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第72代横綱稀勢の里

2017-01-25 04:12:23 | 身辺雑記

横綱稀勢の里が誕生した。待ちに待った横綱である。日本人横綱という事もあるが、何度も何度も横綱になる機会を逃して、ついにつかんだ横綱である。初優勝も棚ぼた優勝であった。まさか白鵬が平幕下位の力士にこの大切なところで負けえるとは思わなかった。勝負所に弱い稀勢の里としては、幸運が舞い込んだ。緊張さえなければ、今一番強い力士である。白鵬よりも強い。何度も白鵬に苦杯を飲ませた稀勢の里である。千秋楽の白鵬戦に勝たなければ本当の横綱にはなれないと思ったが、私は負けるはずはないと思っていた。それは白鵬がすでに力を落としてきているうえに、後半戦に入ると疲れからかかなり力が落ちるようになっている。以前の白鵬は前半戦は力を抜きながら勝手後半戦に備えていた。今は前半戦から全力を出してしまうので、後半戦は厳しくなっている。その上に稀勢の里はすでに優勝して横綱が決まった如く言われている。これでは稀勢の里は力を出すに違いない。

私は隆の里ファーンだった。それは隆の里の人格である。まさに類まれな横綱だった。おしん横綱と呼ばれた。当時最強の千代の富士が勝てなかった力士が隆の里である。千代の富士には対戦成績で16勝12敗と勝ち越している。花籠部屋の力士で鬼の若乃花の二子山親方が育てた力士である。子供の頃からの若乃花ファーンだったから、その部屋の力士はみんな応援した。中でも隆の里の、武骨で豪胆な姿に魅かれた。私より2歳年下だったのだと思うと驚く。津軽の風雪に耐えた農神の風格のある力士だった。おしん横綱と呼ばれていた。その隆の里が鳴門部屋を引き継ぎ、稀勢の里を育てた。二子山部屋の鬼の指導を踏襲した。それが、暴力指導だと告発される中、汚名を着せられたような形で死んだ。当時、大相撲は興行を停止されていた。大相撲の伝統的な弟子の育て方が問題にされていたのだ。

稀勢の里は汚名を晴らすように、親方の追悼の思いを力に変えて、大関に昇進した。親方を失った稀勢の里は、肝心のところに来るとなぜか勝てない力士になった。待望される日本人横綱の声援が負担になった。相撲の面白さはこの心技体の心が一番重要になる点である。だから、八百長とすぐ言われてしまう。今回も白鵬がわざと負けたという人がいる。がっかりである。あの白鵬の必死な相撲が分からないのかと思う。白鵬を又見直した。立派な横綱である。千秋楽の稀勢の里戦はまさに何もかも打ち捨てて、ただ相撲に挑んだ。あんな必死でひたすらな相撲は久しぶりに見た。見事な敗戦であった。自分のすべてを正面からぶつける姿勢に、白鵬の魂が宿っていた。しかし、緊張から解き放たれた稀勢の里は強い。がむしゃらに一気にの勝負に来た白鵬を土俵際で反り身になって堪え、土俵の下に投げ捨てた。見事な勝ちっぷりであった。

同部屋に高安がいる。この力士も心にまだ芯がない。しかし、横綱をとれる器である。こうした力士を育てたという事が、伝統の鬼の稽古である。これがいじめだとか暴力とか言われるわけだ。どこに境があるのかは難しいことではあるが、もし稀勢の里の横綱を歓迎するのであれば、隆の里の汚名のことも考える必要がある。モンゴル勢に唯一対抗できたのが、日本の伝統的稽古なのだ。同じ時代の千代の富士も、貴乃花も、北の湖も強い日本人力士を育てることは出来なかった。この伝統的暴力稽古を、否定的な材料にできるかではなかろうか。もう一度日本が再生するためには、近代以前の日本をどう否定的媒介にできるかにある。(花田清輝のことば)日本の農業の再生も、東洋3000年の循環農業をどのように未来の食べ物生産に再構築できるかである。相撲の土俵には宝が埋まっている。

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