつ「決着」をつけるのか

2024年06月25日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 今日6月25日は、朝鮮戦争が勃発(1950年)して74年です。1953年7月27日に朝鮮軍、アメリカ(国連)軍、中国軍の間で休戦協定が調印されましたが、戦争はまだ終結していません。

 この戦争の死傷者は、朝鮮軍52万人、韓国軍58万人、中国軍(死者)13万人、アメリカ(国連)軍13万人。民間人の犠牲者は「北」28万人、「南」36万人とされています(韓国国防部軍史編纂研究所統計、21日付ハンギョレ新聞)。

 日本人の犠牲者は統計上はありません。では日本は朝鮮戦争と無関係だったのか。とんでもありません。
 歴史学者のガマン・マコーマック氏(オーストラリア国立大教授)は、著書『侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実』(シアレヒム社発行・影書房発売、1990年)の「日本語への序文」で、「日本と朝鮮戦争の関係」を7点指摘しています(以下、抜粋)。

<第一に、朝鮮の分断、南北の対立、戦争に立ち至った悲劇の根源的理由は、朝鮮が長い間日本帝国の下に従属を強いられていたということと、もし日本にそのつもりさえあったら分断されない独立した朝鮮国家の樹立に手をかすという選択肢が残されていたにも拘わらず、またそれをなしうるだけの力が日本にあったにも拘わらずそうはしなかったということにある。

 第二に、日本に対するアメリカの占領が比較的寛大なものであったのにたいし、同じアメリカによる1945年の朝鮮分断とそれによってもたらされたこの国のその後の運命は苛酷で不当なものであった。侵略の犠牲者である朝鮮は分断され、逆に、侵略を犯した日本は分断をまぬがれたばかりか、政治体制、官僚機構の連続性さえが保障された。戦後の日本に降りかかって然るべきだった運命は、日本の上にではなく、朝鮮の上に降りかかった。

 第三に、日本は巨大な規模の間接的役割のみならず、直接的に重要な軍事的役割を果たした。日本は(国連軍)戦闘司令部の所在地であり、供給、通信、兵站の中心地であり、米軍(国連軍)将兵の休息と娯楽の場所であった。それのみでなく、極秘の軍事作戦にも直接関与した。

 第四に、戦後日本の経済復興とその後の高度成長は、その土台が、朝鮮戦争の「特需」によって据えられた。日産、トヨタ、いすず、その他のグループはすべて朝鮮戦争中、戦場から送りこまれてくるトラックや戦車の修理、組立からの巨大な利益を飛躍のバネとして成長した企業である。船舶、飛行機、制服、セメント、爆薬、ナパームその他数えきれない軍需品の生産でドルをかせいだ。

 第五に、日本は朝鮮戦争を絶好の機会として、日本に住む在日朝鮮人に対する差別を強化した。日本は朝鮮人に対するアメリカ軍の敵意を煽りながら、朝鮮系の組織、新聞、学校等に対し、解体、閉刊、閉鎖の手段で弾圧を加えた。

 第六に、日本がこの戦争中、開発した技術と蓄積した経験を通じて、アメリカが朝鮮に対して実験したと思われる細菌戦に寄与したのではないかという問題。真相が究明されなくてはならない。

 第七に、日本人は、少数の例外を別にすれば、隣国の朝鮮人が蒙った心の傷に対して無関心であり続けた。人びとは安易に、いずれにせよ朝鮮戦争は自分たちの力の及ぶ問題ではないと片付けてきた。>

 そしてマコーマック氏はこう結んでいます。

「大部分の日本人にとって、朝鮮戦争という隣人の悲劇は高度成長の春霞の中では見えにくいものであった。いつの日か日本はこの時代になしたこと、なさなかったことについて決着をつけるべき日がくるだろう」

 この指摘から37年。マコーマック氏が挙げた7点はどれも「決着」がついていません。
 日本人は、「見えにくかった」のではなく「見ようとしなかった」のです。「決着をつけるべき日」はとうに来ていたのに、決着をつけないまま今日に至っています。それどころか、「朝鮮戦争」を知らない日本人は増えるばかりです。

 「朝鮮戦争と自衛隊の関係」(23年6月26日のブログ参照)を含め、「日本と朝鮮戦争の関係」から目を逸らすことは絶対に許されません。だいいち、朝鮮戦争はまだ終わっていないのです。



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自衛隊と旧日本軍の連続性・「6・23」の変更を

2024年06月24日 | 沖縄と戦争
   

 今年の「6・23 沖縄慰霊の日」は、自衛隊と旧日本軍(帝国軍隊)の連続性がかつてなく問われる中で迎えました。

 23日付沖縄タイムスは1面トップで、「沖縄の陸上自衛隊第15旅団が、沖縄戦を指揮した牛島満・日本軍司令官の軍服を那覇駐屯地の展示場に陳列していたことが分かった」と報じました(写真左)。

 同記事は、「沖縄住民に多大な犠牲を強いた責任者をしのぶ遺品の展示は、日本軍と自衛隊の連続性を示している」と指摘しています。

 「日本軍と自衛隊の連続性」を示す事項は、このかん相次いで表面化しています。

▶陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長ら数十人が、靖国神社を集団参拝(1月9日)

▶海上自衛隊の酒井良海上幕僚長が記者会見で、昨年5月17日に海自幹部候補生学校の卒業生らが「歴史学習として」靖国神社を集団参拝していたと明かす(2月20日)

▶海上自衛隊の元海将・大塚海夫氏が、靖国神社の宮司に就任(4月1日)

▶陸上自衛隊第32普通科連隊(さいたま市)が、公式SNSに「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島」と投稿(4月5日)(問題になって削除)

▶陸上自衛隊第15旅団が、公式HPに牛島満司令官の「辞世の歌」を掲載していることが判明(6月3日付琉球新報)

 「日本軍と自衛隊の連続性」という点では、陸自第15旅団の幹部らが「6・23」の未明に制服で、摩文仁の丘にある牛島満司令官、長勇参謀長を祀る「黎明之塔」に参拝してきた問題を見逃すことはできません。批判を受けて3年連続「中止」したようですが、塔の周りには埼玉県の男性によって「日の丸」が数多く掲揚されました(写真中=琉球新報デジタルより)。

 改めて「6・23」を「沖縄慰霊の日」としている問題を問わねばなりません。

 「6・23」を「沖縄慰霊の日」とするのはこの日が「沖縄の組織的な戦闘が終結した日」とされているからですが、それはきわめて不適切です。

 主な理由は、①「6・23」(「6・22」説も)は牛島、長が無責任な自害をした日である②「6・23」以降も沖縄戦は続き多くの犠牲を出した③「沖縄戦の靖国化」と関係している―です(23年6月22日のブログ参照)。

 「組織的な戦闘が終結」とは牛島・長が自害したことにほかなりません。彼らの「命日」を「慰霊の日」とし、県の公式行事として追悼式典が行われ、首相も列席することは、沖縄戦で犠牲になった人々、さらに現在の沖縄市民に対する冒とく以外のなにものでもありません。そして「日本軍と自衛隊の連続性」を象徴的に示すものです。

 いまこそ県内外の議論を高め、「沖縄慰霊の日」の日にちを変更すべきです。

 玉城デニー知事は23日の「追悼式典」で、「安保3文書により、自衛隊の急激な配備拡張が進められており、悲惨な沖縄戦の記憶と相まって、私たち沖縄県民は、強い不安を抱いています」と述べました。しかし、「自衛隊増強・ミサイル基地化に反対する」とは言いませんでした(写真右)。

 また、「悲惨な沖縄戦の記憶と相まって」などとあいまいな言い方をするのではなく、「軍隊は住民を守らなかった」、いや「軍隊は住民を殺した」とはっきり述べるべきです。それこそが沖縄戦の最大の教訓であり、その教訓を今に生かさなければ犠牲者を「追悼」することにはなりません。

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日曜日記307・「学ラン」にみる軍隊由来の「学校文化」

2024年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
   中学、高校は詰襟の学生服が制服だった。その学生服のことを「学ラン」という。もっとも、私が中・高生のころは一般的な言葉ではなかったが。

 なぜ学生服を「学ラン」と言うのか? 「チコちゃんに叱られる」(7日放送)の問題だった。

 答えは、「学ラン」の「ラン」とはオランダの「ラン」。オランダの軍服がそもそもの由来だ。オランダの軍服はカラフルだったが、戊辰戦争で黒い軍服になり、それが学生服に継承された、というのだ(写真)。

 知らなかった。学生服の由来は「軍服」だったのか。中・高6年間、「軍服」を着て通学していたわけか。

 そういえば、女子生徒が着る「セーラー服」は、文字通り「水兵の服」だ。

 男子も女子も、多くの中学・高校の制服は軍隊(兵士)の服が由来というわけだ。

 制服だけではない。「ランドセル」もオランダの軍隊由来だ。しかも「ランドセル」は、嘉仁天皇(大正天皇)が皇太子時代に伊藤博文が献上したのが始まり、という天皇由来でもある(2023年5月14日のブログ参照)。

 考えてみると、朝礼、「キオツケ・ヤスメ・マエナラエ・ミギナラエ」の号令・整列…小学校からの学校の「規律」も軍隊に倣ったものではなかったか。講堂には「日の丸」が掲げられ、卒業式などでは「君が代」斉唱が強制される。これも軍隊・天皇制と不可分だ。

 軍隊仕様だけではない。男女の区別、役割分担を最初に教育されるのも学校だ。

 学級名簿は男女別で、たいがい男子が上(先)だ。入学・卒業写真は男女ではっきり分かれていた。中学の時は、「男子は技術、女子は家庭科」に分かれた。「父母会」はかつては「父兄会」と言っていた。

 こうしたジェンダー差別・男尊女卑の「学校文化」は、制服やランドセルの軍隊由来、軍隊式規律と無関係ではない。

 もちろん、軍服を意識して学生服やセーラー服を着ている生徒はいないだろう。しかし、だから問題ない、とは言えない。本人が知らない(無意識の)まま、国家が敷いた軍隊様式のレールに乗せられているのだ。

 軍隊由来、ジェンダー差別の「学校文化」は徹底的に改革しなければならない。

 幸い、制服もランドセルも見直し・自由化が進んでいる。もっと広範囲に、徹底的に「学校文化」の見直しが行われることを期待したい。

 それは、児童・生徒の意思が尊重され、教師の過重労働が解消され、教育委員会・校長の不当な管理を許さない、自由で民主的な「学校」づくりにつながるはずだ。


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沖縄戦の多様な側面を知る・『続・沖縄戦を知る事典』

2024年06月22日 | 沖縄と戦争
   

 79回目の「6・23」を前に、『続・沖縄戦を知る事典』(古賀徳子、吉川由紀、川満彰編、吉川弘文館)が今月出版されました。沖縄戦の何をどう継承するか、重要な問題提起がされています(写真左は「平和の礎」、写真中は牛島司令官を祀った「黎明之塔」)。

 前著『沖縄戦を知る事典』(吉浜忍、林博史、吉川由紀編、吉川弘文館)が出版されたのが2019年6月。それからちょうど5年後の続編です。前著がテーマ別に沖縄戦を解明したのに対し、続編は、沖縄県を南部、中部、北部、周辺離島・大東島、宮古・八重山の5つの地域に分け、その中の24市町村の地域史を取り上げて沖縄戦の実相に迫っているのが最大の特徴です。

 沖縄では1980年代以降、ほとんどの市町村に地域史編さん室が設けられ、地域の沖縄戦の記録・継承に取り組んできました。その手法は、住民一人ひとりからの聴き取り(オーラルヒストリー)です。

「これまで市町村史が記録した証言は数千点に及ぶ。…こうした市町村史による記録は沖縄の財産であり、これからの沖縄戦継承のカギとなる」(吉浜忍・元沖縄国際大教授、同書より)

 この「沖縄の財産」を私たちが直接閲覧するのは簡単ではありません。そこで全県の「市町村史」の中から24を抽出し、1冊にまとめたのが同書です。

 通読して改めて教えられたのは、「沖縄戦」と一口に言っても、地域によってその実態は千差万別だということです。
 メディアが取り上げる「沖縄戦」、したがって「本土」の日本人がイメージする「沖縄戦」は、米軍が本島に上陸した1945年4月1日から6月23日まで、しかも第32軍(牛島満司令官)を中心にした、首里から南部の摩文仁に至る地域の状況ではないでしょうか。

 しかし、沖縄戦は少なくともその1年前から本格的に始まり、「8・15」になっても終わりませんでした。犠牲も戦闘に巻き込まれただけではありません。食糧不足による飢餓、マラリアによる病死など多岐にわたります。

 興味深いのは、日本軍が不在か手薄なため米軍が容易に支配した中部地域は、32軍と運命を共にすることになった南部に比べ、住民の犠牲が格段に少なかったことです。

 地域によって千差万別ながら、すべての地域に共通する沖縄戦の特徴も改めて強く印象付けられました。それは、日本軍が沖縄にやってきた直後から学校をはじめ公共施設が軍に接収されたこと、そして、軍民一体化・虐殺・拷問・食料略奪・マラリア地域への強制疎開・重労働作業などによって沖縄住民を、さらには多くの朝鮮人を死に追いやった張本人が日本軍だったという事実です。

 「軍隊は住民を守らない」どころか「軍隊は住民を殺す」。これが沖縄戦の実態であり、継承すべき重大な教訓です。同書はそのことを各地の具体的な事実・証言で明らかにしています。

 編者の1人である吉川由紀氏(沖縄国際大非常勤講師)はこう主張します。

「悲惨な地上戦だったと沖縄戦を大きなくくりで捉えるのではなく、一人一人の具体的な戦争体験を集めて巨大な塊として伝える多様な側面を知り、こういう体験を刻んだ土地だからこそ、軍隊や軍事力でもたらされる平和を拒否する土壌があると理解してほしい」(18日付沖縄タイムス)

 沖縄戦の「多様な側面」を知り、「軍隊や軍事力」によらない平和を追求する。その歴史から学ぶことが今ほど必要な時はありません。


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「天皇訪英」に政治利用の疑惑

2024年06月21日 | 天皇制と日本の政治・政権
  

 徳仁天皇・雅子皇后が22日から29日までイギリスを公式訪問します。イギリス政府の招待によるもの。それに先立ち、19日記者会見し、訪英への思いを語りました(写真左)。

 そもそも天皇はじめ皇族の公式外国訪問(皇室外交)は、天皇の国事行為を定めた憲法や皇室典範には規定のないもので、国事行為と私的行為のあいだの「公的行為」として行われます。それは、法律の定めを超えて天皇・皇族の活動を広げるものです。

 加えて今回の訪英は、2つの意味で、日英政権による政治利用の疑惑が濃厚です。

 1つは、イギリス総選挙の真最中に行われることです。

 英下院はすでに解散されており、天皇が訪問を終える29日の5日後、7月4日に投票が行われます。スナク首相率いる保守党は支持が低迷し、14年ぶりに労働党への政権交代の可能性が大きいと報じられています。

 そうした政治戦の中での天皇・皇后訪問。英王室による晩さん会はじめ歓迎行事にはスナク首相も参加し、現政権へのイメージアップの役割を果たすことが予想されます。

 もう1つは、日本とイギリスの軍事提携の促進です。

 共同通信によれば、「木原稔防衛相は7月下旬に英国を訪れ、日英防衛相会談を実施する方向で調整に入った」(17日付京都新聞)といいます。「日英とイタリアの3カ国で進める次期戦闘機の共同開発に向け連携を強化。開発管理を担う国際機関「GIGO(ジャイゴ)」を2024年度中に英国に設立するのを控え、円滑な事業推進へ協力を確認する目的」(同)です。

 徳仁天皇は19日の記者会見で、「現在、英国とは、経済、文化、科学技術、教育など、幅広い分野において緊密な協力関係を構築するに至っていますが…今回の訪問を契機として…友好親善が更に深まることを願っております」と述べました(宮内庁HPより)。

 日本とイギリスの「緊密な協力関係」は、天皇が挙げた分野だけでなく、軍事面においてもまさに「幅広く」進展しています。すでに自衛隊と英国海軍の共同訓練は行われていますが、それに加え戦闘機の共同開発で「緊密な協力関係」を構築しようとしているのが現在の防衛省・岸田政権です。

 来月行われる木原防衛相の訪英、日英防衛相会談は、天皇の訪英によって地ならしされた「日英親善」の世論の中で行われるのです。

 また天皇は19日の記者会見で、「先の大戦においては…我が国と英国も、不幸にも戦火を交えることになったことは、誠に残念なことでした」などとひとごとのように述べ、祖父・天皇裕仁の戦争責任棚上げを繰り返しました。

 皇室と英王室は歴史的に深い関係にあります(2022年6月13、14日のブログ参照)。徳仁天皇も皇太子時代の英留学で親しく接したという故・エリザベス女王は、裕仁の戦争責任棚上げに手を貸してきた経過があります(写真右)(22年9月19日のブログ参照)。

 徳仁天皇の今回の訪英は、こうした皇室と英王室の関係にまた新たな1ページを加えるものですが、それだけでなく、日英の軍事協力、さらには日本とNATO(北大西洋条約機構)の急接近という軍事情勢と無関係でないことに留意する必要があります。

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