アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

天皇裕仁の戦争責任棚上げに助力したエリザベス女王

2022年09月19日 | 天皇・天皇制
   

 イギリス王室とりわけエリザベス女王と日本の皇室はきわめて緊密な関係にありました。日本のメディアはその「親密さ」だけを強調していますが、忘れてならないのは、敗戦後、天皇裕仁の戦争・植民地支配責任を棚上げする上で、女王が重要な役割を果たした事実です。その舞台は次の4つでした。

①1953年・明仁皇太子(当時、現上皇)の訪英

 53年6月2日、明仁皇太子(当時19歳)は、天皇裕仁の名代として女王の戴冠式に出席しました。敗戦から8年。「戦時中の日本軍による英国軍捕虜の虐待問題が、戦後の日英関係に影を落としていた」(9日付朝日新聞デジタル)中での訪英でした。

「そんな英国社会の空気を変えたのが、エリザベス女王とチャーチル首相だった。…戴冠式では(明仁の)席は最前列に設けられた。式典の4日後には、女王が競馬場で(明仁と)ともにダービーを観戦する配慮を見せ、二人で並ぶ写真が新聞に載った」(同朝日新聞デジタル)

②1971年・天皇裕仁の訪英

 71年9月、佐藤栄作首相(当時)は裕仁に訪欧を勧め、裕仁はそれに応じて皇后とともに欧州7カ国訪問へ出発。翌10月、イギリスに入りました。

 「しかし、第2次大戦に従軍した英国の退役軍人やその家族は激しく反発。昭和天皇が乗った馬車には罵声が浴びさられた」(12日付共同配信)という状況でした。
 そんな裕仁を、「英王室は温かくもてなした」(同)のです。

③1975年・エリザベス女王の訪日(写真左・中)

 75年5月、女王は初めて日本を訪れ、伊勢神宮などを訪問しました。宮中晩さん会で、裕仁と女王は次のようなスピーチを行いました。

 裕仁「(日英関係は)時代の変遷に伴い大きな試練を経た。しかし、両国民の絶えざる努力で絆が以前にも増して強固になりつつある」

 女王「両国民を結ぶ友情が続き、強固になると信じている」(12日付共同配信から)

 裕仁の「時代の変遷」という無責任発言に、女王が呼応して、「日英友好の新たな誓いが交わされた」(同)のです。

 この4カ月後、裕仁は懸案の初訪米に出発。帰国後の記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては…お答えが出来かねます」(1975年10月31日)という悪名高い言葉を吐いたのです。

④1998年・明仁天皇(当時)の訪英(写真右)

 98年5月、明仁は天皇になって初めて皇后とともにイギリスを訪れました。日本の戦争責任を問う声はまだ収まっていませんでした。53年の訪英時にも抗議した元英国軍捕虜たちは、バッキンガム宮殿に向かう天皇・皇后の車に「背を向けて抗議」(16日付朝日新聞デジタル)しました。

 この空気を変えたのもエリザベス女王でした。
 バッキンガム宮殿での歓迎晩さん会でのスピーチは次のようなものでした。

 女王「悲しいことに二国間は争う時期を迎えた。…当時のいたましい記憶は、今日も私たちの胸を刺すものですが、同時に和解への力ともなっています」

 明仁「戦争により人々の受けた傷を思う時、深い心の痛みを覚えます。…二度とこのような歴史の刻まれぬことを衷心より願う」(同朝日新聞デジタル)

 女王が日本・裕仁の戦争責任を棚上げしたままの「和解」を呼び掛け、明仁天皇は、戦後の天皇発言が一貫してそうであるように、ひとことの謝罪もない「願い」で応じたのです。

 当時、天皇に随行した佐藤正宏・元侍従次長は、「この日をターニングポイントに、英国社会の雰囲気はほぐれていった」(同)と回顧しています。

 日本の皇室はもちろん、英王室も政治に直接関与することは禁じられています。しかし、上記の経過で明らかなのは、政治的意味を持たないはずの「皇室外交」が、実は天皇の戦争・植民地支配責任を棚上げするという最大級の政治的役割を果たしたのです。

 ここに、日本の皇室、イギリス王室の国家権力にとっての有用性、市民にとっての害悪性が端的に表れているのではないでしょうか。

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皇室と英王室の報道されない関係、キーパーソンは?(下)

2022年06月14日 | 天皇・天皇制
  
 

 敗戦後間もない1946年4月1日、天皇裕仁は長男・明仁親王の教育掛(東宮御教育参与)に慶應義塾の塾長だった小泉信三(写真右)を起用しました。
 小泉は、福沢諭吉の高弟だった父・信吉と6歳で死別。以後、「諭吉の邸内で諭吉に見守られながら成長した」(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)という根っからの福沢諭吉信奉者でした。

 福沢は世間で流布している「平和・平等主義者」のイメージとは正反対の、侵略・差別主義者で、天皇信奉者でした。代表的な「帝室論」には、「(軍人は)帝室の為に進退し、帝室の為に生死するものなり」と、後に「軍人勅諭」となる精神が明記されています。

 小泉は1949年2月、東宮御教育常任参与に昇格。皇太子教育の事実上の責任者となり、明仁に大きな影響力を及ぼしました。

「明仁皇太子は後に、小泉からことあるごとに大きな影響を受けたことを語っている。例えば43歳の誕生日を前にした記者会見で、自分に影響を与えた人物として、「私の場合、小泉先生、安倍院長(安倍能成学習院院長)、坪井博士(坪井忠二東大教授)と三人いました。小泉先生は常時「参与」という形で…私はその影響を非常に受けました」と述べている」(斉藤利彦著『明仁天皇と平和主義』朝日新書2017年)

 小泉が明仁教育のテキストに選んだのが、『ジョージ五世伝』(英王室の公式伝記、ハロルド・ニコルソン著)でした。

「小泉は毎週火曜と金曜に各二時間の授業を行った。テキストとして用いたのは『ジョージ五世伝』」の原書、および福沢諭吉の『帝室論』『尊王論』等である」(斉藤氏、同前)

 裕仁がジョージ5世本人から直接学んだその「教え」を、明仁は福沢諭吉信奉者の小泉信三から、『ジョージ五世伝』を通じて学んだのです。

 社会学者の筒井清忠・帝京大教授は「明仁天皇退位」に際して、こうコメントしました(カッコは私)。

「君主は象徴であると同時に、政治に介入する「警告する権利」もあるという立憲君主論…それを学んで実際に介入した国王ジョージ5世、皇太子としての訪欧中に(ジョージ)5世を通してそれを学んだ昭和天皇…昭和天皇はこの「警告する権利」を度々発動した。…陛下(明仁)は皇太子時代…小泉信三氏からアドバイスを受け、5世の伝記などをテキストに君主制について学んだので、はやり「警告する権利」ということを習得されている」(2019年4月16日付中国新聞=共同通信インタビュー)

 裕仁は、天皇の政治関与を禁じた日本国憲法が施行された後も、「沖縄メッセージ」「講和条約」「日米安保条約」など重要な課題で陰に陽に「政治に介入」してきました。それはジョージ5世から学んだ君主論の実践でした。

 そして明仁天皇(当時)もまた、裕仁のように露骨ではありませんが、政治に関与・介入してきました。「皇室外交」や「3・11」と「退位」についての2つの「ビデオメッセージ」はその典型です。これもジョージ5世流「警告する権利」の実践と言えるでしょう。
 また、被災地を度々訪れてその姿を国民にアピールしたのも、「被災地の慰問にとくに熱心」だったというジョージ5世に倣ったものではないでしょうか。

 さらに、筒井氏の次の指摘は注目されます。

「昭和天皇には戦争責任の問題が最後までつきまとった。そこで、陛下(明仁)はその問題にどう対処するかを考え、新たな「警告する権利」をあからさまにならない形で発動することにより、昭和天皇の「警告する権利」の発動により残された課題をリスク覚悟で克服されようとしたのではないか」(同上)

 裕仁の戦争責任問題を、明仁天皇は新たな「警告する権利」の発動すなわち政治介入によって、リスク覚悟で「克服」すなわち隠ぺいの固定化を図ろうとしたのではないか、という指摘です。

 徳仁天皇は父・明仁天皇に倣い踏襲すると公言しています。そうなれば、ジョージ5世の「警告する権利」すなわち政治介入が、裕仁・明仁・徳仁3代の天皇に引き継がれることになります。これこそ皇室と英王室の最悪の「深いつながり」と言わねばなりません(写真左は1975年にエリザベス女王が訪日した際の女王と裕仁天皇)。

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皇室と英王室の報道されない関係、キーパーソンは?(上)

2022年06月13日 | 天皇・天皇制
   

 エリザベス英女王の「在位70年行事」(2~5日)に関連して、英王室と日本の皇室の「深いつながり」(朝日新聞デジタル)「信頼関係」(中国新聞=共同)がさまざま報じられました。それらはおおむね、「(親交の)起点は1953年、エリザベス女王の戴冠式だった」(6日付共同)として、明仁皇太子(当時)が裕仁天皇(当時)の名代として戴冠式(写真中)に出席したときからの関係を取り上げています。

 しかし、それでは皇室と英王室の「深いつながり」の本質を理解することはできません。その本質的関係をみるうえで欠かせない人物がいます。エリザベス女王の祖父・ジョージ5世(1865~1936、在位1910~1936、写真右)です。

 皇室と英王室の関係の起点は、101年前の1921年3月3日、皇太子裕仁(当時)が初の外遊として戦艦・香取で欧州へ向けて日本を立ち、同5月7日、イギリスのポーツマスに到着した時にさかのぼります。

 裕仁がイギリスを訪問したのはどういう時期だったか。

「1917年2月、ロシアで革命が起き、皇帝は退位してロシア君主制が崩壊した。…第一次世界大戦で敗れたドイツは、1918年皇帝が退位して共和制となっており、オーストリアでも同様であった。…イギリスと日本を除く強国の君主制があいついで倒れ、君主制の世界的危機といわれた状況が出現していたのである」(鈴木正幸著『皇室制度』岩波新書1993年)

 そこで帝国日本政府は、病弱な嘉仁(大正)天皇に代わって、裕仁を摂政にして天皇制維持・強化を図ろうとしました。

「皇太子のヨーロッパ訪問は…イギリスの君主政治のあり方を実施に学ぶ機会であった。つまりこの訪欧は、危機に瀕した近代天皇制を立て直すという、隠された、しかし最も重要な意図が込められていたのである」(原武史著『昭和天皇』岩波新書2008年)

 時の英国王がジョージ5世。彼は日本政府の狙いにピッタリの君主でした。

「(裕仁訪英の)最大の眼目は…ヨーロッパにおける君主制の倒壊を巧みに乗り切った国王ジョージ5世に学ぶということだった。…ジョージ5世は艦隊や各海軍基地を訪れ…何万という勲章を授与し…被災地の慰問にとくに熱心で…従兄弟のドイツ皇帝をロンドンで戦犯裁判に付そうとする首相のロイド・ジョージの方針に執拗に抵抗した」(ハーバード・ビックス著『昭和天皇(上)』講談社学術文庫2005年)

「国王(ジョージ5世)の歓迎ぶりは、皇太子(裕仁)に強い印象を与え、イギリスへの親近感を抱かせた。…皇太子のイギリス訪問の一部始終は、ロンドンの日本大使館の一等書記官だった吉田茂にも強い印象を与えた」(同)

「ジョージ5世は、君主はその大臣とは別に独自の政治的見解を持つべきだという信念を彼(裕仁皇太子)に強めさせたのであり、その「教え」は「立憲君主制」に沿うものではなかった。それはまた、当時天皇の政治的権力を弱め、天皇を象徴的な元首にしようとしていた大正デモクラシーの精神とも相容れないものだった」(同)

「皇太子とその一行がジョージ5世を観察して得たもっとも重要な教訓は、社会的宣伝についてであり、大規模な式典や宮廷儀式を、君主制の国民化とナショナリズムの高揚に利用することだった」(同)

 イギリス訪問から半年後の1921年11月25日、裕仁は摂政となり、さらに5年後の26年12月25日、「天皇裕仁」が誕生します(裕仁25歳)。
 裕仁は絶対的権力によって、天皇制ナショナリズムを鼓舞しながら侵略戦争・植民地支配の先頭に立ち、敗戦後は戦争責任追及を回避し、巡幸で天皇制の「国民化」を図り、吉田茂とともにサンフランシスコ講和条約・日米安保条約の路線を敷きました。

 こうした裕仁の足跡を振りかえれば、そこには「ジョージ5世の教え」が色濃く反映していることが分かります。

 ジョージ5世の影響を強く受けたのは、裕仁だけではありませんでした。(明日の下に続く)

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南京大虐殺を黙認した天皇裕仁―「百武日記」

2021年12月13日 | 天皇・天皇制

    
 12月13日は日本人が絶対に忘れてはならない日です。84年前、1937年のこの日、日本帝国軍隊は中国の首都(当時)、南京を侵略・陥落し、女性、子どもを含む30万人以上(中国側調査)の大虐殺とおびただしい性暴力という蛮行を行いました。いわゆる南京事件です。

 天皇裕仁が南京侵略を命令し、陥落を称賛したことは、多くの資料で証明されています。たとえば―。

「一九三七年一二月一日…大本営は戦闘序列を発号し、そのうえで『中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スベシ』という大陸令をくだした。戦闘序列というのは天皇の令する軍の編成のことであり、大陸令というのは、大本営陸軍部の発する天皇の命令である。この大陸令で、はじめて中国を『敵国』と呼び、首都南京の攻略を正式に命令したのである」(藤原彰著『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』大月書店1997年)

「この日(1937年12月14日―引用者)、昭和天皇より南京占領を喜ぶ『御言葉』が下賜された。<陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉 中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)>…現地軍の中央命令無視、独断専行による侵略戦争の拡大を、天皇が追認し鼓舞、激励するという構図がここにある」(笠原十九司著『南京事件』岩波新書1997年)

 さらに、明白な国際法違反の虐殺・性暴力に対しても、裕仁が黙認したことも指摘されてきました。

「昭和天皇は皇軍による犯罪行為について沈黙をしていた事実が残る。皇軍が南京を陥落させた瞬間まで、天皇は軍の動静を詳細に追っていたのである。また、事件の前兆があった時期を通じて、あるいは殺戮、強姦のあった全期間に、天皇は不快、憤り、遺憾を公にすることよりは、むしろ、中国に『自省』を促すという国策のもとで、大勝利に向け臣下の将軍や提督を鼓舞していたという否定しがたい事実もある」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇上』講談社学術文庫2005年)

 裕仁が南京事件を黙認した事実を、当時の側近も日記に書いていたことが明らかになりました。侍従長だった百武三郎の日記です。ETV特集「開戦への道(後編)」(11日)が紹介しました。

 それによると、南京の事態について、裕仁は「うすうす聞いていた」と自ら述べていたといいます。
 そして、「南京で虐殺行為」と報じた英紙「マンチェスタガーディアン」(1938年1月29日付、写真右)に対する裕仁の反応を、百武はこう記しています。

南京ニ於ケル陸兵暴行ニ関スル英紙情報ハ皇軍将来ノタメ、支那統治ノタメ大影響アルニ付敢テ聖鑑ニ呈ス」(写真中)

 「皇軍将来のため」「支那統治のため」に「聖鑑」=黙認する、としたのです。

 「百武日記」は、裕仁が内大臣・木戸幸一も驚くほど戦争に前のめりだった様子を伝えていますが(6日のブログ参照)、それに加え、裕仁が南京大虐殺を黙認した事実を示したもので、きわめて注目されます。

 ところが同番組は、古川隆久日大教授や加藤陽子東大教授らのコメントで、裕仁は軍部を止められなかったのだという結論で締めくくりました。これは「(軍部の)勢いでああいうことになった」という裕仁の弁明を擁護するものと言わねばなりません。

 裕仁は「止められなかった」のではなく、柳条湖事件(1931年9月18日)以降をとっても、自ら天皇・大元帥として軍部を鼓舞し、侵略戦争を先導したのです。
 同番組が特集した「百武日記」も、そのことを示す資料の1つです。


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天皇制を「平成流」「令和流」に分類する「文芸春秋」論稿の誤り

2020年07月16日 | 天皇・天皇制

    
 月刊「文芸春秋」(8月号)が、「第二波に備えよ」という特集を組み、その中で「天皇と雅子皇后はなぜ沈黙しているのか」と題する論稿を載せています(写真左)。筆者がこれまで天皇のビデオメッセージなどを批判してきた原武史氏(放送大教授)だけに、「原氏までが」との思いで読みました。

 論稿は単純にコロナ禍での天皇の「メッセージ」を求めているもの(例えばこれまで取り上げた御厨貴氏や赤坂真理氏など)と同類ではありません。副題が<コロナ禍で見えてきた「平成流」と「令和流」の“違い”>となっているように、ビデオで2回(2011年3月16日と2016年8月8日)メッセージを発した明仁天皇を「平成流」、コロナ禍でメッセージを発していない徳仁天皇を「令和流」として、その「違い」を指摘するというのが主題のようです。

 しかし、一見客観的に「象徴天皇制」を分析しているようにみえる同論稿にも、見過ごすことができない重大な誤り・危険性があります。

 第1に、原氏は「私自身は、ビデオメッセージが持つ『政治性』に関して、批判的に検証している立場です」としていますが、論稿は全体として明仁天皇(当時)のビデオメッセージを美化する結果になっています。

 「あの時(2011年3月16日―引用者)の天皇の『おことば』に励まされた人も多かったのではないでしょうか」「あの震災の時のメッセージ…上皇(明仁―引用者)の強い意思を感じさせる言葉です。今回の天皇(徳仁―同)の『ご発言』には、そうした天皇自身の意思が感じられません」などの記述がそれを示しています。

 第2に、原氏は「メッセージについては、私自身も『憲法が禁じた権力の主体に天皇がなっている』と著書で書きました」と天皇の「ビデオメッセージ」には批判的であるとしていますが、その点の論及がこの論稿ではほとんどないため、結果として、コロナ禍で天皇のメッセージを促すことになっている点です。

 それは、国王がメッセージを発したイギリスやオランダの例を挙げながら、「天皇がひとたびそうしたメッセージを出せば、イギリスやオランダと同じように、国民は励まされ、歓迎する空気が生まれるのも間違いありません」と述べているところに端的に表れています。

 詳述は省きますが、「天皇のビデオメッセージ」は重大な憲法違反です。

 第3に、この論稿の主題であり結論ともいえる次の記述の問題点です。
 「結局のところ、どのような力学が働いて、現在の(徳仁天皇の―引用者)『沈黙』が保たれているかはわかりません。ただ、一つ確かなことは、このコロナ禍によって、図らずも『平成』と『令和』における象徴天皇制の在り方の『変化』がはっきりしたことです」

 「象徴天皇制の在り方」は「平成」と「令和」で、すなわち天皇の代替わりによって「変化」するものだとし、その「変化」を是認しています。それは次の記述にも表れています。

 「明治以降の天皇は、前代の在り方について、継ぐべきは継ぎ、改めるべきは改めるということを繰り返してきたのです。令和の世もそれは変わらないでしょう。今はその新たなスタイルを模索している段階だと私は思います」

これは誤りです。
なぜなら、「象徴天皇制の在り方」は憲法(第3、4、6、7条)に規定されており、時の天皇が自分流に作ることができるものではない、作ってはいけないからです。それが現行憲法における象徴天皇制と大日本帝国憲法における絶対主義的天皇制の本質的な違いです。
 象徴天皇制を「平成流」「令和流」と分類し、時の天皇による「変化」を是認することは、憲法を無視(超越)した天皇の独自行動(言動)を容認する危険な誤りに通じると言わねばなりません。

 天皇制についてのまともな論者が決定的に少ない現在の日本において、原氏は注目される学者の1人です。慎重で的確な論考を期待したいものです。


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コロナ禍と徳仁天皇―“無為の知恵“

2020年06月11日 | 天皇・天皇制

    
 2カ月前に「徳仁天皇は『ビデオメッセージ』を発してはならない」と書きましたが(4月9日のブログ参照)、その後も天皇は何も「メッセージ」を発していません。理由は分かりませんが、この状況はたいへん意味のあることです。

 4月以降、「コロナ禍」に関連して徳仁天皇が雅子皇后とともに行ったことは次の通りです。
 4月10日 専門家会議の尾身副座長から聴取(政府・宮内庁はこれを「ご進講」と称します)
 4月15日 厚労省医務技監から聴取
 5月20日 日本赤十字社長・副社長から聴取
 6月3日  東京都葛飾区保健所長らと面会(専門家からの聴取はこれが5回目とか)

 それぞれの場面で感想は述べていますが、「国民」に向けたメッセージは発していません。天皇主義者はこの状況に不満を募らせていると思われます。宮内庁はやむを得ず、専門家会議と日赤からの聴取で徳仁天皇が述べた感想をHPに掲載しています。

 明仁上皇が天皇であればとっくに「ビデオメッセージ」を出していたでしょう。「天皇退位有識者会議」(2017年)で座長を務めた御厨貴氏(元東大教授)が、「東日本大震災の時に上皇さまはビデオメッセージを出した。陛下も国民に向けて何らかのパフォーマンスを見せてほしい」(4月14日付中国新聞=共同)と公言していましたが、徳仁天皇・雅子皇后にメッセージ(パフォーマンス)を求める声は少なくありません。

 東京新聞の望月衣塑子記者が、「皇室が世界に本来進むべき道を指し示すというのは、理想的なウィジョン」(「波」5月号)とコロナ禍のいま天皇・皇后に発言・行動を求めていることは先にみましたが(6月2日のブログ参照)、同類の声はほかにもあります。

 作家の赤坂真理氏は、ドイツ・メルケル首相のスピーチ(3月18日)を評価したのに続き、「日本で機能していないと思うものがある」としてこう述べています。

 「それは『象徴』だ。この歴史的な時に、首相は統合を象徴する存在たり得ていない。残念なのは、憲法第1条に書かれた『象徴』もまたそうであることだ。『象徴』と書かれた存在が、もし本当にその役を引き受けるのなら、今、何かを言ってほしい。でなければいつ象徴的であられるのか?」(4月29日付地方各紙=共同配信) 

 こうした声にもかかわらず、徳仁天皇が何もメッセージを発していないのは、したいけれどできないのか、それとも何らかの判断であえてしないのか。それは分かりませんが、客観的にみれば、何もしないことこそ“無為の知恵”と言えるでしょう。

 天皇が政治・社会情勢に関連して自らの意見を述べることは、憲法が二重三重に禁じています。何もしないことが「憲法第1条」に沿うものです。しかも、「コロナ禍」ではそれが一層重要です。

 今回の「コロナ禍」あるいは「コロナ後」は、私たちに様々な選択を迫っています。その1つは、「全体主義的な監視(国家による監視と制限)か、市民に力を与えるエンパワーメント(自己決定力)か」(イスラエルの歴史学者・ユヴァン・ノア・ハラリ氏、4月4日NHK・ETV特集)です。言い換えれば、「国家主義」か「市民主義」かの選択です。私たちが目指すべきは当然後者、「市民の自己決定力」を強化することです。

 天皇(象徴天皇)はいうまでもなく国家機構・体制の一部です。天皇が自らの言動によってその存在を強めることは、上からの権威によって「国民」を束ねる国家主義(全体主義)の強化にほかなりません。それは私たちが目指すべき「コロナ後」の社会に逆行するものです。

 天皇は「コロナ禍」でも、いいえ「コロナ禍」だからこそ、メッセージを発するべきではありません。このまま「無為」を貫くことこそが市民のためです。

 

 

(写真中)が、「この危機の時代に、私たちは特に重要な2つの選択を迫られている」と提唱していることが紹介されました。

 

 第1の選択…全体主義的な監視か、市民に力を与えるエンパワーメントか。

 第2の選択…国家主義による孤立か、グローバルな連帯か。

 

 「全体主義的な監視」は「国家による監視と制限」、「エンパワーメント」は「市民の自己決定力」とも言い換えられました。


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天皇裕仁「最後の勅令」と裴奉奇さんの怒り

2020年05月02日 | 天皇・天皇制

    

 5月3日が憲法記念日、73年前のこの日に日本国憲法が施行されたことは、おそらく多くの日本人が知っているでしょう。ではその前日に、憲法施行とかかわって行われた重大な出来事はどのくらい知られているでしょうか。

 1947年5月2日、「外国人登録令」が天皇の勅令(勅令二〇七)として発布・施行されました。翌日の憲法施行で「象徴」となり、一切の政治権能がなくなる(はずだった)天皇裕仁が、最後の勅令として、駆け込み的に制定した法令です。

 「外国人登録令」が目的としたものは何だったか。「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」(第11条)ことでした。
 植民地支配していた間は「皇民化政策」で強権的に「日本人」にしておきながら、戦争に負けたとたんに「外国人とみなす」として切り捨て、戦後の補償から排除したのです。

 その切り捨ては「当分の間」どころか、1952年4月28日のサンフランシスコ「講和」条約の施行に伴って出されたい「法務府(現法務省)民事局長通達」(52年4月17日)によって、「朝鮮人および台湾人は…すべて日本国籍を喪失する」として固定化されました。

 これが今日に続く敗戦後の在日朝鮮人・台湾人の無権利、差別、迫害の元凶です。その出発点が最大の戦争責任者・天皇裕仁の「最後の勅令」であったことを、日本人は歴史の事実として銘記しなければなりません。

 その裕仁の「最後の勅令」の被害をもろに受けた1人が、裴奉奇(ペ・ポンギ)さん(写真中)でした。

 裴さん(1914~1991)は1943年、朝鮮半島の興南という町で、日本人と朝鮮人の「女紹介人」に「南の島では金が儲かる」と騙され、釜山から下関へ、さらに日本軍の輸送船で鹿児島を経て沖縄に連れてこられました(44年11月)。そして、「赤瓦の家」で日本軍の性奴隷(「慰安婦」)にされました。

 敗戦によって裴さんは、言葉も分からず知る人もいない沖縄に放り出されました。行く当てもなく金もなく、夕方になると飲み屋を見つけ酔客に身を売りました。食べ物と寝る場所をえるためです。子守り、野菜売り、空き瓶などをしながら放浪し、なんとか生き延びました。「慰安所より辛かった」と裴さんは振り返っています。

 そんな裴さんの地獄の生活は、朝鮮総連の金賢玉さん(写真右は裴さんと金さん)夫妻と出会うことによって、やっと終止符が打たれました。「慰安婦」にされたのも貧乏に生まれた自分の運命だと思っていましたが、金さん夫妻とつきあう中で、そうではなかったことを知らされました。
 年をとり、からだを壊し、働けなくなって生活保護を受けようとしたとき、「日本人」でないという国籍の壁に阻まれました(以上、『軍隊は女性を守らない~沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』参照)。

 天皇制帝国日本の植民地支配による貧困の中で騙され、日本に連れてこられ、天皇の軍隊の性奴隷にされ、敗戦とともに放り出され、裕仁の勅令で国籍を奪われ、なんの補償もないまま、再び故郷の地を踏むこともなく、異郷の地(沖縄)で77年の苦難の生涯を閉じました。まさに、天皇裕仁によって、日本の天皇制によって徹底的に踏みにじられた人生でした。

 裴さんは、裕仁の死(1989年1月)を聞いたとき、「いっぺんに怒って」、こう言いました。「なんで謝りもせんで逝きよったんか」。「どうすればよかったの?」「そりゃあ謝ってほしいさ」。「謝ってどうするの?」「補償もせんといかんよ」(金賢玉さんの証言映像=注釈より)。

 「謝りもせんで」天皇裕仁を死なせたのは、私たち日本人です。
 謝らないどころではありません。3日前の「祝日」、「昭和の日」とは何の日でしょうか。かつての「天皇誕生日」、戦前は「天長節」、すなわち裕仁の誕生日です。日本という国は、日本人は、最大の戦争責任者に謝罪もさせなかったばかりか、いまだにその誕生日を「祝日」にして祝っているのです。
 天皇制のこの醜悪な事実・実態を、日本人は「知らない」ではすまないのです。

 ※在日本朝鮮人人権協会が金賢玉さんのインタビュー映像(「裴奉奇さんに出会って」ゆかりの地訪問編・証言編)をユーチューブで公開しています。「在日本朝鮮人人権協会」の検索で視聴できます。5月6日まで限定です。


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徳仁天皇即位1年・天皇制の不要性を証明

2020年04月30日 | 天皇・天皇制

    
 徳仁天皇が即位して5月1日で1年になります。安倍政権は数々の憲法違反を犯して一連の「代替わり儀式」を繰り広げ(写真)、懸命に天皇制の維持を図ろうとしてきました。
 しかし、そうした政府(国家権力)の思惑とは裏腹に、この1年は天皇制がこの社会に必要ない、いや、あってはならないものであることがあらためて証明された1年ではなかったでしょうか。

 徳仁天皇は即位以来、何をしたでしょうか。ほとんど記憶に残ることはしていません。それは批判すべきことではなく、逆に歓迎すべきことです。

 天皇の影が薄くなった理由の1つは、新型コロナウイルスによって諸行事が中止・延期になったことです。ざっと挙げても、天皇誕生日の一般祝賀、英国訪問、園遊会、全国植樹祭、春の褒章の親授式、そして秋篠宮の「立皇嗣の礼」などが軒並み中止・延期になりました。

 これらの行事が中止・延期になって市民生活に何か影響が生じたでしょうか。何もありません。すなわち、天皇の「公務」といわれているものは、市民にとってはなくても困らない、まさに「不要不急」のものだということです。

 天皇制が不要であることをよりはっきり示しているのは、コロナ禍に対する徳仁天皇の姿勢です。
 4月9日の当ブログで、「徳仁天皇は『ビデオメッセージ』を発してはならない」と書きましたが(https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20200409)、幸い今現在それは発せられていません。

 天皇制維持勢力にとってこれは忸怩たるものがあるようです。例えば、「天皇退位有識者会議」(2017年)で座長を務めた御厨貴氏(元東大教授)は、「気掛かりなのは、新型コロナで皇室の存在が希薄になっていることだ」と危機感をあらわにしたうえで、「東日本大震災の時に上皇さま(明仁―引用者)はビデオメッセージを出した。陛下(徳仁―同)も国民に向けて何らかのパフォーマンスを見せてほしい」(4月14日付中国新聞=共同)と切望しています。

 しかし、天皇の「ビデオメッセージ」は憲法上多くの問題があり、行われてはならないものです。コロナ禍に対しは、天皇として何もしないことが正解です。それが憲法の象徴天皇制の趣旨であることを改めて銘記する必要があります。

 もう1つこの間の注目すべきことは、天皇制に対する「国民」の支持が減退していることです。

 徳仁即位1年を前に、共同通信は皇室に関する世論調査を行いました。その結果、天皇に「親しみを感じる」という回答は58%にすぎませんでした(4月26日付地方各紙)。しかもこの数字さえ額面通りにとることはできません。
 なぜなら、有効回答が63・3%(3000人に調査票を郵送し有効回答は1899)だったからです。調査票に対し「親しみを感じる」と答えて返送した人(選挙の絶対得票率に相当)はわずか36・7%ということになります。「尊くて恐れ多い」「すてきだと思う」など天皇に対する好意的回答をすべて合わせても、調査票に対するその比率は50・6%にすぎません。すなわち、天皇に対する好意的感情を積極的に回答した人は「国民」の約半分にすぎないということです。

 憲法第1条は、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定しています。世論調査の流動性を考慮しても、今回の共同通信の調査結果は、現在の天皇制がおよそ「国民の総意」に基づいているものではないことを示しているのではないでしょうか。憲法第1条に従えば、徳仁天皇は天皇の地位にとどまることはできないのです。

 コロナ禍は、様々な面で、日本が格差と差別の国であることをあらためて私たちに突き付けています。天皇制こそ日本の差別の「象徴」であり元凶です。コロナ感染によって社会の変容が不可避になっているいまこそ、天皇制廃止へ向かう好機ではないでしょうか。


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徳仁天皇初の「誕生日会見」で露呈したこと

2020年02月24日 | 天皇・天皇制

       
 23日の誕生日に際して徳仁天皇が行った初めての「天皇誕生日会見」(21日実施)は、A4判にして8枚半(宮内庁のHP発表をコピー)にもおよぶ長いものでした。これまでの発言と比べ特筆すべきことはないように思えましたが、注意深く読むと、徳仁天皇、というより天皇制の本音・本質が露呈した場面がありました。

 徳仁天皇は会見で、「国民に寄り添う」という言葉を4回口にしました。ほかに「被災者に寄り添う」が1回、「(国民に)心を寄せる」が3回。明仁前天皇を賛美し継承するという脈絡で連発したものですが、天皇(天皇制支持勢力)がいかにこの言葉を前面に出そうとしているかが改めて分かります。

 では、天皇が「国民に寄り添う」「心を寄せる」とはどういうことでしょうか?

自衛隊のヘリで、入念に準備された「被災地」へ行き、選ばれた「被災者」に会うことが「寄り添う」ことになるのでしょうか。美辞麗句が躍る一方、天皇がどういう意味でその言葉使っているのかは不明です。

 ところが、問わず語りにその意味が露見した場面がありました。記者が、「社会の片隅に暮らす人々」として、外国人労働者、在日外国人、外国にルーツを持つ日本人、障害者、LGBTなどを例にあげ、「陛下はこのような人々にどう寄り添い、光を当てていきたいとお考え」かと聞いたのに対し、徳仁天皇はこう答えました。

 「本当にこの世界にはいろいろな方がおられ、そういった多様性に対して、私たちは寛容の心を持って受け入れていかなければいけないと常に思ってきました。私も引き続きそのような方々に対する理解も深めていきたいと思っております」

 「社会の片隅に暮らす人々」とは記者の差別的表現ですが、それをマイノリティと言い換えると、徳仁天皇はそうしたマイノリティを、「寛容の心を持って受け入れていかねばならない」と言ったのです。

 ここには明らかに上下関係があります。「寛容」には「人の過失をとがめない」(国語辞典)という意味があります。徳仁天皇の発言には、マイノリティを何か問題がある人間と見下し、受け入れてやるという上から目線があります。けっして平等ではありません。「生産性がない」発言と紙一重です。しかも徳仁天皇は「私たちは…」とその目線・立ち位置を「国民」にも要求したのです。

 ここには天皇(制)の本質が表れているのではないでしょうか。天皇制は明白な身分制度です。現行憲法の下でも皇位継承を世襲にすることなどによって、身分制度としての天皇制が継続されています。
 徳仁天皇がいくら「国民に寄り添う」「心を寄せる」を連発しても、それはこの身分制度の頂点に立つ者が、「国民」という下じもの者に対して情けをかける、慈悲の心を持つということにほかなりません。「寛容の心を持って受け入れる」という言葉はその本音を思わず吐露したものではないでしょうか。

 平等であるべき人間社会に差別を持ち込み、固定化させる身分制度は廃止しなければなりません。それが人間の歴史の進歩です。したがって身分制度である天皇制は直ちに廃止しなければなりません。徳仁天皇初の「誕生日会見」はその思いを改めて強く抱かせるものでした。


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日本の皇族にも「皇室離脱」の自由はある

2020年01月20日 | 天皇・天皇制

   

 イギリスのハリー王子夫妻の「公務引退」表明問題は、王室の称号を使わない事実上の「王室離脱」という形で決着しました。エリザベス女王も、「2人が幸せで平和な新たな生活を築くことを願う」(18日)と述べて容認しました。

 先のブログで「日本の皇室も英王子を見習ってはどうか」(11日)と書きましたが、今回の問題は日本の皇室・天皇制の今後を考える上で他山の石になりうるでしょう。

 朝日新聞は12日付で「皇族の『人権』」と題する1ページ特集を組みました。その中で、「日本の皇族には現在、個人の生き方の自由やプライバシーはあると思いますか?」というアンケート調査を載せています。その結果は―。

・制限されている現状があり、一般国民と同じレベルに保障されるべきだ…44・5
・制限されている現状があり、ある程度改善すべきだ…30・1
・制限されているが、このままでいい…19・2
・自由やプライバシーはある…6・2
 (回答者1164人。朝日新聞デジタルによる調査、2019年12月4日~20年1月6日実施)

 朝日新聞デジタルのアンケートですから、比較的意識が高いかもしれませんが、それにしても、約45%の人が「一般国民と同じレベルに保障されるべきだ」と答え、「ある程度改善すべき」と加えると約75%の人が、現状に問題があり皇族にも自由・プライバシーを保障すべきだと答えていることは注目されます。

 さらに、「どの点について、皇族にもっと個人の自由が認められるべきだと思いますか?」(3つまで選択)との問いに対しては―。
 ①皇室を離れる自由…48・2
 ②子どもを持つかなど、家族のあり方を選ぶ自由…45・4
 ③婚姻の自由…33・8
の順となっています。

 先のブログでも述べましたが、憲法上、天皇以外の皇族から「皇室離脱の自由」をはじめ基本的人権を制限・剥奪する根拠は何もありません。

 高見勝利・上智大名誉教授(憲法学)は、「天皇については…職業選択や政治参加などの権利は認められないと解されています」としながら、「実はそのほかの皇族については、現行法上は一般国民と明確に区別する規定はほとんどありません」とし、「あるのは『皇室典範』で男女平等や結婚、皇室離脱などに制限をかけた規定と、一部の財政法ぐらい」(12日付朝日新聞特集)と述べています。

 「皇室典範」による「皇室離脱の制限」とは、第11条第2項が、「親王(皇太子及び皇太孫を除く)…は、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」としていることを指していると思われます。これによって「天皇、皇太子、皇太孫には離脱権はない」(12日付朝日新聞特集)とする向きもあります。

 しかし、この「制限」はあくまでも皇室典範によるものであり、憲法に天皇以外の皇族を縛る規定は何もありません(「世襲」の規定はあってもそれで「皇太子及び皇太孫」の皇室離脱を禁じるのは無理です)。
 旧皇室典範が大日本帝国憲法と同格とされた戦前とは違い、現憲法下で皇室典範が憲法を超えることができないことは言うまでもありません。

 皇族も「人」である以上、「一般国民と同じレベル」の自由・人権が保障されるべきなのは当然です。
 では、天皇は例外でいいのでしょうか。天皇は「神」ではありません。「人」です。「人」から自由・人権を制度的に(憲法によって)奪っている天皇制を存続させることが果たして妥当なのか、許されるのか―。「皇族の人権」をめぐる議論はそこまで射程に入れるべきです。


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