アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「日馬富士暴行事件」をこじらせる「国技」という足かせ

2017年11月30日 | 天皇制と人権・民主主義

     

 日馬富士は貴ノ岩に対する「暴力事件」の真相が明らかになる前に引退を表明しました(29日)。なんとも不明朗な経過です。
 そもそも今回のことは、1つの傷害事件です。琉球大学法科大学院の矢野恵美教授はこう指摘しています。

 「落ち着いて考えてほしい。今回の相撲協会の騒動の発端は、自分の身内がこのような犯罪の被害にあったから警察に通報した。それだけのことだ。…むしろ犯罪があっても警察より先に組織に知らせねばならず、それを破れば処分だと言い出すことこそが問題だ」(24日付琉球新報)

 問題がこれほどこじれているのは日本相撲協会の存在・介入があるからです。そしてその背景には、メディアがけっして問題にしようとしない1つのキーワードがあります。それは「国技」です。

 日馬富士は引退会見(29日)で、何度も「横綱の責任」を口にしました。(写真左)
 横綱審議委員会は「規則」で、「社会に対する責任」など5項目の「横綱の品格」なるものを決めています。相撲協会や横審がこれほど「品格」にこだわるのはなぜか。相撲が「国技」とされているからです。 

 相撲協会の八角理事長は、十両以上の力士を対象とした「講話」(28日)でこう述べました。

 「日本の国技といわれる相撲日本の文化そして誇りを背負っているんです日本の国技を背負う力士であるという認識を新たにし、改めて暴力の根絶を胸に刻み込んでください」(28日、テレビニュースより)

 「国技」とは何でしょうか? 手元の国語辞典(清水書院)には、「その国特有のスポーツや武術。日本ではすもう」とあります。日本で「国技」といえば相撲のことです。ではなぜ相撲が「国技」なのでしょうか。

  その理由は相撲協会の「協会の使命」に明記されています。

 「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」(日本相撲協会のHPより)

 相撲が「国技」なのは、その起源が「神事(祭事)」、すなわち神道の宗教行事だからです。重要なのは、その神事(神道)との関係が「起源」にとどまらず、いまでも連綿と続いており、その点で大相撲は天皇制と深い関係にあるということです。

 例えば、相撲協会のHPの「協会のあゆみ」には、わずか7項目の記述しかありませんが、この中に「東京、大阪両相撲協会合併」(1927年)があります。この合併は、その前年に当時の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が協会に「御下賜金」を渡し、それで「天皇賜杯」がつくられたのがきっかけです。

 また、「土俵の改革」(1931年)も記されていますが、その内容は、土俵の屋根をそれまでの入母屋造りから伊勢神宮と同じ神明造りに変えたことです(協会のHPにはいずれも書いてありません)。

 天皇・皇后の大相撲観戦は今でも恒例になっています(写真右)。宮内庁はこれを「純粋な私的行為」と位置付けています。音楽や絵画の鑑賞は「公務」としているにもかかわらず、です。なぜでしょうか。大相撲およびその観戦が神道による宗教活動の一環と考えているからです。

 相撲が「国技」とされるのは、神道という宗教活動、そしてその点で天皇制と深く結びついているからにほかなりません。このことが相撲協会や横審、そして横綱はじめ力士の重い足かせとなっていると言わざるをえません。

 それだけではありません。

 今回の「事件」や日馬富士の「引退」に対し、出身地のモンゴル・ウランバートルの市民からは、「モンゴル出身の力士は日本の相撲界にふさわしくないと考えて、朝青龍に続いて日馬富士を辞めさせようとしている」「(日本からモンゴルの力士が)追い出されている気がします」(いずれもテレビニュースの街頭インタビュー)という声が出ています。

 その真偽は不明ですが、モンゴルの市民からそういう声が出ているのは確かです。
 そして、力士は「日本国籍」を持たなければ相撲協会には残れず、親方にもなれない、というのは歴然とした事実です。
 大相撲を神道・天皇制との関係から「国技」としていることが、閉鎖的な「ナショナリズム」「国籍主義」につながっていると言えるのではないでしょうか。


翁長知事の本音が露呈した3つの重大発言

2017年11月28日 | 沖縄・翁長知事

     

 翁長雄志沖縄県知事の辺野古・米軍基地に対する姿勢、そして翁長氏の支持母体である「オール沖縄」について考えるうえで、見過ごせない発言が、翁長氏の口から相次ぎました。

①「就任3周年政治資金パーティー」(21日、写真左=沖縄タイムスより)でのあいさつ。

 <辺野古新基地建設を念頭に「腹八分、腹六分で我慢も大切。0点か百点かではなく、沖縄の政治の60点を実現する」>(22日付沖縄タイムス)

 辺野古新基地阻止の闘いは、基地を造らせないか、建設強行を許すかのどちらかです。その点ではまさに「0点か百点か」です。ところが翁長氏は「新基地建設を念頭に」、「60点を実現する」という。つまり、安倍政権と妥協するということです。
 新基地建設阻止において「60点」はありません。妥協して基地を造らせてしまえば、それは安倍政権に対する屈伏です。

②在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官との会談で(20日=写真中)。

 <翁長氏 日米が世界の人権と民主主義を守ろうというのが日米安保条約だ。>(21日付沖縄タイムス「会談要旨」から)

 翁長氏が「日米安保容認」派であることは周知の事実ですが、ここまで安保条約を賛美した言葉は初めて聞きました。
 日米安保条約は言うまでもなく軍事同盟です。しかも「安保法制」によってますます自衛隊と米軍の一体化(自衛隊の米軍従属化)が強まり、危険が増しています。沖縄の基地被害の元凶も日米安保です。その安保条約のどこが「世界の人権と民主主義を守る」ものなのでしょうか。
 日米安保条約をここまで賛美する翁長氏が、辺野古新基地はじめ、高江ヘリパッド、嘉手納基地、八重山諸島への自衛隊配備など、日米安保に基づく沖縄の基地強化とたたかえないことは自明です。

③同じく「就任3周年パーティー」でのあいさつで。

 <翁長知事はあいさつで…「(保革)互いの政治の中で新しい沖縄をつくる。ぜひオール沖縄に心を寄せてもらいたい、腹八分で和を取ってパワーをつくり、文化をつくるのが沖縄の良さだ」…「いま私に対する批判があるのも承知している。沖縄が言い合って孤立の道を歩んではいけない」と指摘。>(22日付琉球新報)

 翁長氏に対しては、さすがに「オール沖縄」陣営の中からも批判の声が表面化しはじめています。
 たとえば「パーティー」の前の15日にも、「基地の県内移設に反対する県民会議」の山城博治共同代表らが県庁を訪れ、県が、埋立石材海上搬入のための奥港使用を許可したことを撤回するよう要請しました。
 山城氏は、「知事はあらゆる手段で新基地に反対すると言っていたが、現状は公約違反、言行不一致だ」(16日付琉球新報)と翁長氏を名指しで厳しく批判しました(写真右=琉球新報より)。

 パーティーでの翁長氏の発言が、山城氏らの批判を念頭に置いたものであることは間違いないでしょう。翁長氏はこうした自らへの批判は「いけない」、「言い合って」はいけないと言うのです。それは「和」を乱すことになると。

 すなわち翁長氏にとって「オール沖縄」とは、自分への批判は行わず、「和」をもって支持を持続させ知事選で再選を果たすための「翁長翼賛体制」であるべきだ、ということです。これが図らずも露呈した翁長氏の本音です。

 「オール沖縄会議」をはじめとする「オール沖縄」陣営のみなさんは、それでいいのでしょうか?


竹下氏「同性パートナー・事実婚」発言の核心は何か

2017年11月27日 | 天皇制と人権・民主主義

     

 自民党・竹下亘総務会長の「同性パートナー・事実婚」差別発言(11月23日)は、個人的暴言として聞き流すことはできません。なぜなら、政権党の三役という要職にある者の公的な場における発言であるとともに、その背景には日本の政治・社会の重要問題があるからです。

 竹下氏は23日、岐阜市内で行われた自民党会合での講演で、天皇・皇后が国賓を迎えて行う宮中晩さん会に関して、こう述べました。

 「(国賓の)パートナーが同性だった場合、どう対応するのか。私は(出席に)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う」(24日付共同配信)
 
 竹下氏はまた、フランスのオランド前大統領が2013年6月に当時の事実婚の女性を伴って来日したことに言及しました。

 「女性は奥さまではない。天皇、皇后両陛下と並んで座るのでどう対応しようかと、宮内庁は悩んだ」(同)

 この発言に対し、批判的反響が大きかったことから、竹下氏は翌24日、「言わなきゃよかった」としながら、改めて同性パートナーに対する考えを聞かれ、こう答えました。

 「私の周辺にも持つ人はいるし、付き合いもある。ただ、皇室を考えた場合、日本人のメンタリティーとしてどうかなという思いがあり、言葉になって出た」(25日付共同配信)

 竹下氏が「同性パートナー」「事実婚」に対して差別意識を持っていることは明確です。重要なのは、その差別意識が、「天皇、皇后」「皇室」との関係で語られていることです。
 竹下氏は、世界中で認められ、権利が保障されている「同性パートナー」や「事実婚」は、日本の「天皇制」と相入れないものと考えているのです。

 竹下氏がなぜそう考えるのかは明らかにされていません(報道されていません)。しかし、それはけっして竹下氏の特異な考えとは言えないでしょう。なぜなら、「天皇制」自体がそういう性格を持っているからです。

 日本国憲法は第2条で、「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としています。その皇室典範は第1条で、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と明記しています。

 これは言葉でこそ表してはいませんが、実態的には明治憲法の「萬世一系」(第1条)の天皇制を継承するものです。そして、「萬世一系の天皇制」は、日本の封建的・家父長的「家」制度と不可分の関係です。

 「男系男子主義を内実とする「萬世一系の天皇」のイデオロギーは、日本社会一般に通用する「家」制度と無関係ではなかった」(奥平康弘氏『「萬世一系』の研究(上)岩波現代文庫)

 しかし、「敗戦を契機として日本国憲法下構想される家族制度は、「家」を解体し、個人の尊厳にもとづ」(奥平氏、同)くものになりました。憲法第24条には家庭生活における「個人の尊厳と平等」が明記されています。

 戦前の「家」制度と一体の男系男子主義を続ける「天皇制」と、「家」を解体して「個人の尊厳・平等」にもとづくとした現憲法の精神は、明らかに矛盾しています。
 竹下氏が「皇室を考えた場合」というとき、その言葉の裏に憲法と矛盾する「家」を残す「天皇・皇室」制度があることは間違いないでしょう。

 さらに重要なのは、「家」をめぐるこうした現行憲法と「天皇制」の矛盾を、自民党や右翼勢力は、憲法を変えて「天皇制」に近づける方向で”解消”しようとしていることです。
 それがはっきり示されているのが、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日決定)にほかなりません。

 「草案」は「前文」で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって…和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とし、第1条で「天皇は、日本国の元首」とし、第3条で「日章旗」と「君が代」の「尊重」を義務付け、第4条で「元号制定」を明記します。そして第24条に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」との文言を挿入します。
 「天皇の元首化」と「家」の復活が一体のものとなっているのが自民党の改憲草案の大きな特徴です。

 竹下氏の発言が、「個人の尊厳・平等」の憲法の精神と矛盾する「天皇制」や、自民党の改憲策動と不可分の関係にあることを見逃すことはできません。
 


カメジローが泣いているー映画の重大な誤謬と欠落

2017年11月25日 | 沖縄・平和・基地

     

 映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(佐古忠彦監督=TBSテレビ報道局)が沖縄はじめ全国で公開され、一定の評判になっているようです。
 しかし、この映画には重大な誤謬と欠落があります。(写真左は那覇市内にある瀬長さんの資料館「不屈館」の内部)

 そのことについて琉球新報の「論壇」に投稿した拙稿が先日掲載されました。以下に転記します。
                                ◇
       瀬長を米軍が恐れた理由 「安保廃棄」見落とすな
 
 映画「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」(佐古忠彦監督・TBSテレビ報道局)を観賞した。生前の瀬長亀次郎本人らへのインタビューは貴重で、米軍との闘いの先頭に立った瀬長さんの人柄をそれなりに描いてはいる。しかし、この映画には重大な誤謬・不十分さあるのではないか。

 映画は冒頭とラストにいずれも翁長雄志知事を映し、「今に通じる」というナレーションを流す。まるで翁長氏が瀬長さんに「通じ」、瀬長さんの後継者であるかのような描き方である。これはとんでもない誤謬であると思う。
 瀬長さんは映画でも描いていた通り、「大衆が待っている」と言って文字通り終始「人民の中」で先頭に立って闘った。だからこそ市民の絶大な尊敬と支持を得た。翁長氏はどうか。辺野古や高江で闘う住民の中に入るどころか出向きもせず、挙句に公約を投げ捨てて埋立工事の石材海上輸送を許可し、闘っている市民をさらに苦境に立たせている。これのどこが「通じる」というのか。

 瀬長さんと翁長氏の政治姿勢の根本的な違いは、日米安保条約すなわち軍事同盟に対する立ち位置である。瀬長さんの政治信条・主張の根底には常に「日米安保廃棄」があった。例えば、『民族の悲劇』(新日本出版社)の「まえがき」(1971年)で瀬長さんは、「断固として全面返還と安保廃棄の旗をかかげてたたかう決意」「安保廃棄、(サンフランシスコ)「平和」条約三条撤廃による沖縄の全面返還の旗を一だんと高くかかげて」(原文)など、再三「安保廃棄」を強調している。瀬長さんにおいては、「民族の怒り」は一貫して「日米安保廃棄」と結び付いていたのである。

 一方、翁長氏は「日米安保の重要性をよく知っている」と再三公言しているように自他ともに認める「日米安保容認派」である。翁長氏が辺野古や高江の新基地をめぐって安倍自民党政権と正面から闘えない根源的理由がここにある。

 「日米安保廃棄」こそ瀬長さんが翁長氏より優れた、卓越した政治家だったことを示すキーワードである。ところが不思議なことに、佐古監督の映画には「日米安保廃棄」という瀬長さんの最も重要な主張が完全に欠落している。「基地撤去」はあっても「安保廃棄」は一言もない。これは意図されたものと思わざるを得ない。

 瀬長さんが主張し続けた「日米安保廃棄」こそ、今の沖縄・日本に最も必要な「旗」である。そもそも「安保廃棄」を抜きに瀬長さんは語れない。なぜなら、それこそが、瀬長さんについて「米軍が最も恐れた」理由だからである。                        (11月23日付琉球新報)
                                 ◇

 「論壇」には字数の関係で書けませんでしたが、実は佐古氏の「映画」が欠落させた重要なものがもう1つあります。それは「日本共産党」です。

 瀬長さんが率いた沖縄人民党は1973年、正式に日本共産党に合流します。そのときのもようを瀬長さんはこう回顧しています。

 「沖縄人民党が科学的社会主義の党へ発展する、日本共産党へ組織的に合流することが提起されたとき、ほとんどの人民党員がこれを歓迎し、積極的に受け止めた。自然な流れであった」(『瀬長亀次郎回想録 沖縄の心』新日本出版。写真右は合流後初の党大会<1973年11月>で宮本顕治委員長、不破哲三書記局長<いずれも当時>と談笑する瀬長氏。同著より)

 合流と同時に瀬長さんは共産党副委員長に就任します。

 「日本共産党の中央幹部会副委員長として、国会活動はもとより全国的な視野、さらには国際活動などにおいても自分に与えられた任務を立派に果たしていきたいという闘志が静かに湧いてきた。沖縄人民党の瀬長亀次郎から日本共産党の瀬長亀次郎に発展した記念すべき大会、記念すべき日々であった」(前掲書)

 「日米安保条約廃棄」とともに、「日本共産党」は瀬長さんの政治活動を語る上で必要不可欠です。佐古監督がなぜこの2つを完全に欠落させたのか、奇異としかいいようがありません。

 一方、瀬長さんが活動していた当時の日本共産党は「日米安保条約廃棄」の旗を高く掲げ続けていました。しかしいまや同党は、国政選挙でも「安保廃棄」を前面に掲げなくなりました。

 瀬長さんが存命なら、現在の日本共産党、そして翁長氏を担ぐ「オール沖縄」を何と評するでしょうか。


沖縄裁判・被告人の黙秘権行使に対する攻撃は許されない

2017年11月23日 | 民主主義・人権

     

 「米軍属女性暴行殺人事件」(2016年4月発生)はあす24日、那覇地裁で結審します(判決は12月1日の見通し)。重大な事件であり、裁判の行方が注目されるのは言うまでもありません。

 しかし、これまでの2度の公判(11月16日、17日)をめぐる報道、とりわけ地元沖縄の琉球新報と沖縄タイムスの報道にはきわめて大きな問題があると言わざるをえません。

  第1に、両紙の18日付1面トップは、申し合わせたように、被害者両親の言葉を白抜きで大きく並べています(写真)。ご両親の心中は察するに余りありますが、それを新聞がこういう形で取り上げることは、事実上、厳罰・極刑(死刑)判決を期待する世論を煽り、裁判員に対する暗黙の圧力になることは避けられません。

  第2に、両紙とも「被告再び黙秘」(琉球新報)、「元米兵、黙秘続ける」(沖縄タイムス)と見出しをとり、社説などで被告人が黙秘していることを批判・攻撃していることです。これは重大な誤りです。

  憲法38条第1項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明記しています。これが黙秘権の憲法上の根拠です。さらにこの憲法規定に基づき刑事訴訟法は、「被告人は、終始沈黙し、または個々の質問に対し、供述を拒むことができる」(第311条第1項)と定めています。

 「被告人は、憲法上、自己に不利益なことがらについて黙秘権を持つだけでなく、訴訟法によれば、およそ供述するかどうかが、全くその任意に委ねられている。したがって被告人をその意思に反して証人として喚問し、供述を強要することができないのは勿論である」(平野龍一著『法律学全集43 刑事訴訟法』有斐閣)

 このように黙秘権が被告人にとってきわめて重要な権利だからこそ、刑訴法は裁判官に対し、公判の冒頭で被告人に黙秘権の存在を告知しなければならないと定めています(第291条第2項)。

  ところが琉球新報は社説(17日付)で、「被告の権利とはいえ、黙秘権行使は許し難い」「被告は黙秘権を行使した。少なくとも被害女性、遺族に謝罪すべきである。…被告は反省していないと断じるしかない」「被告の順法精神と人権意識の欠如の延長線上に、黙秘権の行使があるのではないか」「そのようなこと(「殺意があると判断されなければ殺人罪に問われない」)を考えて殺意を否認し、黙秘したならば、言語道断である」と、繰り返し「黙秘権の行使」を批判・攻撃しています。

 こうした主張は、憲法、刑事訴訟法の精神を真っ向から否定するものと言わねばなりません。「謝罪」も「反省」も黙秘とはまったく関係ありません。そもそも黙秘権は「自己に不利益な供述を強要されない」権利なのですから、不利になる(殺人罪に問われる)と思うことを述べないのは「言語道断」どころか当然のことです。逆に、黙秘権の行使こそ「順法精神と人権意識」に基づくものです。

  被告人に対し「真実を述べてもらいたい」(17日付沖縄タイムス社説)というのは、素朴な感情でしょう。しかしだからといって黙秘を批判・攻撃することは許されません。

  「犯罪事件がおこると、たいていの場合、逮捕され起訴された人間は「真犯人」にちがいない、という調子で報道される。実際、黙秘権ひとつをとっても、「本人のやったことは本人がいちばん知っているはずだ」「犯人の権利より被害者の人権の救済こそ大事ではないか」という反応は、世間でむしろ一般的である。
 しかしまた私たちは、正式の裁判で最高裁まで行って死刑の確定した事件が、当事者たちのなみなみならぬ労苦の末ようやく再審の扉が開かれて、何十年もあとになって無罪とされる、という例も、ひとつならず知っている」
 「人身の自由に属する諸権利は、これまでの人類の痛みに充ちた体験のつみ重ねのなかから生み出された智恵の結晶なのであるが、しかし、黙秘権の例にも見られるように、「世間の常識」からは理解されにくいという側面も持っている。…「えん罪からの人権」という最低限度の人権を確保するためには、「世間の常識」をぬけ出て、「九十九人の真犯人をとり逃がすことがあっても、一人の無実の者を罪にしてはならない」という意識を確立させることが、不可欠なのである」(樋口陽一著『憲法入門』勁草書房)

  「自己ざんげ(被告人の供述―引用者)は、道徳律の世界では、むしろ崇高な善として勧奨されこそすれ、禁圧されるいわれはないであろう。しかし、近代以降、法の世界では、もっとも忌むべきものであるはずの犯罪について、開示(供述―引用者)を拒むことができるとされたのである。これは、ある意味で、常識の逆転現象ともいえる。なぜ、このような逆転現象が生じたのであろうか。それは、近代以前の苛烈な糾問が人間の尊厳の抑圧という耐えがたい不正義―道徳律への不従順という不正義以上の―をもたらしたからであり、人類がその歴史の教訓に学んだからにほかならない」(田宮裕著『刑事訴訟法{新版}』有斐閣)

  「事件の真相を知りたい」「被告人は真相を話すべきだ」…そんな「世間の常識」から抜け出して、黙秘権は尊重されなければなりません。なぜなら、それは、人類が、自白の強要、拷問、冤罪という国家権力による「人間の尊厳の抑圧という耐えがた不正義」とたたかい、その「歴史の教訓に学ん」でかちとった大切な権利だからです。

  黙秘権を尊重することこそ、軍事基地があるがゆえの犯罪・人権侵害とのたたかい、基地撤去のたたかいと通じるのではないでしょうか。


翁長県政で進行する市民の平和・文化・政治活動への圧力・敵視

2017年11月21日 | 沖縄・翁長知事

     

 辺野古埋立・新基地建設は翁長雄志知事の「海上石材搬入許可」で重大な局面を迎えています。一方その陰で、他にも見過ごせない事態が翁長県政の下で進行しています。
 市民・県民の自主的な平和・文化・政治活動に対する圧力・敵視です。

 ★ 県主催の文化祭パンフの審査委員長総評から、米軍ヘリ炎上事故などに触れた部分を無断で削除

 「「第46回県芸術文化祭」(県、県文化振興会主催)のパンフレットに寄稿した美術部門審査委員長の屋良朝彦さんの総評の原稿から、東村高江の米軍ヘリ炎上事故や衆院解散に言及した部分が、県の判断で「個人の見解」として削られていたことが19日までに分かった。屋良さんは反対したが、県はこれらの記述を削った総評をパンフレットに掲載した。屋良さんは「納得できない。平和が根幹にあってこそ芸術活動ができると伝えたかった」と憤り、無念さをにじませた」(20日付琉球新報)

 県が一方的に削った屋良さんの当初の原稿は次の通りです。

 「静謐に芸術に向き合えるかと思ったが予期せぬ衆院解散により巷は気忙しい雰囲気となってきた。追い打ちをかけるように高江での米軍ヘリ炎上事故の発生平和であることが芸術活動の大前提である。それさえも危うい沖縄の現状は容認できないし、やるせない」(同)

 「翁長直樹さん(美術評論家、元県立博物館・美術館副館長)の話 県芸術文化祭の総評の執筆をお願いした当該分野の審査委員長の文章に、県が一方的に手を入れたとすればまずい行為であり、やってはいけないことだと思う。…沖縄戦後美術は、沖縄のその時々の政治的、社会的な動きに翻弄される状況で創られた作品が多い。政治的、社会的文脈と密着し、無視できない状況で美術活動が行われており、その文脈を抜きにして作品を語ることはできないのではないか。」(19日付沖縄タイムス)

 これだけではありません。

 ★ 「強制集団死」(「集団自決」)のパネル展示拒否

 「「集団自決」(強制集団死)の軍命を明記するよう活動する「9・29県民大会決議を実現させる会」(仲西春雅世話人)が、県庁(写真中)1階の県民ホールで「集団自決」や会の活動を展示するパネル展を企画して県教育庁に後援を依頼したものの、「後援の規定」を理由に断られたことが31日までに分かった。…07年の県民大会から10年になることから、県民大会決議を実現させる会が改めて「集団決議」や教科書問題について考えてもらおうと企画。同会のメンバーが昨年から今年初頭にかけて複数回同庁に後援を依頼したが、断られた。同庁から後援できない理由は明示されなかったという」(4月1日付琉球新報)

 2007年の「9・29県民大会」には当時の仲井真弘多知事でさえ参加しました。翁長県政の姿勢の後退は明白です。

 ★ 第32軍司令部壕「説明版」の「慰安婦」文言復活を拒否

 仲井真県政は2012年に設置した第32軍司令部壕(那覇市首里)の説明板から「慰安婦」「日本軍による住民虐殺」の文言を削除しました。しかしその後、元「ジュリ」の正子・ロビンス・サマーズさん(享年88)の手記で、司令部壕内で20人余の女性が兵隊らと「共同生活」していたことが明らかになりました。これを受け、関係者が昨年、県に文言の復活を要請しました。

 「同壕説明板設置検討委員会の元委員長・池田榮史琉大教授ら元委員3人は26日(2016年9月ー引用者)、担当する子ども生活福祉部を訪ね、文言の復活と検討委員会を改めて開催し再検証することを求めた。元委員らは「総勢1千人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属・慰安婦などが雑居していました」などとする原案について、「全面的な復活を要望」し、1カ月以内の回答を求めた」(2016年9月27日付沖縄タイムス)

 それから1年2カ月。

 「昨年、正子さんの証言に触れ、首里の司令部壕内での本人証言は無かった(説明板設置当時ー引用者)ので、(正子さんの証言によってー引用者)当然修正されると思い県に申し入れをしてきたが、なぜか放置されたままである。…沖縄県行政も本書(正子さんの手記ー引用者)を読まれ、首里司令部壕の文言復活をするべきである」(村上有慶氏=元説明板設置検討委員、14日付沖縄タイムス)

 以上の3つの事項に共通しているのは、いずれも沖縄戦や現在の沖縄の基地問題に密接に関係している問題で、市民の自主的な活動に、翁長県政が直接・間接に圧力をかけた、あるいは要請に背を向けた、ということです。

 対応はそれぞれ担当部署が行っていますが、いずれも翁長知事の指示・意向であることは言うまでもありません。どの場合も報道後に翁長氏からの「訂正・軌道修正」の指示は一切出されていないことがそれを証明しています。

 沖縄県民の自主的な平和・文化・政治活動に対する翁長県政の圧力、さらに沖縄戦の歴史の継承に背を向ける行為は、もちろん沖縄だけの問題ではありません。

 翁長氏を”支える”「オール沖縄」陣営(県議団、市民)はこうした翁長県政の実態に目をつむり続けるのでしょうか。来年の県知事選を控え、翁長氏本人はもちろん、「オール沖縄」陣営の姿勢が問われています。


国連人権理が勧告ー「朝鮮学校無償化除外」は日本の恥

2017年11月20日 | 差別・人権・沖縄・在日

     

 5年ぶりに開かれた国連人権理事会の対日人権審査会で16日、日本に対し218項目もの勧告が行われました(最終勧告は、日本政府の意見を反映させたうえで来年2~3月に採択の予定)。

 この中で、秘密保護法などによって「報道の自由」が大きく制約されていることが指摘され、割合広く報じられました。これはもちろん重大問題です。
 同時に、今回の勧告の中には「報道の自由」だけでなく、極めて重要な内容が初めて盛り込まれました。ところが日本のほとんどのメディアはこれを報じていません。私が見た限りまともに取り上げたのは神奈川新聞だけでした。同紙から抜粋します。

 「218項目にわたる日本政府への勧告には、高校無償化制度の対象から唯一除外されている朝鮮学校に制度を適用するよう求めるものも盛り込まれた。
 16日に採択された勧告は「すべての学校に無償化制度を適用せよ」「社会権規約委員会と人権差別撤廃委員会の勧告に従い、マイノリティの子どもたちの教育権を差別なく確保せよ」「国連条約機構の勧告に従い、朝鮮学校への平等な扱いを確保せよ」などと求める。朝鮮学校の排除を差別と批判し、是正を求めた2013、14年の国連社会権規約委員会、人種差別撤廃委員会の勧告を無視する日本政府への非難を含めた内容となっている」(18日付神奈川新聞、石橋学記者)

 同紙によれば、勧告に先立って14日行われた日本審査会(UPR)では、ポルトガル、パレスチナ、オーストリア、北朝鮮の4つの国・地域が無償化制度の適用や教育権確保について発言しました。在日本朝鮮人人権協会によれば、UPR日本審査で朝鮮学校に高校無償化制度を適用するよう求める勧告が出されたのは初めてです。

 「在日本朝鮮人人権協会の朴金(パクキム)優綺(ウギ)さんは「すべての子どもの学びを支援する無償化法の趣旨に反し、政治的理由で朝鮮学校を排除しているのは国際社会の目からも明らか。これまでの勧告に従っていないことを踏まえた勧告を重く受け止め、速やかに制度を適用すべきだ」と話している」(同神奈川新聞)

 安倍政権が朝鮮学校だけを「高校無償化制度」から排除しているのは明らかな民族差別であり、憲法違反であり、国際的恥辱です。それが今回の国連人権理事会の勧告で改めて浮き彫りになりました。

 この重要ニュースを日本のメディアが報じないのはきわめて異常です。メディアだけではありません。
 勧告直後の19日付沖縄タイムスに、憲法学者・木村草太氏の定期コラム(「憲法の新手」)が掲載されました。「教育の二つの政治的論点・無償化は既に政府の義務」と題した論稿で木村氏は、「幼児教育の無償化」「自民党の「教育無償化」の憲法改正」について述べ、「「教育を受ける権利」の憲法26条1項も、国際人権A規約も、教育の機会均等の理念を掲げている。未来ある若者のためには、総合的な施策が急務だ」と結んでいます。論旨は明快です。

 ところがこの中で木村氏は、朝鮮学校の無償化除外問題については一言も触れていないのです。「教育を受ける権利」「教育の機会均等」「未来ある若者」という時、木村氏の脳裏に朝鮮学校の生徒たちは浮かんでこなかったのでしょうか。「民主的」といわれている学者の論考においてこうです。 

 朝鮮学校に対する差別、憲法違反は、安倍政権だけでなく、日本のメディア、学者、そして私たち「日本国民」全体の責任であり、国際的恥じです。そのことを改めて肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。


安倍所信表明で明らかになった「北朝鮮脅威」論の狙い

2017年11月18日 | 日米同盟・日米安保

     

 安倍首相が17日、所信表明演説を行いました。野党やメディアは「時間の短さ」を問題にしていますが、そんなところに目を奪われてはなりません。肝心なのは中身です。

 総選挙の「大勝」、トランプ米大統領の訪日を受けて行われた今回の所信表明には、極めて重大な内容が含まれています。

 開口一番、「緊迫する北朝鮮情勢…」で始まった所信表明の最大の特徴は、あらためて「北朝鮮の挑発・脅威」論を前面に出したことですが、同時に、安倍政権がそれで何を狙っているのかが浮き彫りになりました。注目すべきは次のくだりです。

 「北朝鮮による挑発がエスカレートする中にあって、あらゆる事態に備え、強固な日米同盟の下、具体的行動を取っていく。ミサイル防衛体制をはじめとするわが国防衛力を強化し…」

 思い起こされるのは、安倍氏との共同記者会見におけるトランプ氏の発言です。

 「首相は大量の(米国製)軍事装備を購入するようになるだろう。そうすれば、ミサイルを上空で撃ち落とせるようになる」(6日)

 「北朝鮮の挑発・脅威」論は、アメリカ製の兵器の売り込み・購入による大軍拡のための口実であることは明白です。
 それは日本の財界の要望・言い分でもあります。

 「日本をとりまく安全保障環境は、北朝鮮のミサイル発射、核実験などの挑発的行為等、厳しさを増している。…日本の安全保障環境に照らし合わせ、必要な防衛力、防衛体制の整備の観点から、防衛費のさらなる増強について、大局観を持った冷静な議論がなされることを期待する」(関西経済同友会「新政権に望む」2017・11・6)

 重要なのは、安倍・トランプ政権が狙う大軍拡は、たんに軍事費の量的膨張にとどまらず、重大な質的転換をもたらそうとしていることです。

 トランプ氏が共同会見で公言した「ミサイルを上空で撃ち落とせるようになる」発言、それに呼応するように安倍氏が所信表明で強調した「ミサイル防衛体制」。これはいったい何を意味しているでしょうか。

 「トランプ氏は北朝鮮の弾道ミサイルに対する米国の迎撃技術も積極的にアピールした。自民党内には、北朝鮮ミサイルへの対処策として発射直前に拠点を壊滅させる「敵基地攻撃能力」の保有論がくすぶる。トランプ氏の要求を背景に、こうした声が勢いづく可能性もある」(7日付中国新聞=共同配信)

 「ミサイル(ロケット)」が発射されてもいないのに、日本が北朝鮮を攻撃する。そんな恐るべきシナリオが、トランプ氏の要求を背景に、現実のものとなる可能性が強まるだろうというのです。安倍氏が言う「具体的な行動」とはこのことなのか。
 まさに日本は、アメリカの目下の同盟国として戦争をする国になり下がってしまいます。

 安倍氏やトランプ氏がふりまく「北朝鮮の挑発・脅威」論の先には、こんなおぞましいシナリオがあることを見逃すことはできません。


安倍晋三首相の知られざる天皇崇拝とその危険

2017年11月16日 | 天皇制と安倍政権

       

 安倍晋三首相は昨日15日午後3時50分、東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議から羽田空港に帰着し、4時43分に官邸に入りました。しかしその間に、真っ先に立ち寄った所がありました。皇居です。

 4時25分 皇居。帰国の記帳。(同日の「首相動静」から)

 安倍氏は外遊から帰国すると、首相官邸に入るよりも前に、空港からまず皇居に直行するのです。そして、”ただいま帰って参りました”とばかりに記帳し、天皇に帰国を報告する。これは今回に限ったことではありません。

 外遊から帰ったらまず皇居へ行って記帳(帰国報告)する。もちろん首相にそんな義務(きまり)はありません。憲法はじめどのような法律にも書かれていません。逆に言えば、天皇に首相の外遊からの帰国記帳を受ける権限もありません。きまりのないことを安倍氏はやっているのです。

 「外遊帰国記帳」だけではありません。

 11月1日、安倍氏は国会で「総理大臣の指名」を受け、親任式で天皇から「認証」を受けました(写真左)。これは憲法第7条第5項の「天皇の国事行為」とされています。

 ところがその翌日の2日、安倍氏はどこへ向かったか。東宮御所の皇太子を訪れて就任あいさつし、続いて秋篠宮邸、三笠宮邸、常陸宮邸をあいついで訪れて「就任の記帳」を行ったのです。皇族たちへの首相就任報告です。もちろんこれも義務があるわけではありません。

 皇族に対する首相就任報告(記帳)は、安倍氏に限らず、歴代の自民党首相が行っています。しかし、安倍氏には「天皇の認証」に対する特別の思い入れがあります。

 「安倍氏は09年の対談で、「内閣総理大臣に就任するのは国会で指名を受けた瞬間だとされていますが、私は親任式で陛下から任命されたときに、大変な重みを感じました」と回想している」(11月1日付朝日新聞)

 安倍氏にとっては、国会の指名(憲法67条)よりも、天皇の認証の方が「重み」があるというわけです。

 安倍氏の天皇崇拝は、その政治利用と表裏の関係です。
 それを象徴的に示したのが、沖縄の「屈辱の日」に抗議を振り切って強行した、サンフランシスコ条約・日米安保条約発効(1952年4月28日)を祝う政府式典(2013年4月28日)で、安倍氏が突然「天皇陛下万歳」と叫んだ場面でした(写真中)。

 こうした安倍氏の天皇・皇室崇拝と政治利用は、憲法の規定を無視して、日本の政治体制にいかに天皇制が隠然と根を張っているかを示すものです。

 それは安倍氏の個人的な問題ではなく、自民党改憲草案(2012年4月27日決定)の第1条「天皇は、日本国の元首であり…」という「天皇元首」化の動きに連動していることを見逃すことはできません。


石材搬入!翁長知事の責任重大、今こそ「承認撤回」させる時

2017年11月15日 | 沖縄・翁長・辺野古

     

 沖縄・辺野古が重大事態を迎えています。
 埋め立ての護岸工事のための石材搬入が、陸路だけでなく海上からも始まったのです(写真左は今日の琉球新報)。その許可を与えたのは、翁長雄志知事です。

 「名護市辺野古の新基地建設で、護岸建設用石材の海上運搬を請け負った業者に対し、県(翁長知事ー引用者)が国頭村の奥港の岸壁と港湾施設用地の使用許可を出していたことが、2日分かった。…運搬業者が6月下旬に申請書を提出、県が9月上旬に許可した」(3日付沖縄タイムス)

 奥港に続いて、本部港からの搬入も許可しました(表面的には管理を委託されている本部町の許可ですが、実質は管理権をもつ県=翁長氏の許可です)。さらに、中城湾港の使用も予定されており、まさに四方八方から辺野古に石材が運び込まれる事態です。

 こうした状況をつくりだした元凶はもちえろん新基地建設を強行する安倍政権ですが、翁長氏がそれを許可したことは、「あらゆる手段で基地は造らせない」と言い続けてきた言明(公約)に反することは明白で、その責任はきわめて重大です。

 沖縄平和運動センターの山城博治議長は、10日の定期総会あいさつで「語気を強め」てこう述べました。

 「これまで知事を正面から批判したことはないが、今回の件(奥港の使用許可ー引用者)を受け、覚悟を決めて翁長県政と向き合う必要が出てくる」「あらゆる手法で建設を阻止すると知事はこれまで主張してきた。それは一体何だったのか。これでは工事を止めることはできない」(11日付琉球新報)

 翁長氏に対する市民からの批判もようやく県紙の紙面に出るようになりました。

 「非常に驚き、かつ翁長雄志県政の姿勢に疑念と不信感が深まるばかりだ。…信じられない。「あらゆる手段を用いて工事を止める」とずっと公言している翁長県政で、明らかに辺野古埋め立て工事のための港湾施設の使用をなぜ認めるのであろうか。…知事や県に納得のいく説明を求めたい」(8日付沖縄タイムス、与那原町・森山次雄さんの投書)

 当然の怒りと要求です。ところが翁長氏は、「納得のいく説明」どころか、この問題での取材を拒否し、逃げ回っています。

 「ハガディ駐日米大使との面談を終えた(翁長)知事に報道陣が港湾施設使用許可への説明を求めたが、知事は取材に応じなかった」(14日付琉球新報)

 翁長氏の公約違反、県民に対する裏切りは隠しようがありません。同時に、新基地建設阻止のためには、翁長氏が棚上げし続けている「埋立承認の撤回」をいまこそ実行させることが急務です。

 「高江現地行動連絡会の仲村渠政彦さん(70)は、奥港の使用を認めた県と翁長雄志知事に対して「説明責任を果たしておらず、賛同できない」と主張。「知事は国と駆け引きをするのではなく、抗議に立つ現場の市民と歩調を合わせ、共に闘う姿勢を見せてほしい。その口火を切るのが、埋め立て承認の撤回だ」と訴えた」(15日付沖縄タイムス)

 「沖縄がこれまで同様日米両政府からの屈辱的な扱いに甘んじるのか、逆に県民の力ではねつけ尊厳を取り戻すのか、全ては知事の判断にかかっている。…辺野古の現場では多くのけが人や逮捕者が出ており、私も体中あざだらけだ。知事を支える運動も信ずればこそである。護岸工事の今ならまだ間に合う。知事は今回の件に限らず前知事の承認を撤回してほしい」(15日付琉球新報、原田みき子さん=本部町の「論壇」より)