日馬富士は貴ノ岩に対する「暴力事件」の真相が明らかになる前に引退を表明しました(29日)。なんとも不明朗な経過です。
そもそも今回のことは、1つの傷害事件です。琉球大学法科大学院の矢野恵美教授はこう指摘しています。
「落ち着いて考えてほしい。今回の相撲協会の騒動の発端は、自分の身内がこのような犯罪の被害にあったから警察に通報した。それだけのことだ。…むしろ犯罪があっても警察より先に組織に知らせねばならず、それを破れば処分だと言い出すことこそが問題だ」(24日付琉球新報)
問題がこれほどこじれているのは日本相撲協会の存在・介入があるからです。そしてその背景には、メディアがけっして問題にしようとしない1つのキーワードがあります。それは「国技」です。
日馬富士は引退会見(29日)で、何度も「横綱の責任」を口にしました。(写真左)
横綱審議委員会は「規則」で、「社会に対する責任」など5項目の「横綱の品格」なるものを決めています。相撲協会や横審がこれほど「品格」にこだわるのはなぜか。相撲が「国技」とされているからです。
相撲協会の八角理事長は、十両以上の力士を対象とした「講話」(28日)でこう述べました。
「日本の国技といわれる相撲、日本の文化そして誇りを背負っているんです。日本の国技を背負う力士であるという認識を新たにし、改めて暴力の根絶を胸に刻み込んでください」(28日、テレビニュースより)
「国技」とは何でしょうか? 手元の国語辞典(清水書院)には、「その国特有のスポーツや武術。日本ではすもう」とあります。日本で「国技」といえば相撲のことです。ではなぜ相撲が「国技」なのでしょうか。
その理由は相撲協会の「協会の使命」に明記されています。
「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」(日本相撲協会のHPより)
相撲が「国技」なのは、その起源が「神事(祭事)」、すなわち神道の宗教行事だからです。重要なのは、その神事(神道)との関係が「起源」にとどまらず、いまでも連綿と続いており、その点で大相撲は天皇制と深い関係にあるということです。
例えば、相撲協会のHPの「協会のあゆみ」には、わずか7項目の記述しかありませんが、この中に「東京、大阪両相撲協会合併」(1927年)があります。この合併は、その前年に当時の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が協会に「御下賜金」を渡し、それで「天皇賜杯」がつくられたのがきっかけです。
また、「土俵の改革」(1931年)も記されていますが、その内容は、土俵の屋根をそれまでの入母屋造りから伊勢神宮と同じ神明造りに変えたことです(協会のHPにはいずれも書いてありません)。
天皇・皇后の大相撲観戦は今でも恒例になっています(写真右)。宮内庁はこれを「純粋な私的行為」と位置付けています。音楽や絵画の鑑賞は「公務」としているにもかかわらず、です。なぜでしょうか。大相撲およびその観戦が神道による宗教活動の一環と考えているからです。
相撲が「国技」とされるのは、神道という宗教活動、そしてその点で天皇制と深く結びついているからにほかなりません。このことが相撲協会や横審、そして横綱はじめ力士の重い足かせとなっていると言わざるをえません。
それだけではありません。
今回の「事件」や日馬富士の「引退」に対し、出身地のモンゴル・ウランバートルの市民からは、「モンゴル出身の力士は日本の相撲界にふさわしくないと考えて、朝青龍に続いて日馬富士を辞めさせようとしている」「(日本からモンゴルの力士が)追い出されている気がします」(いずれもテレビニュースの街頭インタビュー)という声が出ています。
その真偽は不明ですが、モンゴルの市民からそういう声が出ているのは確かです。
そして、力士は「日本国籍」を持たなければ相撲協会には残れず、親方にもなれない、というのは歴然とした事実です。
大相撲を神道・天皇制との関係から「国技」としていることが、閉鎖的な「ナショナリズム」「国籍主義」につながっていると言えるのではないでしょうか。