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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「終戦・安倍首相談話」の固定化は許されない

2025年08月15日 | 戦争の被害と加害
  敗戦から10年の区切りで政府は「首相談話」(閣議決定)を出してきましたが、今年、石破茂首相はこれを見送りました。自民党政権が出す「首相談話」に期待するものはありませんが、今回の見送りは黙過できません。なぜなら、それは10年前の「安倍晋三談話」(2015年8月14日)の固定化を図るものだからです。

「(自民)党内では保守派を中心に、安倍氏による2015年の首相談話で「謝罪外交」に区切りが付いているとの考えが根強い。安倍氏に近かった西村康稔元経済産業相も「安倍元首相がまとめたもの以上の談話は不要。無用な混乱を招く」と訴える」(4日付京都新聞=共同)

 「安倍談話」とは何だったか。

 最大の特徴は、「村山富市首相談話」(1995年8月15日)が「わが国は…植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。…痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」としたのを翻し、「植民地支配」「侵略」に一切ふれず、アジア諸国への「お詫び」の言葉も一掃したことです。

 そうして、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」と、戦争の加害責任にほうかむりをし続ける姿勢を明確にしました。この姿勢は同年12月の「日本軍慰安婦」(戦時性奴隷)についての「日韓合意」(写真)にも引き継がれました。

「安倍談話では、朝鮮侵略と植民地支配が言及されず、過去責任の反省と謝罪が完全に抜けてしまった。これを契機に、日本政府は過去責任を認めることさえも公然と拒否し始めたばかりか、朝鮮民主主義人民共和国への「制裁」措置の一環として、「高校無償化」制度、「幼保無償化」制度などで、朝鮮学校の排除が進められた。こうした「上」からの排除が、民間のヘイトも助長することになった」(康成銀<カン・ソンウン>朝鮮大学校朝鮮問題研究センター研究顧問「新たに植民地支配と継続する植民地主義の責任を問う」、「人権と生活」2025年夏号所収)

 「安倍談話」を日本政府の「終戦談話」として固定化することは、日本が侵略戦争・植民地支配の加害責任に背を向け続けることを宣言することにほかならず、絶対に容認することはできません。

 「村山談話」も、日米関係の評価はじめ、決して完全なものではありません。侵略戦争・植民地支配の反省に言及したのも「中国、韓国などアジア諸国が国際社会で存在感を増したことで、政府も関係安定化を考え、立場を表明せざるを得なくなったためだ。国内で議論を積み重ねた結果ではなかった」(吉田裕・一橋大名誉教授、14日付京都新聞=共同)という背景がありました。

 吉田裕氏は強調します。

「(アジア・太平洋)戦争の原因を検証し、総括しないままでは戦後は終わらない。…日本が受けた被害と、他国への加害の関係はまだ十分に解明されていない。被害と加害は二項対立ではなく、入り組んで重層的になっている。…体験者から聞ける時代が終わろうとしている今、継承と検証を急ぐ必要がある」(同上)

 日本に必要なのは、「首相談話」ではなく、市民一人ひとりがアジア・太平洋(15年)戦争の歴史に向き合い、過去責任とりわけ加害の歴史を検証し、対話・討論を積み重ね、今・今後に生かすことです。


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戦争トラウマ・南京と沖縄に通底するもの

2025年08月05日 | 戦争の被害と加害
  

 「戦争PTSDを考える講演会・シンポジウム」(「南京・沖縄をむすぶ会」「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」共催)が3日那覇市内でありました。日本兵として従軍した祖父や父の戦争トラウマがいかに子や孫に影響を及ぼしたかを体験者が語り合いました(写真左=琉球新報より)。

 その中で、沖本裕司さん(「南京・沖縄をむすぶ会」事務局長、1946年大阪市生まれ、70年沖縄に移住)は、「南京と沖縄は戦場となったことによる被害とその後のトラウマで共通する」と強調しました(4日付沖縄タイムス=写真中)。

 シンポに先立ち、沖本さんは沖縄タイムス(7月30日付)への寄稿で、昨年と一昨年に南京を訪れ、幸存者(生存者)2世から直接聴いた日本による南京大虐殺のトラウマを紹介しています。一部を抜粋します。

<幸存者2世・曹玉莉(ツァオユーリー)さんの母親は(1937年の大虐殺)当時6歳の少女。揚子江の葦原に隠れた。ちょっとでも声や音がしたら、日本兵は銃で撃ち、近いところなら銃剣で刺した。家は放火され、食べ物はなくなっていた。近所の男たちの死体が腐っていた。

 曹さんは語る。「以来、母は『日本』の二文字を聞くとカッとなる。毎日イライラして、精神状態が不安定。傷を受けたのは体の一部だが、終生、心の傷を背負ったままの人生ではなかったか。いつも口癖のように、『日本に行って南京の不幸な歴史を多くの日本人に語りたい、知ってもらいたい』と言っていた」>
(写真右は沖本さんが撮影した「南京大虐殺記念館」に展示されている像。泣き叫ぶ子ども、日本軍に銃剣で刺された母、母にしがみつく赤ん坊=沖本さんの寄稿より)

 そして沖本さんは次の文章で締めくくっています。

<戦場の暴力がトラウマを生む。戦場から離れたところで作戦を立案・実行する戦争指導者たちにとってトラウマは無縁である。だから、彼らはまた戦争をしようとする。
 戦争の暴力が生むトラウマについて、認識を広め、反戦・非戦・不戦が当たり前の社会をつくりあげなければならない。>

 戦争トラウマについては、これまで十分注目されてきたとはいえないでしょう。しかしそれは、戦争自体の悲劇を示すだけでなく、被害者には生涯続く恐怖、加害者(元日本兵)には精神の破壊、家庭内暴力、不和、不就労などをもたらし、子や孫の人生にも大きな傷をつけるものです。いわば戦争の本質を浮き彫りにするものといえるでしょう。

 だから戦争トラウマを知らない戦争指導者(国家権力者)とその子孫は、また戦争をしようとする。安倍晋三、麻生太郎両元首相がまさにそうです。

 沖本さんが指摘する通り、戦争トラウマの真実を知ることは、「反戦・非戦・不戦が当たり前の社会をつくりあげる」ための大きな力になるでしょう。


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「火垂るの墓」7年ぶりの放送と高畑勲の警鐘

2025年07月30日 | 戦争の被害と加害
  

 名作アニメ「火垂るの墓」(1988年公開、原作・野坂昭如、監督・脚本・高畑勲、スタジオジブリ制作)が8月15日、7年ぶりに地上波(日本テレビ)で放送されます。

 他のジブリ作品が頻繁に再放送されているのと違って「火垂るの墓」が7年間放送されなかったのはなぜか。諸説あるようですが、朝日新聞は「戦争作品をめぐる時代の変化による影響を指摘する声もある」とし、松谷創一郎氏(ジャーナリスト)の指摘を紹介しています。

「火垂るの墓が不朽の名作であることには間違いないが、子どもたちがつらくなって途中で見るのをやめてしまったら意味がない」「近年は『この世界の片隅に』のようにソフトな描写の作品の方が好まれているようだ」(5月26日付朝日新聞デジタル)

 確かに、「火垂るの墓」は観る者の胸を鋭くえぐります(余談ですが、これまで見た映画で最も涙が流れたのは劇場で観たこの映画でした)。しかし、戦争はけっして「ソフト」なものではありません。「火垂るの墓」の悲劇から目を逸らすことはできません。それは子どもも同じです。

 同時に今、高畑勲(1935~2018)(写真右)自身が、「「火垂るの墓」は戦争を止める役には立たないのでは」と語っていたことを想起する必要があります。

 高畑が亡くなった年に、絵本作家の浜田桂子さんがこう述べていました。

「3年ほど前に高畑勲さんがあるインタビューで、『火垂るの墓』は戦争を止める役には立たないのではとおっしゃっていて、「ああ、これだ!」と思いました。為政者はそういう目に遭わないために戦争をすると言うに決まっていると。私は、加害の認識を持つことが、戦争を嫌う気持ちを育てるのではないかと感じています」(生協パルシステム情報メディア「KOKOKARA」2018年8月6日付)

 いくら戦争の悲惨さを描いても、為政者(国家権力)はそれを逆手に取って戦争の口実にする。被害の強調だけでは戦争はなくならない。加害の認識を持ってこそ戦争をほんとうに嫌う気持ちが育つ―浜田さんは高畑の言葉の真意をそう捉え、深く共感したのでした。

 高畑が自らの作品を冷徹に評価して放ったこの警鐘は、敗戦から80年の日本の「反戦平和」の状況を鋭く照射しているのではないでしょうか。

 そしてしかも、「火垂るの墓」の視聴率が下がり(2001年の21・5%をピークに2010年代は6~9%台=朝日新聞デジタル)、松谷氏が指摘するような状況が広がっているとすれば、日本人の多くは戦争の加害どころか被害さえも直視しようとしなくなっている、と言えるのではないでしょうか。

 日本が植民地支配した韓国のハンギョレ新聞の特派員は、今月15日にネットフリックスで「火垂るの墓」を観た感想をこう記しています。

「十数年前に本作を初めて見た時と同様、今回も胸がとても痛み、一場面一場面をまともに見ることができなかった。一方で本作は、軍国主義の郷愁を刺激する近ごろの日本の政界の雰囲気を思い出させた。…排外主義を前面に押し出した参政党の支持率の高まりに、他の保守政党だけでなく政府までもが外国人規制を強化する組織を作った」(25日付ハンギョレ新聞日本語電子版)

 「火垂るの墓」を観た日本人は、その感動を日本の戦争国家化への危機感に繋げることができるでしょうか。そしてさらに、清太・節子兄妹に対して流した涙を、侵略戦争・植民地支配の加害責任に繋げることができるでしょうか。

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映画「黒川の女たち」の感動と疑問

2025年07月19日 | 戦争の被害と加害
  

 ドキュメント映画「黒川の女たち」(松原文枝監督)が18日、京都でも封切られました。公開前からメディアに取り上げられた注目の作品です。

 国策の満蒙開拓団に村ごと応じた黒川開拓団(岐阜県)は、敗戦によって満州(現在の吉林省・陶頼昭)に取り残された。開拓団を守るべき関東軍はさっさと敗走した。隣の開拓団は集団自決した。開拓団幹部(もちろん全員男性)はソ連軍に防衛を依頼することにした。ソ連軍は条件付きで承諾した。条件とは、若い娘を差し出すこと。開拓団幹部は、「接待係」として18歳以上の未婚女性15人を差し出した。繰り返される連日の性暴力―。

 1982年に黒川村に「乙女の碑」が建てられたが、何があったのかは記されなかった。長い間封印されてきた戦慄の事実は、2013年に被害者の安江善子さん(写真右=NHK・ETV特集より)と佐藤ハルエさん(写真中=同)が講演で証言したことにより初めて明るみになった。そして18年、「乙女の碑」の隣に経緯を記した碑文が建てられた―。

 映画はその経過を、佐藤さんら被害女性や開拓団関係者の証言でたどったものです。松原監督はテレビ朝日の「ニュースステーション」「報道ステーション」を担当していたジャーナリスト。

 私はこの事実を2017年8月5日放送のETV特集で初めて知り、驚愕しました(17年8月7日のブログ参照 https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20170807)。

 映画で最も胸を打ったのは、佐藤さんら被害女性が、「あったこと(性暴力被害)は、なかったことにはしない」と実名で顔を出して訴える勇気と、その崇高な姿です。

 被害者の1人、安江玲子さんの「なんで男はもっとしっかりせんかった」「なんで今、軍事費をこんなに増やすんや」「憲法9条を守ってほしい」「選挙では女性に投票する」という言葉はとても力強いものでした。

 亡くなった安江善子さんの長男は、「黒川は日本の縮図。戦争の総括を誰もしない、誰も反省していない。日本社会も同じだ」と訴えました。亡くなった母の代弁に聞こえました。

 佐藤さんや安江玲子さんが、孫やひ孫たちに囲まれ愛され、孫たちは祖母の苦難の歴史を継承しようとしていることが描き出されました。なによりの救いでした。

 映画は大きな感動を与えてくれましたが、しかしどうしても引っかかっていることがあります。

 問題の根本は国策として推進された満蒙開拓(開拓という名の侵略)で、それは冒頭に映像で説明されましたが、決して十分とはいえません。ただそれはこの映画の主題ではないので、ここでは問いません。

 問題なのは、ソ連軍の申し出を受け入れて女性たちを差し出した黒川開拓団の幹部たち(のちの遺族会)の加害責任の追及が極めて不十分なことです。

 幹部たちの責任は満州で女性たちを犠牲にしただけではありません。帰国後、彼らは女性らに謝罪するどころか、逆に誹謗中傷したのです。安江善子さんがことの経過を書いて投稿した文章を、無断で削除さえしました。善子さんは、「帰国してからの方が辛かった」と言っていました。

 開拓団幹部らには何重もの加害責任があります。それは男が牛耳るムラ組織を象徴するものであり、「戦争」だけに還元できるものではありません。

 その加害経過の究明、責任の徹底追及がなければ、「歴史が今と地続きだということを知ってほしい」(松原監督、4日付琉球新報インタビュー=共同配信)という製作の狙いも果たせないのではないでしょうか。

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父・祖父の戦争体験をどう継承するか

2025年07月12日 | 戦争の被害と加害
   

 沖縄第32軍・牛島満司令官の「辞世の句」が大本営によって書き換えられていたことが明らかになったとき(6月24日のブログ参照)、孫の牛島貞満さん(71)はこう述べました。

「書き換えられたかどうかは私には判断できない。けれど、多くの県民や日本軍兵士の命を犠牲にした責任は変わらない」「曖昧な記憶で大本営や司令官の責任が問われなくなることがないよう、沖縄戦の本当の姿を考え続けることがより大切になる」(6月22日付沖縄タイムス、写真左)

 沖縄戦にはもう1人、司令官がいました。海軍沖縄方面根拠地隊の大田実司令官です。1945年6月13日に自決する直前(6月6日)、海軍次官に「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ワランコトヲ」と打電したことで有名です(写真中は豊見城市の海軍司令部壕資料館に展示されている大田司令官の写真と電文=琉球新報より)。

 この電文によって大田司令官は称賛され、日本軍が沖縄県民に配慮したものと解釈されることが多く、石破首相らも演説で引用するほどです。

 しかし、孫の大田聡さん(64)の受け止めは違います。

「聡さんは…「当時の日本軍は住民を戦場に動員し、大きな負担を課した。そこには陸軍も海軍も違いはない。祖父は称賛の対象とならなくて良いのではないか」と話す」(6月12日付琉球新報)

 この考えは、父・英雄さん(大田司令官の長男、故人)を引き継ぐものです。

「英雄さんは「豊見城村史 戦争編」で、「土地を接収したり、食料や人員を徴発したり、県民に多大な負担を押し付け、かつ戦いに巻き込んだ」「軍の最高の地位にある人間として、その責めを免れることはできない」と父の責任に向き合った。
 その上で、電文について、「個人讃美の解釈ではなく、ましてや沖縄における自衛隊への風当たりを和らげる手段として、政治目的に利用するような解釈は、絶対にしてほしくない」と求めた」(6月12日付琉球新報)

 牛島貞満さん、大田英雄さん、聡さんに共通しているのは、実の父、祖父の戦争責任に対し、私情を超えて客観的に真摯に向き合っていることです。その根底には沖縄戦の史実についての科学的な学習があります。

 一方、先の戦争に最も重い責任がある男の長男と孫は、父・祖父の戦争責任に向き合うどころか、一片の謝罪の言葉もなく、「慰霊の旅」と称して沖縄を訪れ、「沖縄における自衛隊への風当たりを和らげる手段として、政治目的に利用」されています。言うまでもなく、天皇明仁と天皇徳仁です。

 戦争の直接体験者が高齢化し、数も少なくなる中、戦争の歴史の継承が課題になっています。まず問われるべきは、父・祖父の戦争体験に、子・孫としてどう向き合うかではないでしょうか。それは戦争の被害・加害、戦争責任の大小に拘わりません。

 私の祖父はもちろん父もすでに他界しています。父は広島・大久野島の陸軍工場で毒ガス製造の一端を担っていました。もっと話を聴いておくべきだったと今さらながら悔やまれます。
 私は父・祖父が戦った戦争について、子や孫に何を語り、何を引き継ぐことができるだろうか―残された時間の大きな宿題です。

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日米政府が隠ぺいしてきた戦後史の闇「占領軍人身被害」

2024年08月24日 | 戦争の被害と加害
   

 1945年8月24日、日本で強制労働させられていた朝鮮人3725人、乗員の海軍軍人255人を乗せ、青森・大湊を出て釜山へ向かっていた運送船「浮島丸」が、京都府舞鶴沖で爆発音とともに真っ二つに折れて沈没。朝鮮人524人、海軍軍人25人、計549人(政府発表)が死亡しました。「浮島丸事件」です。

 沈没の原因、正確な犠牲者数もいまだに不明。死亡した朝鮮人への謝罪・補償はまったく行われていないばかりか、日本政府は事件の真相を調査しようとすらしていません(2019年10月1日のブログ参照)。

 「浮島丸事件」の究明は重要な今日的課題ですが、ここでは同事件も含めた「占領軍人身被害」について考えます。

 占領軍人身被害。その概念も実態も、藤目ゆき・大阪大教授の『占領軍被害の研究』(六花出版2021年)を読むまで知りませんでした。以下、同書から。

 敗戦からサンフランシスコ講和条約発効(52年4月28日)までの約6年8カ月。「この連合国対日占領期の日本本土において、占領軍に起因する事件や事故によって旧植民地出身者を含む日本在住の民間人が死傷する事案が無数に発生している」。これが占領軍人身被害です。

「占領軍人身被害は、日本国が始めた戦争と連合国対日占領の結果、多数の民間人が体験した戦禍であり、戦後日本の出発点に起きた重大な歴史事象である。ところが、国民は一般に占領軍人身被害という事象についてほとんど知らされておらず、学術的な研究の蓄積もほとんどない。いったいどうしてなのだろうか」

 日本政府もGHQもその実態を明らかにせず、日本が「見舞金」を出すことでフタをしてきました。藤目氏が「見舞金」を出した「全国調達庁」の資料を分析したところ、61年7月の時点で把握されていた被害者は9352人。内訳は「死亡」3903人、「障害」2103人、「療養」3346人。「しかしこの数字は氷山の一角にすぎない」

 占領軍人身被害はどこでどうして起こったのか。同書の目次を抜粋すればこうです。
 ▶日本軍武器弾薬処理に伴う人身被害▶占領軍労務動員と労働災害死傷▶(占領軍の)暴行・傷害・殺人(危険運転を含む)▶軍事演習被害(開拓農民の占領軍被害を含む)▶朝鮮戦争被害

 藤目氏が強調しているのが、「在日朝鮮人の占領軍人身被害―不可視化される被害」です。

「日本による植民地支配を背景に朝鮮半島から渡日した人々は、日本が降伏した時点で200万人以上であった。…(日本の敗戦で)朝鮮人は…祖国帰還を熱望した。が、帰還支援の不在(などで)…日本に残留せざるを得なかった人は多い。…結局占領終結時点で60万人以上の朝鮮人が日本にいた。このような朝鮮人老若男女が受けた占領軍人身被害はかなりの数にのぼったと推察できる

 藤目氏は「あとがき」でこう書いています。

「占領期は戦争と軍国主義からの解放と民主化という明るい側面がしきりに強調され、日本占領こそ輝かしい「占領の成功モデル」だという言説が巷では今も流布している。「8・15終戦」史観「暗い軍国主義と戦争の時代から、明るい平和・民主主義・繁栄の時代へ」といった戦後観がとくに意識しないでも空気のように呼吸されているこの日本という国で、占領軍人身被害はまるで存在しなかったかのように忘れられている。
 だが占領期は、連合国占領軍が絶大な権力を行使し、その事故や犯罪のために市民が殺傷されてすら闇に葬られてしまう恐ろしい時代でもあった。この時代を支配していた恐怖、隠されてきた人びとの被害の経験を多くの人に伝えたいと念じ本書を執筆した」

 GHQ・アメリカ政府と日本政府が結託して隠ぺいしてきた占領軍人身被害。それによって美化されてきた戦後観。それはそのまま今日に引き継がれ、政治・社会の根幹にある日米軍事同盟(安保条約)の幻想・美化につながっているのではないでしょうか。

 占領軍人身被害の実態を究明し、日米両政府の責任を明確にし、被害者への補償を行うことは、戦後史の闇を切り開くと同時に、これからの日本の進路を考える上できわめて重要な今日的課題です。

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「父の戦争トラウマは自分の問題」黒井秋夫氏を覚醒させたもの

2024年08月14日 | 戦争の被害と加害
 


 「PTSDの日本兵家族の会・寄り添う市民の会」代表の黒井秋夫さん(76)のインタビューが13日未明のNHKラジオ深夜便「シリーズ・戦争平和インタビュー」でありました。
 黒井さんについては、7月28日のブログでも書きましたが、インタビューを聴いていっそう考えさせられました。

 黒井さんの父親は1932年に20歳で召集され中国へ。主な任務は満州鉄道の防衛。いったん除隊するも41年に再び召集され最前線へ。捕虜となり、帰国したのは46年6月でした。

 しゃべらない、笑わない、無気力。病院へ行くのも妻(黒井さんの母)の付添いなしには行けない。父親は黒井さんにとってただ「ダメな人間」「絶対こういう男にはならない」という「反面教師」でしかありませんでした。77歳で他界した時も「一粒の涙も流していません」。

 そんな黒井さんの転機になったのは、2015年、67歳の時に3カ月間乗船した「ピース・ボート」。そこで元アメリカ海兵隊員、アレン・ネルソンさん(1947~2009年)のDVDを観たことでした。

 従軍したベトナム戦争で多くの民間人を殺し、人間性を完全に失っていた。そんな中、戦場でベトナム女性の出産に立ち会うことになり、赤ちゃんのぬくもりで人間性を取り戻した。

「ネルソンさんの悲しく苦しそうな顔が、親父の顔と重なりました。そして一瞬にして分かりました。戦争が父を変えたのだと」

 3年後の18年、黒井さんは「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」(現在の会の前身)を立ち上げました。その一番の動機は、「父にたいする償いの思い」でした。軽蔑することしかできなかった息子として償い。「あの世でちゃんと父に向き合えるように」

 父親の戦争トラウマを理解することは、「父親を肯定することであると同時に、自分を肯定すること」だと黒井さんは強調します。「父親は愛情がなかったわけではない。自分は愛されなかったわけではない」。戦争トラウマを理解することで「息子としての人生を取り戻した」。

 戦争トラウマで今も病院に通っている元兵士の人たちがいます。そして戦争トラウマによる家族への暴力は子どもに移り、暴力の中で育った子どもは自分の子どもに暴力を振るうようになる。戦争トラウマの苦しみは3代におよぶ。黒井さんは力説します。

「今も戦争が生きている。戦争は終わっていないのです」

 黒井さんたち「PTSDの日本兵家族の会・寄り添う市民の会」の特筆すべき素晴らしさは、父親の戦争トラウマを理解し語り継ぐだけでなく、それを「戦争はしません 白旗を掲げましょう 話し合い和解しましょう」というスローガンに結実させていることです(写真左は「会」のリーフレット)。

 アレン・ネルソンさん(写真右=琉球朝日放送より)は生前、沖縄はじめ日本をたびたび訪れ、講演しました。ある講演でこう述べています。

「日本国憲法第9条の持つ力強さは、いかなる核兵器、いかなる国のいかなる軍隊も及ぶものではありません。…世界平和は、いったいどこから生まれてくるのか? それは、ここに参加された一人ひとりの決意と行動から生まれてくるのです。人間は変わらなければなりません。私たち一人ひとりが変われば、世界は必ず変わっていくのです」(2005年兵庫県での講演、「憲法9条・メッセージ・プロジェクト」ブックレット「そのとき、赤ん坊が私の手の中に―みんな、聞いてくれ、これが軍隊だ!」2006年より)

 黒井さんの人生、そして黒井さんたちの「会」の活動は、ネルソンさんの信念をたしかに継承しています。

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当事者がスケッチ・川柳で描いた「南方抑留」の実態

2023年12月05日 | 戦争の被害と加害
   

 帝国日本の敗戦で、東南アジアに残された兵士うち約10万人が約2年間、現地で強制労働を強いられました。「南方抑留」です。その実態は「シベリア抑留」よりもさらに知られていませんが、当事者が抑留生活の中で描いた貴重なスケッチ画が数多く残されています。

 描いたのは野田明さん(1922~2018年、佐世保市)。そのスケッチ画の展示企画が、元兵士らの川柳、文集とともに、京都市内のおもちゃ映画ミュージアムで行われています(写真左、12月24日まで)。

 2日には同ミュージアムの主催で、この問題の研究を続けている中尾知代・岡山大大学院准教授の講演、野田さんの長男・明廣氏のとの対談が同志社大学で行われました。

 南方抑留者は「捕虜」ではなく「降伏日本兵(JSP)」として国際法(ジュネーブ条約)の適用外とされました。イギリスの支配下に置かれ、現場での監視は現地の人が任されました。

 主に農地の開墾開拓や空港建設などに従事させられ、昼食はおにぎり1個など極度の空腹状態に置かれました。野田さんのスケッチの中には、仲間が大蛇を料理する場面を描いたものもあります(写真中)。マラリアなど熱帯地方特有の病気に苦しんだのも南方抑留の特徴です。

 野田さんが挿絵とともに残した仲間の川柳の中には、「いかんせん 原子発明 おそかりし」というものがあり、広島・長崎への原爆投下の情報が早期に現地にも伝わっていたことをうかがわせます(写真右)。また、「何もかも 軍部に 罪をなすりつけ」と、JSPの複雑な心境を表したものもあります。

 これまで「JSP」という言葉すら知りませんでしたが、貴重な資料や中尾氏、野田さんの話から多くを学びました。ただ、中尾氏も指摘していたように、まだまだ明らかにされていないことは少なくありません。

 例えば、野田明さんがスケッチを描いたのは、上官の命令で、それを日本政府の復員局に送って現地の窮状を訴え「帰還」を促すためでしたが、実際に復員局に送られ届いたのか?届いたとすれば政府はどう受け止めたのか?

 そもそもイギリスはなぜJSPに強制労働をさせたのか?

 特に私が注目したいのは、現地(現在のマレーシアやミャンマーなど)の人々との関係です。日本軍の侵略を受けた現地の人々はJSPをどう受け止めたのか。逆にJSPの人たちはどうだったのか。侵略戦争の加害性についての意識・認識はあったのだろうか―。

 「南方抑留」は「戦争」というものを考える上で、今日的な意味を持っている問題です。引き続き関心を持ち続けたいと思います。

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「ゲン」の中国語翻訳者が語る「社会に返すこと」

2023年08月21日 | 戦争の被害と加害
   

 「はだしのゲン」(中沢啓治作)は24の言語に翻訳されています。中国語に翻訳したのが坂東弘美さん(名古屋市在住、写真左)です。坂東さんはどういう思いで「ゲン」を翻訳したのでしょうか。20日のNHK「こころの時代」がそれを取り上げました(写真は同番組より)。

 坂東さんがとくに心惹かれたのが、ゲンの父親だといいます。坂東さんが訳した10巻の中国語版の第1巻の表紙には、父親の顔が描かれています。

 「ゲン」に感動する人は少なくありませんが、特に父親を挙げたところに、坂東さんの傑出した視点が表れています。
 ゲンの父親は中沢さんの父親に他なりません。「8・6」で被爆死しますが、ゲン(中沢氏)は父親の生前の言葉、生き方を生涯の指針にします。

 父親は戦争に反対し、特高に逮捕され拷問を受けます。しかし、生涯節を曲げませんでした。父親は朝鮮人に対する差別的発言を厳しく叱りました。それらはゲン=中沢氏の人生、物語全体を貫く柱になりました。

 坂東さんがゲンの父親にとりわけ心揺さぶられたのには理由がありました。坂東さんの父親への思いです。
 父親は中国侵略戦争に召集され、上海、南京攻略に加わっていました。
 坂東さんが子どものころ、父親の兵士時代の写真を見つけました。「中国で人を殺したの」と訊くと、沈黙ののち、父親は「殺さなかったら、俺が殺された」と言いました。

 成人してアナウンサーになった坂東さんは、塩瀬信子の詩集「生命ある日」の一節に心奪われました。

「私の夢 それは 私が受けたものを 社会に返すこと 社会のために何らかのことをすること 私という人間が 長い歴史の一瞬間 生きた意味のあるように」

 坂東さんは父親が孫(坂東さんの子ども)に宛てた「回顧録」で、中国人を殺害したことを認めながら、「そういう時代で仕方がなかった」と書いていることを知り、再び父親の加害責任に心を痛めました。

 アナウンサーの仕事に疑問を感じ、職を辞して中国に渡り、日本語教師になりました。そして、父親がたどった上海から南京への道を自ら歩き、幸存者たちから当時のことを聴き取りました。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら。

 そんな坂東さんが想起したのがゲンの父親でした。ゲンの父親と自分の父親。その落差を思ったとき、「はだしのゲン」を翻訳して中国の人々に読んでもらいたいと思いました。父親が戦争を生き延びたから私がいる。そんな自分が「受けたものを社会に返すこと」ができるとすれば、それは「ゲン」を翻訳すること―。

 協力してくれる中国人の仲間を得て、坂東さんは7年かけ2014年に完成。16年に台湾で出版されました(大陸では出版社が見つからず未発行。1日も早い実現が坂東さんの宿願です)。

 父親がなんらかの形で侵略戦争に関わった(関わらされた)子どもは、父親の「加害責任」の前で立ちすくみます。何を、どうしたらいいのだろうと悩みます。でも、なかなか答えは見つかりません。私自身がそうです。

 そんな人たち(私たち)にとって、坂東さんの生き方は素晴らしい指針を与えてくれます。坂東さんの思想、生き方自体が、「はだしのゲン」が持っている普遍的な価値の証明ではないでしょうか。

 素晴らしい番組でしたが、1つ、注文をつけます。それは父親がゲンに教えたことは、「戦争反対」「朝鮮人を差別するな」「麦のように強く生きろ」だけではなかったことです。天皇の戦争責任への厳しい批判は父親の重要な教えの1つです。しかし、番組では「天皇」という言葉は1回も出てきませんでした。

 父親の教えを胸に刻んでいたゲンは、のちに中学の卒業式で「君が代斉唱」が始まろうとするとき立ち上がってこう言います。

「なんで君が代を歌うんじゃ。わしゃ歌わんぞ。君が代の君は天皇のことじゃ。わしゃ天皇はきらいじゃっ。なんできらいな天皇をほめたたえる歌を歌わんといけんのじゃ。天皇は戦争犯罪者じゃ」(第10巻)

 「天皇(制)タブー」を打ち破ること。それもゲン=中沢氏の重要な「遺言」です。


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重慶大爆撃<下>今問いかけるもの

2023年08月19日 | 戦争の被害と加害
   

 映画「苦干」がカラー映像で記録した重慶大爆撃の歴史は、いま何を問いかけているのか。2つあると思います。

 1つは、自民党・岸田政権が閣議決定(2022年12月16日)した「軍拡(安保)3文書」です。

 NPO法人「都市無差別爆撃の原型・重慶大爆撃を語り継ぐ会」の共同代表で軍事ジャーナリストの前田哲男氏は、「いま、なぜ「重慶爆撃」か?」についてこう書いています。

「岸田政権の「安保3文書」によって、「敵基地攻撃」(政府のいう「反撃能力」)が自衛隊の武器使用のありかたとして公認された。日本がふたたび「空爆国家」として復活した、とする見方もできる。

「重慶爆撃」の再現にもつながりかねない攻撃手段=中距離ミサイルの保有と使用が「憲法・国際法の容認するところ」となったのである。日本は「ミサイルによる渡洋爆撃」というべき転轍機を踏んだ

 その意味から「戦争のあるところ重慶爆撃はつねに新しい」ことが、まず想起されなければならない。

 それのみにとどまらない。自衛隊の武器使用基準が、「ポジティブ・リスト」(原則禁止・部分許可)の次元から、「ネガティブ・リスト」(原則許可・一部禁止)へと正反対に変更された

 自衛隊の平時からの構えそのものに「空爆容認・敵基地攻撃・重慶爆撃型」となって武器使用が容認されることになる。「重慶爆撃は昔ばなし」ですまされない」(「語り継ぐ会」編『カラー映画に撮られた重慶大爆撃』2023年6月・抜粋)

 もう1つは、ウクライナ戦争です。

 石島紀之・フェリス女学院大名誉教授はこう指摘します。

重慶大爆撃は日本軍が実施した大規模無差別戦略爆撃であり、中国の人々に多大な被害を与えた戦争犯罪でした。ウクライナ戦争が継続しているいま、ロシアへの非難と同時に、改めて日本が行った重慶大爆撃の歴史的意味、ひいては戦争中に日本がおかした戦争犯罪の歴史的意味について認識し考察する必要があると思います」(「世界」2022年10月号)

 石島氏が強調するのは、日本が犯した戦争犯罪を踏まえた歴史的視点でウクライナ戦争を見ることの大切さです。それは、ウクライナ情勢を偏向なく見ることの重要性に通じます。
 
 伊香俊哉・都留文科大教授(写真右=4日の京都戦争展で)は、前田氏、石島氏との座談会「重慶爆撃から考えるウクライナ戦争」(「世界」2022年10月号)で、ウクライナ戦争の報道についてこう指摘しています。

「ウクライナ侵攻で市民が何人殺害されたという被害状況が即座に報道されますが、例えば、アフガン戦争やイラク戦争の際に、現地市民数名の死をこれほど報道していたかどうか。…ウクライナ側や欧米諸国が伝えるニュースや情報だけが日本で無批判に流されているような感じがします日本やヨーロッパの関心が薄い地域の民衆の死と、ヨーロッパの一部で西側に入ろうとしている国の民衆への目線の違いはないか

 重慶大爆撃の加害の歴史から私たち日本人が今学ぶべきは、日本国憲法の非戦・非武装の原点を再確認し、軍事同盟から離脱し、いかなる陣営にも偏ることなく、戦争を絶対悪として平和を希求する声を上げることではないでしょうか。


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