タイの反政府運動は、これまでタブーとされてきた王制改革にも向かい、王宮へデモ行進が行われるとともに、「学生らは不敬罪廃止や王室財産の削減など10項目の改革」(21日付共同)を求める請願書を提出しました(写真左)。
タイだけではありません。ベルギーでは6月9日、元国王レオポルド2世(在位1865~1909年)の像が撤去されました。「米国の白人警官による黒人暴行死事件を受け、欧州でも人種差別への抗議が広がる中、アフリカ中部コンゴを私領地として搾取した元国王の像への攻撃が続発。地元当局が撤去を決めた」(6月11日付共同)のです。
アメリカの「BLACK LIVES MATTER」(BLM)運動が欧州、アジアに広がり、タブーとされてきた王室・王制への批判、改革要求にまで至っています。
こうした動きがどうして日本では起こらないのでしょうか。なぜ皇室・天皇制批判・見直しの声が広がらないのでしょうか。
たしかに、タイの絶対王政と「象徴天皇制」を同列に置くことはできません。「象徴天皇制」の憲法は天皇に政治的権限を与えていません。しかし、皇室にも皇室予算はじめ様々な特権が与えられています。また、神道に基づく皇室行事を国の行事とし公費を支出することによって政教分離の原則が蹂躙されています。憲法の規定にもかかわらず、天皇裕仁、明仁が政治的言動を繰り返してきたことも周知の事実です。
なによりも、「BLM運動」から日本が学ぶべきなのは、差別と天皇制の関係です。
明治以降、日本が朝鮮半島を植民地支配し、東アジアを侵略した歴史の頂点に天皇が君臨していたことは言うまでもありません。「皇民化政策」は侵略・植民地支配の柱でした。
日本・日本人はその歴史をいまだに清算していません。戦前の天皇制と戦後の「象徴天皇制」は連動し、「日の丸・君が代」「元号」は事実上強制され、在日コリアンに対する政治的・社会的差別は再生産されています。
日本で「BLM運動」に連帯するなら、こうした歴史から学び、歴代天皇の侵略戦争・植民地支配の責任を問い直し、差別構造の頂点にある天皇制を見直し、廃止へ向けた機運が広がってしかるべきでしょう。そんな動きが日本で起こらないのはなぜでしょうか。
それは「慣性としての天皇制」だからだ、と憲法学者の奥平康弘氏は指摘しています。
「『天皇制はなんとなく日本の伝統に即している気がするし、日本人は調和を重んじる民族なのだから、(天皇制は)残しておいたほうがいいのではないか』という、まさに『なんとなく』の天皇制肯定が当然の前提になってしまっている。…いわば『慣性としての天皇制』ともいうべきものが、日本には成立している。それは慣性が根拠になっているからこそ、思いのほか強力なんです」(『未完の憲法』潮出版、2014年)
社会学者の吉見俊哉氏は、「安心・安全の天皇制」だと言います。
「戦後憲法ができるころにはそういう(共和制)議論があった。でも、今はなくなってしまった。それはタブーだからとか、検閲があるからとかいうことよりは、この国では人々の想像力そのものが、もうそこまで及ばないのだろうという気がします。…積極的に『天皇』に何か幻想をいだいているというよりも…天皇制は存続させるのが『自然』だろうと言う感覚だと思います。『安心・安全』の天皇制ですね。…日本人には、天皇制のない日本というものが、もはや想像することすらできなくなっているのではないでしょうか」(『天皇とアメリカ』集英社新書、2010年)
「慣性」とは思考停止ということです。自分の頭で考えない。歴史から学ばない。「想像力」の欠如です。そんな「慣性としての天皇制」「安心・安全の天皇制」から脱却しなければならない。世界の「BLM」運動のうねりは、日本人にそのことを問いかけているのではないでしょうか。