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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

忘れられた「日ソ戦争」の背景にあるもの

2025年09月03日 | 日本人の歴史認識
  中国とともにロシアもきょう9月3日を「対日戦勝記念日」としています。ソ連は1945年8月8日に日本に宣戦布告し、「8・15」後も「日ソ戦」は終わりませんでした。それはなぜなのか。その背景には何があったのか。日本で「日ソ戦」が語られることが少ないのはなぜなのか―。

 「日ロ米中の4カ国語を駆使して史料をひもといた」という麻田雅文・成城大教授が朝日新聞のインタビューに答えています(以下抜粋、太字は私)。

<――なぜソ連は、降伏寸前の日本に宣戦布告し、ポツダム宣言の受諾後も戦争をやめなかったのか。

「もともと、日ソ戦争を演出したのは米国です。米国は日本を無条件降伏させるため、ソ連の対日参戦を熱望し、働きかけていました。ソ連は41年に日本と中立条約を結んでいたためです」

「ソ連は対独戦の最中で腰が重かった。そのため45年2月の米英ソのヤルタ会談では、ソ連が対日参戦すれば、満州での港や鉄道の利権、さらに南樺太や千島列島も得られるという『報酬』が密約されました」

「ソ連は7月のポツダム会談で、8月15日に参戦すると米国に伝えました。ところが8月6日に、思いがけず米国が原爆を投下します。ソ連は、日本が降伏してしまう前に東アジアでの『報酬』を手にしようと、予定を繰り上げて参戦したと考えられます」

「日本のポツダム宣言受諾後も、ソ連は日本軍に正式な停戦命令が出ていないなどとして、すぐには停戦に応じませんでした。スターリンが満州での戦闘停止を命じたのは18日になってからです」

 ――犠牲者は。

「兵士は、ソ連側の死者・行方不明者は1万2千人とされます。日本側はより甚大でしたが、よくわかりません。
 一方、民間(日本側)では、停戦後も含めて満州と朝鮮半島北部で約20万人、南樺太では約4千人が犠牲になったといわれています。成人男性の多くはシベリア抑留を強いられ、女性にはソ連兵からの性暴力もありました。集団自決や、日本本土に帰れなくなった残留孤児・残留婦人も生じ、戦後は戦没者の遺骨収集もままなりませんでした」

 ――北方領土は今もロシアが支配したままです。

岐路となったのは、米国の対応です。最初に千島列島に上陸したがったのは米軍です。対日戦の空爆基地にしたかったのですが、侵攻すると犠牲が大きいと考え、代わりにソ連の進軍準備を支援しました。ソ連軍に艦艇を供与し、島への上陸作戦の経験が少なかったソ連兵の訓練まで請け負いました」

「スターリンは8月16日、千島列島と、北海道の釧路と留萌を結ぶ線より北の半分を米国に要求します。当時のトルーマン米大統領は翌日付の返信で、北海道は譲らないとした一方、千島列島は同意してしまうのです」

「戦後、ソ連は北方四島を早々に自国領とします。『喪失』の責任は米国の歴代大統領にもあります。今も米国が北方領土問題に消極的なのは、こうした過去のためでしょう」

 ――日ソ戦争は多くの人が「忘れて」いる。

二つの『神話』に埋もれた面があります。一つは、米国の原爆投下が戦争を終わらせたという『神話』です。二つ目は、天皇の玉音放送があった8月15日の『神話』。戦後は『終戦の日』と呼ばれ、15日以降も続いた日ソ戦争は視界の外に飛んでしまいました」

「外国の戦争のようにも思われたのではないでしょうか。実際は、南樺太も千島列島も日本領で、満州には150万人超の日本人が暮らしていました」

マスコミも日本の施政権が及ばなくなったところは、あまり扱いません。広島、長崎に比べて、日本社会の中での情報量が明らかに少ない。>(8月22日付朝日新聞デジタル、写真の地図も)

 ソ連を参戦させるために「報酬」を「密約」し、千島列島侵攻を後押しし、その領有に「同意」した。それはすべてアメリカがやったこと。多大な犠牲を出し今も「領土問題」が難航している「日ソ戦」の陰の演出者はアメリカだった―。

 そうした重大な「日ソ戦」が日本で語られることが少ない背景には、満州・南樺太・千島の人々を切り捨てた棄民政策があり、天皇裕仁の「玉音放送」で戦争が終わったという「神話」があった―。

 究明しなければならない東アジア・太平洋戦争の史実はまだまだ山積しています。

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「韓国併合115年」を継承する今日的意味

2025年08月22日 | 日本人の歴史認識
  今日8月22日は、115年前(1910年)に「韓国併合に関する条約」が調印され、日本が韓国を完全に植民地化した日です(写真は併合に反対して起こった1919年の3・1独立運動)。

 そもそも武力で韓国を支配下に置いたにもかかわらず、「条約」という体裁をとり、しかも「併合」というあいまいな言葉を使ったこと自体、日本の狡猾さが表れています。

「日本国家が韓国全土を軍事占領した力により、韓国を強制的に併合したことは不義不当なことであったが、その併合を韓国皇帝が願い出たので、日本の天皇が承諾して、実行したものだという虚偽の物語を条約という文書を中心に重ねて説明したことも併合の事実以上に重大な、朝鮮民族を辱めた不義不当な行為であった」(和田春樹著『韓国併合一一〇年後の真実―条約による併合という欺瞞』岩波ブックレット2019年)

 「強制的に併合した」とはどういうことか。1910年までの経過を確認しましょう。

日露戦争(1904年2月)では、日本はロシアとの交戦以前に、朝鮮の領海深く海底電線の敷設や連合艦隊の根拠地として鎮海湾の制圧、馬山の電信局の占領など…世界に公表できないような不法行為の上に、韓国には日韓議定書を結ばせ(04年2月23日)、日露講和条約(05年9月5日)のすぐ後には、続いて第二次日韓協約、いわゆる「保護条約」(05年11月17日)を結んで外交権を奪い、そして1907年7月24日、「韓国内政の全権掌握に関する日韓協約(第三次日韓協約)および不公表覚書」によって、韓国の軍隊を解散させ、その上で「韓国併合」におよんだのです。
 明治維新から43年、日本は日清戦争、義和団鎮圧戦争、そして日露戦争をへて朝鮮を完全に従属させ植民地とする目標を実現しました。>(中塚明著『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史 増補改訂版』高文研2022年)

 決定的な画期となったのは「保護条約」(乙巳<いっし>条約)ですが、軍事力を背景にこれを強行したのが、敗戦後日本が長い間「紙幣の顔」にしてきた伊藤博文でした。

「伊藤は皇帝を脅迫し、韓国の大臣一人ひとりに、賛成か、反対かを問いつめ、あくまで反対した首相や大蔵大臣らを退け…強引に調印に持ち込んだのです」(中塚氏前掲書)

 「併合条約」が「韓国皇帝が願い出たので日本の天皇が承諾」した形をとった背景には、天皇制をめぐる状況がありました。

<天皇制イデオロギーの神がかった部分については…幸徳秋水なんかの批判がぼつぼつ出てきたりする中で…天皇制をさらに補強する必要が感じられた時期が、ちょうど朝鮮を植民地化した段階であり、大衆が朝鮮にいろんな形で動員されて…排外主義の側に組織されていく。…天皇制と植民地支配そして「アジア主義」が一体となって、日本人を体制のイデオロギーに組み込む役割を果たした。>(梶村秀樹著『排外主義克服のための朝鮮史』平凡社ライブラリー2014年)

 天皇制と植民地主義・排外主義。この悪のスパイラル(螺旋)は、過ぎ去った過去のことと言えるでしょうか。

 故・中塚明氏は前掲書でこう警鐘を鳴らしていました。

「いま私たちの国、日本では、この二つの戦争(日清・日露)がどういう戦争であったのか、日本はなにを目指してどういう戦争をしたのか、日本の侵略をうけた朝鮮では朝鮮人はどうしたのか、どんな動きがあったのか、そんなことについて、まったく知らない。戦争といえば「真珠湾から広島まで」、「アメリカと戦って負けた太平洋戦争」とは知っていても、明治の戦争などは知らない、という日本人がほとんどです」

 「戦後80年」ということでメディアは太平洋戦争の歴史を「継承」する必要性を強調しています。しかし、1945年の敗戦を1894年の日清戦争からの戦争の歴史の中でとらえる視点は皆無です。
 「韓国併合115年」を日清戦争からの侵略・植民地支配の歴史の中で捉え直し、教訓を「継承」していくことこそ、軍靴の響きが大きくなっている今の日本に必要なのではないでしょうか。

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「80年間日本は戦争しなかった」は本当か

2025年08月21日 | 日本人の歴史認識
  

 日本世論調査会(共同通信)が今月10日発表した調査では、「戦後の歩みの中で良かったこと」(複数回答)の第1位は、「他国と戦争をしなかった」(50%)でした(11日付地方各紙)。日本人の半数がそう考えているわけです。

「戦後80年」日本は「他国と戦争をしなかった」―それは本当でしょうか?
 3つの事例を見てみましょう。

「6・25(朝鮮)戦争」(1950~53休戦)

「朝鮮戦争に日本は軍事的にどう関与したでしょうか。…まず日本の船舶が借り上げられ、米軍や装備の運搬を担いました。日本の船員がこの運搬に参加しています。さらに米軍の上陸を容易にするため、海上保安庁が、米軍、英軍、韓国軍の指揮官の下で、掃海任務に従事しています」(孫崎享著『朝鮮戦争の正体』祥伝社2020年)

 こうした直接的軍事関与のほか、日本本土が米軍の後方基地となり、トヨタはじめ主要企業が「朝鮮特需」で息を吹き返しその後の基礎を築いたなど、「6・25戦争」と日本の関係は多岐にわたります。

 歴史学者のガマン・マコーマック氏(オーストラリア国立大教授)は、『侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実』(シアレヒム社発行・影書房発売、1990年)で、「日本と朝鮮戦争の関係」を7点指摘しています(24年6月25日のブログ参照)

ベトナム戦争(1964~75)

「ベトナム戦争が始まると、日本は自衛隊の海外派兵をのぞいて米国に対する政治的・経済的支援に乗り出した。佐藤栄作首相は「米国の立場に対する支持」を表明し…日本国内にある米軍基地の使用に理解を示した。沖縄にある米空軍基地はベトナムへ向けての出撃基地となり、横須賀・佐世保基地は米第七艦隊の拠点となった」(中村政則著『戦後史』岩波新書2005年)

 米軍が空から散布し、いまもベトナム市民を苦しめ続けている「枯葉剤」は日本の企業が製造した疑惑が濃厚です(5月3日のブログ参照)。

イラク戦争(2003~11)

「米国のイラク侵攻は国連憲章51条に反した戦争であった、という以外にない。…自衛隊(2004年1月、初の海外派兵―私)は、本来の任務であるはずの人道復興支援活動を“独断”で越えて、2万4000人近い米兵の輸送活動さえ行っていたのである。だからこそ2008年4月に名古屋高等裁判所は、こうした自衛隊の活動を、イラク特措法違反であるばかりではなく憲法9条1項に違反する、との判決を下したのである」(豊下楢彦・古関彰一著『集団的自衛権と安全保障』岩波新書2014年)

 「戦後」日本が「他国と戦争をしなかった」というのは明白な誤りです。

 にもかかわらず、こうした参戦の事実が隠ぺい・歪曲され、多くの「国民」が誤った認識にとらわれているのはなぜでしょうか。

 学校教育の欠陥、メディアの責任(冒頭の世論調査でも「他国と戦争しなかった」という選択肢を設定したのは共同通信)は重大です。

 同時に、見過ごせないのは天皇の「平和」発言です。

 天皇徳仁は今年の「全国戦没者追悼式」でも、「戦後長きにわたる平和な歳月」と敗戦後の日本の「平和」を強調しました。
 こうした天皇の「平和」発言は父・明仁から顕著です。

 例えば天皇明仁は退位前の最後の誕生日会見(2018年12月20日)で、「国際社会の中で…我が国の戦後の平和と繁栄が…築かれた」と述べ、「在位30年式典」(19年2月24日)でも、「平成の30年間は…近現代においてはじめて戦争を経験せぬ時代」だったと自賛しました(引用は宮内庁HPから)。

 こうした天皇の「平和」発言は、日本が戦場にならなければ「平和」だという重大な誤りを「国民」に植え付けるとともに、敗戦後の日本の戦争責任、その元凶である対米従属の日米軍事同盟(安保条約)の害悪を隠ぺいするものにほかなりません。

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日本人はなぜ「12・8」を「記憶する日」にしないのか

2024年12月07日 | 日本人の歴史認識
 

 83年前の12月8日、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされました。先の戦争を記憶・伝承する上で忘れてはならない日です。

 しかし、「12・8」がどういう日なのか知っている日本人、とりわけ若い世代の人はどれほどいるでしょうか。「8・15」にくらべ、その認知度は圧倒的に小さいでしょう。教科書で重視されず、メディアも「8月ジャーナリズム」とくらべてきわめて軽視しているからです。

 なぜ「12・8」は「記憶する日」として軽視されているのでしょうか。

 明仁上皇、美智子上皇后は天皇・皇后時代から、「記憶する日」として4つの日決め、皇居内で追悼しているといいます。「8・15」「8・6」「8・9」そして「6・23」(「沖縄慰霊の日」)です。「12・8」は入っていません。現天皇徳仁もこれに倣っているといわれています。

 これはきわめて象徴的です。

 「12・8」と他の4つの日とは性格がはっきり異なっています。「12・8」は日本がインドシナ(シンゴラ、コタバル)へ、続いてハワイ・真珠湾へ奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争を仕掛けた日です。日本の「戦争加害の日」です。対して他の4つは、性質は異なりますが、いずれも日本が大きな打撃を受け敗北した、いわば「戦争被害の日」です。

 日本が太平洋戦争の開戦を宣告したのは、「12・8」の午前11時(真珠湾攻撃から7時間半後)に発布された天皇裕仁の「宣戦詔勅」です。裕仁はこの「詔勅」を、「帝国の光栄を保全せむことを期す」という言葉で結びました。

 「12・8」は日本の「戦争加害の日」、具体的には「天皇裕仁の太平洋戦争加害の日」なのです。

 明仁上皇や徳仁天皇がこの日を棚上げし、「天皇の聖断」などと喧伝される「8・15」などを「記憶する日」としているのは、さもあらん、というところですが、問題は学校教育とマスメディアによって、それに「国民」が巻き込まれていることです。

 これがいかに理不尽なことか、韓国と比較すれば明瞭です。

 韓国で「戦争」といえば朝鮮戦争ですが、「記憶する日」とされているのは「休戦協定」が締結された「(1953)7・17」ではなく、戦争が始まった「(1950)6・25(韓国語読みでユギオ)」です。その意味を翻訳家の斎藤真理子氏はこう指摘しています。

<韓国で、開戦の日付によって戦争が記憶され、語られていることは重要だ。日本では「八・一五」を終戦記念日として記憶し、毎年式典を開いて平和を祈っている。しかし、日本が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争が始まった十二月八日には重きを置かない。つまり、戦争の出口だけを記憶し、入り口、つまり自分たちが戦争を始めた日のことは意識しない。
 逆に韓国では、戦争の入り口である六・二五を絶対視し、休戦協定が成立した七月十七日には関心を寄せない。(中略)

 「六・二五(ユギオ)」という呼び名の定着は、韓国社会が絶えず戦争の始まりに着目し、開戦の責任はどこにあるのかを強調してきたことを想起させる。この呼称一つに、戦争とともに生きてきたこの国の人々の思いが凝縮しているともいえよう。>(斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス2022年)

 今回の尹錫悦大統領の「非常戒厳」に対し多くの市民が即座に抗議行動に立ち上がりました(写真右)。平和・民主主義の危機に対する韓国市民のこの敏感さは、「6・25」によってたえず「開戦の責任」を意識する市民社会の土壌がつくられていることと無関係ではないのでしょう。

 この点こそ日本市民に最も欠けている(失わされている)ことであり、韓国市民から学ぶべきものではないでしょうか。

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ハン・ガン氏が語る「ガザ・ウクライナ」・文学・歴史

2024年10月14日 | 日本人の歴史認識
  ノーベル文学賞の受賞が決まった韓国のハン・ガン氏は、『少年が来る』(2016)で「光州事件」(1980)、『別れを告げない』(2021年)では「済州島4・3事件」(1948)という、国家・軍隊による人民への暴力をテーマにしてきました。

 ハン氏作品の翻訳も多い翻訳家の斎藤真理子氏はハン氏の受賞に対しこうコメントしています。

「世界でジェノサイドが止まらない現在において、ハン・ガンさんの文章が読まれる意味を(ノーベル文学賞の)選考委員の人たちが勘案した結果ではないか」(11日付京都新聞=共同)

 今年5月、ハン氏は朝日新聞のインタビューで、「ガザ・ウクライナなど、多くの人々の命が奪われ、分断や格差も深刻なこの世界で、文学や作家にできることは何だと考えますか」との質問に、こう答えています。

<「このように真っ暗な状況の中で希望を見いだすのは、ほとんど不可能と思えるほどきつい想像力を必要とします。しかし人間は生きている限り、想像しないわけにはいきません。希望と文学には共有する点があります。文学ですることもまた、粘り強く想像することです」

 ――歴史と向き合うことにも、希望を見つけるヒントはあるでしょうか。

 「『別れを告げない』の中で、主人公の一人は木工の作業中に指を切断する事故に遭い、縫った傷口を3分ごとに針で刺し血を流す施術を受けます。苦痛と神経の電流と生命が、すべてつながっているのです。歴史的事件と向き合うことは、そんなつながりを持とうとすることかもしれません」

 「歴史的な事件を扱うことは、過去について語る方法を探し出し、現在について語るということです。歴史を見つめて問うことは、人間の本性について問うことでもある。記憶を抱きしめ、生命に向けて進む人間の姿と能力に、私はいつもひかれます」>(5月28日付朝日新聞デジタル)

 「歴史・歴史的事件」に対するこうした姿勢はハン氏だけのものではありません。
 ハン氏をはじめ現代韓国文学をけん引する作家たちについて、斎藤真理子氏はこう論じています。

「韓国の小説の多くが、歴史が負った傷をさまざまな視覚から描いている。または個人の傷に潜む歴史の影を暴いている。それだけ満身創痍の歴史だったともいえるし、韓国の文学者たちがそれを描くことを大事にしているからでもある。そして何より、歴史を見つめるのは現在と未来のためだという感覚を多くの作家が共有している。それは…次世代への責任感の表れでもあるだろう」(『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス2022年)

 もとより私に日本文学を批評する能力はありませんが、ハン氏はじめ韓国の文学者たちのこのような「歴史・歴史的事件」に対する視点・姿勢を持っている日本の作家がどれほどいるでしょうか。

 「歴史・歴史的事件」に正面から向き合わないのは、もちろん作家だけの問題ではありません。政府・政治家はじめ、市民を含む日本人全体の致命的な欠陥です。
 ハン・ガン氏はじめ韓国文学から日本人が読み取るべきは、この致命的欠陥との対照ではないでしょうか。それは「次世代への責任感」の相違でもあるでしょう。

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大河でまた「秀吉」を取り上げるNHKの不見識

2024年10月07日 | 日本人の歴史認識
   

 NHKが2026年に放送する大河ドラマの主要キャストが決まり、2日記者会見しました(写真左)。タイトルは「豊臣兄弟!」。主人公は秀吉の弟秀長(仲野太賀)で、準主役はもちろん秀吉(池松壮亮)です。

 また「秀吉」なのか!

 大河ドラマは第1作「花の生涯」(1963年)から「豊臣兄弟!」まで65作。そのうち秀吉を主人公、準主人公、主人公周辺の人物として取り上げた作品は実に13作品(20%)にのぼります。内訳は以下の通りです(NHKHPの大河一覧表から分析)。

 第65作 「豊臣兄弟!」(準主人公)
 第62作 「どうする家康」(主人公周辺)
 第59作 「麒麟が来る」(主人公周辺)
 第50作 「江~姫たちの戦国~」(主人公周辺)
 第45作 「功名が辻」(主人公周辺)
 第41作 「利家とまつ」(主人公周辺)
 第35作 「秀吉」(主人公)
 第30作 「信長」(準主人公)
 第21作 「徳川家康」(準主人公)
 第19作 「おんな太閤記」 豊臣秀吉(準主人公)
 第16作 「黄金の日日」(主人公周辺)
 第11作 「国盗り物語」(主人公周辺)
 第 3作 「太閤記」(主人公)

 大河は戦国ものが多いのですが、それにしても秀吉は突出しています。

 日本では秀吉は農民から身を興した立身出世の象徴的人物とされていますが、朝鮮半島の人々にとっては、侵略者の象徴です。

 秀吉が1592年~1598年にかけて行った朝鮮侵略は、日本の教科書では「文禄・慶長の役」などと記述されていますが、朝鮮半島では「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭寇」と呼ばれる侵略として記録・記憶されています(写真右は秀吉の水軍を破り救国の英雄とされている李舜臣の像=ソウル光化門広場)。

 「前後六年あまりにもおよんだ日本(秀吉)の侵略で、何十万という人が命を奪われた上に、耕地は荒れ、さらには強制的に日本に連れ去られた人もあり、…ソウルの景福宮(キョンボックン)などの由緒ある建築物が焼きはらわれるなど、さんざんな被害を受けたのです。…豊臣秀吉の朝鮮侵略は、後々まで日本人の思想に大きな影響をもたらしました」(中塚明著『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研2002年)

 秀吉の朝鮮侵略は明治政府の「征韓論」、さらには日清戦争へとつながっていきます。秀吉以外の、そうした朝鮮侵略の立役者となった人物も、NHK大河の常連です(同じく一覧表から分析)。

 第60作 「青天を衝け」 渋沢栄一(主人公)
 第57作 「西郷どん」 西郷隆盛(主人公)
 第54作 「花燃ゆ」 吉田松陰・伊藤博文(主人公周辺)
 第52作 「八重の桜」 吉田松陰・西郷隆盛・伊藤博文(主人公周辺)
 第49作 「龍馬伝」 坂本竜馬(主人公)
 第43作 「新選組!」 坂本竜馬(主人公周辺)
 第28作 「翔ぶが如く」 西郷隆盛(主人公)
 第23作 「春の波濤」 福沢諭吉・伊藤博文(主人公周辺)
 第15作 「花神」 吉田松陰・伊藤博文(主人公周辺)
 第6作 「竜馬がゆく」 坂本竜馬(主人公)
 第5作 「三姉妹」 西郷隆盛(主人公周辺)
(伊藤博文・福沢諭吉・渋沢栄一は政治・思想・経済の各両面から朝鮮侵略推進、吉田松陰は伊藤の思想的師、西郷隆盛は「征韓論」、坂本竜馬は「竹島開拓」構想など=備仲臣道著『坂本龍馬と朝鮮』かもがわ出版2010年参照)

 朝ドラと並んで大河はNHKの看板番組。いわば“国民的番組”とされていますが、その番組に秀吉をはじめ朝鮮侵略・植民地化の歴史を推進した人物がこれほど頻繁に登場するのはまさに異常と言わねばなりません。

 多くの日本人は秀吉はじめ彼らの歴史的役割を知らず、ただエンタメとして楽しむ。紙幣の肖像画と同様、こうしたことの繰り返し、積み重ねが日本の侵略戦争・植民地支配の加害の歴史を風化させることにつながると考えます。

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日本人は「柳条湖事件」を知っているのか

2024年09月21日 | 日本人の歴史認識
   

 中国・深圳で18日午前、日本人学校に通う児童(10)が男に刺され、その後死亡しました。その動機を含めこの事件の詳しい内容はまだ(20日夜現在)分かっていません。

 にもかかわらず日本のメディアは、「日本人学校“愛国”の標的に」の見出しをつけ、「事件が起きた18日は満州事変の発端となった柳条湖事件から93年を記念する行事が中国各地で開催され、反日感情が高まっていた」(20日付京都新聞=共同配信)と書き、事件の動機が政治的なものであるかのような印象を与えています。

 「識者」コメントの中にも、「柳条湖事件から18日で93年…容疑者は、この節目の日を選んで反日感情を示す行動に出た可能性がある」(静岡県立大客員研究員・諏訪一幸氏、19日付朝日新聞デジタル)とするものもあります。

 しかし今は、「容疑者像や動機について情報がない以上、この痛ましい事件について軽々にコメントすることは差し控えねばなりません。原因を究明し、再発防止策を講じることは極めて重要ですが、個別の事件をもって中国社会全体、日中関係全体を語ることは禁物です」(小嶋華津子・慶応大学教授、20日付朝日新聞デジタル)という指摘こそ傾聴すべきでしょう。

 事件に政治的動機があるのかどうかはこれからの問題として、そもそも「柳条湖事件」とは何だったのか、どういう意味をもつ「事件」だったのかを、どれほどの日本人が知っているでしょうか。

 それが分かっていなければ、「柳条湖事件から93年」と言われても、ただ、中国人は100年近く前のことで反日感情を強めるのか、という反中国感情を掻き立てるだけではないでしょうか。

「1931年9月18日、自らの手で柳条湖付近の満州鉄道線路を爆撃した関東軍は、これを中国側の犯行であると称して、満州(中国東北地方)全土の軍事占領に乗り出した。関東軍の狙いは、日本帝国主義にその鋒先を向けていた中国の反帝民族運動を制圧し、満州を対ソ戦のための軍事基地として確保し、さらにはこの戦争をきっかけとして、日本国内の政治体制をファシズム体制の方向に切り換えていくことにあった」(吉田裕氏『天皇の昭和史』新日本新書1984年共著)(写真右は爆撃直後の現場)

 「柳条湖事件」はたんなる一地域の単発的な「事件」ではありませんでした。それは帝国日本の15年にわたる中国・東アジア侵略戦争、そして国内ファシズム体制確立の突破口となった謀略事件だったのです。

 中国が「9・18」を「国辱の日」としているのはそのためです。
 そして日本は、今に至るもその侵略戦争に対する真摯な反省をおこなっていません(閣僚・国会議員の「靖国参拝」はその一例)。歴代自民党政権は侵略戦争の歴史の隠ぺい・改ざんを図ってきました(教科書検定など)。

 いかなる理由・背景があろうと、暴力が許されないことは言うまでもありません。

 同時に、国と国の関係は両国間の今日に至る歴史を抜きには考えられません。
 とりわけ中国、韓国、朝鮮民主主義人民共和国とどういう関係を築いていくかを模索するうえで、日本が犯した侵略戦争、植民地支配の歴史認識は不可欠です。国家権力が隠そうとするその歴史を知ること学ぶことは日本市民の責任です。

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佐渡金山・「朝鮮人労働者展示」の抜本的改善を

2024年09月12日 | 日本人の歴史認識
      

 「佐渡島の金山」(写真①)に行ってきました。日本政府がユネスコ世界遺産登録時に約束した朝鮮半島出身者(以下朝鮮人)に関する「新たな展示」が実際どのように行われているか確かめるためです。

 「佐渡金銀山の旅はここからはじまる」。「きらりうむ佐渡」(写真②)のパンフレットの表紙にはこう書かれています。「きらりうむ佐渡」とは、「現地見学の拠点としてその魅力を伝える目的で」(同館HP)2019年に開館した施設です。レンタサイクルや見学コースの紹介など文字通り金山遺跡見学の拠点です。館内には有料の展示室もあります。

 ところがその展示室は、江戸時代から明治始めの紹介に特化しており、朝鮮人労働者については一言も触れていません。

 朝鮮人労働者についての「新たな展示」が始まった(7月28日から)のは、「きらりうむ佐渡」から自転車で10分ほどの所にある「相川郷土博物館」(写真③)です。博物館自体は1956年に開設されました。

 同館は2階建て、5つの展示室があります。離れの2階のD展示室の1つの部屋が「朝鮮半島出身者を含む鉱山労働者の暮らし」と題した展示場です(写真④)。展示内容は以下の通りです。

パネル3枚(①朝鮮半島出身者を含む労働者の出身地②相川の鉱山労働者の暮らし③朝鮮半島出身者を含む労働者の戦時中の過酷な労働環境)
資料(複写)5点<①佐渡鉱業所半島労務管理ニ付テ(1943年)②半島人労務者ニ関スル調査報告書(1940年)③特高月報 昭和十五年三月分④特高月報 昭和十七年一月分⑤煙草配給台帳 昭和十九年十月>
地図2点(①相川地区の朝鮮半島出身労働者関連施設跡地への行き方案内(寮や共同炊事場跡)②朝鮮半島出身労働者関連施設の地図)
展示物Ⅰ点(鉱山で使用した弁当箱)

 これらの展示内容には、「朝鮮半島出身労働者の総数は約1500人であったと記録する文書がある」との記述や、朝鮮人労働者が日本人労働者に比べいかに危険な場所で働かされたかを示す表=写真⑤、「待遇改善」を要求」した朝鮮人が「即日」弾圧されたことを示す記述など、朝鮮人労働者が置かれていた過酷な実態がうかがえます。

 そうした注目点はあるものの、この「新たな展示」にはきわめて多くの問題点があります。簡潔に箇条書きします。

 ①展示場所が離れの2階の1室で、片隅に追いやられている。
 ②館内に入ってすぐのA展示室に「佐渡鉱山の歴史」の大きな年表があるが、そこには朝鮮人労働者に関する記述はまったくない(例えば1939年の半島から動員開始など)。
 ③展示スペースが狭く、展示物が少ない(弁当箱は朝鮮人労働者が使用したとも記述されていない)
 ④世界遺産登録にあたって焦点になった「強制労働」の記述はまったくない。
 ⑤韓国市民団体などが要求している「半島労務者名簿」(新潟県立文書館に保管)は公開されていない。
 ⑥3枚のパネルにはすべて英語の訳文がつけられているが、肝心なハングルの訳文はない。
 ⑦「関連施設への行き方案内」が別紙印刷されパンフレットに織り込まれていることは評価できるが、地図が不明確(不親切)でたどり着けない(地元の人たちに聞きながら探したが、分かったのは4カ所のうち「第三相愛寮跡」だけだった(写真⑥)。地元の人たちも朝鮮人労働者の関連施設跡の存在をほとんど知らない)
 ⑧展示室には上記のほかに実はもう1点展示がある。それは岸田首相が2023年5月にソウルで行った記者会見で「心が痛む」などと述べた文章が首相の写真と共に額縁に入れて飾ってある。政府の露骨な圧力を感じる。
 ⑨そもそも「金山」見学の拠点である「きらりうむ佐渡」に朝鮮人労働者に関する展示・記述がまったくないのは大きな問題。「相川郷土博物館」の展示を充実させるとともに、「きらりうむ佐渡」でも必要な展示を行わなければならない。

 このままでは軍艦島(長崎・端島)の二の舞いです。以上の諸問題を抜本的に改善し、朝鮮人労働者の過酷な強制動員・強制労働の実態を、現存するすべての資料を使って示さなければなりません。そうして日本人はじめ訪れた人が「佐渡金山」の歴史を日本の植民地支配の歴史と関連付けて学ぶことができて初めて「世界遺産」と言えるのではないでしょうか。

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切望される「新しい世界史=グローバル・ヒストリー」

2024年08月30日 | 日本人の歴史認識
 

 パレスチナで繰り返されているイスラエルのジェノサイドを、私たち日本人はどうして自分事として捉えられないのでしょうか―そんな根源的な問題に答えてくれる本が出版されました。

 『中学生から知りたい パレスチナのこと』(ミシマ社、2024年7月)です。著者は、岡真理・早稲田大教授(京都大名誉教授)=写真右、小山哲・京都大教授、藤原辰史・京都大准教授の3氏。

 それぞれの報告(岡氏「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題―ガザのジェノサイドと近代五百年の植民地主義」、小山氏「ある書店店主の話―ウクライナとパレスチナの歴史をつなぐもの」、藤原氏「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち―パレスチナ問題はなぜ軽視されてきたか」「食と農を通じた暴力―ドイツ、ロシア、そしてイスラエルを事例に」)はいずれも示唆に富んでいます。3氏の鼎談はとりわけ秀逸。その中から抜粋します。

 岡氏 今の世界史には、「構造的欠陥」があると思います。ある部分の歴史がすっぽり抜け落ちている、というよりも、歴史や世界というものを私たちが考えるときの視野そのものに、構造的な問題があるのではないか。一言でいえば、私たちは西洋中心主義、白人中心主義の視点でしか歴史や世界を見ることができていない。既存の学問自体がそうした構造によって生み出されている。そのことが今回のガザのジェノサイド攻撃によってあらわになったように思います。

 藤原氏 日本では1932年から満州への武装移民がはじまりました。世界恐慌の結果、農家の生活が立ち行かなくなった中で生まれてきた解決策が、満州への棄民、移民政策です。その精神構造はイスラエルと同じで、未開拓の地を、文明化された勤勉な日本人、大和民族が、指導的立場で開墾していくというものです。イスラエルの入植とうりふたつのことが起こっていたのに、私はその関連にまったく思い至らなかった。日本の植民地の歴史を批判しておきながら、こんな比較さえできていなかったことを恥じています。

 岡氏 (台湾の霧社事件1930年、満州の平頂山事件1932年に触れて)こうした歴史が各地にある。私たちが私たち自身の過去を知っていたら、パレスチナについても別の見方が生まれるはずなのに、そのような歴史的な視野をもつことが、意図的に阻まれているような気がします。

 小山氏 日本の歴史学では、明治以降、世界的に見ても非常に特殊な区分が用いられてきたのです。歴史学の領域を三つに分けるやり方です。まず「日本史」―かつては国史といいました―があり、残りの部分を「東洋史」と「西洋史」に分ける。この区分は政治的にニュートラルなものではなく、日本が近代国家として確立していくための歴史学の体制として戦略的に構築されたものだったのです。問題は、日本が帝国だった時代が終わっても、これがアカデミズムの世界で存続していることです。

 要すれば、「私たちが今、必要としているのは、西洋中心主義で、かつ地域ごとに分断された歴史に代わる新しい世界史、私たちが生きるこの現代世界を理解するための「グローバル・ヒストリー」であるということです」(岡氏「はじめに」)。

 換言すれば、「世界史は書き直されなければならない力を振るってきた側ではなく、力を振るわれてきた側の目線から書かれた世界史が存在しなかったことが、強国の横暴を拡大させたひとつの要因であるならば、現状に対する人文学者の責任もとても重いのです」(藤原氏「本書成立の経緯」)。

 第一線の学者の真摯な自己批判。日本のアカデミズムに一条の光を見る思いです。
 世界の出来事とりわけ紛争・戦争を自分のこととして捉えられるように、「新しい世界史=グローバル・ヒストリー」の構築を切望します。

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日本人が忘れてならない記念日は「8・14」

2024年08月16日 | 日本人の歴史認識
   

 日本のメディアは「8・15終戦神話」によってこの日の前後に「戦争特集」を組みます(「8月ジャーナリズム」)。しかし、日本人が本当に忘れてならない記念日は「8・14」の方です。

 韓国では文在寅(ムン・ジェイン)前政権が2017年に法律で「8・14」を「国家記念日のメモリアルデー」に指定しました。「8・14」は何があった日でしょうか。

 日本軍「慰安婦」(戦時性奴隷)の被害者・金学順(キム・ハクスン)さんがソウルで記者会見し、初めて実名で名乗り出て日本政府を告発した日、それが1991年の8月14日です(写真左)。

 キム・ハクスンさんの告発を契機に、韓国、中国、フィリピン、台湾、東チモール、マレーシア、インドネシア、オランダ、そして日本から性奴隷の被害者が相次いで名乗り出ました。

 33年目のこの日も、韓国では政府主催の記念式典が開催され、「元慰安婦」の李溶沫(イ・ヨンス)さんが出席しました(写真中=15日付沖縄タイムス=共同)。

 また支援団体の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」などは同日、「平和の少女像」があるソウルの日本大使館付近で通常より大規模な「水曜集会」を開催しました。

 キム・ハクスンさんはなぜ告発に踏み切ったのでしょうか。

「1990年ごろ、日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だと言っているというニュースを聞いて、私がここに生きているのに、なんでこんなことを言うのか、日本の政府はウソを言っていると思いました。私はそれを許すことができませんでした。私はとにかく日本政府に事実を認めさせなければいけないと思いました。
 私はこの時、朝鮮を植民地として支配をし、日本が起こした戦争に朝鮮人を引っ張っていき、巻き込んでおきながら、その責任をとらないということは、私は許されないと思いました」(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動のチラシより)

 キム・ハクスンさんは91年12月、日本政府を相手に裁判を起こします。その時の記者会見ではこう述べています。

一生、涙のなかで生きてきました。こんなことを金で補償できるでしょうか。私を17歳のときに戻してください」(『「慰安婦」問題と未来の責任』大月書店2017年より)

 キム・ハクスンの訴えは日本政府に届いたでしょうか。逆です。日本政府はその後も歴史の事実を否定し続け、安倍晋三元首相に至っては2015年、朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)との間で「日韓合意」を交わし、後世にわたってこの問題にフタをしようとしました。安倍元首相の下でその「日韓合意」を非公開で交わしたのが当時の外相、現首相の岸田文雄氏です。「合意」では「平和の少女像」を設置しないとする密約があったと言われています。

 岸田氏は就任以来、韓国やドイツの市民団体がベルリンに設置した「平和の少女像」(写真右)を撤去させる圧力をかけ続け、ついにベルリン当局に撤去を約束させました(7月24日のブログ参照)。
 これは、朝鮮人強制連行・強制労働の事実を隠ぺいしたまま「佐渡島金山」をユネスコ世界遺産に登録させたことと並んで、岸田政権の歴史的汚点の1つです。

 日本政府に戦時性奴隷の事実を認めさせ、被害者・遺族に謝罪させ、補償させなければなりません。33年前のキム・ハクスンさんの訴えを受け止めて声を上げなければならないのは、私たち日本人市民です。
 だから日本人は「8・14」を忘れてはならないのです。


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