
「日ロ米中の4カ国語を駆使して史料をひもといた」という麻田雅文・成城大教授が朝日新聞のインタビューに答えています(以下抜粋、太字は私)。
<――なぜソ連は、降伏寸前の日本に宣戦布告し、ポツダム宣言の受諾後も戦争をやめなかったのか。
「もともと、日ソ戦争を演出したのは米国です。米国は日本を無条件降伏させるため、ソ連の対日参戦を熱望し、働きかけていました。ソ連は41年に日本と中立条約を結んでいたためです」
「ソ連は対独戦の最中で腰が重かった。そのため45年2月の米英ソのヤルタ会談では、ソ連が対日参戦すれば、満州での港や鉄道の利権、さらに南樺太や千島列島も得られるという『報酬』が密約されました」
「ソ連は7月のポツダム会談で、8月15日に参戦すると米国に伝えました。ところが8月6日に、思いがけず米国が原爆を投下します。ソ連は、日本が降伏してしまう前に東アジアでの『報酬』を手にしようと、予定を繰り上げて参戦したと考えられます」
「日本のポツダム宣言受諾後も、ソ連は日本軍に正式な停戦命令が出ていないなどとして、すぐには停戦に応じませんでした。スターリンが満州での戦闘停止を命じたのは18日になってからです」
――犠牲者は。
「兵士は、ソ連側の死者・行方不明者は1万2千人とされます。日本側はより甚大でしたが、よくわかりません。
一方、民間(日本側)では、停戦後も含めて満州と朝鮮半島北部で約20万人、南樺太では約4千人が犠牲になったといわれています。成人男性の多くはシベリア抑留を強いられ、女性にはソ連兵からの性暴力もありました。集団自決や、日本本土に帰れなくなった残留孤児・残留婦人も生じ、戦後は戦没者の遺骨収集もままなりませんでした」
――北方領土は今もロシアが支配したままです。
「岐路となったのは、米国の対応です。最初に千島列島に上陸したがったのは米軍です。対日戦の空爆基地にしたかったのですが、侵攻すると犠牲が大きいと考え、代わりにソ連の進軍準備を支援しました。ソ連軍に艦艇を供与し、島への上陸作戦の経験が少なかったソ連兵の訓練まで請け負いました」
「スターリンは8月16日、千島列島と、北海道の釧路と留萌を結ぶ線より北の半分を米国に要求します。当時のトルーマン米大統領は翌日付の返信で、北海道は譲らないとした一方、千島列島は同意してしまうのです」
「戦後、ソ連は北方四島を早々に自国領とします。『喪失』の責任は米国の歴代大統領にもあります。今も米国が北方領土問題に消極的なのは、こうした過去のためでしょう」
――日ソ戦争は多くの人が「忘れて」いる。
「二つの『神話』に埋もれた面があります。一つは、米国の原爆投下が戦争を終わらせたという『神話』です。二つ目は、天皇の玉音放送があった8月15日の『神話』。戦後は『終戦の日』と呼ばれ、15日以降も続いた日ソ戦争は視界の外に飛んでしまいました」
「外国の戦争のようにも思われたのではないでしょうか。実際は、南樺太も千島列島も日本領で、満州には150万人超の日本人が暮らしていました」
「マスコミも日本の施政権が及ばなくなったところは、あまり扱いません。広島、長崎に比べて、日本社会の中での情報量が明らかに少ない。>(8月22日付朝日新聞デジタル、写真の地図も)
ソ連を参戦させるために「報酬」を「密約」し、千島列島侵攻を後押しし、その領有に「同意」した。それはすべてアメリカがやったこと。多大な犠牲を出し今も「領土問題」が難航している「日ソ戦」の陰の演出者はアメリカだった―。
そうした重大な「日ソ戦」が日本で語られることが少ない背景には、満州・南樺太・千島の人々を切り捨てた棄民政策があり、天皇裕仁の「玉音放送」で戦争が終わったという「神話」があった―。
究明しなければならない東アジア・太平洋戦争の史実はまだまだ山積しています。