地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

絵を語る会について

2024-09-06 04:07:21 | 水彩画


「絵を語る会」の案内        笹村出
10日、12日午前中「絵を語る会」を水彩人展会場で行います。
出品者は誰でも参加できます。どなたでも見て頂くことができます。
「絵を語る会」は自分の描いた絵と自分の関係を、表明する場です。
それは何故その絵を描いたのかを言葉にして、自覚するためです。
自覚する以外に自分の絵を深める方法がないと考えるからです。
それが「水彩人展」が勉強会である意味だと考えます。
自分の絵を描く気持ちや哲学を言葉で表明する場である。
どこで、何を描いたとか、どんな水彩技法で描いた。
というようなことを語る場ではありません。
「絵を語る会」は自分の絵と自分が対峙する場である。

 絵を語る会はコロナで中断し、なかなか本格的には再開できないでいる。以前は年4回開催してきた。神田の画廊をお借りして、きちっと展示して1日グループ展のような形にして開催していた。最近は水彩人展の会場で行うだけになっている。

 今回の水彩人展では、2回開催する。できるだけ多くの人に参加してもらい、自分が絵を描いて居る心を語ってもらいたいと考えている。水彩人展は良い仲間が増えてきている。今年も初出品の方が10人ぐらいいたと思う。初出品の人の中に今までにない傾向が表れている。

 できればそういう人に是非とも参加してもらいたいと思う。また、遠くから参加している人もいる。そういう人にもぜひ参加してもらいたいので、10日に開催することにした。9日には懇親会がある。それに出席して、翌日絵を語る会に出てもらえばと考えている。

 最初は何を語るのかが分からないと思う。たいていの人は、どこを描いた、何を描いたということを話す。そこがどういうところで、どのように描いた。どんなものであると話す。しかし、そういうことはあまり重要ではない。それはきっかけである。

 そのものに何故惹かれたのかを掘り下げてもらいたいのだ。何故絵にしようと考えたのか、自分の心の中を探り、語ることで深めてもらいたい。そして、その思いは絵で表すことができたのか。どういう部分が実現できていないのか。もしできているとすれば、どのようにできたのか。

 できていないとすれば、なぜできなかったのか、どういうことができないのか。できないことを語っていると、次に向かうべき先がはっきりしてくることがある。たぶん絵にできないくらいなのだから、なかなか語ることも難しいとは思う。

 絵を言葉にすることに慣れていない人ばかりである。うまく語れないで当たり前である。しかし、うまく語れる必要はない。訥々でも、おかしな話になってもかまわないだろう。その人自身が自分の絵について言葉を探し、みんなの前に表明することが意味があると思っている。

 頭の中にある思いや、感情を言葉化する作業によって、人間は自覚を深めることができる。それを他人に対して表明することは、特に重みが加わる。私がブログを書いているのもそういうことである。頭の中で何となく思っているだけでは、自分のものにならないからだ。

 ブログであれば、頭の中の言葉を文章化してみんなに読んでもらう。公表すると思って描いて居ると、人にわかるように整理して書かなければならない。自分の頭の中が徐々に整理されて、なんとなく考えていた時には、思いもされなかったことが、引き出されてくる。

 描くことでわかったことが多い。今書いている絵を語る会のこともそうである。文章化することで、絵を語る会の意味が明確化してくる。つまり自覚できる。そのことで自分が絵を語る会で語ることが、次第にはっきりしてくる。そして今度は口に出して語る。かなり自分の絵が分かりだす。

 絵を深めるということは難しいことだ。どうしても「良い絵。うまい絵。評価される絵」を目指して描くことになる。水彩人はそうした絵を目指しているわけではない。むしろ、下手でいい。とんでもないものでいい。その人の世界観が出ている絵を求めている。

 絵を語る会作者の語った後に、互いに気付いたことを話し合う。しかし、技術的なことや、こうすれば上手な絵になるということはできるだけ避けている。普通の教室のように、先生が指導するような場ではない。あくまで語った思いが、表現されるためには何が必要なのかを話し合うことになる。

 語り切れていない部分に気付くこともある。語りながら、そうか本当はこういうことがしたかったのかと自覚を深めることはよくあることだ。朝焼けの山に感動して、描いた。問題は何故それに感動したのかにある。子供のころの記憶とか、朝焼けのモネの絵に惹かれたとか様々であろう。言葉にしながらそれを探る。

 これは私自身の場合だが「私絵画」を描いている。私の世界を深めてゆくための、探求方法として絵を描いている。私自身が深まらない限り絵が深まるということがないと考えている。問題は絵を描くということが自己探求になっているのかどうかである。

 そこにある絵はあくまで自己探求の経過の図である。自分の世界観が現れているかどうかが問題なだけである。世間的な評価はあまり意味はない。私が描いたと言えるようなものに少しでも近づいているかである。世界の見方が絵に現れているのかどうか。

 石垣島に暮らして、絵に専念する毎日である。毎日目にしているものを、目に慣れてきて、特別なものではなくなったものを、自分の内的な世界観として表明された表現に、なっているかどうかが問題になる。少しでも前進しているかどうかである。

 方角が間違っていないかどうかを、絵を語る会で確認している。その為には絵を語る会は自分には必要なものになっている。特に日ごろ、一人だけで絵を描いている。絵の世界から離れている。独りよがりになっている可能性もある。この貴重な水彩人展の場で、絵を語ることは羅針盤のようなものになる。

 
 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 斉藤知事が辞職しない理由 | トップ | 奄美大島マングースの根絶宣言 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

水彩画」カテゴリの最新記事