アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「しまくとぅば連絡協議会」設立に思う

2013年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 絶滅の危機に瀕している琉球諸語(しまくとぅば)の復興・継承を図ろうと、連絡協議会が30日設立されました。同日夜、那覇市民会館(中ホール)で設立総会と記念講演(宮良信詳琉大名誉教授)、シンポジウムが行われました。ほぼ満席の約250人の参加者からは、いつものシンポにはない熱気が感じられました。ほとんどがうちなーぐち(沖縄語)で進行したため、私には諸発言の細部は分かりませんでしたが、日本語の資料と、うちなーぐちの端ばしから集会の概要はつかめました(「しまくとぅば」と「うちなーぐち」は違います。その違いには重要な意味がありますが、それについてはまたの機会に。しまくとぅばは琉球諸語、うちなーぐちは沖縄本島の沖縄語という意味で使います)。
 なぜ今しまくとぅばの復興なのか。宮良氏の次の言葉が参加者の思いを代表していました。「現在、琉球諸語、地域文化、価値観などの独自性が、少数派に属するからという理由で軽視されて、強い勢力をもつ日本語、日本文化、日本的な価値観にだんだん呑み込まれつつある。そのような、ふがいない危機的現状を阻止するために『しまくとぅば』の復興が待たれる。『しまくとぅば』を失うことは、我々にとって自らのアイデンティティを失うことになる」
 シンポでは3人の青年が自らの体験・生活から、しまくとぅば復興の必要性を語りました。その中で、嘉数道彦さん(34歳・国立劇場おきなわ芸術監督=写真右の左端)が、「単にしまくとぅばが大切だから覚えなければならないというのでは、方言札(かつて沖縄同化政策の中で学校でしまくとぅばを使うと罰として首から下げさせられた札)の反対の”ヤマト札”になってしまう。しまくとぅばが残っている沖縄の芸能を大切にすることから始めたい」と述べたのが印象的でした。
 分からないうちなーぐちが飛び交う中に身を置きながら、私は、これは「沖縄独立運動」の一環なのだと痛感しました。そして、沖縄に来て以来一貫してしまくとぅば(うちなーぐち)には関心を持ってきましたが、この会にはヤマトンチュである私は軽々に参加すべきではないと思いました(入口で入会を受け付けていましたが)。
 しかし、嘉数さんの「苦しみもがいてきたウチナーンチュの心とは何か、文化とは何かを考えることから踏み出そう」という再度の発言で、心が動きました。協議会の規約が会員資格を「しまくとぅばの復興と継承をめざし賛同するすべての個人及び団体」としている(「琉球独立学会」が琉球人に限定したのとは違い)ことにも好感が持てました。
 集会終了後、私は入会しました。良かったのか今も確信はありません。ただ、安易な好奇心からではないし、そうであってはならないと肝に銘じています。

 <今日の注目記事>(31日付琉球新報1面トップ)

 ☆<オスプレイ着陸失敗 「最も重大な事故」 機体大破 海軍「クラスA」認定>
 「米ネバダ州で現地時間26日(日本時間27日)に米海兵隊の垂直離着陸機MV22オスプレイが着陸に失敗した事故で、米海軍安全センターは29日までに事故の規模を最も重大な『クラスA』に分類し、機体は大破したと評価していることが琉球新報の調べで分かった。26日の事故について、事故機が所属する海兵隊ミラマー基地は『ハードランディング(激しい衝撃を伴う着陸)』だったと説明しているが、乗員の避難後に機体が炎上し、大破するほど衝撃が大きかったことが今回の評価でも裏付けられ、事故が墜落だった可能性が一層高まった」


「瀬長亀次郎那覇市政」からいま学ぶもの

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 瀬長亀次郎(1907~2001)の歩みと歴史的資料を展示する「不屈館」(那覇市)が夏休み連続講座を開催しました。その一つとして、瀬長さんの那覇市長時代(1956・12~57・11)を振り返る講座がありました(8日)。講師は瀬長さんの二女で不屈館館長の内村千尋さんら。わずか11カ月でアメリカによって妨害・追放された瀬長市政でしたが、いまあらためて学ぶべきものが多いと再認識しました(写真左は不屈館展示パネルから)。
 その一つは、瀬長市政の豊富な実績です。瀬長さんといえばたたかう闘士というイメージですが、瀬長市政は庶民の生活に密着した多くの施策を実行してきました。保育所・子どもの遊場の新・増設、学校新設(前島小)、橋建設(泉崎橋、中の橋)、市民集会所建設(資材は本土・総評のカンパ)、守礼門の復元、霊園整備(識名園)などなど。子どもの成長・教育、市民の自治を重視した行政姿勢が表れています。わずか11カ月でも首長の姿勢と決断次第でこれほどのことができるのです。もし瀬長市政が4年、いやあと1年続いていたら、どんな那覇市になっていただろうかと思わずにはいられません。それを潰したアメリカへの怒りが改めてこみあげてきます。
 もう一つは、瀬長さんが常に市民に顔を向け、情報を提供し、市民の声を聴くことに特別の努力を払ったことです。その具体例が市広報紙「市民の友」の質・量ともの充実です。発行回数を増やし、内容もたんなる広報ではなく、まさに新聞(2~4㌻)そのもので、一方的な発信ではなく「反対派」の主張も載せるなど、客観的な情報提供に努めています。いかにも新聞記者出身の瀬長さんらしい施策です(写真右=不屈館ブックレットから)。
 その「市民の友」の1つ(57・4・13付)に、「瀬長市長のメッセージ」が掲載されています。反対派による「市長不信任案」が不発に終わった時、11万市民に送られたメッセージです。「他の人間の集団と同じく、市会にも反対者も賛成者も存在する。・・・もともと正邪、善悪は人間の社会がつくったもので主観的なものである。真理とは、この主観的なものをはなれて実存する客観であり、それはただ一つしかない。だから、各人の主観が正しいか正しくないかは客観的真理の光によって照らしてみれば判る。そして市民大衆こそが真理の鏡をもっている」
 客観的真理と市民大衆へのゆるぎない信頼。これこそ瀬長市政を、瀬長亀次郎の不屈の人生を支えたものにほかならないでしょう。瀬長さんから学ばねばならないことが、まだまだたくさんあります。

 <今日の注目記事>(30日付琉球新報1面トップ)

 ☆<オスプレイ「墜落」濃厚 米ネバダ州事故 乗員脱出後に機体炎上>
 「米西部ネバダ州で現地時間の26日(日本時間27日)に、米軍普天間飛行場配備機と同型の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが着陸に失敗した事故について、事故機が所属する米ミラマー基地は29日、琉球新報社の取材に対し、事故機から乗員が脱出した後に機体が炎上したと明らかにした。炎上を招くほどの強い衝撃が機体に加わっており、事実上の墜落事故だったとみられる。米軍は着陸失敗について『ハードランディング(危険な状態での着陸)だ』と説明している」


伊江島「命どぅ宝の家」・謝花さんの思い

2013年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 伊江島は本部港からフェリーで30分、周囲22・4㌔の楕円形の島です。その象徴は中央に突き出た岩山(タッチュー、海抜172㍍)と、”沖縄のガンジー”といわれた阿波根昌鴻さん(1901~2002)の「命どぅ宝の家」(わびあいの里の反戦資料館=写真左)でしょう。戦後米軍が「銃剣とブルドーザー」で沖縄の土地を強奪したのに対し、阿波根さんが率いた非武のたたかいはその後の「島ぐるみ」土地闘争の発火点となりました。
 そんな歴史から、伊江島は”たたかう島”だというイメージがありましたが、実態はそう甘いものではありませんでした。27、28両日訪れ(2回目)、その保守性、”もの言わぬ”島民性を突き付けられました。例えば、本島との唯一の交通手段であるフェリーの運航時間(現在伊江始発が8:00、本部発最終が17:00)を1時間延ばせば、島から本島の高校に通学することが可能になります。島民の悲願でもあるこの一事も、村議会で論議はされてもまったく実現のメドはありません。オスプレイ・基地問題も、金目当てで、「どうぞ来てください、という軍用地主や住民が少なくない」という声も聞きました。
 そんな伊江島の風土をなんとかしようとたたかい続けているのが、阿波根さん亡きあと「命どぅ宝の家」を守り続けている謝花悦子さん(75)です。謝花さんは今年の「4・28屈辱の日」に向けて、「伊江島で初めて」の「オスプレイ・基地反対集会」を企画し、準備に準備を重ねて実行。「権力と金力の強い島」(謝花さん)で、約20人の村民が集会に参加しました(村民以外は約150人)。さらにその後、オスプレイの低周波問題で渡嘉敷琉大教授を招いて学習会を実施。約30人の村民を集めました。いずれも画期的なことです。それでも謝花さんは「(阿波根さんに比べて)何もできないのが歯がゆい」と言います。
 謝花さんのもう1つの懸案は、「この(現在の資料館の)3倍はある」という阿波根さんの未公開資料の保存・展示です。12年前から大学教授らによって調査・保存活動が続けられていますが、資金不足などでなかなか進展していません。「新しい展示館でもっと多くの人に見てほしい」というのが謝花さんの思いです。
 体調もおもわしくなく車いす生活の謝花さんですが、訪れる人には、どんなに少人数でも(1人でも)、日程が合う限り、直接語りかけます。28日も3人の小学生に30分(写真右)。「戦争はなぜ起こると思う?」「平和をつくる力は学習よ」「いい心を持った人になってね」。安倍政権下で進む反動化。なかなか動かない沖縄・伊江島の現実。煮えたぎる胸の内、歯ぎしりする悔しさを、子どもたちへのやさしい語りかけに変えて。その思いを子どもたちバトンタッチするように。大人には、「子や孫に土地と平和を残すのは大人の責任」という言葉が、鋭い視線とともに、胸に突き刺さりました。

 <今日の注目記事>(29日付琉球新報1面)

 ☆<オスプレイ着陸失敗 機体「激しく損傷」 墜落可能性高まる 米紙報道>
 「米西部ネバダ州で現地時間の26日(日本時間27日)に、米軍普天間飛行場配備機と同型の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが着陸に失敗したことについて、米地元紙は27日、機体が激しく損傷していると報じた。AP通信も事故について『クラッシュ(墜落)』と伝えている。事故機が墜落した可能性が高まったが、事故について米軍は『ハードランディング(危険な状態での着陸)』と説明している」


映画「笹の墓標」が教える「日本の加害責任」と遺骨

2013年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3Photo_5 23日まで桜坂劇場でドキュメント映画「笹の墓標」が上映されていました。全5章計9時間7分におよぶ超長編で、私は3つの章を観ました。監督は藤本幸久さん(写真右)と影山あさ子さんです。
 戦前・戦中、北海道には約15万人の朝鮮人が強制労働を強いられていました。そのうち過酷労働、暴力、飢餓などで命を落とした人が、確認されているだけでも約2500人。これだけでも大変な事実ですが、さらに問題なのは、その遺骨の多くが、いまだに北海道に眠っていることです。映画は、韓国、日本、在日の青年たちが共同で遺骨を発掘していく過程を、1997年から2012年まで追ったものです。青年たちはときに衝突しながら、本音を出し合い、遺骨を掘って身元が判明するものは遺族に返すというワークショップによって相互理解を深めていきます。
 その青年たちの姿が主題です。そこにはこれからの韓国、朝鮮、日本の未来に一筋の光明さえ見ることができます。でも私は、そのことよりもやはりこの映画は「日本の加害責任」を告発したものだと受け止めました。強制連行・強制労働だけでも重大なのに、多くを死に至らしめ、さらにその遺骨さえ放置する。せっかく掘り当てた遺骨の多くは「集団埋葬」されていたため身元の判別ができません。遺骨発見の知らせに韓国から来日した遺族が、どれが家族の遺骨か分からず泣き崩れる姿は印象的でした。人の命、個人の尊厳、家族の思いなどまったく意に介さない当時の日本政府・企業の行いには怒りを禁じえません。
 そんな政府・企業とは対照的に、遺骨発掘を続ける市民たち。中心になっている殿平義彦氏(一乗寺住職)らが遺骨を韓国に届けると、遺族は「日本政府や韓国政府がやらないことをやってくれた」と泣いて感謝します。殿平氏は「国を失い、青春を奪われ、60数年も帰ることができなかった」遺骨と遺族に、「加害国日本の国民として」謝罪するのでした。
 遺骨が家族の元に帰れないまま放置されているのは、沖縄戦の犠牲者も同じです。それを具志堅隆松さんら市民がボランティアで発掘しているのも同じです。本来それを行うべき国が責任を放棄しているのもまったく同じ。北海道(それ以外の地域も)の強制労働と沖縄戦の同じ構図が、遺骨を通して浮かび上がってきます。遺骨を発掘し、DNA鑑定などで身元を判別し、遺族の元に返す。これは政府が行わなければならない、最低限の「加害責任」です。
 問題は政府だけではありません。私はこの映画が伝える事実を、これまで知りませんでした。知らなくても韓国・朝鮮の人たちにとっては私も「加害国日本の国民」の1人です。知らなかったではすまされない、知らなければならない歴史の事実が、この国にはまだたくさんあると、あらためて気づかされました。

 ※伊江島へ取材旅行のためあすの「日記」は休みます。

 <今日の注目記事>(27日付琉球新報から)

 ☆<はだしのゲン 閲覧制限を撤回 松江市教委 「手続きに不備」>(1面トップ)  
                        ※沖縄タイムスも同様記事(共同電)を1面トップ
 ※事実経過は広く報じられているので省略します。ただ、撤回理由を「手続きの不備」としているのは、ことの本質を隠ぺいするものです。

 ☆<はだしのゲン 閲覧制限撤回 いつか沖縄戦も 体験者「口封じ」を懸念>(社会面)
 「島根県松江市教育委員会が市立小中学校に求めていた漫画『はだしのゲン』の閲覧制限を撤回したことについて、沖縄戦の継承に取り組む県内の戦争体験者や識者から『当たり前』との声が上がる一方『今後、沖縄戦も口封じされるのではないか』『他に類似例がないか点検すべきだ』などとも話し、強い危機感が拭えていないこともうかがえた。・・・高島伸欣琉球大名誉教授(社会科教育学)は、松江市前教育長が教育委員に諮らずに閲覧制限を決めたことに注目し『安倍政権は教育長に権限を集中させ、教育委員会を諮問機関に格下げしようとしている。その問題が具体化した』と強調する」
 ※これで問題を終わらせることはできません。


「琉球・沖縄史を県民の共有財産に」-新城講演に共感

2013年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3Photo_4 「沖縄はどのようにして日本になったのか」、と題した新城俊昭さん(沖縄歴史教育研究会・沖縄大客員教授)の講演会が25日、西原町図書館でありました(ニシバル歴史の会主催)。「琉球処分」(1879)前後の近世史を中心に、初めて聞くことも多く、大変興味深い話でした。要点をいくつか紹介します。
 ☆1871年、明治政府は中国を宗主国としていた琉球を日本に併合するため、本土で廃藩置県を行いながら、琉球はいったん日本の藩にした後で解体するという巧妙な手段をとった。
 ☆1875年、松田道之を処分官として派遣し「廃琉置県」を通告。「明治元号」の使用とともに鎮台分営(軍事施設)の設置を提示するが琉球は拒否(今の与那国島を想起させます)。
 ☆1880年、琉球の帰属をめぐる中国(清)との交渉の中で日本は宮古・八重山の割譲を提案。その目的は日清修好条規の有利な改正。それが日米修好条約など不平等条約改正のはずみにもなると考えた(分島・増約案)。中国がロシアとの国境問題を抱えていた足元を見たもの。この日本案を中国ものみ、10日後には調印という段階まで至ったが、幸地朝常らの中国への請願、林世功の自決による抗議で食い止めた。
 ☆1881年、中国との再交渉で日本は再び「宮古・八重山に王国復活」を提案。元国王・尚泰を中国に引き渡してもいいとさえ表明。中国は宮古・八重山に首里を加えることを要求。琉球はあくまでも日本からの「全面返還」を要求し、決裂。その真意は宮古・八重山に都落ちするより「琉球処分」を受け入れ士族の身分と生活の保障を手にした方が得策との打算あり。
 一貫しているのは、日本が琉球(沖縄)を「国益」のための手段としか見ていなかったこと。「捨て石」です。そして琉球の「抵抗」の裏にも、庶民の生活を顧みない士族の保身がありました。新城さんは琉球側の根本問題は、当時の指導者らに日本からの全面返還(独立)後の「琉球の将来像を描く具体的なビジョンが欠けていたこと」だと指摘。翻って今日の基地返還運動はどうかと問題提起しました。新城さんは今日「琉球独立」論が注目されていることには必然性があるとしながら、自身は「独立」ではなく、日本の中での「自立」を目指したいと、そのイメージ(写真右)を示しました。たいへん共感できました。
 永年高校教師を勤めた新城さんは、アンケート調査などで沖縄の高校生が琉球・沖縄の歴史を知らない実態を示し、重大な問題だと指摘しました。新城さんらは今年3月、県議会に高校で沖縄史教育を必修化するよう陳情しました。全会一致で採択されましたが、その後なんの措置もとられていません。「高校生は沖縄の歴史を学びたがっている。しかし教えられていない。このギャップを埋めるのは大人の役割です。琉球・沖縄の歴史を県民の共有財産にしたい」と力を込めました。
 明治政府が琉球を日本に同化させ統治するために、最大課題としたのが「教育現場から琉球・沖縄の歴史を削除することだった」と新城さん。自国の歴史を学ぶこと、その改ざんを許さないことが国民・民族にとっていかに重要なことか、改めて胸に迫ってきました。

 <今日の注目記事>(26日付沖縄タイムス1面)※琉球新報も2面

 ☆<集団的自衛権 反対47% 共同通信世論調査>
 「共同通信が24、25両日に実施した全国電話世論調査によると、憲法解釈で行使が禁じられている集団的自衛権については『行使できないままでよい』が47・4%で最多。憲法を改正して行使を容認すべきだとする回答が24・1%で、憲法解釈の変更で行使を容認すべきだとの回答は20・0%だった。行使容認に向け憲法解釈の見直しを進める安倍政権の方針にも50・0%が反対し、賛成は39・4%だった」
 ※久しぶりに気分が軽くなるニュースです。でも世論(世論調査)はうつろいやすいもの。学習と議論を広げなければ、安倍改憲内閣には対抗できません。


気になる東北・被災地からの「たより」

2013年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3Photo_4 東京電力福島第一原発の汚染水流出。福島の子どもの甲状腺がん多発。大変なニュースを聞くたびに、東北・被災地が気にかかります。そんな折、被災地から2通のたよりが届きました。
 1つは宮城県・気仙沼のY・Oさんからの暑中お見舞いです。こう書いてあります。「夏なのにセミが鳴きません。八月なのにあじさいが咲きません。山ゆりが満開なのに香りません。ナゼ?何か楽しい事ないかな~。雨が続きますがお体に気を付けて下さい」。気仙沼でも確実に環境変化が起こっているようで、心配です。実はY・Oさんとは一面識もありません。お名前にも覚えがないのです。おそらく昨年春、「仮設住宅の被災者にハガキを送ろう」という支援活動の呼びかけを新聞で知り、おたよりした方のお一人ではないかと思います(昨年まで住んでいた千葉からの転送でした)。新しいご縁がつながったことはうれしいのですが・・・。
 もう1通は、福島のNPO花見山を守る会からの「復興支援活動通信」です。こちらは昨年福島でのボランティアで花見山に桜の苗木を植えさせていただいたときからのつながりです。多彩な活動が紹介されていて、あらためて被災地のみなさんの奮闘に励まされます。その中の「子供支援活動」が注目されました。「『放射能ってなあに?』という本を各幼稚園、施設へ配布しています」というのです。独立行政法人・科学技術振興機構理数学習支援センターという所から寄贈された120冊を市内の幼稚園・保育所に届けたといいます。どんな内容の本なのか気になります。「上手に放射能と付き合う生活を送るためにも」という記事のコメントも気になります。放射能との「上手な付き合い」とは?
 もう1つ気になるのは、「市内のスーパーにデビューしました!とても人気商品ですよ」という記事。会が栽培したトマト、ナス、スイカなどが福島市内の大手スーパーで販売されるようになったというニュースです。福島産野菜の「地産地消」については原発事故直後から現地でも見解・態度が分かれています。。もちのん基準値以下ですが、それでも気になります。農家や支援団体は懸命に作り、復興支援の大きな柱になっているのですが・・・。
 「3・11」以降、自分は何をすべきかを考え続けた結果、沖縄へ来たのでした。被災地・東北ではなく。その選択に後悔はありませんが、沖縄のたいへんな状況に身を置くほど、相対的に「東北」が遠く感じられるのは否めません。ほんとうはその逆でなければならないはずなのに。「沖縄」と「東北」をどう結ぶか。考え続けなければなりません。

 <今日の注目記事>(25日付琉球新報、沖縄タイムスともに1面トップ=共同電)

 ☆<集団的自衛権で新法 政府自民検討 行使容認に備え>
 「政府、自民党内で、従来の憲法解釈で禁じられてきた集団的自衛権の行使を容認した場合に備え、自衛隊による行使手続きを定めた新法『集団的自衛事態法』(仮称)を整備する案が検討されていることが分かった。関係者が24日、明らかにした。・・・早ければ来年の通常国会提出を目指す」
 ※憲法の実質改悪を法律で先行・固定化しようとするもので、絶対許されるものではありません。


「普天間ハンスト」21日間。新たなステージへ

2013年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2Photo_3Photo_4 平和と正義のためにたたかう人たちの顔は、キャンドルの明かりに輝いていました。
 普天間基地へのオスプレイ配備反対・基地撤去を求める「断食座り込み」は23日で区切りをつけ、同日夜、「終結夕べの集い」が宜野湾市役所前広場で行われました。2日午後8時から始まり、23日午後8時まで丸21日間。テントを訪れ激励した人は延べ約600人。集まった約150人はその成果を確信し、明日からの新たなたたかいを誓い合いました。
 冒頭、ハンストを始めた(写真左上の左から)赤嶺和伸さん(59)、栄野川安邦さん(79)、小橋川共行さん(70)、翌日から加わった新垣敏光さん(70)の4人が紹介され花束贈呈。カマドゥ小の人たちが用意したペットボトルキャンドルのもと、海勢頭豊さん(「月桃の花」など)、島袋艶子さん(でいご娘「艦砲ぬ喰えー残さー」)、知花賢招さん(「静かな空を返して」)の歌、ストリートダンスの若者たち、そして全員で腕を組んで「沖縄(普天間)を返せ」の合唱。一味も二味も違った多彩な内容でした。閉会宣言で赤嶺さんは高らかに呼び掛けました。「高江の星よ、辺野古の海よ、嘉手納の大地よ、普天間大山ゲートよ、野嵩ゲートよ、わが情念の遥かなる飛翔を支えよ!」
 テントの前には2つの「警告」が貼られていました。1つは佐喜眞淳宜野湾市長が座り込みを「不法占用」とし「原状回復」するよう立ち退きを求めたもの。対するもう1つは市民からの警告です。「使用許可を得ない状態での普天間基地の使用および占用は不法占用であり、速やかに撤去し、原状回復するよう警告します」。2つの「警告」の対比に、今の事態が象徴的に表れています。
 海勢頭さんは「事態を冷静に見つめ、たたかい方を考えていこう」と言いました。「集い」の「声明文」はこう締めくくられています。「私たちは今後も第2、第3の新しい運動を目指すつもりである」。21日間のハンストは確かに「新しい運動」への起爆剤になりました。問題はこれからです。目指すべき運動とは?
 今回のハンストを見ていて、そしてわずか8時間でしたが「リレー断食」に参加させていただいて、痛感するのは、たたかいには「場」が不可欠だということです。誰でも気軽に立ち寄れる場、様々な考えを交流し合える場、学び合う場、ウチナーンチュとヤマトンチュが本音で語り合える場、連帯の場です。辺野古にテント小屋があるように。伊江島に「命どぅ宝の家」があるように。野嵩にあったそのわずかなスペースがあの深夜のだまし討ちフェンスで奪われたのです。たたかう力は知ることから。学び合うことから。連帯は本音の語らいから。
 「集い」のあと、固い握手を交わしながら、赤嶺さんがしみじみ言いました。「語らいの場が、ほんとうに、欲しい」。思いは同じです。

 <今日の注目記事>(24日付沖縄タイムス社説から)

 ☆<届かぬ「沖縄の声」 知事が前に出るときだ>
 「『沖縄の声』は、どうして日米政府に届かないのだろうか。ここで『沖縄の声』というのは、穏やかな暮らしと平和を願い普天間飛行場の辺野古移設とオスプレイ配備に反対する『ごく普通の人びと』の声のことである。/宜野座村は村面積のおよそ50%を米軍基地が占める。村人口約5800人。22日に開かれた『米軍のヘリ墜落事故に抗議する宜野座村民大会』には、主催者発表で1100人が参加したという。/大会の主役は、この地で暮らしを営む『ごく普通の人びと』だ。・・・動かない両政府を動かすためには、仲井真弘多知事が日米両政府に対し、誤ったメッセージを与えないことが大切だ。/米政府や議会周辺では『知事は埋め立てを認める』との観測が急速に広がっているのだという。情報源は知事の翻意を願っている人たちだ。単なる希望的観測だと言い切れないのは、知事の言動にそう思わせるものがあるからである」
 ※仲井真知事の態度は参院選以後変わってきつつあるように感じられます。まさに正念場です。


対馬丸撃沈69周年・・・改めて知る「子どもの戦争」

2013年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_4Photo_5 69年前のきのう、1944年8月22日22時23分、825人の疎開学童を含む1788人を乗せた対馬丸が、米潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました。学童780人を含む1482人が亡くなりました(正確な数はいまも不明)。「疎開」を強制した「国策」の犠牲者です。慰霊祭が「小桜の塔」の前で行われました。つしま丸児童合唱団の子どもたちが歌で平和を訴えました(2人が暑さで倒れながら)。
 対馬丸記念館を訪れました。2回目です。館内でちょうど「戦争と動物たち」という特別展を開催していました(9月10日まで)。動物がいかに戦争に巻き込まれたか、戦争がいかに家庭の末端まで浸透させられていたか、改めて知ることができました。
 ・・・当時農家の貴重な働き手であった馬も徴用され、農民は「バンザイ」で送り出した。1944年に3万1914頭だった沖縄県内の飼育馬は46年には7731になっていた。
 ハト・・・伝書鳩として訓練され軍の通信手段として使われた。撃ち落とされたものも少なくない。軍事用に使われたハトの多くは、中学生が飼育していただった。
 ウサギ・・・皮を軍服・軍帽に使うため、軍は1000万羽の飼育を目指し、すべての家庭で数羽ずつウサギを飼育するよう呼び掛けた。
 犬・猫・・・はやり軍服用に供出を推進。写真左は「大犬1頭7円」などで買い上げると告知した役場の回覧板(武豊町1944年10月3日)。こう記されている。「供出ノ犬猫皮ハ皇軍将士ノ防寒用トナリ戰力増強ノ一助ニ資スル・・・」
 気付くのは、こうした動物の供出は、当の動物たちはもちろん、それを飼っていたいた子どもたちを戦争に巻き込んでいく過程でもあったということです。それを象徴的に示す資料が展示されていました。ウサギの飼育を呼び掛けた当時の小学生向け新聞「少国民新聞」(1945年1月26日付、現毎日小学生新聞=写真右)です。こう書かれています。「『憎い敵、米兵をたたきのめすためなら、どんなことでもするぞ』それは全国の少国民の今の気持ちでありませう。勝ち抜くために、みなさんのする仕事はたくさんあります。軍用うさぎの飼育もその一つです」
 新聞による「戦意高揚」は、大人だけでなく、小学生にも向けられていたのです。新聞社はその反省を明確にしているのでしょうか。戦争は子どもたちに人を憎むことを、命(動物も含め)を戦闘に捧げることを「美徳」と教えるのです。こんな状況に二度と子どもたちを置いてはいけない。69年目の対馬丸の記念館で、あらためて思いました。

 <今日の注目記事>(23日付琉球新報1面、社会面など)※沖縄タイムスも1面など

 ☆<米軍ヘリ墜落に抗議 宜野座村民大会 1100人 飛行中止要求
    オスプレイ撤収も決議>
Photo_6  「米軍ヘリ宜野座墜落事故に抗議する宜野座村民大会(村基地対策協議会主催)が22日午後6時半から、宜野座ドームで開かれた。抗議の意思を示す赤色のはちまきを頭に巻いた村民や近隣町村の住民ら1100人(主催者発表)が結集し、墜落事故に抗議するとともに、過重な基地負担の軽減を求め、怒りの拳を突き上げた。同日午後6時ごろには、事故機と同型のHH60ヘリが上空を飛行した。事故に抗議する村民大会直前の飛行に、住民からは『大会をばかにしている』と批判が相次いだ。宜野座村が米軍基地被害に対する村民大会を開いたのは今回で5度目」


沖縄旧盆行事と女性の地位

2013年08月22日 | インポート

PhotoPhoto_2 21日(旧暦7月15日)は商店街が閑散としていました。旧盆3日目のウークイ(精霊送り)だからです。
 1日目が先祖を迎えるウンケー。2日目がナカビ(中日)。そして3日目のウークイで帰ってきた先祖を送ります。3日間の中でもウークイが中心で、一族(門中)は夜遅くまで集まって、準備された重箱料理などで歓談します。各町内会では青年部などによるエイサー隊が町内を練り歩きます(道じゅねー)。エイサーは本土でもおなじみですが、もともとウークイの日にそれぞれの村落で「神の庭」に集まって円舞を奉納し、そのあと各戸を巡回するのが起源。この日はまさにエイサーの出番なのです。私の町内でも子どもを含むエイサー隊が活躍し、多くの地域住民が沿道で迎えました(写真左。時刻は夜の10時)。
 先祖崇拝の信仰・文化が強い沖縄では、旧盆行事は正月よりも大切なものとされています。家族・一族が親交を深め、地域が交流する絶好の機会です。しかし、いいことばかりではありません。見過ごせないのは、ここにも沖縄の女性への差別が残されていことです。
 この3日間それぞれ違う料理・供物を用意しなければなりませんが、それはすべて女性、なかでも「長男の嫁」の任務とされています。「長男の嫁」は実に大変です。旧盆行事は女性の家事労働によって支えられているのです。
 より重大なのはトートーメー(位牌)問題です。トートーメーとは「ご先祖さま」を意味する「尊いおかた」からきている言葉で、亡くなった一族は朱塗りの小さな札に記入され次々並べられていきます。旧盆行事はすべてトートーメーを中心に、それが置かれている家で行われます(写真右はトートーメーの前に供えられた供物=テレビから)。位牌祭祀です。それは徹底した男系・父系中心の価値観にもとづいています。位牌の位置も、男が上段、女は下段と区別されています。深刻なのはその継承問題です。トートーメーは完全に女性を排除した男系継承です。もし長男の家に女の子しかいない場合は男兄弟の家族の中から養子を迎えます。その養子は婿とりではなく、トートーメーを継ぐだけの養子です。しかしそれは一族の財産権を持つことになるのでやっかいです。だから男子を生まねばならないという「長男の嫁」のプレッシャーは相当なもので、そのために多産を余儀なくされる場合もあるとか。こうした男系祭祀は、もともとの中国文化の影響の上に、ヤマトの土地私有制度、旧民法の家族制度が重なったもので、「トートーメーの男系継承の矛盾は、性差別の強い文化が、重層して沖縄の女性を追い詰めた、極限の形ではないか」(堀場清子氏)と言われています。
 家族、地域の絆を強める先祖崇拝の信仰・文化。その裏にある女性蔑視・差別。この二面性こそ「沖縄」です。かつて女性を抑圧していた洗骨問題が改善されたように、トートーメー継承問題にも改革のメスは入るのでしょうか。

 <今日の注目記事>(22日付琉球新報社会面)※沖縄タイムスも社会面トップ

 ☆<はだしのゲン 閲覧制限を容認 文科相が「配慮必要」 被爆者から反発も>
 「松江市教育委員会が市立小中学校に漫画『はだしのゲン』の閲覧制限を求めた問題について、下村博文文部科学相は21日の記者会見で『市教委の判断は違法ではなく問題ない。子どもの発達段階に応じた教育的配慮は必要だと思う』と述べ、理解を示した。閲覧制限には表現の自由を制限するとの批判的な意見があり、議論を呼びそうだ」
 ☆<「加害責任を隠蔽」 識者 言論封殺に危機感>
 「昨年12月に亡くなった作者の中沢啓治さんと親交のあった漫画評論家石子順さんによると、はだしのゲンが出版された当時も、残酷な表現などに対する批判が保護者らから起きた。石子さんは、今の少年向け漫画雑誌には、より残酷な場面が描かれているが、特に問題視されていないと指摘。『なぜこの時期に、はだしのゲンが蒸し返されたのか。悲惨な描写だけでなく、日本の加害責任に触れていることを隠そうとする意図を感じる』と話す。/漫画家の倉田真由美さんは『これほど戦争や原爆の怖さ、悲惨さを伝える本はない。これからも子どもたちに絶対読んでほしい』と強調した。作中で天皇の戦争責任に言及している点については『このところ天皇や皇族のことで、以前より自由に発言しにくくなっているように思う。言論封殺に少しずつ向かっているのでは』と危機感をしめした」


金城哲夫の実妹・上原さんの問題提起

2013年08月21日 | インポート

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Photo_3 「ウルトラマン」の作者・金城哲夫(写真左=映画「吉屋チルー物語」を製作した当時)のNHKアーカイブスが上映された時(11日、沖縄大学)、実妹の上原美智子さん(まゆ織工房主宰、写真右)と新城和博氏(編集者)の対談がありました。そこで上原さんが言われたことが忘れられません。
 「沖縄を日本人に理解してほしい」「沖縄と本土の架け橋になりたい」というのが金城哲夫の変わらぬ思いだったと、先日(18日)の「日記」に書きました。しかしこの点について上原さんはこう言われたのです。「哲夫がもし生きていたら、『本土との架け橋に』とは言わないのではないか。今問われているのは、『果たしてわれわれ(ウチナーンチュ)は日本人なのか』ということではないか。私も日本への復帰を願ったけれど、訴えても訴えても沖縄の現実は変わらない。沖縄の立ち位置が(哲夫が生きたころよりも)ずいぶん変わってきているというのが実感です。果たして私たちは日本人なのでしょうか」。
 その言葉が気になったので、企画終了後、上原さんに尋ねました。「”沖縄と本土の架け橋に”という時代ではないということでしょうか?」「コミュニケーションはもちろん必要です。でも、”この変わらなさは何なんだ”という思いが強いのです。『独立』という極端なことでなくても、沖縄の人間がどう生きていくのか。それが今、問われていると思います」。そして最後に言われました。「それは本土の人も同じではないでしょうか」。その言葉は優しく、しかしたいへん厳しいものでした。
 実はその前日(10日)、「NHKアーカイブス資料でたどる沖縄戦後史」というシンポ(沖大土曜講座)があり、上原さんも聴いておられたとのことでした。その中で上原さんが「共感した」という言葉があります。田仲康博氏(沖縄キリスト教大)の発言です。「『構造的差別』というが、その言葉は運動レベルでは力を持たない。『植民地主義』も同じ。身体感覚としては、沖縄は”占領”されている、ということだ」。
 本土では沖縄に対する「構造的差別」「植民地主義」という言葉さえ驚きを感じる人が少なくないでしょう。でも、沖縄の一部の識者たちの間では、それらの言葉すらすでに生ぬるい、実感とかけ離れていると思われているのです。その意識の差は大きく、さらに広がっています。
 開くばかりの沖縄と本土の距離。その間に、どんな橋を架けることができるのでしょうか。

 <今日の注目記事>(21日付沖縄タイムス1面トップ)※琉球新報は社会面

 ☆<追加オスプレイ初訓練 普天間配備の2機 旧盆中、協定より運用>
 「米軍普天間飛行場に今月追加配備されたMV22オスプレイ11機のうち2機が20日、配備後初めて飛行訓練を行った。同日は旧盆の中日(ナカヌヒー)に当たり、県民にとって、祖先の霊を迎え親族が親睦を深めるという重要な年中行事の一つ。日米両政府が1996年に合意した騒音規制措置(騒音防止協定)は『地域社会にとって特別に意義のある日は訓練飛行を最小限にする』と定めているが、米軍は協定順守より運用を優先した格好だ」
 ※沖縄にとって旧盆は正月以上の意味を持つといいます。そんな沖縄の風習・伝統、沖縄の人びとの思いなどお構いなし、という米軍の横暴さです。