アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

陸上自衛隊祝賀会に出席した「オール沖縄」衆院議員

2019年11月30日 | 沖縄・米軍・自衛隊

    

 29日付の琉球新報の「記者席」(コラム)にこんな記事が載りました。

 「陸上自衛隊祝賀行事に招かれた屋良朝博衆院議員(国民民主)。出席した国会議員4人の中で、唯一『オール沖縄』陣営だった。あいさつで『駐屯地創設47周年という数字を見ると感慨深い。地元に受け入れられてきた努力に敬意を表する』と評価しつつ、『安全保障環境が厳しいといわれるが、それを緩和するのが政治の役割だ』とけん制。力でなく外交で緊張関係を解消していく考えを示した。バランス感覚で切り抜けたが『オール沖縄』内で緊張が走りそう?」(全文、太字は引用者。写真左)

 記者は懸命にフォローしようとしていますが、フォローになっていません。「バランス感覚」どころか、自衛隊賛美は明りょうです。

 この記事には、いつのどういう「祝賀行事」なのかが書かれていません。が、「駐屯地創設47周年」ということから今月24日に行われた「第15旅団創隊9周年 那覇駐屯地創立47周年記念行事 陸自祭」(第15旅団公式サイト。写真右)だと思われます。

 「陸自蔡」では何が行われたか。25日付琉球新報によれば、「訓練展示では、敵国が沖縄本島内への本格侵攻を目的として一部地域を占領・潜伏していることを想定し、地上と上空から攻撃して奪還する訓練を披露した。訓練には米海兵隊も参加した」。

 さらに、「記念式典で中村(裕亮)旅団長は…宮古島市に宮古警備隊を新編したことを紹介し『海上・航空自衛隊と共同し在沖米軍と連携を密にし、南西地域の抑止力の要として役割を果たしたい』とあいさつした」(同琉球新報)

 米海兵隊と一体で実践さながらの訓練を披露し、宮古島への自衛隊配備を「抑止力の要」とし「在沖米軍との連携」を誇示したのです。屋良氏はその自衛隊に対し、「地元に受け入れられてきた努力に敬意を表する」と賛辞を送りました。宮古島、石垣島などで自衛隊ミサイル基地建設に粘り強く反対している島民・市民に対する敵対行為と言わねばなりません。

 問題は、屋良氏の「陸自祝賀行事」出席・賛辞が、屋良氏個人の問題ではすまされないことです。

 第1に、屋良氏は玉城知事の議員辞職に伴う補欠選挙(7月16日、衆院沖縄3区)で、「オール沖縄」陣営の全面的支援によって当選した、紛れもない「オール沖縄」の衆院議員です。その議員活動には当選させた「オール沖縄」陣営にも当然責任があります。日本共産党、社民党はじめ「オール沖縄」陣営は、今回の屋良氏の行為をどうとらえているのでしょうか。このまま不問に付すつもりでしょうか。

 第2に、屋良氏は議員になる前から現在に至るまで「新外交イニシアチブ(ND、猿田佐世代表)」の中心メンバー(評議員)です。屋良氏の今回の陸自祝賀出席・賛辞が、NDの政策と無関係といえるでしょうか。屋良氏は玉城知事と親しく、NDは玉城県政とつながりがあるだけに不問にできません。
 NDには、玉城知事の「万国津梁会議」をめぐる「入札談合」の疑惑もあります(この問題の真相究明・追及はどうなっているのでしょうか)。

 第3に、25日の琉球新報、沖縄タイムスは「陸自祭」について報じながら、屋良氏の出席には一言も触れていません。冒頭の琉球新報のコラムで初めて明るみに出ました。それも正面から取り上げるのではなく、「記者席」という小さなコラムです。沖縄タイムスにはそれさえありません。
 「オール沖縄」で当選したばかりの衆院議員が陸自の祝賀会に出席し賛辞を送ったことは、沖縄への自衛隊配備、反対運動の帰趨の上でも、「オール沖縄」の責任という点でも、けっして見過ごすことはできません。それを報じないのは、自衛隊問題に対する軽視以外のなにものでもありません。
 こうした報道姿勢が、安倍政権の自衛隊増強、自衛隊と米軍の一体化、沖縄の前線基地化に対する世論・市民運動に大きな影響を及ぼしていることを、両紙は銘記すべきです。


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植民地支配・「性売買」の歴史隠ぺいする衛藤沖縄相発言

2019年11月28日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

      

 「身の丈」、「雨男」、そして「桜を見る会」にまつわる弁明…安倍晋三政権主要閣僚の問題発言が相次いでいますが、もう一人、日本のメディアはまったく報道しませんでしたが、聞き捨てならない発言を行った閣僚がいます。安倍首相の側近・ブレーンとして長年首相補佐官をつとめ、今回初入閣した衛藤晨一沖縄・北方担当相です(写真)。

  衛藤氏は今年8月、日本を訪れた韓国の国会議員らに対し、こう述べたといいます。
 「私は今年71歳だが、韓国には一度行ったことがある。かつて日本は売春観光(ママ)で韓国によく行ったが、そんなのが嫌で行っていなかった」(10月18日付ハンギョレ新聞電子版)

 衛藤氏と会った韓国の議員たちの話としてハンギョレ新聞が報じました。ハンギョレ新聞はこれを問題発言としてではなく、現職閣僚として靖国神社秋の例大祭に参拝した(8月17日)衛藤氏の人物像の一環として報じたものです。

 しかし、この衛藤氏の発言はきわめて問題です。それは、まるで韓国に「売春」がはびこっているかのような印象を与え韓国蔑視につながるだけでなく、朝鮮半島に対する日本の植民地支配の犯罪・責任を隠ぺいすることになるからです。

 そもそも、「売(買)春観光」というなら、買春する日本人の責任・罪こそ問題にしなければなりませんが、衛藤氏はそれにはまったく触れていません。

 強調しなければならないのは、韓国(朝鮮半島)にはもともと「売買春」の習俗・制度はなく、それを植民地支配の一環として持ち込んだのは日本だということです。

 「近代日本が日本軍性奴隷(日本軍「慰安婦」制度)をつくり、数多くの女性の尊厳を踏みにじった歴史は…植民地支配との関係からさらに考察してみる必要がある。日本の侵略によって荒廃させられ、さらに植民地支配によって生活基盤を破壊され没落させられた朝鮮民衆の状況は悲惨であった。…こうした中で、日本の公娼制度が朝鮮に持ち込まれ、人身売買と性産業が盛んになっていった。このような歴史の延長線上に日本軍性奴隷制度があるのである」(加藤圭木一橋大准教授「「明治一五〇年」と朝鮮」、『創られた明治、創られる明治』岩波書店2018年所収)

 日本軍(皇軍)の性奴隷制度を、朝鮮への侵略・植民地支配の経過からとらえる視点は重要です。

 「近代日本による朝鮮侵略のなかで朝鮮に移植された日本式性管理制度は、日本人向け『居留地遊郭』にはじまり、日清・日露戦争を通じて『占領地遊郭』へと展開し、朝鮮人を巻き込みつつ『韓国併合』後は『植民地遊郭』に再編・普及していった」「日本の植民地都市を特徴づけたのが、神社と遊郭だった」(金富子・金栄著『植民地遊郭―日本の軍隊と朝鮮半島』吉川弘文館2018年)

 日本の朝鮮半島侵略・植民地支配は略奪だけではありませんでした。日本の悪しき文化・制度の移出・押し付けでもありました。その双璧が「神社と遊郭」、すなわち「天皇制」と「性売買(性奴隷)」であったことはきわめて象徴的であり重大です。


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徳仁天皇はフランシスコ教皇に何を語ったのか

2019年11月26日 | 天皇・天皇制

    

 フランシスコ教皇と徳仁天皇の会見(会談)は、25日午前11時ころから皇居・竹の間で約20分間行われました。天皇は車寄せまで教皇を出迎え、一緒に竹の間に移動する厚遇ぶりでした。
 徳仁天皇は皇太子時代の1984年、イギリス留学中にバチカンを訪れ、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世と会ったことがありますが、フランシスコ教皇と会うのは初めてです。

 教皇は天皇に、前日に長崎、広島で発信したメッセージのことなどを話したといいます。
 これに対し天皇は、「教皇が人々の幸福と世界平和のため精力的に活動していることに深い敬意」を示したと報じられています。が、それ以上は分かりません。
 会談は20分に及んだといいますから、天皇の発言はこれだけではなかったはずです。「核兵器廃絶」についても発言した可能性があります。しかし、天皇が語った全容は明らかにされません。

 今回だけではありません。各国の要人が皇居を訪れ、天皇・皇后と会談(懇談)した内容が詳しく明らかにされることはありません。ここに大きな問題があります。
 もちろん、首相や閣僚の外交交渉も内容がすべて明らかにされることはありませんが、天皇はとりわけ憲法で政治活動を禁じられている立場です。にもかかわらず外国からは「元首」とみられている場合が多い。その天皇が直接語ったことは外国要人には大きな影響を与えるでしょう。その内容が明らかにされないのはきわめて問題です。

 それは決して杞憂ではありません。
 たとえば、ことし2月5日、退位を間近に控えた明仁天皇は皇居でドイツのメルケル首相と会談しました(写真右)。その内容はほとんど明らかにされませんでしたが、わずかに共同通信がこう配信しました。
 「宮内庁によると、陛下は4月末の退位について『この春には譲位しますが、これは光格天皇以来の約200年ぶりのことです』と説明した」(2月6日付中国新聞)

 これは政治的な発言ではないようにみえますが、重大な問題を含んでいます。第1に、「退位」と言わず「譲位」と言ったことは、天皇が自らの意思で皇位を譲ること意味します。第2に、「光格天皇以来200年ぶり」と述べたことは、敗戦後現憲法で「天皇制」が質的に大きく変化したことを無視したものです。明仁天皇の発言は、メルケル首相に「象徴天皇制」についてミスリードしたと言わざるをえません。

 こうした問題が生じる根源は、天皇が憲法上規定のない「公的活動」(外国要人にとっては「国事行為」との区別はないでしょう)として、ベールに包まれた皇居内で元首級の外国要人と会見・会談することが慣習化しているところにあります。発言内容とともに、こうした会談自体が、憲法に反して天皇を元首扱いするものであることは前回述べた通りです。

 天皇の「公的活動」としての外国要人との会見・会談は一切やめるべきです。


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ローマ教皇はなぜ天皇に会うのか

2019年11月25日 | 天皇制と政権

    

 来日中のローマカトリック教会・フランシスコ教皇はきょう25日、徳仁天皇に会見します。なぜ教皇は天皇に会うのでしょうか。
 天皇との会見が教皇の希望なのか、それとも日本政府の設定なのか、あるいは(まさか)天皇側からの希望なのか。それは分かりませんが、いずれにしても見過ごすことはできません。

 教皇の来日の目的は、カトリック教会の最高指導者として、「平和」「核兵器廃絶」を訴えるためのはずです。その意味では、「核抑止力」論にしがみつき、核超大国・アメリカに追随して「核兵器禁止条約」に背を向け続けている安倍晋三首相に会い、直接苦言を呈するなら、目的にかなっていると言えるでしょう。

  しかし、相手が天皇では話が違います。なぜなら、憲法上、天皇に政治的権限はないからです(第4条)。教皇もおそらくそれは知っているでしょう(知らないとすればそれ自体問題)。にもかかわらず教皇が天皇に会うことを望んだとすれば、それは、天皇を日本の「元首」とみて、日本を訪れる以上「元首」にあいさつするのは礼儀であると考えたからではないでしょうか。
 そうだとすれば、たいへんな誤解・誤りです。天皇が日本の「元首」でないことは言うまでもありません。

 しかし、外国では日本の「元首」は天皇だと誤解している人は少なくないようです。それは日本(政府)がそう思わせる仕掛けをつくっているからです。
 憲法(第7条)で、条約の公布、大使の信任状認証、外交文書の認証、外国大使・公使の接受などをすべて天皇の「国事行為」とし、さらに憲法の「国事行為」でもない「皇室外交」をさかんに行っているのがその仕掛けです。身近なところでは、パスポートの表紙が皇室の菊の紋章になっていることもその一環です。

 憲法第7条の「天皇の国事行為」はすべて「内閣の助言と承認」によって行われる”形式的”なものにすぎないことは日本では常識(?)ですが、外国から見れば天皇が自ら行っているように見えるでしょう。そう思わせるところに、日本政府(国家権力)の狙いがあると言えます。

 もしも、教皇との会見が日本側(政府あるいは天皇側)の希望、設定だとすれば、宗教界に大きな影響力をもち、「平和」のイメージがある教皇を、天皇の権威付けに利用しようとする意図があることは明らかです。

 教皇にかぎらず、各国の元首・要人が来日して天皇を「表敬訪問」するのは、天皇を「元首」扱いし、「元首」のイメージづけを行うことになり、主権在民とは相いれません。日本のメディアがそれを大々的に報じることが、その印象付けに加担していることも大きな問題です。

 こうした天皇の「元首」扱いは、自衛隊(軍隊)の明記とともに、「天皇は、日本国の元首」(「改正」草案第1条)とする安倍・自民党の改憲策動とも符合するものであり、けっして容認することはできません。


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日曜日記76・「車上生活」と「現代の貧困」・コンビニ「24時間営業」見直し

2019年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「車上生活」と「現代の貧困」

 19日のNHK「クローズアップ現代+」で、店舗の駐車場などでの「車上生活者」が増えているという現状を特集していた。今日版「ホームレス」といえよう。だが福岡の支援団体の人は、「10年前のホームレスとは質がまったく違う」と言う。「アパートを探して入れれば解決とはいかない」と。

 ▽70代の夫婦。妻が認知症で徘徊をはじめた。「近所に迷惑をかけたくない」と、自宅を捨てた。
 ▽60代の男性。元トラック運転手。生活保護を申請したが、車を持っているからダメだと一蹴された。車は亡くなった妻と旅行に行った想い出のもの。手放せない。妻の面影とともに「車上生活」を始めた。
 ▽20代の男性。小さいころ両親が離婚し父親に引き取られた。預けられた祖父のもとで虐待に遭った。成人しても職に定着できなかった。
 ▽30代夫婦と小学3年の娘の3人家族。夫婦で日雇いの仕事。しかし収入は月10万円程度。娘は学校に通っていない。

 「貧困」とは何だろう。根底にはもちろん経済的困窮がある。非正規労働の増加という格差の拡大がある。だが、それだけではないだろう。
 「いちばん貧しい(質素な生活の意)大統領」といわれたウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領はこう言った。「貧しい人というのは、コミュニティを持たない人であり、伴走してくれる人がいない人のこと。最も大きな貧困は、孤独です」(2016年4月の講演)
 「車上生活」は「現代の貧困」の縮図といえるだろう。けっしてひとごとではない。

  この日、安倍政権が「憲政史上最長」になったことにつて、菅官房長官は「経済第一に取り組んできた成果」だとうそぶいた。彼らにとって「経済」とは大資本の利益でしかない。安倍長期政権の下で、「貧困」は確実に広く深く蔓延している。

 ☆コンビニ「24時間営業」の見直しはいいけれど…

 コンビニの「24時間営業」を見直す動きが本格化してきた。いいことだ。以前も書いたが、「24時間営業」にいいことは1つもない。福山駅前の店でさえ、深夜の客は1時間に数人。にもかかわらず煌々と電気をつける。資源の無駄であり環境の破壊だ。店にとっても人件費、光熱費が売り上げを上回る。

 それでも深夜(24時間)営業をやめられないのは、ライバル店との競争と親企業(大手コンビニ)の縛りがあるからだ。それを見直そうと親企業の方から言い出したのは、人手不足で余儀なくされたこととはいえ、いいことだ。

 しかし、問題もある。深夜勤の人が失業する。同僚のFさんは週6日深夜専門でシフトに入っている。昼間は本業をフルタイムで働いている。深夜勤しかできない。事情があってダブルワークを余儀なくされている。
 人手不足といいながら、一方でこうした過重労働がある。「24時間営業」がなくなったら、Fさんはどうするのだろうか。
 「現代の貧困」はごく身近なところにある。


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天皇と皇后はなぜ別々に伊勢参拝するのか

2019年11月23日 | 天皇・天皇制

    

 徳仁天皇は即位を皇祖神・天照大神に報告するため、22日に伊勢神宮の外宮(豊受大神)を参拝しました。23日には内宮(天照大神)を参拝します(「親謁の儀」)。これには雅子皇后も同行しました。

 ところが、二人は、前日の21日に一緒に伊勢市に入りながら、伊勢神宮へ向かうときから行動を別にしました。別の車で行き、天皇が参拝したあとに皇后が続きました。いかにも不自然です。なぜ一緒に参拝しないのでしょうか。沿道に「一目見よう」と駆けつけた(とされている)人々は、その光景を不思議に思わなかったのでしょうか。 

 天皇が先に参拝し遅れて皇后が続くのは、もちろん今回だけではありません。明仁天皇(当時)が「退位」の報告をするために伊勢神宮を参拝したときも、美智子皇后(同)は一緒ではありませんでした。
 また、伊勢神宮だけではありません。明仁天皇は伊勢神宮に続いて神武天皇陵にも報告に行きましたが、その時も別々です。徳仁天皇も伊勢神宮に続いて神武天皇陵に行きますが、そこでもこの光景が繰り返されるでしょう。

 なぜなのか。

 そのカギを握っているのが、本来雅子皇后が座るべき天皇の隣の席に置かれたもの、すなわち「三種の神器」です(「草薙剣」と「八尺瓊勾玉」。もう1つの「八咫鏡」は本物が伊勢神宮、形代が皇居・賢所にあり門外不出)。

 「三種の神器」は皇位の印、皇位そのものとされています。その起源は8世紀にさかのぼるといわれていますが、今日のように公に誇示されるようになったのは明治以降です。

 「三種の神器が公の性格を持つようになったのは、はるか後代の明治以降である。旧皇室典範は、三種の神器を『祖宗の神器』と呼んで、はじめて法的に根拠を与えたが、それ以前は皇室に内輪で伝承された宝物として扱われていた」(村上重良著『日本史の中の天皇』講談社学術文庫)

 旧皇室典範(第10条)は、「天皇崩するときは…神器を承く」と、皇位継承と「三種の神器」継承の一体性を明記していました。しかし、敗戦後の憲法に基づく現在の皇室典範にその規定はありません。それどころか「神器」の言葉すらありません。すなわち「剣璽等承継の儀」や「正殿の儀」(国事行為)をはじめ皇位継承にともなって「三種の神器」が常に天皇とともに誇示されているのは、旧皇室典範の継承であり、現憲法や皇室典範に反するものです。

 皇后は常にその「三種の神器」から遠ざけられています。皇位の印である「神器」に皇后は近づけない。なぜか。「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(皇室典範第1条)として、皇位継承から女性が排除されているからです。
 これは明白な女性差別です。憲法の「法の下の平等」(第14条)にも反しています。しかし、天皇主義者らはこの女性差別を絶対に改めようとはしません。「万世一系」に反すると考えるからです。安倍晋三首相もその代表の1人です。

 皇位継承に伴うこうした女性差別の光景は、もちろん前回(裕仁から明仁へ)も同じでした。そのもようを女性史研究家の加納実紀代はこう記していました。

 「皇位継承であらためて明らかになったのは、天皇制の女性差別だ。…皇位継承にともなうさまざまな儀式、『剣璽等承継の儀』とか『大喪』とかは、すべて、いうならば女性差別のパフォーマンスとして行われ、それがテレビを通じて、日本国民の日常に伝えられた。女性は重要な儀式からは排除されるもの、あるいは男の後ろを歩くもの―。…これは、戦後40余年、日本の女性たちが営々と積み重ねてきた女性差別撤廃の努力を、まっこうから否定するものだ」(「ジュリスト」1989年5月、『天皇制とジェンダー』インパクト出版会所収)

 天皇制(「象徴天皇制」)は女性差別と表裏一体です。差別は天皇制の属性です。天皇が「三種の神器」を携えるとき皇后は一緒にはいられず天皇の後ろから追従する姿は、天皇制における女性差別の象徴的光景です。

 こんな天皇(制)をどうして「国の象徴」にしなければならないのでしょうか。男女平等、法の下の平等を支持し志向するなら、憲法から「象徴天皇制」を削除すべきです。


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日韓軍事協定(GSOMIA)問題の核心は何か

2019年11月21日 | 安倍政権と日韓関係

    

 あさって23日の午前0時に日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)が失効します。韓国側の破棄によるもので、たいへん歓迎すべきことです。ただ、今回の失効は、同協定の本質にそったものではなく、手放しで評価することはできません。

 韓国・文在寅政権が同協定の破棄を決定(2019年8月23日)したのは、元「徴用工」(強制動員)訴訟で日本企業に賠償を命じた韓国最高裁判決(18年10月30日)に対し、安倍政権が対韓輸出規制強化を閣議決定(19年8月2日)したことに対する対抗措置です。

 安倍首相は一貫して、同協定と輸出規制は「次元が違う」と言っていますが、そもそも「元徴用工判決」に対して「次元が違う」輸出規制で対抗したのは安倍首相の方です。
 「元徴用工判決」の根源は日本の植民地支配であり、その誤りを明確に認めて謝罪・賠償するのが日本の責任です。それを一貫して拒否している安倍首相こそ今日の事態の元凶です。

 同時に、同協定をめぐる文政権の考え・対応にも強い疑問を禁じ得ません。文政権が「輸出規制強化の撤回を協定維持の条件としている」(20日付共同配信記事)ことは、同協定問題の核心から逸脱したものだからです。

 同協定が失効することを最も懸念しているは、アメリカです。エスパー米国防長官は日韓米3カ国防衛相会談(17日、タイ)で日韓関係の修復を図ろうとしました(写真左)。韓国の鄭国防相は、「米国としては、韓米日協力の維持が重要であるため、強く(圧力を)かけている」(19日付ハンギョレ新聞電子版)と述べています。

 「韓米日協力」とは、3カ国軍事協力のことであり、日米軍事同盟(安保条約)と韓米軍事同盟を結ぶ事実上の3カ国軍事同盟体制を維持することです。その結節点がGSOMIAにほかなりません。これが同協定の本質です。したがって同協定の破棄・失効は、日韓米3カ国軍事同盟体制を見直す結果としておこなわれてこそ意味があります。

 ところが、文大統領はまったく反対のことを言っています。文氏は19日、韓国のテレビ番組に生出演し、「GSOMIAが終了することになっても、日本と安全保障上の協力をする」と言明しました(20日付ハンギョレ新聞電子版)。
 そればかりか文氏は、「韓国は防波堤の役割を果たして、日本の安保において非常に大きな助けになっており、米国は核の安保の傘を提供している」「(日本は)韓国の防波堤の役割によって少ない防衛費用で自分たちの安保を維持している」(同)と述べ、自らを朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)からの「防波堤」だとして日韓米3カ国(核)軍事同盟体制を評価・誇示しました。 

 この言明は、昨年の歴史的な「南北会談」(写真右)からの重大な後退と言わざるをえません。会談の合意文書である「板門店宣言」(2018年4月27日)にはこう明記されています。
 「南と北は、朝鮮半島で先鋭化した軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するため共同で努力していくだろう」(韓国側の発表。2018年4月28日付共同配信記事)

 朝鮮半島の「軍事的緊張状態」を強めているのが、米軍の存在であり、その根拠になっているのが韓米軍事同盟です。繰り返されている韓米合同軍事演習がその誇示であることはいうまでもありません。

 いま必要なのは「板門店宣言」に立ち返ることです。韓国は合同軍事演習の中止(廃止)はもちろん、アメリカとの軍事同盟体制自体の見直し・解消へ向かうべきです。
 GSOMIAの廃棄・失効は、その線上にあってこそ真に意味のあるものとなるでしょう。

 


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異常な「女優逮捕」報道の陰で見過ごされているもの

2019年11月19日 | メディアと日本の政治・社会

    

 日本のメディア(とりわけテレビメディア)の腐敗ぶりは今さら言うまでもないし、言うもむなしいですが、はやり言わずにはおられません。このかんの「沢尻エリカ容疑者逮捕」報道の異常ぶりはまさに目を覆うばかりです。

 例えば、18日夕方のテレビニュースは、大相撲放送のNHKを除き、TBS系、テレビ朝日系、フジテレビ系のどこにチャンネルを合わせても、出てくるのはこの話ばかり。内容はこれまでの繰り返しで新味がないかどうでもいいようなことにもかかわらず、長い時間を割く。報道のセオリーからも逸脱しています。NHKも夜7時のニュースでは他の重要ニュースをおしのけて3番目に取り上げました(写真)。テレビニュースのワイドショー化・スポーツ新聞化も極まれりです。

 問題は、それがただ異常なだけでなく、きわめて犯罪的な役割を果たしていることです。この無意味な「報道」の陰で、本当に目を向けねばならない重要ニュースが後景に追いやられているからです。

 「沢尻逮捕」報道が始まったのは今月16日からですが、当日は「大嘗祭」の一環である「大饗の儀」が行われ、安倍首相も出席して徳仁天皇に「祝辞」を述べました。14~15日の「大嘗宮の儀」とともに、政教分離、主権在民の憲法原則に反する「大嘗祭」、ひいては「象徴天皇制」そのものを抜本的に問い直さねばならないときでした。

 さらに、安倍首相の「桜を見る会」私物化問題は、前夜祭の会計の不明瞭さに疑惑が広がり、政治資金規正法違反の疑いが濃厚になってきています。安倍氏は18日、前夜祭会計について、「地元後援会には領収書や明細は残されていない」と耳を疑うような釈明をしました。疑惑は深まるばかりです。
 ところがNHKや民放は、このニュースよりも「沢尻逮捕」を優先して報じたのです。それが窮地に立っている安倍氏への助け舟になることを果たして自覚しているのでしょうか。

 また共同通信は16日、日米安保条約によって駐留する米軍の費用を日本が負担するいわゆる「思いやり予算」(2019年度予算1974億円)について、トランプ政権が5倍に増やすよう要求した問題を配信しました。日米安保の本質を示す重要なニュースですが、テレビでは「沢尻問題」の陰でほとんど報じられていません。

 報道(メディア)の役割は、言うまでもなく権力の監視です。その立場から主権者である市民の「知る権利」に応えることです。女優の犯罪・スキャンダルを興味本位に掘り返すことではありません。

 安倍政権が異常な長期政権となり世論調査で高い「支持率」が示されるのはなぜなのか。憲法の諸原則に反する「象徴天皇制」や、平和と人権に逆行する軍事同盟(日米安保)に「大きな支持」が寄せられているのはなぜなのか。韓国、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に対する嫌悪感が市民から払しょくされないのはなぜなのか。
 いずれも、真実が知らされていないからです。歴史が知らされていないからです。そこに日本の報道機関の根本的な責任・犯罪的役割があることを、メディアは自らに突きつける必要があります。


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「私物化」批判に背を向け、「大嘗祭」三昧の安倍首相

2019年11月18日 | 天皇制と政権

    

<14日> 午後5時37分 皇居。大嘗祭悠紀殿(ゆきでん)供せんの儀に参列。 

<15日> 午前0時32分 皇居での大嘗祭主基殿(すきでん)供せんの儀に参列。
     午前3時38分 参列を終え、公邸。

<16日> 午前11時41分 皇居。大饗(だいきょう)の儀に参列。
     午後2時1分 東京・富ヶ谷の私邸。

 これは新聞に発表された安倍晋三首相の「動静」です。安倍氏が徳仁天皇の即位に伴う「大嘗祭」に参列することは分かっていましたが、この日程には改めて驚きました。
 14日午後6時の「大嘗祭」開始前から皇居に入り、翌午前3時過ぎという異常な時刻に終わるまで、9時間以上も皇居に居続けたわけです。その間、ベールに包まれて何も見えない秘儀が終わるのをただひたすら待っていた(写真左)。これが日本の総理大臣の姿です。

 さらに翌16日には、再び皇居に駆けつけ、2時間余、「大饗の儀」に参列し、天皇の「いやさか」を願うという祝辞を述べました(写真右)。
 「大饗の儀」とは、前日に天皇が悠紀殿・主基殿で天照大神と共に食したという供物のおさがりを振る舞う行事です。

 この3日間、安倍氏はまさに「大嘗祭」三昧だったといえるでしょう

 「大嘗祭」は改めて言うまでもなく、明白な宗教(神道)儀式です。その宗教行事に首相ら「三権の長」や閣僚などが参列するのは、「国及びその機関は…宗教活動もしてはならない」とする憲法(第20条)に反することは明らかです。

 加えて、「大嘗祭」への「参列」はけっして対等な参加ではありません。天皇が行う秘儀が終わるまでただ場外で控えているということです。そして天皇のお下がりの供物を食べる。それはまさに、天皇と臣下の関係にほかなりません。主権在民の憲法原則に反していることは明白です。

 しかも安倍氏が「大嘗祭」三昧だったこの3日間は、安倍氏が政府主催の「桜を見る会」を自分の後援会活動に私物化してきたことが明るみに出て、説明責任が厳しく問われている、まさにそのさ中でした。

 安倍氏は野党側が要求している国会での集中審議などには背を向け、説明責任にほうかむりし、皇居に逃げ込んだのです。そして、「国事行為」でもない天皇の宗教儀式に3日間入りびたった。首相としての、政治家としての資格を根底から喪失していると言わねばなりません。

 同時にこのことは、天皇の儀式が首相の逃げ場になったことを意味します。「大饗の儀」での祝辞は安倍氏の疑惑イメージを緩和する役割を果たしたかもしれません。
 安倍首相の「大嘗祭」三昧は、安倍氏による天皇(制)政治利用の一環であり、天皇の儀式が政権を助ける役割を果たしたともいえるでしょう。


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日曜日記75・岡田恵和の現代版「君が代」・落合恵子氏の勘違い

2019年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム

☆岡田恵和の現代版「君が代」

 9日の徳仁天皇即位を祝う「国民祭典」。嵐が歌った「奉祝曲」=「Ray of  Water」を作詞したのは脚本家の岡田恵和だった(作曲は菅野よう子)。聞くに堪えなかった。
 「君が笑えば世界は輝く 僕らのよろこびよ君に届け ごらんよ僕らは君のそばにいる 静かにつながって確かにつながって 大丈夫、君と笑ってゆく 大丈夫、君と歩いてゆこう」

  恋の歌だと思った人がいるかもしれないが(嵐が歌うのでなおさら)、そうではない。これは天皇を称える歌だ。「君」とは天皇のこと、「僕ら」とは「国民」のことだ。そう読み替えると、ぞっとする。「君が笑えば世界は輝く」「君と歩いてゆこう」!これほどの天皇賛美、天皇への忠臣があるだろうか。これはまさしく現代版「君が代」だ。(「Ray of  Water」の「Ray(光線)」とは「霊」か?)

 岡田恵和はNHK朝ドラの常連脚本家だ。沖縄の基地問題、沖縄戦の歴史などを一切捨象した「ちゅらさん」には当時から批判があった。が、けなげに生きるヒロインには好感がもてた。「ひよっこ」のヒロインもそうだった。しかし、その作家活動の根底にこうした強烈な皇国史観があったとは。これまでの作品も色あせてみえる。

 「奉祝曲」を作詞することはかなり前から決まっていただろう。その岡田は、ことし「秋の褒章」で「紫綬褒章」を受けた。天皇と「褒章・叙勲」の関係をまた見せつけられた。

 ☆落合恵子氏の勘違い

 「即位パレード」2日後の12日付沖縄タイムスに、作家・落合恵子氏の「両陛下へ」と題した「私信」なるものが掲載された。沖縄タイムスがつけた(落合氏の指定か?)見出しは<平和希求続ける「象徴」で>だ。

 この中で落合氏は、「パレード」が延期されたことを「「国民に寄り添う」を具体化した意思」だと称賛し、「お二人に願うことは、お言葉(「正殿の儀」の言葉―引用者)で繰り返された平和を、ずっと希求される「象徴」であっていただきたい」と結んでいる。「象徴の折々の思いを、もっともっと率直に主権者たる私たちに投げかけられる機会もおつくりください」とも述べている。

  落合氏は大きな思い違いをしているようだ。「パレード」の延期は、批判を考慮したからにすぎない。ほんとうに「国民」(被災者)に寄り添う気があるなら、パレードなど中止するはずだ。被災地の惨状・被災者の苦悩が10日もそれ以降も続いていることは周知の事実だ。

 言葉で「平和」を何度唱えても実を伴わねば空念仏にすぎない。もし徳仁がほんとうに「平和」を願うというなら、まず、その平和を踏みにじって知らん顔を通した祖父・裕仁の戦争・植民地支配責任を認めわびるべきだろう。

 「象徴の思い」とは何なのか。天皇が直接「国民」に意見表明することは憲法(第4条)に抵触する。落合氏には自明のことではないのか。そもそも落合氏は「象徴天皇」の存在を前提にして天皇皇后に進言しているが、主権在民、基本的人権尊重の現憲法下でなぜ「象徴天皇」なるものが必要なのか。

 「九条の会」として現憲法の平和・民主条項(原則)の擁護を目指しているなら、その原則に反する「象徴天皇制」自体を根本から問い直すべきではないのか。

 当ブログは前身の「私の沖縄日記」(第1回2012年11月26日)から通算して今回で1600回になります。このかん、多くの皆さまにお読みいただき、心から感謝いたします。これからも私なりにできることをやってゆく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。


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