アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

宮森小事件・・・「死んだこども」が訴えるもの

2013年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

HimawariPhoto 54年前の今日(1959・6・30)午前10時30分ころ、旧石川市(現うるま市)宮森小学校は炎に包まれ、学童12人(1人は後遺症)と住民6人の命が奪われました。嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機の墜落炎上。宮森小事件です(写真右は事件当時の児童が描いた絵=平良嘉男さんの講演から)。原因は整備不良。明らかな人災です。しかし米軍は「不可抗力だ」と強弁し続けました。
 事件を風化させまいと市民の力で作られたのが映画「ひまわり」です。今NHKの朝ドラで活躍している能年玲奈さんも主演の一人です。昨年暮れの完成以後、観客は沖縄県内だけでも2万人を超えました。オノ・ヨーコさんも観て「一人の夢は夢で終わるけど、皆で見る夢は実現する」と平和を願うメールが、映画「ひまわり」を成功させる会代表の加藤彰彦沖縄大学長に送られたといいます。加藤さんは「『ひまわり』をぜひ、若い世代に、子どもたちに見てほしい。そして共に生きる時代を創りたい」と訴えています(沖縄タイムス6月27日付)。
 先日、沖縄大学こども文化科の長堂登志子講師の授業で宮森小事件が取り上げられました。その時、J君が発言しました。「僕も宮森小の出身です。ジェット機事件を伝えるため、歌を歌う活動をしていました」。みんなは驚き、「その歌聴かせて」。翌週、J君はギターを持ってきてみんなの前で歌いました。曲は「死んだこども」。「先生、私はジェット機に 飛ばされても カバンをしっかり抱いていました もっと勉強がしたかったからです でも・・・でも・・・でも死んだこどもは 死んだこどもは・・・ 本を読むことも できません」・・・・。事件の直後琉球新報に掲載された村吉政達の詩に、在沖シンガーソングライターの会沢芽美さんが曲を付けたものです。クラスメートは感激し、大きな拍手を送りました。J君は「歌ってよかった。聴いてくれてありがとう。歌う機会を与えてくれてありがとう」。
 「死んだこども」の無念を、願いを、「皆で」受け継ごうとしている若者たちが、確かにいます。

 <今日の注目記事>(30日付沖縄タイムス社会面から)

 ☆<中村さんの遺志胸に 教え子戦争に送らない 告別式に500人参列>

 「3月に解散した沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会で長年、事務局長を務め、27日に99歳で亡くなった中村文子さんの告別式が29日、浦添市内であった。中村さんとゆかりの深い同会関係者をはじめ平和団体や女性団体、政界など各界から大勢の人が駆けつけ、別れを惜しんだ。・・・遺影の前で時間を掛けて手を合わせたり、『先生ありがとう』と呼び掛ける人も。故人が深く慕われていたことをうかがわせた。/1フィート運動の会元代表の福地曠昭さん(82)は『教え子を戦争に送ってはならないという信念に徹し、平和運動の先頭に立って頑張った。沖縄には難しい問題があるが、先生の遺志を継いで力を合わせれば曙光を見ることになると思う』と、中村さんが訴え続けた平和を求める心の継承を呼び掛けた」


「ふじ学徒隊」救った小池隊長の最期の命令

2013年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_3Photo_3 ドキュメンタリー映画「ふじ学徒隊」が28日まで那覇市内の桜坂劇場で上映されていました。
 ふじ学徒隊とは沖縄戦に看護要員として動員された積徳高等女学校の生徒たち(25人)のこと(同校の校章がふじの花)。砲弾飛び交う南部激戦地、狭く暗い壕の中で、研修も受けないまま負傷兵の看護に従事させられました。死線をさまよう苦難の日々だったことは他の従軍学徒隊と変わりません(沖縄戦に動員された女子学徒隊は10校約500人)。しかしふじ学徒隊には他と違う大きな特徴がありました。それは他の学徒隊が多くの死者を出したのに対し、ふじ学徒隊の死亡者は戦場で2人、戦後1人、計3人ときわめて少なかったことです。なぜか。「お国のために死ぬ」ことが徹底的に教育された当時にあって、隊長の小池勇助軍医少佐が最期の命令で学徒隊にこう告げたからです。「長い間の協力に感謝する。死んではならない。必ず生き残って親元へ帰りなさい。君たちにはあすの日本を担う任務がある。繰り返す。絶対に死んではならない」
 狂気の中での小池隊長のこの冷静な判断・命令が多くの命を救いました。上に立つ者の判断がいかに重要か。徹底抗戦を命じて自決した牛島満司令官と対照的です。まさに「命どぅ宝」です。ただ、それほど命を大切に思っていた小池隊長自身は、その直後に青酸カリで自決しています。軍国主義の根深い残酷さを思わざるをえません。
 この日が上映最終日とあって午前中の小劇場にもかかわらず30人ほどの人が観賞しました。観終わるとその中の1人の女性が見ず知らずの私に「ありがとうございました」と言われたのです。驚いて尋ねると、やはり元学徒隊の方でした。積徳高等女学校ふじ同窓会の新垣道子会長(写真右の中央)ら元学徒隊の方がた6名と、野村岳也監督がいらっしゃっていました。写真を撮らせていただき、それを新垣さんにお送りする約束をしました。どなたも、にこやかで穏やかな表情をされていました。
 みなさん、ほんとうにお疲れ様でした。私も命を大切にし、みなさんからの平和のバトンを引き継ぎます。

 <今日の注目記事>(29日付沖縄タイムス社会面見開きから。1面トップも同記事)

 ☆<国申請「不備」に反発 市民団体ら県も批判 辺野古埋め立て 反対意見呼び掛け
   計画ずさん 生活危ぐ 名護市長「実現できぬ」 首長ら あらためて反対」

 「米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた埋立申請書が一般に公開された28日、移設に反対する市民、環境団体は書類の不備を訴え、手続きが進む現状に反発した。国に求めた補正が十分でないまま、審査に必要な形式が整ったとする県の姿勢も批判。埋め立てを承認しないよう県に意見書を出すよう呼び掛けている」
 「稲嶺進名護市長は『移設に向けて事務手続きが淡々と進められようとも、地元の名護市や県をはじめ県内41市町村すべてが県外移設を求めている今、実現できるものではない』とあらためて強調した」


「領土紛争」・・・日韓台共通教材づくりの試み

2013年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 「領土紛争」が”先鋭化”する日本・韓国・台湾(竹島、尖閣)で、共通の学校教材を作り、共通認識を深めようという共同の取り組みが、3国の教育・研究者によって進められています。26日夜、沖縄キリスト教学院・短期大学でその報告と意見交換が行われました。
 取り組みの中心になっているのは、琉球大学・山口剛史さん(写真左から2人目)、韓国・建国大学・朴三憲さん(同右端)、台湾・南台科技大学・楊素霞さん(同左端)。3人は3月から韓国、台湾、沖縄で相互に共同授業を行ってきました。目標は「平和的共存」の方策を考えていくこと。そのポイントは2つ。1つは、「国家」「国民」とは可変的・相対的なもので、「固有の領土」「国境」を「生活者」「生活圏」をキーワードに捉え直す。もう1つは、日本の植民地主義をはじめとする歴史の共通認識を図ることです。3氏からは「結局竹島はどこの国のものなの?という質問が出た途端にアウト」など困難さも報告。フロアからも、「生活圏」の具体的な教え方、アメリカの記述、青年の「保守化」など質問・意見が続出し、熱心な討論が行われました。
 私も疑問がいくつかありました。①国家・国民の「相対化」と「アイデンティティ」の関係②中国(大陸)の共同プロジェクトへの参加③各国教育行政の下で自主的共通教材使用の可能性④今後のプロセスなどなど。
 確かに課題は山積しています。これまでの共同授業での学生の反応も千差万別です。大海にいかだで乗り出すようなプロジェクトです。でも、素晴らしい試みです。そして絶対に必要な企画です。教育には直接かかわらない私たち市民も注目し、可能な範囲で協力できればと思います。

 <今日の注目記事>(28日付沖縄タイムス社会面見開きから)

 ☆<元1フィートの会中村さん死去 非戦 細腕で先導 届かぬ願い次代へ>
  (1面にも記事)
 「沖縄の平和運動を先導してきた『1フィートの会』の中村文子さん(99)が27日、亡くなった。沖縄戦に教え子を送り出したことを悔い、戦後は一貫して、戦争に反対する『心の種まき』に取り組んだ。平和が脅かされる事態が起こるたび、小柄な体で先頭に立って警鐘を鳴らし続けた。思い入れが深かった『慰霊の日』を終えて旅だった中村さん。親しかった人らは『お疲れさまでした』とねぎらい、『遺志を引き継ぐ』と誓った」
 「自宅の床の間には憲法9条の掛け軸があった。毎朝、9条に『我ら』という言葉を付け加えて読むのを日課にしていた。『条文に「我ら」って入っていたらよかったのに。そうすれば、一人一人の自覚によって、憲法9条の精神が世界に広がっていくでしょう』(2006年)」


「沖縄の自立」に欠かせないもの・・・伊波普猷を見直す

2013年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

Photo_5Photo_7 月に1回開かれる「若い教職員のための平和教育講座」の第6回が21日ありました。今回のテーマは「沖縄の自立」。講師は比屋根照夫さん(琉球大学名誉教授=写真左)です。明治から大正にかけての沖縄言論界の特徴を学びましたが、私にとって収穫だったのは、伊波普猷(写真右)を見直したことです。
 伊波普猷(1876~1947)といえば「日琉同祖論」の提唱者で「沖縄学の父」。ヤマトによる琉球併合の「琉球処分」(1879)を「奴隷解放」と賛美し「同化政策」にも賛同した、というマイナスイメージを強く持っていました。しかし比屋根さんの話で、単純な評価は禁物だと知らされました。伊波は主著『古琉球』(1911)でこう言っています。「天は沖縄人ならざる他の人によっては決して自己を発現せざる所を沖縄人によって発現するのであります。・・・個性とはかくの如きものもあります。沖縄人が日本帝国に占むる位置もこれによって定まることと存じます。・・・もし沖縄人にしてその個性を無くすることができる人がいたら、これとりもなおさず精神的に自殺したのであります」。伊波の「同化」論はけっして沖縄の個性を潰してヤマトに同調することではなく、逆に、沖縄の個性を発揮することでした。そうしてこそ沖縄は日本に確かな位置を占めることができると考えたから、沖縄の言語、歴史、文化を学び研究する「沖縄学」を進めたのです。
 比屋根さんは、「『古琉球』の中心概念は個性。琉球人としての自覚、自己肯定を強調し、民族的統一の方向性を示した」とし、「それは『復帰(1972)』が真の統一であったのかという問題に通じる。そして沖縄は今も、その個性を伸ばすことを軍事基地が妨げている」と指摘しました。
 真の「自立」は個性の尊重・発揮であり、自己肯定である。それは民族・国家だけでなく、一人ひとりの個人にとっても言えることだと思いました。軍事基地が沖縄の「自立」を阻んでいるのは、こういう視点からも言えるのだと教えられました。
 100年前の「沖縄学の父」の言葉は、今も生きています。

 <今日の注目記事>(27日付琉球新報3面から)

 ☆<外務、防衛政務次官に早期調査を要請 ドラム缶で うりずんの会>

 「ベトナム戦当時の枯れ葉剤製造企業名が記されたドラム缶が沖縄市サッカー場から発見された問題で、県選出・出身野党国会議員5人でつくる『うりずんの会』の赤嶺政賢衆院議員らは26日、左藤章防衛政務次官と若林健太外務政務次官をそれぞれ訪ね、早急な調査実施とともに、米軍による返還跡地の原状回復義務を免除した日米地位協定の抜本改定を求めた。/左藤氏は27日に県内5業者と随意契約し、内容物や周辺の土壌汚染などを調査する方針を示し『1~2カ月の間に調査結果を出したい』と述べた。若林氏は米軍施設の利用履歴を日本側が把握すべきだと指摘した赤嶺氏らに対し『それは必要だ』と答えたという」
 調査に着手するのはいいことですが、中村梧郎さんが危惧していたように、それが公正に行われるのかどうか、懸念されます。


高江裁判で知るスラップ訴訟の危険

2013年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 オスプレイの基地にもなる北部東村高江のヘリパッド建設反対運動を続けている住民に対し、国(沖縄防衛局)が「通行妨害」だとして提訴した裁判の2審判決が25日、福岡高裁那覇支部でありました。判決は住民(伊佐真次さん=写真右)の控訴を棄却する不当判決。遠路小さな子ども連れで駆け付けた高江住民はじめ100人を超える支援者は、不当判決に怒りを燃やし、たたかいへの決意を新たにしました。
 私はこの裁判で「スラップ訴訟」という言葉を初めて知りました。スラップ訴訟とは威圧訴訟とか恫喝訴訟といわれるもの。政府や大企業など社会的「強者」が反対勢力や個人など「弱者」の活動を止めるために裁判を起こすものです。高江裁判はまさにそれです。司法を利用した反社会的行為であることは明らかで、アメリカでは多くの州で禁止されています。しかし日本では野放しで、数年前からみられるようになったようです。高江のほかに中国電力による上関原発に反対する祝島島民や支援市民への損害賠償訴訟も典型的なスラップ訴訟です。数人を見せしめ的に被告にして市民の分断を図り、高額な賠償請求で運動全体の足を止めようとするのが特徴です。私が知らなかっただけで、高江住民と上関原発反対(カヤック隊)のメンバーはすでに2年前から交流し、団結を誓い合っていました。
 この日の高裁判決はきわめて稚拙なもので、「とても判例となる価値はない」と弁護団は住民を励ましました。事実、意気消沈している人は見られませんでした。しかし、私には今回の判決が安倍内閣の誕生、改憲策動の強まりと無縁だとは思えません。日本の司法は強権国家になびくのです。国家によるスラップ訴訟がまかり通れば、国民の言論・表現の自由は抹殺され、反政府運動はことごとく弾圧されるでしょう。これはまさに全国民にかかわる憲法問題なのです。
 スラップ訴訟の危険性を多くの人に広め、日本でもそれを禁止する世論、さらに法的制度を作らなければなりません。高江のたたかいはその点でも、日本の民主主義を守るたたかいの最先端です。

 <今日の注目記事>(26日付沖縄タイムス第2社会面から)

 ☆<伊江島・オスプレイ補償要求 被害放置 現状打破へ>
 「米軍伊江島補助飛行場に隣接する真謝区と西崎区の一部住民約80人が、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの騒音被害と危険性を訴え、近く沖縄防衛局に住居の移転費用の補償と軍用地並みの補償を求める。訓練中止や飛行場返還ではなく補償を求め動き出した背景には、いくら被害を訴えても改善されないという諦めと、軍用地料を受け取っている近隣住民との摩擦を避けたいという事情がある」
 住民分断と金。これが政府の常套手段です。


「慰霊の日」と日本国憲法・・・知られざる秘話

2013年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 「慰霊の日」は終わりましたが、その歴史には知られざる秘話がありました。教えてくださったのは真栄里泰山さん(沖縄大学理事)です。メールでいただいた「はがきエッセイ」から抜粋します。

 琉球政府立法院が「慰霊の日」を定めたのは、1961年7月24日付立法第85号で、「慰霊の日 6月22日 沖縄戦の戦没者の霊を慰め、平和を祈る」としたものが最初である。1965年4月21日立法第6号で「6月22日から6月23日に改める」こととなった。そして同時に、琉球立法院では、「憲法の日5月3日 日本国憲法の施行を記念し、沖縄への適用を期する」と、憲法記念日を制定したのである。日本国憲法が適用されない米軍の直接統治下にあって、憲法記念日が制定されたことは、沖縄の戦後史、そして日本の戦後史にとって画期的な思想史的事件であったといっていい。それは、次第に盛り上がりつつあった沖縄の復帰の目標が、日本国憲法体制への復帰であることを、沖縄住民の代表機関が明確にしたことである。その後、復帰運動は大きく盛り上がった。
 72年の沖縄返還後、地方自治法が適用された。そのため沖縄県では、あらためて1974年10月21日「沖縄県慰霊の日を定める条例第42号」を可決して、独自に休日とした。その慰霊の日の意義を次の通り定めたのである。「我が島が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化遺産を失った冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受け止め、戦争による惨禍が再び起こることがないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに、戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める。」
 この条例による慰霊の日の意義は、61年、65年の立法趣旨と比較すると一段と進化したものだ。日本国憲法の文言を盛り込み、慰霊というのは「戦没者」や「英霊」だけを慰める日というにとどまらず、日本国憲法の恒久平和を希求するものとなっていることである。5・15の日本返還が沖縄住民の米軍基地即時無条件返還という要求に反し、米軍基地存続に加えて自衛隊が移駐してきたことへの反発の意思が込められているといっていい。以後、慰霊の日は沖縄では反戦平和の日として定着してきている。
 今年の慰霊の日には辺野古基地建設を強行し、憲法改悪し、国防軍を創設し、戦争のできる国にしようという安倍内閣が防衛大臣や外務大臣まで派遣。平和憲法の確実な実施を目指す「沖縄慰霊の日」の意義を台無しにするもので、「4・28」に続く沖縄への侮辱というべきものだろう。何のかんばせあっての参列か。沖縄はより一層頑張らねばなるまい。
   我等皆 九条となりて この国を 見守りており 忘るべからず
   和魂(にぎたま)と 鎮まりおれず 出で行きて 叱りとばさん この国の様

 「沖縄慰霊の日」と「日本国憲法」は一体不可分の関係だったのですね。
 沖縄人民の偉大さをまた一つ、知ることができました。

 <今日の注目記事>(25日付沖縄タイムス第2社会面>

 ☆<米業者 枯れ葉剤否定 沖縄市ドラム缶 「文字が違う」>
「沖縄市のサッカー場で見つかったドラム缶に社名が記されていた米化学メーカー『ダウケミカル』は24日までに、『ドラム缶の種類や文字が、エージェント・オレンジ(枯れ葉剤)輸送に使われていたものとは違う』と、枯れ葉剤である可能性を否定した。ドラム缶の写真を基に、沖縄タイムスの取材に答えた。/同社は、米国務省が沖縄での枯れ葉剤貯蔵や使用を全面否定した調査報告書を引用。その上で、『沖縄の米軍にエージェント・オレンジを出荷したことはない』とした。一方、沖縄市で見つかったドラム缶の内容物については、見解を示さなかった」
 同社や米当局の「否定」は建前ばかり。公正な機関での検査がますます必要になっています。
 
 


「慰霊の日の靖国化」許さず・・・炎天下に反戦集会

2013年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 6・23慰霊の日。午後1時半から糸満市・平和祈念公園の魂魄の塔(写真左)の横で行われる「国際反戦沖縄集会」に向かう途中、道路はものものしい警戒でした。そして1時過ぎ、白バイに先導された数台の黒塗り車が通り過ぎるまで、停止させられました。ちょうど安倍首相、小野寺防衛相、岸田外相らが帰る車列に出くわしたのです。
 慰霊の日の反戦集会は今回が30回目。炎天下、野外で2時間というきびしい条件でしたが400人(主催者発表)が熱い思いで集いました。報告は、多発する米軍犯罪、自衛隊配備の動き急な与那国、八重山の教科書採択問題、辺野古、高江情勢、韓国と沖縄の青年の取り組み。それに海勢頭豊さん、まよなかしんやさんのミニコンサートなど、現在の沖縄の焦点が網羅された多彩で深い内容でした。
 いずれも貴重な報告でしたが、特に1つ、気が付いたことを。普天間飛行場の辺野古移設を図って政府が提出している埋め立て申請は、現在県が審査中でやがて仲井真知事が判断を下します。それがいかにずさんなものであるかの報告の中で、埋め立て用の土砂の問題が指摘されました。それは業者まかせで、どこの土砂で、どんな成分が含まれているかは調べもしないとのこと。それでピンときたのが、枯れ葉剤・ダイオキシンです。フォトジャーナリストの中村梧郎さんが警鐘を鳴らし続けている沖縄の土地汚染。返還された米軍基地の工事現場から見つかった枯れ葉剤メーカーのドラム缶。その工事残土は現に北谷町の土地造成事業に回されていると報じられています。辺野古埋め立て用の土地も旧米軍基地のものであったり、枯れ葉剤・ダイオキシンなどの化学物質に汚染されている可能性は否定できません。その点からも、政府の辺野古埋め立て申請は絶対に認めるわけにはいきません。
 辺野古移設を強行しようとしている安倍首相はじめ、防衛相、外相の初の、そして駐日米大使の18年ぶりの追悼式典参加は、黒い政治的思惑に貫かれたものでした。反戦集会の主催者は「このままでは沖縄の慰霊の日が”靖国化”する」と危機感を示しました。沖縄はまさにいま、戦争と反戦のつば競り合いの中。照りつける太陽の下でそう実感しました。

 <今日の注目記事>(24日付沖縄タイムス2面から)

 ☆<「進駐軍 沖縄女性が防波堤」 追悼式後 浦添で橋下氏 そうぞう主催の講演会>
 「県主催の沖縄全戦没者追悼式に参加するため来県した日本維新の会の橋下徹共同代表は23日、追悼式後に浦添市内で開かれた政党そうぞう主催の講演会に出席に、『内務省が進駐軍への対応のため特殊慰安婦施設協会(RAA)を沖縄にも置いた。沖縄の女性が、女性や子どもを守るための防波堤のような形で食い止めてくれた』と述べた」
 橋下氏のこの部分の発言はこれだけしか報じられていませんから断言はできませんが、これを読む限り橋下氏は「防波堤」を評価しているように聞こえます。しかし、RAAの女性たちは決して自らすすんでそこに身を置いたわけではありません。戦争によってすべてを失った貧困がやむをえずそうさせたり、詐欺的募集広告にだまされたものです。その点に触れてそうした制度を批判するのでなければ、「従軍慰安婦」「風俗」の肯定・活用発言と大同小異です。


「所有者不明土地」に見る沖縄の戦禍

2013年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 22日夜放送されたNHK・ETV特集「”所有者不明”の土地から見た沖縄の戦後史」は衝撃的な内容でした。以下、その要点です(写真も)。
 沖縄には所有者が分からない土地(写真左)が2663筆、805,490㎡(東京ドーム20個分)もあります。メインストリート国際通りのすぐ裏手にある墓地などもそうです。県が管理していますが、管理費の累計は6億3000万円にものぼっています。開発などの障害になっていますが、その実態調査は昨年やっと初めて行われました。
 なぜこれほど膨大な所有者不明土地があるのか。原因は言うまでもなく沖縄戦です。2つの意味があります。1つは戦争で1300世帯以上が一家全滅したこと。もう1つは戦後残された3000人以上の戦災孤児。その多くは学校にも行けず、文字の読み書きができない人もいて、戦後直後に行われた土地所有申請書に記入できず、その後も申請手続きができなかったことです。番組ではいずれもその実例が紹介されました。今、県に所有申請しても「裁判原則」の名のもとに突き返され、訴訟を起こすように言われます。しかし高齢化している所有者が(とくに離島では)訴訟を起こすのはほぼ不可能です。
 ところが同じ不明地でも、「復帰」後速やかに「解決」した土地があります。「位置境界不明地」といわれるものです。1977年に位置境界明確化法が成立。なぜこちらは迅速に処理されたのか。米軍基地使用のためです。米軍が強制的に貸借関係を成立させる必要から強行的に境界線を画定したのです。その一方、米軍基地によって所有地が海に沈められながら、所有権が証明できないため涙をのまざるをえない人もいます。こうして何重にも戦争のために土地の権利を奪われている沖縄を、仲地博沖縄大副学長は「放置の沖縄」だと言います。
 「所有者不明土地」解決のめどは、今もまったく立っていません。
 沖縄の戦禍は計り知れません。関係者の高齢化によって、知られないまま歴史に埋没していこうとしている事実がまだまだたくさんあるのではないでしょうか。

 <今日の注目記事>(23日付沖縄タイムス2、3面見開き)

 ☆<閣僚の参列「なぜ今」 慰霊の意義失う恐れ 辺野古推進への「宣撫工作」 「目的達成      の手段 死者冒涜」>
 

 「本土復帰41年目にして初めて防衛大臣、外務大臣が出席して沖縄全戦没者追悼式が23日、開催される。日米安全保障体制を支える閣僚の参列は、米軍普天間飛行場の辺野古移設を進める政府の説得作業の一環にも映る。・・・大田昌秀さん=元県知事『慰霊に込められた人々の悲しさ、怒り、苦しみ、嘆き。それが、みんな失われてしまう恐れがある』・・・『形式的に、ただ式典に参加すればいい、ましてや式典に参加して何かを得ようとか、大きな目的があって、それを達成する手段に使われたら、死者たちを冒涜することになる』」


「沖縄慰霊の日」が6・23でいいのか?

2013年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 あす6月23日は「沖縄慰霊の日」です。でも、なぜ6・23が「慰霊の日」なのでしょうか。
 『沖縄大百科事典』には「1945年のこの日、第32軍司令官牛島満中将と同参謀長長勇中将が糸満の摩文仁で自決、日本軍の組織的戦闘が終わった」とあります。でもこれは事実に反します。牛島と長が自決したのは確かに6・23ですが(6・22説もありましたが、今は6・23未明が定説のようです。写真左は両者が自決した場所)、その日で沖縄の(軍隊としての組織的)戦闘が終わったわけではありません。よく知られているように牛島は参謀本部あての最後の打電で、「各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」とし、自分が死んでも戦い続けるよう命じたのです。実に無責任で残酷な話です。そのため戦闘は各地で続き、米軍資料には6月23日から月末までに8975人の日本兵を殺したとあります。資料にはない住民の犠牲も膨大だったと想像されます。納見敏郎中将らが正式に降伏文書に調印したのは8・15よりもさらに後の9・7です。その後もマラリアや食糧不足で多くの犠牲が出ました。
 はじめに6・23を「慰霊の日」としたのは1961年琉球政府立法院です。「復帰」後の74年に県条例で休日とすることが決められました。その後中央政府によって休日が廃止されようとしたのに対し県民運動でこれを守った自治の歴史もあります。多くの遺族らがこの日摩文仁の「魂魄の塔」(遺族不明の遺骨納骨)などを訪れ、犠牲者を悼みます。沖縄戦を風化させないためにも「慰霊の日」は貴重です。
 だからこそ、その日が牛島や長の自決の日であることには賛成できません。それは日本軍中心の沖縄戦史観に通じ、6・23後も戦闘を続けさせた牛島ら日本軍の戦争責任を隠ぺいすることになります。沖縄は天皇制によって「本土防衛」の「捨て石」にされ、さらに本土が「終戦」した後も正式には戦争は終わっていなかったのです。その史実を銘記するためにも、「慰霊の日」は9月7日にすべきではないでしょうか。

 <今日の注目記事>(22日付沖縄タイムス社会面から)

 ☆<枯れ葉剤「徹底調査を」 中村さんが講演で指摘>

 「枯れ葉剤の取材を続けるフォトジャーナリスト、中村梧郎さんが21日夜、那覇市内のパレット市民劇場で『放射能そしてダイオキシン』と題し講演した。ドラム缶が見つかった沖縄市のサッカー場について、中村さんは『市は沖縄防衛局に出入りする会社ではなく、中立性が見込める大学などに調査を依頼すべきだ』と求めた。/防衛局が予定する調査についても、受注した環境分析会社が局の意向に配慮する危険性を指摘。ドラム缶の中身が枯れ葉剤でなかったとしても『いろいろな物がこの場所に埋められている可能性を示している。土壌を徹底的に掘り起し、調査すべきだ』と強調した。/枯れ葉剤による土壌汚染に遭い、米国に原状回復させているベトナムや韓国の事例を紹介し、『米国が知らないと言うだけで引き下がる日本政府は正常ではない』と対応を批判した」


沖縄戦とハンセン病患者・・・重なる差別に抗して

2013年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

PhotoPhoto_2 6月23日は「沖縄慰霊の日」。ではその前日の6月22日は何の日でしょう?答えは、「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」です。先日県立図書館でハンセン病のパネル展(写真左)があり、初めて知りました。
 沖縄には2つの国立ハンセン病療養所があります。沖縄愛楽園(名護市)と宮古南静園(宮古島市=写真右)です。先日南静園を訪ねた時、入園者自治会が活発な活動を行っていると聞きました。その自治会に関する記事が20日の新聞に出ていました。政府が療養所職員を削減しようとしているのに対し、あくまで強行するなら園の総合棟の前に座り込んでこれに抗議すると。
 全国のハンセン病患者とその家族は、らい予防法(1953~96)に代表される政府の誤った隔離・差別政策と社会の偏見によって塗炭の苦しみを受けてきました。加えて沖縄の患者は沖縄戦による二重三重の苦悩にさらされてきました。吉川由紀さんの調査(「ハンセン病患者の沖縄戦」)によると、まず、沖縄に大量に投入された日本軍により、「将兵への感染予防」のため患者の隔離・強制収容が徹底されました。それは患者に銃を向け、「逃げたら撃つ」(患者証言)という脅しによって強行されたのです。収容後は、壕掘削の重労働が続きました。女性も例外ではありません。1944年の10・10空襲以後はまさに戦火の中。愛楽園は少なくとも8回の空襲を受けています。宮古島も10・10空襲を受けています。大量収容の園はもともと物資不足ですが、空襲によって布団もない状況に。愛楽園での死者は45年末までに288人にのぼりました。
 ハンセン病患者への差別・偏見は戦後も、らい予防法が廃止されるまで続きましたが、沖縄の特殊事情がさらにそれに加わりました。沖縄では、戦前の旧沖縄県、戦後の米国軍政府、琉球政府、「日本復帰」と統治制度が4回変遷。そのたびにハンセン病政策も変わり、現場は混乱、本土に比べても対策が大幅に遅れたのです。
 軍隊は決して住民を守らない。戦争の惨禍・犠牲は社会的弱者により重くのしかかる。そのことを沖縄のハンセン病患者は身を以て「証言」しています。

 <今日の注目記事>(21日付沖縄タイムスから)

 ☆<ドラム缶 県議団視察 沖縄市サッカー場 徹底調査要望>(2面)
 「沖縄市諸見里にある市サッカー場の土中から、人体に有害な枯れ葉剤などを製造していた米化学メーカーの社名が記されたドラム缶が見つかった問題で、山内末子氏(県民ネット)ら県議13人が20日、現場を視察した。視察団は県議会の総務企画委員会のメンバーが中心。・・・ブルーシートが外されたドラム缶の前では、油のにおいが残っているなどと指摘し、枯れ葉剤の可能性を指摘する議員もいた。山内委員長は『枯れ葉剤が沖縄にあったのではないかという可能性が出てきて心配している。自治体任せではなく、県と日米がかかわることが原則。調査を徹底してほしい』と話した」
 <米軍 「枯れ葉剤ではない」 ドラム缶問題 国、再調査促す>(社会面)
 「米軍嘉手納基地は20日・・・『米軍のドラム缶の使用の有無、内容物、管理方法は不明』とし、返還前の土地の使用方法をめぐり『建物の存在に関する記録がない』との認識を示した。沖縄防衛局の照会に回答した。・・・一方、在日米軍司令部は同日、沖縄タイムス社の質問に答え、『枯れ葉剤が入ったタイプのドラム缶ではないと確信している』との見解を示した。見解の根拠は示さなかった」
 「不明」「記録がない」と言いながら、根拠も示さずに「否定」する。支離滅裂です。日本政府は米軍まかせでなく、みずから責任を持って調査しなければなりません。