アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

ジェンダー視点で見直される「水平社宣言」

2024年03月04日 | 日本の近現代史
   

 「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ」で始まり「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で終わる「水平社宣言」(以下「宣言」、写真右)。

 日本初の人権宣言とも言われるこの「宣言」が高らかに謳われたのは、今から102年前の1922年3月3日です。全国水平社創立大会(於・京都市岡崎公会堂)でした。

 その「宣言」を、部落差別の解消、人間の平等を力強く宣言した歴史的意義は十分踏まえつつも、見直し・再評価する動きが出ています。その視点はジェンダー平等です。

 「交差する差別と闘う女性達の100年―婦人水平社設立100年―」と題した講演会が、2月17日京都市内でありました。この中で講師の鶴岡弘美さん(部落解放同盟大阪府連合会女性部長)が、婦人水平社創立100年を踏まえて様々な取り組みを行っている中に、「ジェンダーの視点からの「水平社宣言」への問い直しと再評価」があると述べました。

 鶴岡さんが挙げたジェンダー視点からの「宣言」の問題は、①「兄弟」という言葉はあるが「姉妹」という言葉はない②尊敬されるべき存在が「男らしき産業的殉教者」とされている点です。

 確かに、「宣言」には「長い間虐められて来た兄弟よ」「多くの兄弟を堕落させた」「兄弟よ、吾々の祖先は…」、と「兄弟」という表記が3カ所ありますが、「姉妹」は1つもありません。

 こうした「宣言」が象徴するように、全国水平社の運動は完全に男性主導でした。

 たとえば、創立大会で各地からの報告を行った代表は11人いましたが全員男性でした。わずかに特別に「婦人代表」として岡部よし子(大阪)が発言しただけです。「宣言」を起草した西光万吉(写真中)はじめ8人の役員は全員男性でした(写真左)。

 この背景には、「治安警察法(1900年公布)第5条により、女性は政治結社、政党への加入や政談演説を聴くことさえ禁止されていた」(鶴岡さん)当時の現実があります。

 そんな中、全国水平社第2回大会(1923年3月)で、阪本数枝が「全国婦人水平社設立」を提案し、可決されました。画期的なことです。

 しかし、「全体として婦人水平社は低調で…1927年には歴史から姿を消すことになった」(朝治武著『全国水平社1922-1945』ちくま新書2022年)のです。

 今月1、2日に行われた部落解放同盟全国大会で、赤井隆史書記長は、「(水平社宣言には)ジェンダー平等の時代にはそぐわない表現などがある。現代の視点から表現の不足を補い、宣言の正確な理解につながってほしい」と述べました(2日付京都新聞)。

 水平社については、侵略戦争に賛成した過去を見直す必要があると以前書きました(23年1月2日付ブログ)。「宣言」を起草した西光万吉も天皇制権力の弾圧で「天皇制支持」に転向しました。

 こうした侵略戦争・植民地支配、天皇制に対する立ち位置とともに、ジェンダー平等の視点での再評価は重要です。

 歴史的に評価が定まっているとされていること、とりわけ「民主的・進歩的」といわれているものも、タブーを設けず見直し再評価することは、歴史を生かす上でたいへん重要です。「水平社宣言」さらに水平社運動の見直し・再評価に注目したいと思います。



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今光る「立命館平和ミュージアム」の価値と課題

2024年02月19日 | 日本の近現代史
   

 リニューアルされた立命館大学国際平和ミュージアム(京都市北区・君島東彦館長、写真中)を訪れました。同館は「平和創造の面において大学が果たすべき社会的責任を自覚し、平和創造の主体者をはぐくむ」(「理念」)趣旨で1992年に設立され、昨年9月にリニューアルしました。

 展示場入口で迎えてくれるのは「火の鳥」です(写真左)。
 エントランスでまず、「平和のためにあなたには何ができますか?」と問い掛けられます。テーマ展示は4つのセクション(①帝国主義②十五年戦争③戦後の世界④現代の課題)に分かれています。

 他の平和博物館と比べて大きな特徴であり優れている点は、展示が植民地支配の歴史から始まっていることです。資料も豊富です。
 私は「植民地観光」に新たな気づきがありました。帝国日本は政府・権力者が東アジアを植民地支配しだけでなく、「内地」の市民が、修学旅行も含め、台湾や満州に「観光旅行」に出かけていたのです。

 テーマ展示が終わると「問いかけひろば」に至ります(写真右=「ミュージアムガイド」から)。ここで来館者は再び入口の問いを突き付けられます。「平和とは何ですか?」「あなたに何ができますか?」この構成も同館の優れた点であり、リニューアルの眼目でもあります。「平和」の内実を問いかけ、自分事として考える場です。

 展示スペースの隣に「無言館京都館 いのちの画室」があるのも嬉しいところ。京都で長野の無言館に出会うことができます。

 このように優れた特徴をもつ同館ですが、さらに期待したいこともあります。
 それは展示「戦後の世界」の再検討です。もっと充実させるべきと思うことが2つあります。1つは、天皇裕仁の戦争・戦後責任(沖縄メッセージを含め)と戦後「象徴天皇制」の本質。もう1つは、日米安保条約体制の歴史と実態です。「60年安保闘争」の展示が皆無だったのは不可思議でさえありました。

 この2つは言うまでもなく日本の近現代史においても、これからの平和構築においても、根源的問題です。限られたスペースという制約があるにしても、もっと充実させるべきと考えます。

 同館は「立命館大学の戦争協力への痛切な反省」(同館HP)に基づいて開館されました。戦争協力というなら、京都大学こそ「痛切な反省」をしなければなりません。しかし、京大には同館のような平和ミュージアムはありません。その点からも立命館大の真摯な取り組みが評価されると同時に、京大の怠慢・後進性を嘆かずにはおれません。

 惜しまれるのは、同館の地の利が悪いことです。京都駅からバスで35分。市内の著名な観光地からも遠く離れています。市街地近くにあればもっと多くの来館者が期待できるでしょう。その点からも、観光地に近い京大の無為無策が惜しまれます。

 ともあれ、ウクライナ戦争から2年の今、立命館大学国際平和ミュージアムの展示と「問いかけ」が持つ意義は小さくありません。


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広島・松井市長の「教育勅語」賛美は何を示すか

2023年12月15日 | 日本の近現代史
  

 広島市の松井一実市長(自民・公明推薦、写真右)が、市職員の新規採用研修で、「教育勅語」を教材に使い賛美していたことが明らかになりました(12日付各紙=共同配信)。これはたんに松井氏の個人的反民主性を示すだけではない、軽視できない問題です。

 松井氏は研修教材の「生きていく上での心の持ち方」と題した項目の中で、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかり受け止め、また、後輩に繋ぐ事が重要」として、「教育勅語」の一節を転用しました。

 「教育勅語」は「大日本帝国憲法」が施行される1カ月前の1890年10月30日、天皇睦仁(明治天皇)が山県有朋首相に与え、翌日文部省訓令という形で発布されました。「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗…」で始まる「勅語」は、国内はもちろん朝鮮、台湾の植民地でも唱和が強制され、侵略戦争と植民地支配を推進する皇民化教育の強力な武器となりました(写真左は当時全国に配布された謄本=岩波ブックレットより)。

 敗戦後、衆参両院でその「排除・失効」が決議されました(1948年6月19日)。決議は「(勅語の)根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑念を残すものなる」と明記しています。

 松井氏はこれを賛美しているのですが、問題は松井氏だけではありません。松井氏の「教育勅語」使用・賛美は「市長に就任した2012年から毎年続けている」(11日付朝日新聞デジタル)もの。中嶋哲彦名古屋大名誉教授(教育行政学)は、「10年以上もの間、内部から指摘が出なかったことも驚きだ」と指摘します(同)。

 「教育勅語」を賛美する松井市長、それを唯々諾々と受ける市職員、知ってか知らずか10年以上見過ごしてきたメディア、すべて問題です。
 これは、広島という都市に対する誤った一面的な世間(日本社会)の評価と無関係ではないでしょう。

 「被爆地・広島」は反核の願いを込めて「平和都市」と称され、全国的にそうしたイメージがつくられています。もちろん広島は「被爆」というたいへんな被害を被ったところですが、その陰で忘れられている、あるいは隠ぺいされているもう1つの顔があります。それは明治以降、侵略戦争の拠点だった「軍都・広島」という加害の顔です。

< 1886年、日本は本格的に軍政改革を行い、広島に歩兵・砲兵・工兵で構成された第五師団を置きました。対外戦争の兵站基地として広島を整備していったのです。

 大陸へ向かうための最も近い港は博多でしたが、当時博多まで鉄道は開通していませんでした。そこで1889年に完成していた広島の宇品港を利用することを考え、広島駅から宇品港間に短期間で鉄道を敷き、日清戦争の出撃基地としたのです。朝鮮半島と宇品港のピストン輸送で多くの兵隊や武器を大陸に送り込みました

 日清戦争中(1894年)、広島城内に臨時の大本営が置かれ、明治天皇をはじめ、国会や軍の首脳が広島に来て、侵略戦争の指揮を執ったことは有名です。広島市は「軍都」として整備されていきました。

 1903年、呉に海軍工廠を設置。造船所、兵器製造所、製鋼所などを同じ場所に置くことにより、短期間で艦艇を建造することができるようになりました。呉港は日本一の軍港としてアジア侵略戦争を進める原動力となりました。
 現在でも呉には海上自衛隊の潜水艦基地があり、その役割を引き継いでいます。>(山内正之氏・大久野島から平和と環境を考える会著『大久野島の歴史―毒ガス被害・加害の歴史』2020年より。写真中は日清戦争で宇品港から出撃する兵隊=同書より)

 こうして広島が「軍都」として侵略戦争・植民地支配の出撃基地となっていく中で出されたのが、まさに「教育勅語」だったのです。
 それを賛美することは、「軍都・広島」の加害の歴史に対する無知・無理解か、意図的隠ぺい以外のなにものでもありません。


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「関東ジェノサイド」もう1つの盲点・ろう者虐殺

2023年12月12日 | 日本の近現代史
   

 関東大震災(1923年)時の朝鮮人らに対する大虐殺(「関東ジェノサイド」前田朗氏)には、摂政(当時)裕仁の責任究明・追及という盲点があると書きましたが(7日のブログ参照)、もう1つ、ほとんど注目されていない問題があります。ろう者(聴覚障がい者)に対する虐殺です。

 『歴史の闇に葬られた手話と口話―関東大震災下で起きた「ろう者」惨殺の史実を追う』(藤井裕行著、公益財団法人・神戸学生青年センター発行ブックレット2023年10月=写真中)でその実態を知りました。
 藤井氏(69)は元伊丹市役所職員で、50年以上にわたって手話を母語とする人々のコミュニケーション支援を続けています。以下、同書からの抜粋(要約)です。

< 震災から4日後、東京聾唖学校に驚愕の一報が入った。在校生が憲兵に呼び止められ、言葉が通じないことから、朝鮮人と間違われて銃剣で刺殺されたという。

 校長の小西信八は急ぎ在校・在勤証明書を作り、生徒全員と「ろう者」の教師たちに配布した。また、百名余りの生徒に「聾唖印章」を着用するよう伝えた。

 震災時、東京には「ろう者」が約1万3千人いたと推定。聾唖学校の就学率は約10%だったので、街には無就学の「ろうあ者」が1万2千人近くいたことになる。日本語の発声発語が困難な「ろう者」たちは、朝鮮人に誤認され、自警団に殺害されたはずだ。犠牲者の中にどれだけの「ろう者」がいたのか、正確な数字は今も把握できない。

 多数の「ろうあ者」が惨殺された事実が、歴史の闇の中で朽ち果てようとしている。これに関する調査研究は皆無に近い。>

 藤井氏の冊子には1923年10月5日付の讀賣新聞の記事が転載されています(写真左)。差別用語満載ですが、そのまま引用します。見出しは「オシやツンボが澤山 自警團に殺傷 東京聾唖學校の生徒は 半數以上生死が判らぬ」。

「自警団の暴行検挙は引続き行はれているが大震災の当初、夜警団員は殺気立つて居たせいか誰何されて返事の出来ない多数の聾唖者が随分傷害され半死半生の憂目にあつた…東京聾唖学校在校生の生徒で生死不明の者が全生徒数の約半数に及んで居ると云ふが其他一般の唖者の中にも半殺しにされた者が多数あるのは甚だ気の毒なことである」(記事より)

 東京聾唖学校で「聾唖印章」が配られた生徒は「100名余」。「全生徒の約半数が生死不明」といいますから、同校生徒だけでも約50人が惨殺された可能性があります。
 当時の東京には「1万2千人近い」無就学のろうあ者がいたとされます。そのうち何人が犠牲になったのでしょうか。

 「関東ジェノサイド」におけるろうあ者の虐殺は、朝鮮人に向けられたレイシズムが障がい者の虐殺にも向けられたことを示しています。

 その実態が分かっていないばかりか、調査研究すら皆無に近いことは、国家権力(政府・自治体)はもちろん、学術研究、そして市民レベルでも、日本社会がいかに差別・人権侵害の歴史に背を向けてきているかを表しているのではないでしょうか。

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「海の日」に“4つ目の侵略”を加えるのか

2023年07月17日 | 日本の近現代史
   

 日本政府は7月の第3月曜日を「海の日」として「祝日」にしています(1996年)。海にちなんだ国独自の祝日を決めているのは日本だけだといわれています。それは世界には国連が決めた「世界海洋デー」(6月8日)があるからです。

 それなのに日本はなぜ、独自の「海の日」を決め「祝日」にしているのでしょうか。

 そこには近代史における日本の侵略の歴史が何重にも投影しています。

 第1に、「海の日」の前身は「海の記念日」で、制定されたのは1941年です。この年8月8日に「戦艦大和」が進水し(就役は12月16日)、12月8日、天皇裕仁が宣戦布告しました。海軍力を誇示したアジア・太平洋戦争の開始と「海の記念日」は一体です。

 第2に、「海の記念日」(もとは7月20日)の由来は、1876年のこの日、天皇睦仁(明治天皇)が北海道・東北巡幸から「明治丸」(写真左)で横浜港に帰着したことです。
 北海道は明治天皇制政府が真っ先に植民地化した土地です。

 さらに、この年の2月27日、日本は朝鮮に江華島条約(不平等条約)を締結させ、朝鮮半島の侵略・植民地化の足掛かりにしました。

 第3に、あまり知られていませんが、日本による琉球(沖縄)侵略・植民地化とも深い関係があります。

 1879年3月、明治天皇制政府は、処分官・松田道之を兵士300~400人、警察官160人とともに琉球に派遣し、武力を背景に琉球国王に日本への服従を強要しました。いわゆる「琉球処分」です(写真中)。
 この時、松田が乗って琉球へ向かった船が、天皇睦仁が乗った「明治丸」でした。なお、「明治丸」の名付け親は伊藤博文だとされています。

 この武力侵略が、「国体(天皇制)護持」のための「捨て石」となった沖縄戦、天皇裕仁の「沖縄メッセージ」(1947年)を経て今日の沖縄の軍事植民地化・構造的差別につながっています。

 「海の日」の由来の「明治丸」と琉球・沖縄の侵略・植民地化・差別との関係はもっと注目される必要があるでしょう。
 
 そして今、「海の日」に第4の侵略・加害の歴史が加わろうとしています。東電福島原発汚染水放出です。

 今年の「世界海洋デー」で、韓国の市民・環境団体などが「国際共同声明」を発表し、日本政府に汚染水の放出やめるよう要求しました(6月8日のブログ参照)。
「海はすべての生命の源です。放射能汚染水の海洋投棄は、命を奪う行為であり、地球市民として許せません」(共同声明)
 「世界海洋デー」の由来は、「海洋汚染の防止・資源保護」を宣言した「地球サミット」(1992年)です。

 こうした反対の声を無視して日本の都合・利益のために放射能汚染水を放出することは、近隣諸国に対する、否、海でつながっているすべての国々に対する、そして海産物を食料とする全ての人々に対する侵略的行為と言っても過言ではないでしょう。


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鉄道と天皇と戦争・植民地支配

2022年10月28日 | 日本の近現代史
   

 新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通(1872年10月14日)して150年。NHKはさかんにキャンペーンを行い、6日には国とJRなどが主催する式典が行われ、徳仁天皇が出席してあいさつしました。
 101年前(1921年)に行われた「50周年記念式典」には、皇太子時代の裕仁が出席しました(写真中=NHKより)。

 鉄道の歴史は、天皇(制)、さらには天皇制帝国日本が強行した侵略戦争・植民地支配と深くかかわっています。

 広島は今でこそ「平和都市」などといわれていますが、敗戦までは代表的な「軍都」でした。帝国日本の本格的なアジア侵略のはじまりといえる日清戦争(1894年)で、大本営が置かれたのは旧広島城内。そこで明治天皇が戦争の陣頭指揮を執り、広島は出兵拠点になりました。なぜ広島だったのか。

「山陽鉄道が広島まで開通した。鉄道と宇品港が整備されていたのが広島が出兵基地になった理由である」(9月29日付中国新聞、連載「近代発 見果てぬ民主Ⅳ」

 朝鮮半島を植民地にした明治天皇制政府が、支配を確立するために行ったのが朝鮮銀行の設立(1902年)と鉄道の敷設でした。
 その両方で中心的役割を果たしたのが渋沢栄一。渋沢は朝鮮銀行が発行した紙幣の顔となり、朝鮮鉄道の代表におさまりました。渋沢は親友だった伊藤博文とともに朝鮮侵略・植民地支配の先頭に立ったのです。渋沢と鉄道の関係を示す資料は、ソウルの漢陽都城博物館に展示さています(写真右)。

 時代は下って、天皇裕仁が始めた太平洋戦争。開戦から1年後の1942年12月11日、裕仁は東条英機らを伴い、極秘裏に東京駅から「御召列車」に乗り込みました。「必勝祈願」に伊勢神宮へ向かうためです。

「天皇が乗る「御料車」の隣の車両には、簡易シェルターが設置され、いざとなれば天皇が避難できるようになっていた。御召列車の直前に走った「指導列車」には、外から見えないようにして高射機関砲と弾薬が搭載された」(原武史著『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』朝日新書2021年)

 その東京駅(写真左)の丸の内・中央口には、いまも「皇室専用貴賓出入口」があります。東京駅自体が、天皇の権威を誇示するものとして建設されたのです。
 東京駅の開業は1914年。その前身は「中央停車場」と呼ばれていました。

「中央停車場は、旧江戸城西の丸に建つ皇居と道路を通してつながることで、天皇のための駅として位置付けられた」「駅舎の中央部からは皇居に向かって、「行幸通り」と呼ばれる道路がまっすぐに延びている。こうした位置関係からも、東京駅が天皇のための玄関駅として建設されたことがよくわかる」「中央に皇室専用の出入口を有する東京駅丸の内駅舎こそ、植民地や「満州国」を含む帝国日本に君臨する天皇の威光を可視化する建築物となったのである」(原武史氏、前掲書)

 そして2021年。多くの反対を押し切って強行された東京五輪。気候のために北海道で行われたマラソンは、当初都内を走ることになっていました。そのコースは東京駅前から皇居へ向かうものでした。東京駅と皇居を結ぶ「行幸通り」を世界のマラソンランナーに走らせ、それを世界中に中継させようとしたのです。

 ここにも「東京五輪と天皇制」の隠れた関係、そして「東京駅」「行幸通り」を使って天皇(制)の威光を示そうとする時代錯誤の思惑があったのです。

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ウクライナ政府の「天皇裕仁写真削除」は何を示すか

2022年05月04日 | 日本の近現代史
    

昭和天皇 ヒトラーと同列に ツイッター写真投稿 ウクライナ政府が謝罪

 4月26日付の沖縄タイムスはこの見出しで、次の記事(共同配信)を掲載しました。

「ウクライナ政府は25日までに、ツイッターの公式アカウントに昭和天皇とナチス・ドイツの指導者ヒトラーらの顔写真を並べた動画を投降していたとして「友好的な日本の人々を怒らせる意図はなかった」と謝罪し、写真を削除した。

 動画は今月1日に投稿され、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン政権を「現代のファシズム」として非難する内容。「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と指摘した画面で、ヒトラーやイタリアの独裁者ムソリーニと昭和天皇の顔写真を並べていた。

 日本国内のツイッターユーザーなどから批判が集まり、在日ウクライナ大使館のアカウントに抗議が殺到。コルスンスキー駐日大使は25日、自らのツイッターで「制作者の歴史認識不足。深くおわび申し上げます」と表明した。

 磯崎仁彦官房副長官は25日の記者会見で「不適切で極めて遺憾だ」と述べ、削除を要請していたことを明らかにした」(4月26日付沖縄タイムス)

 この記事が報じる経過・内容には黙過できないいくつもの問題があります。

 第1に、日本政府とウクライナ政府が共同した重大な歴史の改ざんだということです。

 「ファシズム」は様々に定義されていますが、一般的には市民の自由・権利を圧殺した「独裁体制」であり、ウクライナ政府のアカウントは、「1945年に敗北した」独裁体制を示したものです。天皇の絶対的権力を明記した大日本帝国憲法の下、さらに治安維持法など様々な弾圧法で補強し、思想信条・言論の自由を徹底的に封殺した戦前の日本が独裁体制であり、その頂点に天皇裕仁が君臨していたことは歴史的事実です。その帝国日本が日独防共協定(1936)、日独伊3国同盟(1940)でファシズム陣営の一つであったことも明白な事実です。

 ウクライナ政府のアカウントが当初、ヒトラー、ムソリーニと天皇裕仁の写真を並べて掲載したのは歴史的事実に沿った正当なものです。それを「不適切」として裕仁の写真だけを削除したことこそ不適切であり、歴史の改ざんと言わねばなりません。

 第2に、磯崎官房副長官は日本政府(岸田政権)が「削除を要請していた」ことを、問題発覚後の25日の会見で吐露しました。岸田政権は重大な歴史的事実に関する外交問題で、水面下で他国政府に圧力をかけていたわけで、まさに不適切です。

 第3に、「日本国内…から批判が集まり…抗議が殺到」したことです。それがどの程度で、どういう内容だったのか不明ですが(ネット右翼の組織的行為が推測されます)、現代史の最も基本的な事実を否定する言説がはびこり政治的圧力をかけていることは見過ごせません。

 第4に、ウクライナ政府は、「制作者の歴史認識不足」だとして削除・謝罪しました。これが本心だとすれば、それはウクライナ政府(ゼレンスキー政権)の歴史認識、とりわけファシズム・独裁体制に対する認識の不十分さ、誤りを示すものです。

 第5に、「制作者の歴史認識不足」というのはおそらく方便で、実際は、ロシアとの戦闘に軍事的(防弾チョッキなど)・経済的支援を受けている日本政府の申し入れには逆らえないということではないでしょうか。だとすれば、それはロシアとの戦争のためなら歴史的重大事実も改ざんしてはばからない、というウクライナ政府の国家戦略を表したことになります。

 第6に、ウクライナ政府やアメリカなどNATO(北大西洋条約機構)諸国は、ロシアに対して「国連憲章違反」だと批判していますが、「主権尊重」や「武力不行使」の国連憲章の原則が、第2次世界大戦の「対ファシズム戦」の教訓から制定されたことは言うまでもありません。天皇裕仁をファシズム陣営から削除した歴史の改ざんは、この国連憲章に明記された第2次世界大戦の教訓を踏みにじるものと言わねばなりません。

 今回の問題は、日本、ウクライナ両政府が、「国家利益」のためなら歴史の改ざんも意に介さないことを露呈したものと言えるのではないでしょうか。


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安倍政治に繋がる「A級戦犯容疑者釈放」の不条理

2021年12月16日 | 日本の近現代史

    
 帝国日本軍の命令で捕虜収容所の任務につき、敗戦後「BC級戦犯」に問われた人々。多くが釈放の嘆願書を出した中で、自ら刑に服する「BC級戦犯」がいたことを、「クローズアップ現代+」(8日)が報じました。

 番組が調べた「BC級戦犯」370人のうち20人がそうだったといいます。主な理由は、東京裁判への批判や、700人以上の捕虜を虐殺した「サンパウロ事件」(1945年2月24日)など自らの罪への自責の念でした。
 こうした事実を初めて知り、戦争責任というものを改めて考えさせられました。

 同時に、たいへん注目される事実がありました。
 敗戦直後、3カ月で1500万筆の署名が集まったという「戦犯釈放要求」の署名運動(写真左)。「市民運動」とされていましたが、実は裏で糸を引いていたのは、政府・厚生省だった、というのです。

 戦犯(容疑)の釈放には、「冷戦」に対するGHQと日本政府の政治的思惑が絡んでいました。その端的な表れが、「A級戦犯容疑者」の釈放です。

岸信介元商工大臣…などA級戦犯容疑者は、1948年12月24日に、早々と釈放されていた。A級戦犯7人の絞首刑が執行された翌日である。…これらの政治家には、侵略戦争を指導した責任があるはずだが、なぜか、戦犯の釈放は、戦争指導者から行われている。抗命権のない日本の軍隊で、命令の実行者として戦犯に問われた人々(BC級戦犯―引用者)が、こうした釈放のあり方に激しい憤怒覚えたのも、けだし当然であろう。その上、レッド・パージが始まり、警察予備隊(自衛隊の前身―引用者)が発足すると、戦争指導者、協力者への追放解除が次々と発表された」(内海愛子著『朝鮮人BC級戦犯の記録』岩波現代文庫2015年)

 釈放された岸信介は、9年後の1957年2月、なんと首相に就任。以後、立川基地拡張(砂川事件、57年6月)、教員勤務評定(同9月)、米・英と原子力協定(58年6月)警職法改悪(同11月)、三池争議(59年8月)、対米貿易自由化(同11月)、そして、新安保条約単独強行採決(60年5月19日)と、在任わずか3年5カ月で、戦後の悪政を次々強行したのです。

 日本国憲法を敵視し、改憲を目指したのも岸の特徴でした。自身、こう書いています。
「占領初期の基本方針は…日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。…その集大成が、今の日本国憲法である」(『岸信介回顧録』、中村政則著『戦後史』岩波新書2005年より)

「こうした見解の持ち主(東条内閣の商工大臣)が実は、巣鴨プリズンから釈放されたあと、わずか9年にして日本権力のトップ(首相)にのし上がったのである。ナチズムを生んだドイツでは、戦後に旧ナチの幹部が政界上層部に復帰することは決して起こりえないことであった」(中村政則一橋大名誉教授、前掲書)

 A級戦犯容疑者・岸信介が強行した日米安保条約(軍事同盟)の強化(写真中)、目指した日本国憲法改悪は、その孫・安倍晋三に受け継がれ、実行されようとしています。

 天皇裕仁を頂点とする侵略戦争・植民地支配の責任をあいまいにし、さらに岸を筆頭にした「戦犯政治」を容認してきた到達点がここにあります。「日本の戦後」はまだ終わっていません。


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安倍晋三と伊藤博文

2018年01月02日 | 日本の近現代史

     

 「本年は、明治維新から、150年の節目の年です」

 安倍晋三首相の「年頭所感」はこの言葉から始まりました。中身は「アベノミクス」礼賛、「一億総活躍」のスローガンなど、目新しいものはありません。
 しかし、気になることがあります。わずか1200字余の「所感」の中で、「日本人」という言葉が5回も使われているのです。そのほかに「国民」が4回、「国難」が2回、そして「新たな国創り」が3回です。

 安倍氏の「国創り」の念頭には「日本人」しかなく、約50万人にのぼる在日朝鮮・韓国人をはじめとする日本在住の外国人、さらに東アジア諸国はじめ外国との友好・協力の視点は皆無です。

 経済産業省は昨年3月、「世界が驚くニッポン!」という冊子を発行して「ニッポン礼賛」をふりまき、それこそ世界を驚かせました。安倍氏の「年頭所感」がその延長線上にあることは明白です。

 見過ごせないのは、その「ニッポン礼賛」・偏狭ナショナリズムが、「明治維新150年」の「明治礼賛」と結合していることです。

 「安倍年頭所感」は、「明治維新」は「国難とも呼ぶべき危機を克服するため」だった、「今また日本は…国難とも呼ぶべき危機に直面」している、「すべては私たち日本人の志と熱意にかかっている」、「150年前の先人たちと同じように…行動を起こすことができるかどうかにかかっている」という筋立てです。

 こうした「明治礼賛」は安倍氏だけでなくメディアにも蔓延していると昨日のブログで書きましたが、もう1つ、典型的な例をあげます。
 東京新聞の社説(1日付)は、「明治150年と民主主義」と題し、「明治維新はさまざまなものをもたらしましたが、その最大のものの一つは民主主義ではなかったか」とし、「主役は伊藤博文。初代内閣総理大臣、枢密院議長として明治憲法起草…足軽出身…民衆の知恵も力も知っていた」と、伊藤を〝庶民宰相”、「民主主義」の実現者であったかのように美化しています。

 とんでもない歴史の隠ぺい・改ざんです。伊藤には(東京新聞が触れない)重大な経歴があります。「初代韓国統監」(1906年就任)です。
 絶対主義天皇制の明治政府は1904年、朝鮮半島侵略のため出兵し、日露戦争の結果、朝鮮支配をねらって朝鮮政府に条約を突きつけました(第二次日韓協約)。その条約の中心が「統監府」の設置でした。

 「日本が準備した保護条約案の内容は、朝鮮の外交権を日本が奪取して欧米との直接接触をたち、従来の内政干渉を確認するとともに、『顧問』等を統括する日本の機関として『統監府』を新設し、その長である『統監』は朝鮮皇帝への『拝謁権(皇帝に直接会って要求をつきつける権利)』をもつというものであった。この保護国・間接統治体制は…実質的には植民地支配とかわりがない」(梶村秀樹著『朝鮮史』講談社現代新書)

 武力(軍隊)を背景に、朝鮮侵略・植民地支配の先頭に立ったのが伊藤でした。

 「この条約交渉の特命全権大使は、元老伊藤博文が自らかってでた。…伊藤は、駐屯日本軍に王宮を包囲させたうえで、直接朝鮮政府の閣議の席にのりこみ、大臣ひとりひとりに脅迫的に賛否を答えさせ、自分でかってに賛成多数と決めて、その状態のまま属官に『国璽(国の正式の印章)』を取ってこさせ、その晩のうちに『調印』させてしまった。…このような『調印』の経緯のため、『保護条約』は国際法上無効であり、したがって、それを根拠として進められた一九四五年までの植民地統治は、全期間を通じて不法占拠状態とみなすべきだという立論が可能になるのである」(前掲『朝鮮史』)

 朝鮮を侵略する思想と政策は明治維新当時からありました。「征韓論」です(その急先鋒が西郷隆盛であり、NHKの今年の大河ドラマの主人公がその西郷です=写真右)。

 「明治のはじめから『征韓論』という朝鮮侵略をめざす主張が日本にはあり、実際に朝鮮を征服するための政策が日本政府の手で一貫して実行されつづけました。朝鮮を『開国』させるきっかけをつくった江華島事件(1875年)からはじまり、日清戦争、日露戦争をへて、ついに日本は、朝鮮を滅ぼして、丸ごと自分の国の領土に組み入れてしまったのです。…日本は朝鮮の犠牲の上で強国の仲間入りをしたということができるのです。…『満州事変』から敗戦までずるずると長びいた戦争は、実は日本の朝鮮支配の問題と根っこのところで分かちがたく結びついていたのです。…日本の近現代史を筋道だてて理解するには、日本の朝鮮侵略の問題を抜きにしては考えられないのではないか、私はそう考えています」(中塚明著『日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研)

 安倍晋三氏と伊藤博文の共通点は少なくありません。同じ山口県の出身であり、吉田松陰の信奉者です。そして安倍氏はいま、アメリカとともに、朝鮮に対する敵視・圧力を強めています。
 伊藤博文が先導した朝鮮侵略、朝鮮を犠牲にした「日本の大国化」という暗黒の歴史を、安倍氏に繰り返させてはなりません。

 

 

 

 

 


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ETV特集「関東大震災と朝鮮人」が示したもの

2016年09月06日 | 日本の近現代史

    

 3日夜に放送されたETV特集「関東大震災と朝鮮人ー悲劇はなぜ起きたのか」は、93年前の過去のこととして忘れ去られよう(忘れさせよう)としている歴史を掘り起こした貴重な番組でした。

 当時の法務省資料には、231人の朝鮮人が「自警団」などによって殺害されたという記録があります。この数字は刑事事件として立件されたものだけで、文字通り氷山の一角です。

 日本政府はこの資料に基づき、2009年の中央防災会議報告書で、朝鮮人、および巻き添えになった中国人、日本人(主に地方出身者)の虐殺(報告書では「殺傷事件」)を初めて公式に認めました。
 その中で、虐殺の直接の原因になった「流言飛語」の実態を示しました。注目された点を挙げます。

〇流言飛語の約8割は朝鮮人に関するもので、「3000人の朝鮮人と交戦中」などのデマが流された。

〇自警団は「ぱぴぷぺぽ」と言わせたり、「歴代天皇の名前を言え」と詰問し、日本人でないと勝手に判断した者を惨殺した。(言語や皇民教育による識別・差別)

〇「唯一の情報源」である新聞がデマ記事で恐怖心をあおった。(写真右など)

〇「流言飛語」の背景には、朝鮮併合(1910年)、「3・1独立運動」(1919年)があり、「朝鮮人は怖い」という印象がばらまかれた。

〇政府(内務省警保局)は震災前から、各地の自警団に「不逞鮮人」を取り締まるよう通達を出していた。

〇警視庁は9月3日に震災時の噂は虚報だと知り、「大部分の朝鮮人は善良」とする通達を出したが、虐殺は9月6日まで続いた。

〇殺された遺体は朝鮮人と分からないようにするため、焼いて骨を砕いて田んぼにまかれた。

〇藤野裕子東京女子大准教授の調査によると、自警団員として朝鮮人を殺害した日本人には、土木工夫、井戸掘り、日雇いなど収入の不安定な者が多かった。

 以上のことから確認できるのは、①虐殺の直接の原因となった「流言飛語」は、けっして突発的に起こったものではなく、朝鮮人に対する日常的な差別政策が、内務省から末端の自警団に対する指示として貫徹されていた②その背景に朝鮮に対する植民地政策があった③植民地政策の結果日本に流入した朝鮮人と日本の不安定労働者との間で日頃から軋轢がつくられていたーなどです。

 こうした歴史は、現代の私たちに何を教えているでしょうか。

 特定の人びと(マイノリティ)に対する誹謗中傷・差別はネットやヘイトスピーチなどによって今日、日常的に流布している大きな問題です。

 同時に重大なのは、国家権力とメディアによる今日的な「流言飛語」の存在です。

 「ミサイル」や「領海侵犯」はじめ、北朝鮮や中国をめぐる報道ははたして公正でしょうか。日本政府(その背後のアメリカ政府)の見方・言い分をそのまま流すメディアの「報道」を唯一絶対と信じ込まされていないでしょうか。一方的な見方で「脅威」をあおるのは「流言飛語」ではないのでしょうか。93年前の「流言飛語」の背景が朝鮮に対する植民地主義なら、今日の「流言飛語」のそれは中国・北朝鮮を敵視するアメリカのアジア戦略と日米軍事同盟ではないでしょうか。

 正確な情報と冷静な判断。なによりも国家権力とメディアに操作されない自主的自立的な思考。それこそが、苦い歴史の教訓からくみ取らねばならないものだと思います。
 


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