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大豆の会ができるまでーーー5

2019-01-21 04:49:32 | 自給

昨日は、近藤まごのりさんの諏訪の原圃場で麹作りが行われた。新しい場所で新しい味噌づくりが始まった。

農の会としての味噌づくりは、第一回は小田原の私の家でやったのだと思う。小田原に越してすぐだったので、2003年のことではないだろうか。中野さんという開成の方で、MOAの自然農法されていた方と一緒に宅配事業をしていた。その中野さんのやり方というのが、麹を塩漬けにして眠らせて、一年於いて置くというやり方だった。そのやり方が開成では普通だといわれていた。 まだ10人ほどで、20キロの釜でやったのだったと思う。大豆も購入したものだ。私の家で3回ほどやって、2006年ごろに、梅の里センターでやるようになった計算になる。その頃に農の会としての大豆栽培も開始をしたことになる。2008年には醤油を仕込んだ記録がある。2008年には小宮さんの所に味噌の貯蔵庫を作る計画を立てたが、これは紆余曲折があり実現が出来なかった。予定者名簿には以下の名前がある。大野、諏訪間、阿部武、安藤、石井智子、渋谷、兼藤、藤崎、瀬戸、小泉、中原、鈴木淳子、下川A、下川B、笹村、吉野馨子、河合、酒井まや、中村、佐々木、小野田、塩谷卓也、松本、三木、杉崎、この頃にはこういう人々が参加していたという事になる。 2009年の大豆栽培の参加者名簿には56名が記載されている。

梅の里センターのみのり館には大きなコンロがいくつもあり、味噌づくりには良い場所だった。そのころは麹造りには藁の編んだものが必要だという岩手から来た千田さんの方式が残っていた。ムシロ編みからやっていた。今思うと納豆ではないのだから、むしろで麹を仕込むという事の意味は理解しにくいが、東北のやり方にあるのだろうか。ところがその稲わらの掃除が不十分という事で梅の里ではやれなくなった。何しろ庭の芝生に藁が落ちていたというので怒られたのだ。責任者だった中原さんの所では子供が生まれる直前の奥さんが電話で呼び出され、怒られるという事件になてしまった。当時の梅の里センターの管理者の考えた方には驚くべきものがある。この事件では農政課に正式に抗議をして、謝罪と撤回をさせた。しかし、この事件でみのり館は使いづらくなってしまった。

みのり館から、小宮さんのおじさんの所に移り、3回目から旭ブルーベリー園にさらに移った。20キロぐらいの大釜をあちこちから8つほど集めて並べてやっていた。盛大なものだった。3,4年この方式でやったのだが、これでは効率が悪いというので、120キロ入る大釜を購入した。この時期が一番試行錯誤しながら盛り上がった時期ではなかったかと思う。参加者が多くなり過ぎたということもあり、味噌作りはいくつかに分かれてやるようになっていった。生産者の人たちは自分でやる方が楽という事に成り、農の会の味噌づくりから徐々に距離をとるようになった。 そして、大豆の会には2つの大きなことが起きた。一つは長年中心にやっていた、中原さんが奈良に移住することになった。全てを要領よく一人で担ってくれていたので、居なくなってから、戸惑う事が多かった。特に個人的な関係で参加者に連絡していたので、連絡先のすべては教えられないという事になった。参加メンバーで一度途絶えた人も多かった。中原さんが去った後を引き継いでくれたのは藤崎さんである。 もう一つは原子力事故の影響である。小田原でも大豆の放射能汚染の不安から活動から離れる人が増えた。藤崎さんは茅ケ崎に住んでいたのだが、大豆の会が原子力事故で一番苦しくなった時期、何とか持ちこたえてくれた恩人である。今でも大豆の会を支えてくれている。

 その頃やっていた西大友の大豆畑を止めて、大豆畑を機械小屋の前に移動することになった。トラックターの移動に困ったことが理由である。トラックターを運搬できるトラックがない。作業が煩雑になった。そこで、機械小屋の前ならば、面倒がないという事で機械小屋の前の畑に大豆畑が移動した。大豆畑の作業はだいぶ楽になった。味噌づくりも、小宮さんの所から、機械小屋でやるようになった。やはり大釜の移動がだんだん負担になったことが理由である。 舟原の旧機械小屋の前に大豆畑を移動してからは、今度は大豆栽培で苦労することになった。永塚でやっていたころは、田んぼの中で、高いベットを毎年作り直して作っていた。ベットの間には水があるような大豆畑だった。ここでの栽培はとても優秀で、反収で言えば200キロ越えで今の倍は取れていたと思う。ただし、ハトが良く来る畑で、種から作るという事は全くできなかった。 苗を作り植え付ける方式だった。この頃稲葉さんの断根挿し木方式を試みていた。これは、久野の機械小屋の前に移動してからも続けていたが、成果なく終わった。そして機械小屋前の畑は地主さんが亡くなられて、返すことになった。そして、欠ノ上の畑に移動することになる。そのあたりからのことは、最近のことなので、皆さんご存知かと思うので、これで終わりにする。

 


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