アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

ハン・ガン氏が語る「ガザ・ウクライナ」・文学・歴史

2024年10月14日 | 日本人の歴史認識
  ノーベル文学賞の受賞が決まった韓国のハン・ガン氏は、『少年が来る』(2016)で「光州事件」(1980)、『別れを告げない』(2021年)では「済州島4・3事件」(1948)という、国家・軍隊による人民への暴力をテーマにしてきました。

 ハン氏作品の翻訳も多い翻訳家の斎藤真理子氏はハン氏の受賞に対しこうコメントしています。

「世界でジェノサイドが止まらない現在において、ハン・ガンさんの文章が読まれる意味を(ノーベル文学賞の)選考委員の人たちが勘案した結果ではないか」(11日付京都新聞=共同)

 今年5月、ハン氏は朝日新聞のインタビューで、「ガザ・ウクライナなど、多くの人々の命が奪われ、分断や格差も深刻なこの世界で、文学や作家にできることは何だと考えますか」との質問に、こう答えています。

<「このように真っ暗な状況の中で希望を見いだすのは、ほとんど不可能と思えるほどきつい想像力を必要とします。しかし人間は生きている限り、想像しないわけにはいきません。希望と文学には共有する点があります。文学ですることもまた、粘り強く想像することです」

 ――歴史と向き合うことにも、希望を見つけるヒントはあるでしょうか。

 「『別れを告げない』の中で、主人公の一人は木工の作業中に指を切断する事故に遭い、縫った傷口を3分ごとに針で刺し血を流す施術を受けます。苦痛と神経の電流と生命が、すべてつながっているのです。歴史的事件と向き合うことは、そんなつながりを持とうとすることかもしれません」

 「歴史的な事件を扱うことは、過去について語る方法を探し出し、現在について語るということです。歴史を見つめて問うことは、人間の本性について問うことでもある。記憶を抱きしめ、生命に向けて進む人間の姿と能力に、私はいつもひかれます」>(5月28日付朝日新聞デジタル)

 「歴史・歴史的事件」に対するこうした姿勢はハン氏だけのものではありません。
 ハン氏をはじめ現代韓国文学をけん引する作家たちについて、斎藤真理子氏はこう論じています。

「韓国の小説の多くが、歴史が負った傷をさまざまな視覚から描いている。または個人の傷に潜む歴史の影を暴いている。それだけ満身創痍の歴史だったともいえるし、韓国の文学者たちがそれを描くことを大事にしているからでもある。そして何より、歴史を見つめるのは現在と未来のためだという感覚を多くの作家が共有している。それは…次世代への責任感の表れでもあるだろう」(『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス2022年)

 もとより私に日本文学を批評する能力はありませんが、ハン氏はじめ韓国の文学者たちのこのような「歴史・歴史的事件」に対する視点・姿勢を持っている日本の作家がどれほどいるでしょうか。

 「歴史・歴史的事件」に正面から向き合わないのは、もちろん作家だけの問題ではありません。政府・政治家はじめ、市民を含む日本人全体の致命的な欠陥です。
 ハン・ガン氏はじめ韓国文学から日本人が読み取るべきは、この致命的欠陥との対照ではないでしょうか。それは「次世代への責任感」の相違でもあるでしょう。

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大河でまた「秀吉」を取り上げるNHKの不見識

2024年10月07日 | 日本人の歴史認識
   

 NHKが2026年に放送する大河ドラマの主要キャストが決まり、2日記者会見しました(写真左)。タイトルは「豊臣兄弟!」。主人公は秀吉の弟秀長(仲野太賀)で、準主役はもちろん秀吉(池松壮亮)です。

 また「秀吉」なのか!

 大河ドラマは第1作「花の生涯」(1963年)から「豊臣兄弟!」まで65作。そのうち秀吉を主人公、準主人公、主人公周辺の人物として取り上げた作品は実に13作品(20%)にのぼります。内訳は以下の通りです(NHKHPの大河一覧表から分析)。

 第65作 「豊臣兄弟!」(準主人公)
 第62作 「どうする家康」(主人公周辺)
 第59作 「麒麟が来る」(主人公周辺)
 第50作 「江~姫たちの戦国~」(主人公周辺)
 第45作 「功名が辻」(主人公周辺)
 第41作 「利家とまつ」(主人公周辺)
 第35作 「秀吉」(主人公)
 第30作 「信長」(準主人公)
 第21作 「徳川家康」(準主人公)
 第19作 「おんな太閤記」 豊臣秀吉(準主人公)
 第16作 「黄金の日日」(主人公周辺)
 第11作 「国盗り物語」(主人公周辺)
 第 3作 「太閤記」(主人公)

 大河は戦国ものが多いのですが、それにしても秀吉は突出しています。

 日本では秀吉は農民から身を興した立身出世の象徴的人物とされていますが、朝鮮半島の人々にとっては、侵略者の象徴です。

 秀吉が1592年~1598年にかけて行った朝鮮侵略は、日本の教科書では「文禄・慶長の役」などと記述されていますが、朝鮮半島では「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭寇」と呼ばれる侵略として記録・記憶されています(写真右は秀吉の水軍を破り救国の英雄とされている李舜臣の像=ソウル光化門広場)。

 「前後六年あまりにもおよんだ日本(秀吉)の侵略で、何十万という人が命を奪われた上に、耕地は荒れ、さらには強制的に日本に連れ去られた人もあり、…ソウルの景福宮(キョンボックン)などの由緒ある建築物が焼きはらわれるなど、さんざんな被害を受けたのです。…豊臣秀吉の朝鮮侵略は、後々まで日本人の思想に大きな影響をもたらしました」(中塚明著『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研2002年)

 秀吉の朝鮮侵略は明治政府の「征韓論」、さらには日清戦争へとつながっていきます。秀吉以外の、そうした朝鮮侵略の立役者となった人物も、NHK大河の常連です(同じく一覧表から分析)。

 第60作 「青天を衝け」 渋沢栄一(主人公)
 第57作 「西郷どん」 西郷隆盛(主人公)
 第54作 「花燃ゆ」 吉田松陰・伊藤博文(主人公周辺)
 第52作 「八重の桜」 吉田松陰・西郷隆盛・伊藤博文(主人公周辺)
 第49作 「龍馬伝」 坂本竜馬(主人公)
 第43作 「新選組!」 坂本竜馬(主人公周辺)
 第28作 「翔ぶが如く」 西郷隆盛(主人公)
 第23作 「春の波濤」 福沢諭吉・伊藤博文(主人公周辺)
 第15作 「花神」 吉田松陰・伊藤博文(主人公周辺)
 第6作 「竜馬がゆく」 坂本竜馬(主人公)
 第5作 「三姉妹」 西郷隆盛(主人公周辺)
(伊藤博文・福沢諭吉・渋沢栄一は政治・思想・経済の各両面から朝鮮侵略推進、吉田松陰は伊藤の思想的師、西郷隆盛は「征韓論」、坂本竜馬は「竹島開拓」構想など=備仲臣道著『坂本龍馬と朝鮮』かもがわ出版2010年参照)

 朝ドラと並んで大河はNHKの看板番組。いわば“国民的番組”とされていますが、その番組に秀吉をはじめ朝鮮侵略・植民地化の歴史を推進した人物がこれほど頻繁に登場するのはまさに異常と言わねばなりません。

 多くの日本人は秀吉はじめ彼らの歴史的役割を知らず、ただエンタメとして楽しむ。紙幣の肖像画と同様、こうしたことの繰り返し、積み重ねが日本の侵略戦争・植民地支配の加害の歴史を風化させることにつながると考えます。

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日本人は「柳条湖事件」を知っているのか

2024年09月21日 | 日本人の歴史認識
   

 中国・深圳で18日午前、日本人学校に通う児童(10)が男に刺され、その後死亡しました。その動機を含めこの事件の詳しい内容はまだ(20日夜現在)分かっていません。

 にもかかわらず日本のメディアは、「日本人学校“愛国”の標的に」の見出しをつけ、「事件が起きた18日は満州事変の発端となった柳条湖事件から93年を記念する行事が中国各地で開催され、反日感情が高まっていた」(20日付京都新聞=共同配信)と書き、事件の動機が政治的なものであるかのような印象を与えています。

 「識者」コメントの中にも、「柳条湖事件から18日で93年…容疑者は、この節目の日を選んで反日感情を示す行動に出た可能性がある」(静岡県立大客員研究員・諏訪一幸氏、19日付朝日新聞デジタル)とするものもあります。

 しかし今は、「容疑者像や動機について情報がない以上、この痛ましい事件について軽々にコメントすることは差し控えねばなりません。原因を究明し、再発防止策を講じることは極めて重要ですが、個別の事件をもって中国社会全体、日中関係全体を語ることは禁物です」(小嶋華津子・慶応大学教授、20日付朝日新聞デジタル)という指摘こそ傾聴すべきでしょう。

 事件に政治的動機があるのかどうかはこれからの問題として、そもそも「柳条湖事件」とは何だったのか、どういう意味をもつ「事件」だったのかを、どれほどの日本人が知っているでしょうか。

 それが分かっていなければ、「柳条湖事件から93年」と言われても、ただ、中国人は100年近く前のことで反日感情を強めるのか、という反中国感情を掻き立てるだけではないでしょうか。

「1931年9月18日、自らの手で柳条湖付近の満州鉄道線路を爆撃した関東軍は、これを中国側の犯行であると称して、満州(中国東北地方)全土の軍事占領に乗り出した。関東軍の狙いは、日本帝国主義にその鋒先を向けていた中国の反帝民族運動を制圧し、満州を対ソ戦のための軍事基地として確保し、さらにはこの戦争をきっかけとして、日本国内の政治体制をファシズム体制の方向に切り換えていくことにあった」(吉田裕氏『天皇の昭和史』新日本新書1984年共著)(写真右は爆撃直後の現場)

 「柳条湖事件」はたんなる一地域の単発的な「事件」ではありませんでした。それは帝国日本の15年にわたる中国・東アジア侵略戦争、そして国内ファシズム体制確立の突破口となった謀略事件だったのです。

 中国が「9・18」を「国辱の日」としているのはそのためです。
 そして日本は、今に至るもその侵略戦争に対する真摯な反省をおこなっていません(閣僚・国会議員の「靖国参拝」はその一例)。歴代自民党政権は侵略戦争の歴史の隠ぺい・改ざんを図ってきました(教科書検定など)。

 いかなる理由・背景があろうと、暴力が許されないことは言うまでもありません。

 同時に、国と国の関係は両国間の今日に至る歴史を抜きには考えられません。
 とりわけ中国、韓国、朝鮮民主主義人民共和国とどういう関係を築いていくかを模索するうえで、日本が犯した侵略戦争、植民地支配の歴史認識は不可欠です。国家権力が隠そうとするその歴史を知ること学ぶことは日本市民の責任です。

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佐渡金山・「朝鮮人労働者展示」の抜本的改善を

2024年09月12日 | 日本人の歴史認識
      

 「佐渡島の金山」(写真①)に行ってきました。日本政府がユネスコ世界遺産登録時に約束した朝鮮半島出身者(以下朝鮮人)に関する「新たな展示」が実際どのように行われているか確かめるためです。

 「佐渡金銀山の旅はここからはじまる」。「きらりうむ佐渡」(写真②)のパンフレットの表紙にはこう書かれています。「きらりうむ佐渡」とは、「現地見学の拠点としてその魅力を伝える目的で」(同館HP)2019年に開館した施設です。レンタサイクルや見学コースの紹介など文字通り金山遺跡見学の拠点です。館内には有料の展示室もあります。

 ところがその展示室は、江戸時代から明治始めの紹介に特化しており、朝鮮人労働者については一言も触れていません。

 朝鮮人労働者についての「新たな展示」が始まった(7月28日から)のは、「きらりうむ佐渡」から自転車で10分ほどの所にある「相川郷土博物館」(写真③)です。博物館自体は1956年に開設されました。

 同館は2階建て、5つの展示室があります。離れの2階のD展示室の1つの部屋が「朝鮮半島出身者を含む鉱山労働者の暮らし」と題した展示場です(写真④)。展示内容は以下の通りです。

パネル3枚(①朝鮮半島出身者を含む労働者の出身地②相川の鉱山労働者の暮らし③朝鮮半島出身者を含む労働者の戦時中の過酷な労働環境)
資料(複写)5点<①佐渡鉱業所半島労務管理ニ付テ(1943年)②半島人労務者ニ関スル調査報告書(1940年)③特高月報 昭和十五年三月分④特高月報 昭和十七年一月分⑤煙草配給台帳 昭和十九年十月>
地図2点(①相川地区の朝鮮半島出身労働者関連施設跡地への行き方案内(寮や共同炊事場跡)②朝鮮半島出身労働者関連施設の地図)
展示物Ⅰ点(鉱山で使用した弁当箱)

 これらの展示内容には、「朝鮮半島出身労働者の総数は約1500人であったと記録する文書がある」との記述や、朝鮮人労働者が日本人労働者に比べいかに危険な場所で働かされたかを示す表=写真⑤、「待遇改善」を要求」した朝鮮人が「即日」弾圧されたことを示す記述など、朝鮮人労働者が置かれていた過酷な実態がうかがえます。

 そうした注目点はあるものの、この「新たな展示」にはきわめて多くの問題点があります。簡潔に箇条書きします。

 ①展示場所が離れの2階の1室で、片隅に追いやられている。
 ②館内に入ってすぐのA展示室に「佐渡鉱山の歴史」の大きな年表があるが、そこには朝鮮人労働者に関する記述はまったくない(例えば1939年の半島から動員開始など)。
 ③展示スペースが狭く、展示物が少ない(弁当箱は朝鮮人労働者が使用したとも記述されていない)
 ④世界遺産登録にあたって焦点になった「強制労働」の記述はまったくない。
 ⑤韓国市民団体などが要求している「半島労務者名簿」(新潟県立文書館に保管)は公開されていない。
 ⑥3枚のパネルにはすべて英語の訳文がつけられているが、肝心なハングルの訳文はない。
 ⑦「関連施設への行き方案内」が別紙印刷されパンフレットに織り込まれていることは評価できるが、地図が不明確(不親切)でたどり着けない(地元の人たちに聞きながら探したが、分かったのは4カ所のうち「第三相愛寮跡」だけだった(写真⑥)。地元の人たちも朝鮮人労働者の関連施設跡の存在をほとんど知らない)
 ⑧展示室には上記のほかに実はもう1点展示がある。それは岸田首相が2023年5月にソウルで行った記者会見で「心が痛む」などと述べた文章が首相の写真と共に額縁に入れて飾ってある。政府の露骨な圧力を感じる。
 ⑨そもそも「金山」見学の拠点である「きらりうむ佐渡」に朝鮮人労働者に関する展示・記述がまったくないのは大きな問題。「相川郷土博物館」の展示を充実させるとともに、「きらりうむ佐渡」でも必要な展示を行わなければならない。

 このままでは軍艦島(長崎・端島)の二の舞いです。以上の諸問題を抜本的に改善し、朝鮮人労働者の過酷な強制動員・強制労働の実態を、現存するすべての資料を使って示さなければなりません。そうして日本人はじめ訪れた人が「佐渡金山」の歴史を日本の植民地支配の歴史と関連付けて学ぶことができて初めて「世界遺産」と言えるのではないでしょうか。

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切望される「新しい世界史=グローバル・ヒストリー」

2024年08月30日 | 日本人の歴史認識
 

 パレスチナで繰り返されているイスラエルのジェノサイドを、私たち日本人はどうして自分事として捉えられないのでしょうか―そんな根源的な問題に答えてくれる本が出版されました。

 『中学生から知りたい パレスチナのこと』(ミシマ社、2024年7月)です。著者は、岡真理・早稲田大教授(京都大名誉教授)=写真右、小山哲・京都大教授、藤原辰史・京都大准教授の3氏。

 それぞれの報告(岡氏「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題―ガザのジェノサイドと近代五百年の植民地主義」、小山氏「ある書店店主の話―ウクライナとパレスチナの歴史をつなぐもの」、藤原氏「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち―パレスチナ問題はなぜ軽視されてきたか」「食と農を通じた暴力―ドイツ、ロシア、そしてイスラエルを事例に」)はいずれも示唆に富んでいます。3氏の鼎談はとりわけ秀逸。その中から抜粋します。

 岡氏 今の世界史には、「構造的欠陥」があると思います。ある部分の歴史がすっぽり抜け落ちている、というよりも、歴史や世界というものを私たちが考えるときの視野そのものに、構造的な問題があるのではないか。一言でいえば、私たちは西洋中心主義、白人中心主義の視点でしか歴史や世界を見ることができていない。既存の学問自体がそうした構造によって生み出されている。そのことが今回のガザのジェノサイド攻撃によってあらわになったように思います。

 藤原氏 日本では1932年から満州への武装移民がはじまりました。世界恐慌の結果、農家の生活が立ち行かなくなった中で生まれてきた解決策が、満州への棄民、移民政策です。その精神構造はイスラエルと同じで、未開拓の地を、文明化された勤勉な日本人、大和民族が、指導的立場で開墾していくというものです。イスラエルの入植とうりふたつのことが起こっていたのに、私はその関連にまったく思い至らなかった。日本の植民地の歴史を批判しておきながら、こんな比較さえできていなかったことを恥じています。

 岡氏 (台湾の霧社事件1930年、満州の平頂山事件1932年に触れて)こうした歴史が各地にある。私たちが私たち自身の過去を知っていたら、パレスチナについても別の見方が生まれるはずなのに、そのような歴史的な視野をもつことが、意図的に阻まれているような気がします。

 小山氏 日本の歴史学では、明治以降、世界的に見ても非常に特殊な区分が用いられてきたのです。歴史学の領域を三つに分けるやり方です。まず「日本史」―かつては国史といいました―があり、残りの部分を「東洋史」と「西洋史」に分ける。この区分は政治的にニュートラルなものではなく、日本が近代国家として確立していくための歴史学の体制として戦略的に構築されたものだったのです。問題は、日本が帝国だった時代が終わっても、これがアカデミズムの世界で存続していることです。

 要すれば、「私たちが今、必要としているのは、西洋中心主義で、かつ地域ごとに分断された歴史に代わる新しい世界史、私たちが生きるこの現代世界を理解するための「グローバル・ヒストリー」であるということです」(岡氏「はじめに」)。

 換言すれば、「世界史は書き直されなければならない力を振るってきた側ではなく、力を振るわれてきた側の目線から書かれた世界史が存在しなかったことが、強国の横暴を拡大させたひとつの要因であるならば、現状に対する人文学者の責任もとても重いのです」(藤原氏「本書成立の経緯」)。

 第一線の学者の真摯な自己批判。日本のアカデミズムに一条の光を見る思いです。
 世界の出来事とりわけ紛争・戦争を自分のこととして捉えられるように、「新しい世界史=グローバル・ヒストリー」の構築を切望します。

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日本人が忘れてならない記念日は「8・14」

2024年08月16日 | 日本人の歴史認識
   

 日本のメディアは「8・15終戦神話」によってこの日の前後に「戦争特集」を組みます(「8月ジャーナリズム」)。しかし、日本人が本当に忘れてならない記念日は「8・14」の方です。

 韓国では文在寅(ムン・ジェイン)前政権が2017年に法律で「8・14」を「国家記念日のメモリアルデー」に指定しました。「8・14」は何があった日でしょうか。

 日本軍「慰安婦」(戦時性奴隷)の被害者・金学順(キム・ハクスン)さんがソウルで記者会見し、初めて実名で名乗り出て日本政府を告発した日、それが1991年の8月14日です(写真左)。

 キム・ハクスンさんの告発を契機に、韓国、中国、フィリピン、台湾、東チモール、マレーシア、インドネシア、オランダ、そして日本から性奴隷の被害者が相次いで名乗り出ました。

 33年目のこの日も、韓国では政府主催の記念式典が開催され、「元慰安婦」の李溶沫(イ・ヨンス)さんが出席しました(写真中=15日付沖縄タイムス=共同)。

 また支援団体の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」などは同日、「平和の少女像」があるソウルの日本大使館付近で通常より大規模な「水曜集会」を開催しました。

 キム・ハクスンさんはなぜ告発に踏み切ったのでしょうか。

「1990年ごろ、日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だと言っているというニュースを聞いて、私がここに生きているのに、なんでこんなことを言うのか、日本の政府はウソを言っていると思いました。私はそれを許すことができませんでした。私はとにかく日本政府に事実を認めさせなければいけないと思いました。
 私はこの時、朝鮮を植民地として支配をし、日本が起こした戦争に朝鮮人を引っ張っていき、巻き込んでおきながら、その責任をとらないということは、私は許されないと思いました」(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動のチラシより)

 キム・ハクスンさんは91年12月、日本政府を相手に裁判を起こします。その時の記者会見ではこう述べています。

一生、涙のなかで生きてきました。こんなことを金で補償できるでしょうか。私を17歳のときに戻してください」(『「慰安婦」問題と未来の責任』大月書店2017年より)

 キム・ハクスンの訴えは日本政府に届いたでしょうか。逆です。日本政府はその後も歴史の事実を否定し続け、安倍晋三元首相に至っては2015年、朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)との間で「日韓合意」を交わし、後世にわたってこの問題にフタをしようとしました。安倍元首相の下でその「日韓合意」を非公開で交わしたのが当時の外相、現首相の岸田文雄氏です。「合意」では「平和の少女像」を設置しないとする密約があったと言われています。

 岸田氏は就任以来、韓国やドイツの市民団体がベルリンに設置した「平和の少女像」(写真右)を撤去させる圧力をかけ続け、ついにベルリン当局に撤去を約束させました(7月24日のブログ参照)。
 これは、朝鮮人強制連行・強制労働の事実を隠ぺいしたまま「佐渡島金山」をユネスコ世界遺産に登録させたことと並んで、岸田政権の歴史的汚点の1つです。

 日本政府に戦時性奴隷の事実を認めさせ、被害者・遺族に謝罪させ、補償させなければなりません。33年前のキム・ハクスンさんの訴えを受け止めて声を上げなければならないのは、私たち日本人市民です。
 だから日本人は「8・14」を忘れてはならないのです。


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「渋沢紙幣」韓国市民が撤回要求、日本はお祭り騒ぎ

2024年07月04日 | 日本人の歴史認識
   

 新紙幣が発行された3日、岸田文雄首相は「新紙幣が国民に親しまれ、日本の経済に元気を与えてくれることを期待したい」と述べました。デパートは記念セール、銀行は顧客獲得キャンペーン、東京タワーは渋沢栄一にちなんで藍色にライトアップ、市民は両替に行列…。

 長野県のある町立小中学校は、渋沢ゆかりの「みそポテト」など3人にちなんだ料理を給食に出しました。学校にまで「渋沢」です。

 NHKはじめメディアは数日前から関連の話題を流し続け、朝日新聞は号外まで出しました。まさに官・民・メディア挙げてお祭り騒ぎです。

 しかし、韓国は違います。

 韓国の市民団体は渋沢紙幣に、「強い遺憾を表明し、直ちに撤回するよう」(3日付ハンギョレ新聞日本語電子版)要求しました。以下、抜粋です。

<日帝強占(植民地支配-私)期に日本の銀行を朝鮮に進出させ、植民地政策を主導した渋沢栄一の顔が日本の新紙幣に使われることについて、韓国の独立運動家と子孫・遺族の団体「光復会」は強い遺憾を表明し、直ちに撤回するよう求めた

 光復会は1日の声明で、「日帝の侵奪の張本人を貨幣の人物とする決定は、植民地支配を正当化することを狙った欺瞞的行為」だとしつつ、このように述べた。

「渋沢栄一は我が民族からの経済的収奪の先兵役を果たした第一銀行の所有者で、鉄道を敷設して韓国の資本を収奪し、利権侵奪のために第一銀行の紙幣発行を主導しつつ、貨幣に自身の肖像画を描き入れ、我々に恥辱を抱かせた張本人」

「過去の誤った行為を反省するどころか、帝国主義の蛮行を連想させる人物を使う日本政府の本音はいかなるものか」「本当に韓国との関係改善と友好増進を尊重するのなら、問題の人物の貨幣への使用を直ちに中止するよう願う」

 渋沢が設立した第一銀行は、日本が朝鮮半島に対する影響力を拡大しはじめる1878年に、釜山に支店を設立した。その後、金融・貨幣分野で日本政府の代理人役を果たし、朝鮮内で様々な特権を獲得した。特に1905年に、朝鮮の国庫金の取り扱い▽貨幣整理事業▽第一銀行券公認の「3大特権」を得てからは、事実上朝鮮の中央銀行同然の地位を確保した。渋沢は晩年、早くから朝鮮に進出した理由について「日本が朝鮮を失うことになれば、国力を維持することは困難だと判断したため」だと述べている。>(3日付ハンギョレ新聞)

 韓国市民団体の「遺憾・撤回要求声明」、ハンギョレ新聞の解説と、日本のお祭り騒ぎ。なんという落差でしょう。

 日本市民のどのくらいが、渋沢の「植民地支配の張本人」という実像を知っているでしょうか。知らないからといって政府に乗せられて「植民地支配の正当化」に加担していることが許されるものではありません。知らないことは罪です。

 メディアはどうでしょう。渋沢の実像を知らないとすればあまりにも勉強不足。知って口をつぐんでいるとすれば、メディアとしての責任放棄か政府への迎合にほかなりません。韓国市民団体の遺憾・撤回要求も、日本のメディアは無視しています。

 政府にとって不都合な事実、歴史の真実を市民に伝えることは、メディアにとって死活的に重要な責務であることを肝に銘じなければなりません。



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「渋沢栄一1万円札」に無批判な日本社会

2024年06月12日 | 日本人の歴史認識
  

 新紙幣発行まで1カ月を切った、と各種のメディアが報じています。「新紙幣対応 企業は悲鳴」(7日付京都新聞=共同)など、システム上の問題や市民の反応が中心です。

 新1万円札の「顔」となる渋沢栄一が30年暮らした東京都北区では、「官民あげて様々な企画で(渋沢の)功績をPRし、盛り上がっている」(7日付朝日新聞デジタル)といいます。

 渋沢が福沢諭吉に続いて日本の最高額紙幣の「顔」(いわば貨幣経済の象徴)になることについて、日本のメディアも市民も何の批判もせず、むしろ歓迎しています。

 しかし、韓国は違います。安倍晋三政権が渋沢を次の「顔」と決めた時(2019年)から、厳しく批判をしてきました(2019年4月11日付のブログ参照)。

 「渋沢栄一を図柄にした紙幣は1902年から04年の大韓帝国下で発行された経緯があり、韓国メディアは9日、日本の紙幣判断を批判的に報じた聯合ニュースは、当時紙幣を発行した第一銀行頭取を務めた渋沢栄一を『韓鮮半島で経済侵奪した象徴的人物』などと伝えた。渋沢栄一が設立した第一銀行は02年に1㌆券、5㌆券、10㌆券の3種類を当時の大韓帝国下で発行した。聯合ニュースは日本が軍事的圧力を背景に紙幣の流通を図ったと指摘し『植民地支配の被害国への配慮が欠けているとの批判が予想される』と主張した」(19年4月10日付日経新聞)

 また、東亜日報も渋沢の起用は「愛国心を強調する安倍晋三首相の政治哲学と合致する」とし、中央日報は、渋沢が初代韓国統監だった伊藤博文と「親友」だったと強調しました(19年4月10日付朝日新聞デジタルより)。

 なぜ韓国メディアは渋沢が1万円札の「顔」になることを批判したのか。それは渋沢が銀行や鉄道によって、あるいは朝鮮半島に進出した日本企業の後ろ盾として、半島の植民地支配を推進した中心人物だったからです。

 渋沢は親友だった伊藤博文と二人三脚(伊藤が政治、渋沢が経済)で、朝鮮半島の植民地支配を強行しました(植民地支配において渋沢が果たした役割については、19年10月3日付、21年2月16日付のブログ参照)。

 現在の1万円札の「顔」である福沢諭吉も、強烈な朝鮮差別者、朝鮮侵略論者でした(福沢の正体については、2018年2月3日付、同3月1日付ブログ参照)。

 2代続けて朝鮮半島侵略・植民地支配の中心人物を最高額紙幣の「顔」にする。ここに、日本がいかに侵略戦争・植民地支配の加害の歴史に無反省であるか、たんに無反省であるだけでなく、朝鮮半島の人々を新たに傷つけて恥じない国であるかが象徴的に表れています。

 それは日本政府だけでなく、渋沢や福沢の正体や彼らを紙幣の「顔」にすることを批判的に報道・論評しないメディア、そして渋沢や福沢を賛美する日本社会全体の共同責任です。

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ガザ・済州島・阪神-1948年の地平

2024年04月24日 | 日本人の歴史認識
   

 76年前の1948年4月24日、在日朝鮮人ら市民約1万5000人が兵庫県庁に詰めかけ、GHQの「朝鮮人学校閉鎖命令」に抗議し撤回を要求しました。これに対しGHQは「非常事態宣言」を発し、米軍と日本の警察が一体となって徹底的な弾圧を行いました。「4・24阪神教育闘争」です(写真右)。

 2日後の4月26日、大阪の3万人集会が武力弾圧され、金太一少年(当時16歳)が警察に射殺されました。「4.26大阪教育闘争事件」です(2023年4月24日のブログ参照)。

 同じ4月の3日には、韓国・済州島で米軍と韓国・李承晩傀儡政権によって大虐殺が行われました。「済州島4・3」です(4日のブログ参照)

 1948年は、日本と韓国の現代史にとって大きな節目の年でした。

「1948年は、緊迫する状況が続いた。南朝鮮での単独選挙に反対する「4・3済州島人民蜂起」、そして呼応するように日本での民族教育に対し、非常事態宣言まで出して弾圧した「4・24阪神教育闘争」、分断固定化への「5・10南朝鮮単独選挙」の強行、南北分断が顕在化した「8・15大韓民国(韓国)発足」「9・9朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)発足」、さらに1949年には、日本で下山事件・三鷹事件・松川事件が起こる。
 各々の事象は偶発的・個別的に起きたのではなく、巧みに連関しあい、その延長線上に1950年6月勃発の朝鮮戦争が存在するのである」(飯田光徳・日本コリア協会大阪理事長「阪神教育闘争と今日」、部落問題研究所発行月刊誌「人権と部落問題」2019年2月号所収)

 その1948年の記憶に、もう1つ、中東への視点を加えなければなりません。1948年5月14日のイスラエル建国(イギリスからの独立宣言)です。それと同時にパレスチナに対する熾烈な攻撃が始まりました。それが今のガザにつながっています。

「今回の戦争(イスラエルによるガザ攻撃-私)は、1948年のイスラエル建国時に引き起こされたパレスチナ住民に対する「民族浄化」、虐殺・難民化のプロセス(=アラビア語では「ナクバ」(大災禍)と呼ぶ)を彷彿とさせるような、より根源的・重大な性格を帯びていると言える」(栗田禎子千葉大教授「ハマスが仕掛けた「シオニズムの実証実験」」月刊「現代思想」2月号所収)

 そのイスラエルのジェノサイドを「国際社会」はいまだに止められません。なぜか。栗田禎子氏はこう指摘します。

「ホロコーストや人種主義の問題が、その背景にある植民地支配や戦争という問題と切り離され、矮小化されて論じられてきたことに起因するのかもしれない―戦後世界における重要な成果だったはずのファシズムの克服は、実は形骸化しているのではないか。ガザの事態をめぐる国際社会(「先進諸国」)の状況は、私たちが既に新たなファシズムの支配の下で沈黙させられつつあることを示している」(同論文)

 日本(阪神)―韓国(済州島)―パレスチナ(ガザ)。同じ1948年に起こったそれぞれの悲劇は、別問題のようで実は通底しています。いずれも直接・間接にアメリカが仕掛けたものだということです。

 さらに1948年は、極東国際軍事裁判(東京裁判)が東条英機らを絞首刑にする一方、天皇裕仁の戦争責任を不問にし(11月12日)、A級戦犯容疑の岸信介を釈放した(12月24日)年でもあります。いずれもアメリカの戦略です。

「新たなファシズムの支配」が強まっているいま、「1948年」の歴史的意味を振りかえる意義は小さくありません。「沈黙」させられないためにも。

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京都「耳塚」異聞―関東大震災・植民地支配

2023年12月16日 | 日本人の歴史認識
   

 京都市にある「耳塚」(写真)が、豊臣秀吉の朝鮮侵略を象徴する史跡であることを、故中塚明氏の著書によって紹介しましたが(11月13日のブログ参照)、「耳塚」にはほかの意味もあることを、藤井裕行氏の『歴史の闇に葬られた手話と口話』(12月12日のブログ参照)で知りました。以下、抜粋します。

< 京都の東山七条に「耳塚」がある。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~1598年)で、戦功の証しとして朝鮮と明国の将兵や民衆の耳を、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った塚のことである。江戸時代には朝鮮通信使が立ち寄り、ねんごろに供養したと伝えられている。

 耳塚周辺の「玉垣」は、大正4年(1915年)に東西の歌舞伎役者たちの寄進によって建てられ、発起人は京都の侠客で「伏見の勇山」と呼ばれた小畑岩次郎。

 その耳塚の前で、私は一人の年老いた「ろう者」と会った。京都ろうあ協会の発足に尽力し、初代会長を務め、全日本ろうあ連盟の幹事を20年にわたり務めた明石欽造さんだ。

 明石さんが耳塚を指さして、こう切り出した。「あの耳塚は、豊臣秀吉の蛮行を伝える史跡だが、関東大震災で犠牲になった、多くの「ろう者」たちの御霊を祀る塚でもある」と、熟達した手話で語ってくれた。

 さらに明石さんは「秀吉は、朝鮮の耳がきこえる人たちの耳(命)を奪った。そして、次は耳のきこえない人たちの耳(命)を、関東大震災が奪い、戦時中は、統治下の朝鮮の耳のきこえない人たちに日本の手話を強要し、朝鮮独自の手話の誕生と普及を阻んだ」と手話で語り、次に両手のひらを合わせ、耳塚に向かって静かに合掌された。>

 明石欽造氏の言葉は、秀吉の朝鮮侵略から関東大震災、アジア・太平洋戦争に至る350年余にわたる日本の朝鮮人差別、ろうあ者に対する迫害の歴史を貫いています。

 全日本ろうあ連盟・久松三二事務局長の言葉が想起されます。

「当時(戦時中)は手話を使うと手をたたかれる体罰もあった。手話は、ろうの親子や子どもたちの間でひっそりと受け継がれていった。…日本語を「国語」と呼ぶことで、多言語、多文化、多民族への理解に壁をつくってしまった。…アイヌや琉球の言葉が保護されてこなかったように、手話も長らく言語だと思われてこなかった」(2021年10月31日付朝日新聞デジタル=9月26日のブログ参照)

 朝鮮半島侵略・植民地支配と障がい者差別、アイヌ民族、琉球民族迫害は一体不可分です。ろうあ者犠牲の歴史、手話の歴史はそれをものがたっています。

 その歴史を今に伝えている「耳塚」。しかし、その存在を、ましてそのいわれを知っている人は、地元・京都市民でも多くはいません。

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