アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「朝鮮半島の痛み」に対する想像力が問われている

2018年01月30日 | 朝鮮と日本

     

 安倍首相が平昌オリンピック・パラリンピック(以下「平昌五輪」)の開会式(2月9日)に出席すると最初に表明したのは、24日付産経新聞のインタビュー(写真中)でした。
 安倍氏はなぜ韓国へ行くのか。

 「慰安婦問題をめぐる日韓合意について、韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは受け入れることはできません。この考え方について、(文在寅)大統領に直接伝えるべきだと考えました」(24日付産経新聞)

 平昌五輪開会式当日のどさくさに、意見の相違がある「日韓合意」(2015年)問題について、文大統領に釘を刺しに行くというのです。これほど露骨な「五輪の政治利用」があるでしょうか。

 韓国の新聞でも、「久しぶりの訪韓であり、五輪開幕式への出席を控えた状況で、『まず不満を聞いてもらう』というのは適切ではない。五輪の準備に余念がない隣国に対する礼儀でもないだろう」(ハンギョレ新聞、25日付社説)と批判されているのは当然でしょう。

 戦時性奴隷の被害者(元「慰安婦」)や支援団体は、もちろん今回の「安倍訪韓」を強く批判しています。
 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)と正義記憶財団(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶財団)は25日、「安倍首相は歴史修正行脚を止め、戦争犯罪に対する責任を果たせ!」と題する共同声明を発表しました。

 「安倍総理は2015韓日合意で被害者たちにもう一度暴力を加えたのに、ついに被害国へ直接訪問して韓国政府に圧力を加えようとしている。…2015韓日合意という2次暴力の加害者である安倍総理が訪韓してできることは、頭を下げて謝罪することだけだ。安倍総理は力をかざして韓国政府を圧迫し、再びハルモニたちに匕首(あいくち)をたてる狙いを持っているなら、すぐに止めるべきだ」

 「安倍訪韓」を前に、問われているのは私たち「日本人」です。

 元「慰安婦」たちへのインタビューでドキュメンタリー映画(「”記憶”と生きる」)を製作したジャーナリストの土井敏邦氏は、「いまこの問題で議論されるべきなのは、『韓国政府が、国家間の合意をほごにしようとしている』ことではない」として、こう主張しています。

 (議論されるべきは)韓国の政府や国民、そして何よりも元『慰安婦』である当事者たちが、あの合意をなぜ『問題の解決にならない』と主張するのかという根本的な問いではないのか
 「いま、私たち一人一人に問われているのは、自国の負の歴史と向き合い、引き受けていく覚悟と、日本に人間の尊厳を踏みつけられた他者の痛みに対する想像力なのである」(23日付中国新聞)

 土井さんの指摘は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の人々に対する私たちの姿勢にも言えるのではないでしょうか。

 安倍首相は上記の産経新聞インタビューの中で、「北朝鮮に対する制裁」に関連してこう述べています。

 「確かに北朝鮮には飢えている方々がいる…しかし…飢えを救う責任は北朝鮮にある。彼らの責任の一部を国際社会が肩代わりするということは、ミサイル開発や核実験を行う余裕を与えることになってしまう。今、韓国が人道支援をすることについては日本は明確に反対の立場です」(24日付産経新聞)

 私たちは「日本人」としてこの安倍発言を黙って見過ごして(容認して)いいでしょうか。

 そもそも朝鮮が「核・ミサイル開発」を続けるのは、アメリカの核脅迫戦略、それに追随する日本、韓国との米日韓軍事一体化(その表れが合同軍事演習)に対抗するためです。その原因をつくっている側が、さらに「経済制裁」で朝鮮の人々を飢餓の苦しみに追い込んでおきながら、「人道援助」もするなと言う。餓死者が出ても仕方がないということです(現に東北地方に漂流した朝鮮の漁民の多くは餓死)。それでいいのでしょうか。

 私たちに求められている「他者の痛みに対する想像力」は、元「慰安婦」の人たちに対してだけではないはずです。
 

 

 

 

 

 


野中広務氏と翁長雄志氏と辺野古移設

2018年01月29日 | 沖縄・翁長・辺野古

     

 26日死去した野中広務元官房長官に対し、日本共産党までが「平和と沖縄への深い思いを決して忘れません」(志位和夫委員長、27日付「しんぶん赤旗」)などと手放しで賛美しています。事実に反する評価と言わねばなりません。

  例えば、小渕内閣時代(1998・7・30~2000・4・5)、野中氏は官房長官として何をしたでしょうか。

 ★1999・5・24 「周辺事態法」など「新ガイドライン」3法成立強行(日米安保体制新段階へ)

 ★1999・8・9 「国旗・国歌法」(「日の丸」「君が代」法制化)成立強行

 ★1999・8・18 「通信傍受(盗聴)法」成立強行(プライバシー権侵害、支配体制強化)

 ★1999・8・18 「住民基本台帳法」改定強行(同)

 これでどこが「平和への深い思い」でしょうか。

  「沖縄」に対しても同様です。

  「大政翼賛会のような形にならないよう」という衆院本会議での発言(97年4月11日)が「ハト派」の象徴であるかのように取り上げられていますが、あの発言は米軍用地特措法の改定を強行した衆院特別委員会の委員長としての報告の一コマです。
 同特措法改定は、「米軍用地の強制使用を容易にする」もので「改定特措法の成立は、日本の政治が沖縄の世論を押しつぶす構図を象徴的に表現していた」(新崎盛暉氏『沖縄現代史・新版』岩波新書)のです。どこが「沖縄への深い思い」でしょうか。

  特筆する必要があるのは、野中氏が米軍普天間基地の辺野古移設を一貫して推進した張本人だということです。

  1997年12月21日、「辺野古海上基地建設の是非」を問う名護市民投票が行われました。結果は、賛成45・31%、反対52・85%で、辺野古移設・新基地反対の民意が改めて示されましたが、投票を前に危機感をもった橋本龍太郎内閣(当時)は反対派の切り崩しに躍起になりました。その先頭に立ったのが、当時自民党幹事長代理だった野中氏です。

  「政府側は賛成派の劣勢を覆そうと、港湾整備や市街地再開発などの『振興策』を提示し、地元ゼネコンや防衛施設局の職員たちまで大量動員して戸別訪問させた。幹事長代理の野中は現地入りして、その後押しをした」(魚住昭著『野中広務 差別と権力』講談社)

  翌98年11月、政府(小渕政権)・自民党は、県知事選で大田昌秀知事を倒し、辺野古移設容認の稲嶺恵一知事を誕生させました。全国に先駆けた自公連立が威力を発揮しましたが、その黒幕も、公明党の弱点を握っていたといわれる野中氏でした。

 野中氏は知事選前から「大田県政と手をつなぐことは絶対しない」(1998年7月1日琉球新報)と公言し、「大田県政が続く限りいかなる振興策も実現しないかのような閉塞感を煽(った)」(新崎盛暉氏、前掲書)のです。

  しかもこの知事選で「稲嶺陣営は…『県民党』を強調したが、実際には官房機密費が使われたとされ、政府・自民党の強力な後押しの中での県政交代だった」(櫻澤誠著『沖縄現代史』中公新書)と言われています。
 先日の最高裁判決でもその暗闇・非民主性が改めてクローズアップされた官房機密費。それが使われた知事選。使ったのは当時の官房長官・野中広務その人です。

 辺野古移設に反対し続けている人からこんな野中評が出るのは当然でしょう。

 「(野中氏を)ハト派、リベラル派と捉えることには違和感しかない。実務面で沖縄の民意をつぶすために豪腕を発揮した人だ。…今日に続く苦しみの根幹を作り出した」(名護市民投票に携わった宮城康博氏、27日付琉球新報)

  こうして辺野古移設を陰に陽に推進してきた黒幕・野中氏と密接な関係にあったのが翁長雄志現知事にほかなりません。

  翁長氏は野中氏の死去にあたり、「沖縄のことを心から考えて頂いていた方がまた一人お亡くなりになり、大変残念でならない」「沖縄に対して並々ならぬ深い思いを持たれていた方だった」と最大限賛美したうえ、「腹を割って話ができた、懐の広い政治家だったと思う」(27日付沖縄タイムス)と述べました。

 肝胆相照らす仲だった野中氏(当時、小渕内閣官房長官)と翁長氏(同、自民党沖縄県連幹事長)が二人三脚で取り組んだのが、辺野古新基地容認の稲嶺恵一県政を実現する知事選(1998年)でした。翁長氏自身がそれを誇示しています。

 「稲嶺(恵一)氏は普天間の代替施設の県内への移設を認めたうえで、『代替施設の使用は一五年間に限る』ことを知事選の公約に掲げました。この移設先の基地の使用期限を公約に入れさせたのは、自民党県連幹事長だった私でした。防衛庁の官房長クラスと話して『これを掲げなければ選挙に勝てない』と食い下がって、政府側にのんでもらった経緯があります」(翁長氏『戦う民意』2015年12月角川書店)

  重要なのは、翁長氏が4年前に知事選に立候補した時から今日に至るまで、過去に辺野古移設推進の先頭に立ってきたことに対し、なんら明確な反省・自己批判を行っていないことです。それが今回の野中氏に対する手放しの賛辞にも表れていると言えるでしょう。

 現に、翁長氏が支持者向けの言葉とは裏腹に、本気で「辺野古新基地は造らせない」つもりなのか疑わせる事象が多々あります。その典型は、今に至るまで選挙公約だった「埋立承認撤回」を行おうとしていないことです。

 28日告示された名護市長選で、翁長氏は稲嶺進候補の応援に立ちましたが(写真中)、「承認撤回」はおろか、「辺野古新基地は造らせない」とさえ言明しませんでした(29日付の琉球新報、沖縄タイムスの報道の限りで)。

 


天皇の「慰霊の旅」と南洋戦の住民犠牲

2018年01月27日 | 天皇制とメディア

     

 明仁天皇が南洋諸島やフィリピンに「慰霊の旅」を行ってきたことを、「敵味方を問わず死者たちを悼み、傷痕が癒されることを祈ってこられた」(内田樹氏『街場の天皇論』東洋経済新報社)などと賛美する声は少なくありません(写真左は2015年のパラオ訪問)。はたしてそうでしょうか。

  明仁天皇・美智子皇后の戦地「慰霊の旅」はどういう役割を果たしているか。

 それを考える手掛かりが、23日に那覇地裁で判決が出た「海洋戦国家賠償訴訟」の中にありました。原告弁護団長の瑞慶山茂弁護士は、「意見陳述」(2013年11月13日)でこう述べています。

 「大本営のサイパン放棄決定と住民犠牲…大本営は、米軍の上陸開始が10日目である昭和19年1944年)6月24サイパン島放棄を決定し、軍事支援策を全面的に停止しました。その大本営の重大決定は、(現地)31軍にも現地の日本国民にも一切知らされることなく、戦後まで極秘にしていました。
 被告国が、この大本営の決定とともにサイパン戦を停戦すべきであった。放棄決定を知らない現地31軍は、昭和19年7月7日に玉砕突撃を行い壊滅し、兵4万3千人中約4万人が戦死しました。天皇が指揮する大本営は、兵さえも見捨てたのです。」

 「軍隊のみならず、日本人一般住民(非戦闘員)はサイパン島北部のマッピ岬やマッピ山で投身自殺したり、自らの子どもを突き落としたりするなど戦慄すべき自己殺戮の地獄絵図が展開されました。一般住民の被害の9割が6月24日以降に発生したと推定されています。…投身自殺などした日本人は8千人とも1万2千人とも1万9千人とも推定…サイパン放棄決定とともに停戦したとすれば、その犠牲は避けられました。被告国の責任は極めて重大といわねばなりません」

 大本営のトップは言うまでもなく「陸海軍ヲ統帥」(大日本帝国憲法第11条)する天皇です。

 天皇(大本営)が兵士や日本住民を見捨てたことは、戦記本にも記載されています。

 「大本営は同日(1944年6月24日)、サイパン放棄を決定した。連合艦隊がマリアナ諸島に押し寄せる米軍に対して一大決戦を挑んだマリアナ沖海戦で敗北したためである。
 見捨てられたことを知る由もないサイパンの日本軍と民間人は、島の北方へと退避していく。武器・弾薬がなくなった日本軍は…各所で壊滅し、七月七日には生き残りの将兵が最後の総攻撃、いわゆる『バンザイ突撃』を敢行した」(別冊歴史読本『太平洋戦争の全貌』、新人物往来社)
(写真中は、サイパンに取り残された日本住民たち=同書より。写真右は住民の多くが身を投げた「バンザイ・クリフ」=『図説・秘話でよむ太平洋戦争2』ふくろうの本より)

 「意見陳述」は原告の立場から日本人の犠牲について述べていますが、同様に現地の住民に大きな犠牲がもたらされたことは言うまでもありません。

 こうした事実は多くの日本人に知らされないまま、天皇裕仁の戦争責任は追及させることもなく、裕仁の後を継いだ明仁天皇がその現地を訪れ花を捧げ頭を下げる。それを日本のメディアはそろって賛美する。
 こうして天皇・帝国日本の戦争・加害責任は隠ぺいされ、逆に天皇(象徴天皇制)美化の材料になる。天皇・皇后の「慰霊の旅」はこうした役割を果たしているのです。

 もう1つあります。
 瑞慶山弁護士は日本国が国家賠償責任を果たそうとしていないことと、天皇の「慰霊の旅」の関係について、こう指摘しています。

 「あの姿(「慰霊の旅」の報道―引用者)をみて、多くの国民は『これで犠牲者の問題は終わった』と勘違いしていませんか? 未補償のまま放置されているんです」(19日付朝日新聞インタビュー)

 この「勘違い」を誘発することこそ、天皇の「慰霊の旅」の大きな役割です。
 そしてそれは、「南洋戦の戦地」だけでなく、「沖縄」、さらには震災などの「災害被災地」への天皇・皇后の「訪問」に共通する問題と言わねばなりません。

 「国体(天皇制)護持」のために沖縄戦で捨て石にされ、戦後も「天皇メッセージ」でアメリカの支配下おかれた沖縄が、いまなお構造的差別で苦しめられ続けていることは、今年に入ってからの状況を見てだけで明白ですが、その歴史的元凶は天皇裕仁にあります。
 しかし明仁天皇はそうした父親の罪に対して沖縄の住民に一片の謝罪もせず、沖縄訪問を重ねることによって「本土」との宥和を図ろうとしています。

 放射能汚染の実態や今なお劣悪な状態に置かれている被災者の苦悩、政府への怒りを覆い隠す「被災地・東北訪問」。満蒙開拓をあおって多くの犠牲を出した天皇制政府の責任を棚上げした「満蒙開拓団資料館訪問」…明仁天皇が「象徴としての活動」と誇示し、メディアがそろって賛美するこうした「天皇の公的活動」には、いずれも「国家」にとって都合の悪い歴史と現実を隠ぺいし、犠牲者・被害者の不満・抗議を抑え、「国民」を「国家」に取り込もうとする役割(意図)があることを見逃すことはできません。


南洋戦国賠訴訟・許してならない「国家無答責の法理」

2018年01月25日 | 戦争・安倍政権

     

 「本土」のメディアはほとんど取り上げませんでしたが、23日、那覇地裁で重要な判決がありました(琉球新報は1面肩で報道=写真左)。
 サイパンやテニアンなどの南洋諸島やフィリピンで戦争被害を受けた沖縄県出身者や遺族らが、国に謝罪と損害賠償を求めた訴訟です。

 生活苦のため沖縄からの移民が多かった南洋・フィリピン群島には、当時約8万人の県出身者がおり、約2万5000人が命を失ったといわれています。そのうち「1万7000人から2万人の戦没者が未補償のまま放置」(原告)されています。

 判決で、「剱持淳子裁判長は戦時は旧憲法下で、国家賠償法施行前のため『国は不法行為責任は負わない』などとして原告側の訴えを全面的に退け」(24日付琉球新報)ました。
 いわゆる「国家無答責の法理」です。毒ガス遺棄を含め、戦争関連の国家賠償訴訟はほとんど退けられていますが、その不当判決に共通しているのがこの「法理」です。

 私たちは主権者として、「国家無答責の法理」を認めるわけにはいきません。なぜなら、それは天皇主権の大日本帝国憲法(明治憲法)の遺物にほかならないからです。

 「国家無答責の法理とは、明治憲法の下で、国の行為のうちで権力的作用の部分については、それによって損害が生じても国は責任を負わないとされていた法理です。この考え方の源流は、絶対主義時代にまで遡ります。当時は、国王の権限は神からの授かりものであるという『王権神授説』に基づいて、『王は悪をなさず』という原則が正当化されていました」(馬奈木厳太郎氏、水島朝穂氏編『未来創造としての「戦後補償」』現代人文社)

  したがってその考えは近代の「国民主権」の下では当然否定されるべきものでした。

 「日本でも現在の憲法が制定されるに至って、憲法17(「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国または公共団体に、その補償を求めることができる」)で国家責任が規定されることになり、この規定を受けて、国家賠償法が制定されました。国家無答責という考え方は、戦後の憲法の制定とともに葬られたのです」(同)

 ところが、国は葬られたはずの「法理」を今も持ち出して国家賠償を回避し、司法もそれを容認しています。

 これに対しては各訴訟の原告側からさまざまな反論がなされています。その1つはこうです。

 「[国家無答責の法理が一般論としては認められるとしても]この法理が認められるためには、保護されるべき公務の存在が必要であり、それがない場合には適用されない(幼い子どもを虐殺したりする行為には保護すべき公務性はみいだせない)」(同)

  では南洋戦で帝国日本はいかなる「公務」を行ったでしょうか。今回の原告弁護団長の瑞慶山茂氏(写真中の左)の「意見陳述」(2013年11月13日)から抜粋します。

 「日本軍による住民殺害 日本軍が日本人一般住民に対して狙撃して殺害したり、手榴弾を投げて殺したり、軍刀で殺傷したり、泣き声をあげる乳幼児の首をひねて殺害するなど、ありとあらゆる残虐非道な行為を行った。このようにして殺害された一般住民数は数千人にのぼるといわれているが、被告国が調査を実施していないためその詳細は不明」

 「サイパンの戦いは、日本人が生活している地域ではじめて戦われた地上戦だった。日本軍人を信じてついてきた民間人が、隠れ家となる洞窟内で受けたむごたらしい仕打ちは、グアム、テニアンなどでも見られたが、最後の戦いとなった沖縄戦では大規模に発生した」

  沖縄戦の教訓の1つは、「軍隊は住民を守らない」という軍事の本質が露呈したことですが、すでにその9カ月前の「サイパンの戦い」から一般住民に対する日本軍(皇軍)の蛮行は行われていたのです。

 主権在民の現行憲法の原理からも、また残虐行為を行った帝国日本に「保護すべき公務」など一片もなかったことからも、「国家無答責の法理」が否定されるべきは当然です。

  言うまでもなく、帝国日本(日本軍)の蛮行は日本人住民だけでなく、現地の住民に対してはより残酷非道に行われました。「国家無答責の法理」は、そうした日本の侵略・加害行為を隠ぺいし、謝罪と補償を回避するための口実にもなっているのです。けっして過去の話ではありません。

 「戦後の今日にもなお国家無答責の法理を裁判にもちだすという国の姿勢は、現憲法の価値原理に拘束されなければならない公務員の義務(憲法第99条―引用者)から逸脱したもの」(馬奈木氏、前掲書)
 「問いたいのは、先の戦争の誤りだけじゃない。いまの政府の対応、判断なのです」(瑞慶山弁護団長、19日付朝日新聞)

 明治憲法の「法理」だった「国家無答責」で侵略・加害責任を隠ぺいし国家賠償を回避しようとすることは、「明治維新150年」キャンペーンで「明治」を美化し、「新たな国創り」(22日の施政方針演説)を図るという安倍首相の狙いに通じるものです。

 


朝鮮学校の差別・窮状はひとごとではない

2018年01月23日 | 朝鮮と日本

     

  先週の17日、神奈川県の朝鮮学校に通う265人の児童・生徒の保護者118人が、神奈川県(黒岩祐治知事)が「教科書に拉致問題が記載されていない」ことを理由に朝鮮学校だけ学費補助金を打ち切った(2016年度から)のは「不当な差別で人権侵害にあたる」として、神奈川県弁護士会に人権救済を申し立てました。

  生徒や保護者は報道陣に、「私たちは民族の言葉や文化を学びたいだけなのに」「存在を認めてほしいだけなのに」と訴えました。(18日付神奈川新聞)

 また昨年末、「財政難 朝鮮学校廃校へ 大阪 高校無償化対象外響く」の見出しで、こんな記事がありました。

  「在日コリアンの多い大阪府の朝鮮学校で生徒数最多の東大阪朝鮮中級学校(大阪市生野区)が来年(2018年)3月末で移転し…事実上廃校になる見通しとなった。…高校無償化制度の対象外となった影響や府の補助金不支給による財政難が要因」(2017年12月29日付中国新聞=共同配信)
 「朝鮮学校は近年、生徒の減少や統廃合が全国的に進む。文部科学省によると、2008年度以降の10年で学校数は77校から66校となり、生徒数は約8800人から約3千人減の約5800人に」(同)

  児童・生徒にはなんの関係もない「拉致問題」などの政治問題を口実に、朝鮮学校だけを無償化制度から除外したり補助金をカットする。安倍政権や神奈川県、大阪府などの所業が、憲法に反し、人権を蹂躙していることは明白です。生徒数の減少も、費用負担やヘイトスピーチなどの差別が影響していることは明らかです。(写真は高校無償化からの排除に抗議する朝鮮学校の生徒ら)

  ここで考えたいのは、こうした差別で朝鮮学校が存亡の危機に立たされていることを、私たち日本人はひとごとのように傍観してはいないだろうか、ということです。

  朝鮮学校の差別・窮状に対し、私たち日本人には、憲法違反の差別・人権侵害を許してはいけないという一般論にとどまらない重大な責任があります。

  そもそも、朝鮮学校とは何でしょうか。

  「朝鮮学校とは、朝鮮語を授業用語として、在日朝鮮人の子どもたちを対象とする、在日朝鮮人によって運営されている学校のこと」(朴三石氏『知っていますか、朝鮮学校』岩波ブックレット)です。

 そして、「在日朝鮮人とは、日本による朝鮮への植民地支配の結果、日本で暮らすようになった朝鮮半島にルーツをもつ人びととその子孫の総称」(同)です。

  すべての根源は、帝国日本による朝鮮侵略・植民地支配にあります。

 日本は植民地支配で朝鮮人から言語・文化を奪い(同化政策)、名前を奪い(「創氏改名」)、土地を奪い、直接間接に強制的に日本に連行しました。その結果、日本に在住しているのが在日朝鮮人です。

 その朝鮮の人びとが、日本(人)に奪われた言語・文化・民族のアイデンティティを取り戻そうとするのは当然すぎるほどの権利です。その場所が朝鮮学校にほかなりません。

 したがって朝鮮学校を差別し廃校に追い込むことは絶対に許されることではありません。いいえ、本来、被害を与えた日本(人)の方から朝鮮学校を整備し教育条件を整えるべきです。それが植民地支配の罪に対するせめてもの償いではないでしょうか。

 敗戦後、在日の人たちは真っ先に朝鮮学校(当初は民家を使っての寺子屋)をつくり子どもたちへの教育に力を注ぎました。しかし、日本政府は度重なる文部省通達などでこれを妨害しました。

 そんな中、5年間(1950~55年)朝鮮学校に勤務し、その前進に尽力した日本人教師がいました。梶井陟(のぼる)さんです(1988年没)。梶井さんは朝鮮学校での生活を振り返ってこう述べています。

 「『日本の子どもたちが、ゆたかな日本人として育てられなければならないのと同じように、朝鮮人の子どもも、やはりゆたかな朝鮮人に育てられなければならない。しかもそれは過去の償いとして、日本人自身が積極的に認めなければならないことだ』という、こんな単純明快な論理が、わたしの五年間にわたる朝鮮人学校生活を支えていた」(梶井陟著『都立朝鮮人学校の日本人教師』岩波現代文庫)

 この「単純明快な論理」を心に刻み込みたいものです。

     

 


スポーツと天皇制と明治維新

2018年01月22日 | スポーツと政治

     

 卓球全日本選手権で14歳の張本智和選手が最年少優勝。全国都道府県対抗駅伝で埼玉が3年ぶり2回目の逆転優勝。スポーツ好きにとってはたまらない日曜日でした。

 しかし、面白がってばかりはいられません。見過ごせない問題があるからです。

 卓球、駅伝、さらに今年になって行われたサッカー(写真右)、バスケットの日本選手権。それらすべてに共通のものがあります。何でしょうか? 天皇杯(盃)です。

 これらの競技の優勝者・チームにはすべて天皇杯(盃)(女性の場合は皇后杯)が与えられました。

 天皇杯(盃)・皇后杯(盃)が与えられる(政府は下賜といいます)のは、これらの競技に限りません。柔道、剣道、弓道、空手、卓球、ソフトテニス。天皇杯のみは、大相撲、競馬、相撲、レスリング、水泳、体操、テニスなど。皇后杯のみは、なぎなたがあります。

 主だったスポーツにはすべて「天皇杯・皇后杯」の網が掛けられていると言っても過言ではないでしょう。そこに「天皇の権威」「天皇制の浸透」を図る政治的意図があることを見過ごすことはできません。

 それを象徴的に示しているのが、優勝カップに刻印されている「菊の紋章」です。張本選手が手にした優勝カップにもくっきり浮かび上がっています(写真左)。

 留意しなければならないのは、「菊の紋章」を皇室の紋章と限定し、「菊タブー」をつくりだしたのは、古くからのことではなく、明治維新以後、「富国強兵」のため天皇制の普及を図った明治新政府(薩長藩閥)の政策だったということです(各スポーツへの天皇杯授与はさらにのちになって)。

 「菊の紋章を天皇家だけのものとして一般の使用を限定したのは、明治以降のことである。たしかに一二世紀の後鳥羽天皇の時代から、菊の花と皇室とは深い関りをもってきたことは事実であるが、十六花弁のいわゆる菊花御紋を天皇家の公式の紋章と定めたのは、一八六八年三月のことであった。菊の紋章を記した皇旗もまた、明治の発明であった」(T・フジタニ著、米山リサ訳『天皇のページェント』NHKブックス)

  「菊花紋章も、皇室の紋章であることから、すでに慶応四年(1868年)、太政官がその使用を定めて以後、内務省が厳しく制限し、由緒ある寺院や神社では菊花紋章が使えたが、一般には許されなかった」(村上重良著『日本史の中の天皇』講談社学術文庫)

 「菊の紋章」だけではありません。各競技の始まりに「君が代」を流すスポーツは少なくありません。余談ですが、NHKニュースでは冒頭、選手が一列に並んで「君が代」が流れる場面を流すことが少なくありません。意図的だと思います。

 スポーツと「君が代」「日の丸」の結びつきが端的に表れるのは、言うまでもなくオリンピックです。
 東京五輪・パラリンピック組織委員長の森喜朗会長(元首相)が「東京五輪壮行会」(2016年7月3日)で、選手たちに向かって、「どうしてみんなそろって国歌(「君が代」)を歌わないのか…国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」と言い放ったのは記憶に新しいところです。ちなみに、その「壮行会」の直前に行われた「結団式」には、皇太子夫妻が出席し、皇太子があいさつしました。

  かつての東京五輪が「天皇元首化」「国威発揚」の場に利用されたことは周知の事実です。
 「一九六四年の挙国的東京オリンピックでは天皇が、七〇年の大阪万国博覧会では皇太子(現天皇―引用者)が、それぞれ名誉総裁として開会式に出席し、元首としての印象を内外に広めた」(牛島秀彦著『ノンフィクション天皇明仁』河出文庫)

 「五輪の政治利用」というなら、これこそ究極の政治利用でしょう。

 懸命にプレーしている選手や応援するファンが、「天皇杯」で「天皇制」を意識することはおそらくないでしょう。しかし、「菊の紋章」が刻まれた「天皇・皇后杯」を目指し、「日の丸」を見上げ、「君が代」を歌う(歌わされる)ことで、無意識のうちに「天皇の権威」が浸透し、「国家」を意識されられることは否定できないでしょう。

 そうした無意識の浸透が、「慣性としての天皇制」(奥平康弘著『未完の憲法』潮出版)を支えており、「慣性が根拠になっているからこそ、思いのほか強力」(奥平氏、同著)であることを軽視することはできません。


「旅順大虐殺」の史実にいま学ぶこと

2018年01月20日 | 戦争の被害と加害

     

 昨日(1月19日)発売の「週刊金曜日」にたいへん興味深い論稿が掲載されています。カナダ在住のジャーナリスト・乗松聡子さん(「アジア太平洋ジャーナル」エディター)の「旅順大虐殺と南京大虐殺の現場を訪ねて―明治期に遡る大日本帝国の暴虐の系譜」です。

  帝国日本軍(皇軍)による南京大虐殺(1937年)から80年の昨年末、松岡環さんが主宰する訪中団に参加し、南京、大連、旅順などを訪れた時のリポートです。

 安倍政権以降、歴史修正主義が強まっている中、南京大虐殺の史実を究明・継承することは重要な今日的課題ですが、ここでは、乗松リポートが報告している「旅順大虐殺」を取り上げます。なぜなら、恥ずかしながら、私自身その史実を知らなかったからです。

  乗松リポートから旅順大虐殺の個所の要点を抜粋します。

  日清戦争(1894年)は、清国の影響を排除して朝鮮を日本の支配下に置くための侵略戦争であった。日本軍は11月21日から4日間、旅順で南京と同様の大虐殺に手を染めた。年寄りから子どもまでの無差別市民殺戮、強かん、武器を捨てて無抵抗状態の清軍兵士・捕虜の虐殺で、2万人が殺されたと推定されている。

  軍に同行していた写真家・亀井茲明が多くの写真とともに日記を残している。「日本兵は…兵農を問わず容赦せず殺した…流れる血、血なまぐさい匂いが満ち満ちて、のちに遺体は原野に埋葬した」(写真中、右は亀井茲明の写真。井上晴樹著『旅順虐殺事件』より―引用者)

  当時、新聞記者のジェイムズ・クリールマンは「ニューヨーク・ワールド」紙(1894年12月20日付)に、「街路は切り刻まれた男、女、子どもの死体で埋め尽くされ、その一方で兵士らが笑う」と報じた。

  事件後、首相(当時)の伊藤博文は隠蔽工作に奔走。伊藤の命令で陸奥宗光外相は海外メディアに「殺害された大部分は兵士だった」など嘘に満ちた電報を送った。松岡環さんは、「これらの虐殺の否定の仕方は、南京大虐殺の否定とまったく同じです」と強調する。

  南京大虐殺を生み出した日本軍の野蛮な性質と、アジアの隣人を人間として扱わない差別感情は、決して「15年戦争」と呼ばれる期間に限定されない。旅順大虐殺に象徴されるように、明治期から1945年の敗戦まで脈脈と続いた、大日本帝国とその軍隊の本質そのものだったのだ。

  乗松リポートに学び、「旅順大虐殺」について書かれたものを探しました。井上晴樹氏の『旅順虐殺事件』(1995年、筑摩書房)のほか、わずかですがありました。

  星野芳郎氏の『日本軍国主義の源流を問う』(2004年、日本評論社)によれば、そもそも日本軍が旅順を占拠した時は日清戦争の大勢はすでに決していました。

 「清国側の戦況が絶望的であったにもかかわらず、戦闘としては何の意味もなく、旅順において、捕虜や市民に対する日本軍の残虐行為が発生した」

 およそ「戦闘」ともいえない、虐殺のための虐殺だったのです。

  また、当時従軍していたある兵士は、日記(1894年11月21日付)にこう書いています。
「旅順町ニ進入スルヤ…道路等ハ死人ノミニテ行進ニモ不便…我軍ノ砲兵ハ後方ニアリテ天皇陛下万歳ヲ三唱ス」(星野氏同著より)。

 これが「皇軍」の姿です。

  乗松リポートには「ニューヨーク・ワールド」紙の報道が紹介されていますが、当時事件を報じた海外メディアはそれだけではありませんでした。

 「イギリスの『タイムズ』紙は、日本軍の捕虜虐殺、非戦闘員とくに婦人まで殺した事実を報道し、目撃者として記者以外にイギリス東洋艦隊司令官の海軍中将その他士官の名まで挙げ、―日本政府はこれをいかに処理するか? と、紙上で陸奥外相に詰問しています」(陳舜臣著『中国の歴史七(1991年、講談社文庫』)。

 世界が驚愕したこの明々白々な大虐殺を、明治政府(伊藤博文首相、陸奥宗光外相)は隠ぺいしようとしたのです。

 安倍政権が「明治維新150年」キャンペーンを繰り広げる中、乗松さんは最後にこう強調しています。

  「明治という時代と日清・日露戦争を美化する歴史観が、大日本帝国の本質を見えなくしている。…再び侵略国家にならないためにも、侵略戦争に明け暮れた70年余に及ぶ大日本帝国の歴史と実像を、冷徹に振り返りたい

 「旅順大虐殺」をはじめ国家権力が隠ぺいしようとしている侵略と民族差別の歴史を知り、これからの平和と民主主義に生かすのは、ヘイトスピーチ、朝鮮・中国蔑視、「北朝鮮敵視」が蔓延している現在の日本に生きる私たち一人ひとりの責任ではないでしょうか。


米日は朝鮮戦争の愚を繰り返すのか

2018年01月18日 | 朝鮮と日本

      

 韓国と朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の会談(写真左)で、平昌五輪への合同参加が合意されたその時に、アメリカは朝鮮への「圧力強化」を確認するための「20カ国外相会合」をバンクーバーで開催しました(日本時間16日、写真中)。
 さらに、アメリカ、日本、韓国は別に3カ国の会合をもち、「結束」を確認したといいます(写真右)。
 ティラーソン米国務長官は、「軍事オプションの引き金を引く」ことも辞さないと、あらためて朝鮮を威嚇しました。

  朝鮮半島とバンクーバーで同時進行したこの事態は、いったい何を意味しているでしょうか。

  同じ民族同士の韓国と朝鮮が対話を重ね、五輪を通して交流・関係改善を強めようといているのに対し、部外者であるアメリカとその呼びかけに応えて集まった国々が、「北朝鮮への圧力継続」(「議長総括」)を再確認し、韓国をアメリカ中心の「結束」に繋ぎ止めようとする。

  これは南北会談の進展、緊張緩和に水を差すことであり、朝鮮に対する「挑発」にほかなりません。同じ民族同士が話し合いで問題を解決する「民族自決」に対するあからさまな干渉ではありませんか。

 朝鮮半島情勢をめぐって「挑発」を繰り返しているのはいったいどちらなのか、緊張を高めているのはどの国(国々)なのか、今回の「外相会合」はそれをはっきり示したのではないでしょうか。

  今回アメリカが外相会合を呼びかけたのが、朝鮮戦争(1950年~現在休戦中)に参加・支援した国々だったことは極めて象徴的です。
 なぜなら、73年前、帝国日本の敗戦後、朝鮮半島で始まろうとしていた朝鮮民族の自主的独立を妨害し、南北に分断し、朝鮮戦争へのレールを敷いたのが、まさにアメリカだったからです。

  「一九四五年八月十五日、日本が敗北するとすぐさま朝鮮建国準備委員会(委員長・呂運亨)が結成され、八月末まで朝鮮全国各地に一四五もの人民委員会がつくられる勢いでした。九月六日には、朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。首席にアメリカで活動していた李承晩、副首相に呂運亨という布陣で、幅ひろい組織をめざしました。
 しかし、アメリカは南朝鮮に軍政を施行し、朝鮮人民共和国を認めず、きびしく弾圧しました。…朝鮮人自身による独立政府樹立の運動がつづく中…アメリカは、一九四七年、創設まもない国連に朝鮮問題を持ち込み、国連監視下の南北朝鮮の総選挙を可決、翌年には南朝鮮だけの単独選挙実施方針を示しました」(中塚明奈良女子大名誉教授『日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研)

  「そもそも朝鮮の分断は、アメリカの一方的決定によるものであった。…終戦直後の一九四五年九月、朝鮮に上陸し、朝鮮南部に軍事的支配を樹立したアメリカは、すでにその行政区域内に育っていた朝鮮人自身の萌芽的共和国(呂運亨主導下の朝鮮人民共和国)とその草の根の組織である人民委員会の承認を拒否した。…日本の植民地体制と植民地統治が崩壊し、代わりにアメリカ支配が始まってから、莫大な富と権力がアメリカ人の手に渡った」(ガバン・マコーマック・オーストラリア国立大教授『侵略の舞台裏 朝鮮戦争の真実』影書房)

 アメリカの対朝鮮半島政策はこの時から本質的には何も変わっていないのです。

 一方、朝鮮戦争当時から大きく変わった国があります。日本です。

 朝鮮戦争で日本はアメリカ軍の出撃基地・物資補給基地という間接的な形で米軍を支援しました。しかし今はそれだけではありません。安倍政権が強行した戦争法(安保法制)による集団的自衛権行使で、米軍と自衛隊の共同行動が公然と繰り返され、事実上米日韓の3国軍事同盟の一翼を担うようになっています。万一、アメリカが武力行使すれば、日本は直接それに加担することになるのです。

 「外相会合」はアメリカの意に反し、「議長総括」に「南北対話と北朝鮮の平昌五輪参加を歓迎」との文言が含まれるなど、アメリカが「軍事的圧力を高めることを狙った」会合の「成果はかすんだ」(18日付共同配信)といわれます。

 あくまでも「軍事オプション」に固執し、米日韓の軍事同盟を強化しようとするアメリカとそれに追随する日本の戦略が、思い通りにはいかないことを示したと言えるでしょう。

 しかし私たちは一連の事態を他人事として傍観することは許されません。
 日本政府(安倍政権)が日米軍事同盟(日米安保条約=朝鮮戦争勃発の翌年アメリカが制定)でアメリカに従属し、朝鮮民族の自主的平和的統一を妨害していることをやめさせるのは、主権者である私たち「日本人」の責任です。


それでも安倍政権の「慰安婦・日韓合意実行」を支持するのか

2018年01月16日 | 朝鮮と日本

     

 戦時性奴隷(「慰安婦」)についての「日韓合意」(2015年12月28日、写真左)について、韓国政府が「合意では問題解決はできない」と表明(写真中)したのに対し、安倍政権は「合意は国と国の約束であり、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ」(安倍首相、15日)などと突っぱねています。
 日本のメディアの「世論調査」ではこの安倍政権の姿勢を実に8割以上が「支持」しています。

 こうした「世論」の背景には、「日韓合意」についての無理解があると言わざるをえません。
 「合意」は内容上多くの問題がありますが、ここではあえて内容ではなく、その「合意」の性格・過程の不明朗さ、反民主性を検証し、それがおよそ「国と国の約束」「国際的かつ普遍的原則」などと言える代物ではないことを示します。

 検証材料は韓国政府が今回の「新方針」を決める根拠となった韓国外交部による「合意検討結果」(2017年12月27日発表の政府公式文書=ウェブサイトに掲載。以下、「検討」)です。
 「検討」が明らかにした「合意」の性格、経過の問題点は大きくいって3点あります。

 ① 「合意文書」なき「合意」ゆえの食い違い

 そもそもこの「合意」には、「合意文書」が存在しません。したがって両政府代表の調印もありません。そのため、発表された内容に食い違いが生じています。

 「合意の性格 合意は、両国の外相の共同発表と、通常の追認を経ての公式約束であり、その性格は、条約ではなく、政治的合意である。
 韓日両国政府は、高官級協議の合意内容を外交長官会談で口頭で確認し、会談直後の共同記者会見で発表した。そして、事前に約束したように、両国首脳が電話で追認する形式をとった。
 両国が発表内容を、それぞれの公式ウェブサイトに掲載しながら、お互いの内容が一致しない部分が生じた。韓国外交部は、外相共同記者会見で発表した内容を、日本の外務省は、両国が事前に合意した内容を、公式ウェブサイトに掲載した。また、両国がそれぞれ公式ウェブサイトに載せた英語翻訳も差があり、混乱を加えた。だから、実際の合意内容が何なのか、発表された内容がすべてなのか等についての疑惑と議論を生んだ」(「検討」より)

 ② 「最終かつ不可逆的解決」の重大な相違

 双方の意図が食い違っている最大の点は、「最終かつ不可逆的解決」の意味です。

 「共同記者会見で、日本側は、「以上申し上げた措置を着実に実施することを前提に、今回の発表により、同問題が最終かつ不可逆的に解決されることを確認する」と発表した。
 韓国側は、事前の合意された内容である「日本政府が先に表明した措置を着実に実施することを前提に、今回の発表をもって、日本政府とともに、この問題が最終かつ不可逆的に解決されることを確認する」と発表した」(「検討」より)

 両政府の発表の違いは歴然です。韓国側が念押しした「日本政府が先に表明した措置」とは何でしょうか。それは次の内容だと「検討」示しています。

 「安倍内閣総理大臣は、日本国内閣総理大臣として再び、元慰安婦として多くの苦痛を経験して心身にわたり癒し難い傷を負ったすべての方のために、心からの謝罪と反省の気持ちを表明

 つまり韓国側の「最終かつ不可逆的解決」は、日本の総理大臣の「心からの謝罪と反省の気持ちの表明」の「不可逆」性が前提にされているのです。
 それは次のような経過を踏まえたものでした。

 「被害者の関連団体は、日本政府の「元に戻すことができない」謝罪を要求してきたし、韓国政府も交渉過程で、不可逆的公式性の高い内閣決定(閣議決定)の形で謝罪を要求した。しかし、内閣の決定を通した謝罪には至らなかった」(「検討」より)

 安倍政権は「最終かつ不可逆的解決」とは「慰安婦問題の解決」であり、だから以後問答無用、との態度ですが、韓国側の「不可逆的」とは、「日本の首相の謝罪」の不可逆性、つまり謝罪をあとで「そんなことは言わなかった」と白紙に戻すな、という意味なのです。まるで逆です。

 ③ 裏合意(非公開合意)が意味するもの

 両国の国民にも明らかにされない裏合意(非公開部分)が存在することが、「検討」によって明らかにされました。その問題についてはすでに述べましたが(12月28日のブログ参照http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20171228)、ここでは、裏合意の存在をどう受け止めるべきかについて考えます。

 韓国政府は、なぜ裏合意の存在を明らかにしたのでしょうか。「検討」はこう述べています。

 「韓国側は、交渉の初期から、慰安婦被害者団体と関連した内容を非公開として受け入れた(注:非公開を求めたのは日本政府―引用者)。これは、被害者中心、国民中心ではなく、政府を中心に合意したことを示している」(「検討」より)

 「今日の外交は、国民とともにしなければならない。慰安婦問題のように、国民の関心が大きい事案ほど、国民と呼吸をともにする民主的な手続きとプロセスを重視する必要がある。しかし高官級協議は、終始秘密交渉で進められており、知られている合意内容に加えて、韓国側の負担になるであろう内容も公開されていなかった」(同)

 韓国政府は非公開の秘密交渉・裏合意は、「被害者中心、国民中心」ではなかった、「民主的な手続きとプロセス」ではなかったと反省しているのです。きわめて妥当な反省です。

 ところが、安倍政権は裏合意が判明しても、一言の釈明もなく、逆に韓国に批判の矛先を向ける始末です。盗人猛々しいとはこのことです。
 そして重要なのは、安倍政権だけでなく、日本のメディアも秘密交渉・裏合意をまともに批判すらしていないことです。
 さらにもっと重要なのは、「日本国民」が、主権在民を踏みにじられたにもかかわらず、秘密交渉・裏合意を行った安倍政権に対し、なんの不満も批判も言っていないことです。

 国民無視の秘密交渉・裏合意を行った安倍政権をそれでも支持し続けるのか、それとも問題だらけの「日韓合意」の破棄を求めるのか。問われているのは、まさに私たち「日本国民」です。


「天皇明仁の沖縄訪問」の底流にあるのは何か

2018年01月15日 | 沖縄と天皇制

     

 天皇・皇后が3月に沖縄を訪れます。琉球新報は、「沖縄に心を寄せ続けてきた両陛下が強く再訪を希望した」(13日付)と報じました。「本土」だけでなく沖縄でも、天皇明仁・皇后美智子を美化する論調が一般的です。
 しかし、天皇の過去10回(皇太子時代5回)におよぶ沖縄訪問は、はたして「沖縄に心を寄せ続けてきた」ものでしょうか。

  最も注目すべきは(したがって最も政治的な意味を持つのは)、皇太子時代の第1回訪問(1975年7月17~19日、写真左)です。この時、皇太子明仁はなぜ、なんのために沖縄に行ったのでしょうか。

 敗戦後、天皇裕仁(昭和天皇)は天皇制維持のため全国を行脚(行幸)しました。しかし、唯一行っていない、いや、行かれなかった県がありました。沖縄です。

 政府・宮内庁は裕仁天皇の訪沖のきっかけづくりとして、全国植樹祭(1972年)、国民体育大会(1973年)の沖縄開催を相次いで決定しました。いずれも天皇が出席するのが恒例とされていたからです。しかし、裕仁天皇はどちらにも行くことができませんでした。沖縄県民が出席を拒んだからです。

  「沖縄県からの出席要請はなかった。『何もまだ言ってこないのか』。昭和天皇は宮内庁長官宇佐美毅に何度も尋ねたという。両行事の開催は天皇の沖縄訪問を円滑にするための意味もあったが、県民は拒否反応を示したのである」(高橋紘・元共同通信記者『平成の天皇と皇室』文春新書)

  当時、裕仁天皇の訪沖に反対した「沖縄の労働組合代表」はこう述べていました。

 「先の大戦で、沖縄住民は天皇の名のもとに多大の犠牲をしいられ、その戦争責任があいまいなまま天皇のご来訪(ママ)を受け入れるには、あまりに住民感情が複雑であるということと、天皇を政治的に利用して沖縄住民の望まぬ復帰形態(核基地付き・自衛隊配備―引用者)があたかも住民祝賀のうちに迎えられたような擬装がなされることを警戒しなければならない」(72年1月26日付朝日新聞。藤原彰氏ら『天皇の昭和史』新日本新書より)

 皇太子・明仁の訪沖は、こうして沖縄県民に拒否された父・天皇裕仁の名代に他なりませんでした。
 皇太子なら沖縄の抵抗は少ないだろうというのが政府・宮内庁の狙いでした。しかし、沖縄県民に歓迎されなかったのは、皇太子・明仁も同じでした。

 「糸満市に差し掛かると、(皇太子)夫妻の車目がけて病院の屋上から、木材やクレゾール液の入った牛乳瓶が、投げられた」(前掲、高橋氏)

 そして、ひめゆりの塔(糸満市)に着いた時、火炎瓶を投げつけられる事件が起こったのです。この事件は天皇・天皇制に対する沖縄の怒りを改めて示しましたが、同時に奇しくも、皇太子明仁の訪沖の狙いを浮き彫りにすることにもなりました。

 当日、明仁皇太子は事件に対する「談話」を発表しました。きわめて異例です。「談話」はこう述べています。

 「過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、わが国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり…悲しみと痛恨の思いにひたされます。私たちは沖縄の苦難の歴史を思い…ともども力を合わせて努力していきたいと思います。(以下略)」(1975年7月18日付朝日新聞より)

 のちに明仁皇太子は、記者会見でこうも述べています。

 「本土と沖縄は、戦争に対する受けとめ方が違う。やはり、太平洋戦争の激戦地であり、民間人を含めて多数の犠牲者が出ました。…火炎びん事件や熱烈に歓迎してくれる人達…それをあるがままのものとして受けとめるべきだと思う」(75年8月26日の記者会見。斉藤利彦氏『明仁天皇と平和主義』朝日新書より)

 「談話」と「会見」には共通の特徴があります。それは、沖縄戦をはじめとする沖縄の「多くの苦難」「悲惨な犠牲」をまるでひとごとのようにとらえ、「私たち」として国民を同じレベルに引き込んでいることです。「一億総ざんげ」のように。
 そこでは、戦前戦中、皇民化政策を推進し、沖縄戦で「捨て石」にした天皇制帝国日本、敗戦後も「天皇メッセージ」(1947年9月20日)で沖縄をアメリカに売り渡した天皇裕仁の責任は完全に封印されています。

 そのため「談話」や「会見」には、「痛恨の思い」はあっても、沖縄住民に対する一片の「謝罪」の言葉もありません。

 これはこの時だけでなく、過去10回の訪沖、さらにはほかの会見などで明仁天皇が「沖縄」に言及する場合の例外のない特徴です。
 (写真右は「天皇メッセージ」がもたらしたサンフランシスコ講和条約・日米安保条約の発効記念日―「沖縄屈辱の日」2013年4月28日―に「天皇陛下万歳」を叫ぶ安倍晋三首相)

 「押し付けられた天皇制。その天皇の名の下で戦った沖縄戦。天皇の軍隊はスパイ容疑などで住民を虐殺し、敗色が濃くなると、県民に自決を迫った。敗戦、そして二十年に及ぶ異民族による支配。沖縄県民の感情からすれば、明らかに天皇は加害者であった」(前掲、高橋氏)。そして「その沖縄と皇室との和解に努めたのが、平成の天皇である」(同)。

 1975年以来の明仁皇太子・天皇の「沖縄訪問」は、その「和解」のためだったと言えるでしょう。

 しかし、「和解」とは、被害者の側から言うべきものであり、加害者の側が押し付けるものでないことは言うまでもありません。そもそも、加害責任を認めない、したがって謝罪も賠償もない「和解」などあり得ません。それは戦時性奴隷(「慰安婦」)についての「日韓合意」(2015年12月)と同じです。

 そのあり得ないことを押し通し、沖縄に対する天皇・天皇制の加害責任、ひいては朝鮮、台湾はじめ東アジアへの侵略・植民地支配の加害責任をうやむやにしようとする意図が、天皇・皇后の相次ぐ沖縄訪問の底流に流れていることを見過ごすことはできません。

 ☆お知らせとお礼

 過日お知らせしました自費出版『「象徴天皇制」を考える』に多数のご注文をいただき、誠にありがとうございました。完売いたしました。ご注文と合わせて多くの激励をいただき、たいへん力づけられています。深くお礼申し上げます。
 来年には『「象徴天皇制」を考えるⅡ』を出したいと考えています。
 今後とも「アリの一言」をよろしくお願いいたします。