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与那国島の稲作の過去と現在

2022-08-23 04:03:53 | 楽観農園
 


 昔の与那国島は稲作が出来る豊かな島と言われていた。島には明治25年の調査では220ヘクタールの田んぼがあった。それは11000人の人が暮らしていたと考えられる数字である。江戸時代にはさらに広い面積の田んぼがあったという記録もある。

 与那国島の稲作は東アジアの島嶼部の稲作の形を良く残した形態の物で、水を様々に利用している。特に川とか湧水から作る田んぼだけでなく、雨水だけを利用した天水田と呼ばれる田んぼは、与那国島固有のイネ作りになっていた。これはのぼたん農園の稲作に大いに参考になった田んぼ作りである。

 のぼたん農園の田んぼ作りには、与那国島出身で八重山農業高校の先生だった福仲先生が協力してくれて、与那国島の溜め池作りや、天水田のやり方を指導してくれたのだ。おかげで、何とか一〇枚の田んぼが出来たわけだ。これからも与那国島の伝統的稲作法を学ばなければならない。

 のぼたん農園も始めて8ヶ月が経過した。始めてのお米の収穫を終え、今ひこばえ農法の試験栽培をしているところだ。まだまだ成功したとは言えない。天水田も、ひこばえ農法もかなり難しいものだが、可能性は見えてきているというのが、現状判断である。

 幸運なことに、インドネシアのスマトラ島で行われていた、サリブ農法を日本に紹介した山岡先生の指導をいただけることになっので、展望はある。もし実現できれば、石垣島の稲作農業のために画期的な物になるはずだ。特に自給農業には書くに存在していなかったほど優れた方法と思われる。南の島は自給の島になるだろう。

 今のひこばえは10月頃刈り取ることになる。上手くゆかなかったとは言え、石垣島で一般に行われている2期作ぐらいの収穫はあるだろう。一期作の60%ぐらいか。昭和6年頃に蓬莱米が入るまでは、与那国島の収量は反収160キロぐらいの低水準だったらしい。

 蓬莱米が沖縄で作られるようになり、沖縄の稲作はまったく変わった。沖縄のイネ作りはすべてを台湾から学んだわけだ。蓬莱米は台湾で作出されたインディカ種とジャポニカ種の交配種である。今は完全に失われた品種である。台湾では今美味しくて熱帯気候で作れるお米が色々作出されている。台湾から学ばなければならない。

 このところ、与那国島の稲作のことを読んでいる。安渓遊地と言う方の書いた「農民のあゆみ」ー物的証拠と島びとの記憶力ー、が一つ。もう一つが「与那国島の水田立地と稲作技術」ー東南アジア島嶼部稲作との関連においてー田中耕司著である。

 どちらもネットからプリントアウトして4回読んでいる。かろうじて明治期までの稲作の記録をたどったものである。この時代にこういうものを作ってくれた人が居たから、かろうじて与那国島の稲作の様子が見えてくる。貴重な労作である。安里『考古学からみた琉球史 上』グスク時代 には二期作は行われていないが、ひこばえを収穫していたとある。

 繰返し確認しながら読んでいるので、紙媒体でなければ理解が出来ない。与那国島の稲作は極めて興味深い物がある。小さな島ではあるが、イネ作りに向いている、独特の地形の島なのだ。そこには稲作と結びついた、人間の暮らしが存在する。稲作をする物として、そのいちいちに頷けるところがある。

 イネ作りは水があると言うことが絶対条件であるが、与那国島は水は割合十分な島と言える。風が強い島にもかかわらず、風を遮る山があって、吹きさらしと言うことでもない。土壌もかなりの量あって、沖積土壌と思われる場所もあった。いわゆる沼田のようなところさえ存在する。

 与那国は江戸時代に最高の人口だったのではないだろうか。自給的生活では島の暮らしは日本中で悪くなく、人口は最大の島が多かった。今は1500人ぐらいの島だが、過去にはその十倍の人が暮らしていた時代があるといえるのだ。田んぼ面積がそれを示している。

 台湾に極めて近いと言うことがあって、稲作の農法が東アジアの島嶼部との関連が深い。石垣島の稲作法が本島から南下してきた技術の影響が大きいとしても、与那国島は台湾の影響が強い。その稲作法はのぼたん農園の伝統農法には参考になるところがある。

 与那国島では「ひこばえ農法」が過去存在したことが想像できる。沖縄の気功であれば、当然のことだ考えることが出来る。興味深いのは田植えが12月頃に行われて、6月に終わるようにしていたことだ。少ない水を最大限に利用するためである。

 台風を避け、台風の雨を利用することが出来る栽培期間である。刈り取り語に雨が予想される。その雨で田んぼの代掻きを続けて、田んぼの湛水状態を改善して行く。牛を5頭並べて踏み固めた牛耕である。

 のぼたん農園の条件を考えると、この方法を生かして一年の計画を立てることが有効だと思う。10月にひこばえの刈り入れを行う。ここから田んぼの代掻きに入る。水を確保しては代掻きを繰り返す。水が十分に溜まるように、畦塗りをしながら、一番から何度も代掻きを繰り返して行く必要があるだろう。

 雨が降るときに合せて、トラックターで代掻きを繰り返す。昔の与那国島では牛に何十回も踏ませたという。この代掻きは何度やってもいいと考えている。ともかく水を溜めると言うことが重要である。畦塗りも何度も行い。水が少しも漏れないように、10番田んぼまで回わせるようにする。

 10月にひこばえの稲刈りが終わり次第、代掻きを始めて、十二分に行う。すべての田んぼの代掻きが徹底して行われて、水が溜まるようになるまで行う。一つの田んぼが10回ぐらい代掻きが行われて、畦塗りが厚く徹底して行われる必要がある。

 11月には直播きの田んぼを開始する。直播きの際に水の抜き方を計算して行う。上の田んぼから種を蒔いて行く。蒔き終わって次の田んぼの水を抜き、線を引き、すぐに種を蒔く。下へ下へと種まきを行い。芽が出た田んぼから水を戻す。

 出来れば短期間ですべての田んぼに種を蒔き、水を戻すことが必要になる。すくなくとも10の田んぼを、11月中にすべて直播きが終わるように進める必要がある。線を引いた田んぼの、マスの中央に3粒の種を蒔く。

 種は1週間溜め池に漬けて、発芽させた物を直播きする。田んぼには黒のテグスを張り巡らせる。種を鳥に食べられないために行う。この黒糸はひこばえが実ったときに張り巡らせる。

 5月には稲刈りと言うことになる。稲刈りは少し稲が青い内に行い。ひこばえ農法につなげる。ひこばえの稲刈りは9月頃になる。これをさらにひこばえで進めるか、ここで代掻きをするかは状況次第になるだろう。

 のぼたん農園ではこれから1,「ひこばえ農法」を完成させる。2,水草緑肥をすすめて、抑草効果を期待する。3,光合成細菌の培養を行う。肥料の自給が可能になれば、石垣島のイネ作りは残ることが出来るかも知れない。その技術をなんとしても確立することが、のぼたん農園の冒険の目的地である。
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