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第26回「水彩人展」

2024-09-03 04:17:13 | 水彩画
 第26回 水彩人展のお知らせ

開催期間: 2024年9月9日(月)14時から~ 9月16日(月、祝) ※休館日なし
時    間: 9時30分~17時30分 ※初日は14時から。最終日13時30分まで。
会    場: 東京都美術館1階 第4展示室(上野公園内)
本展会期中事務局: 東京都美術館内 TEL(03)3823-6921
事務局 杉浦カヨ子 TEL 080-5412-0400

 水彩人の本展が上野の東京都美術館である。私としては大切な発表の場である。一年間の制作を水彩人展で総括している。水彩人展は水彩画を学ぼうという仲間が35年ぐらい前に集まった勉強会が始まりである。春日部洋先生が水彩画の勉強会をしようと誘ってくれたことで始まった。

 その後春日部先生は亡くなられて、あたらに水彩画勉強会を水彩人の仲間と継続した。7名であった。そして現在水彩人展に三橋、大原、笹村の3人が残っている。始めた動機は水彩画が正当に認められていないと言うことと、水彩画は本格的な研究がないと言うことにあった。

 あの頃から思うと、水彩画が認められると言うより、絵画というもの自体が芸術としての力を失った。一方水彩画の研究は進んだと言える。材料や道具の充実は格段の進歩だと思う。絵の具、水彩紙、水彩筆、技法書、と随分充実した。

 50年前の水彩画が、劣化が特に退色がひどいことが多いのは、紙も絵の具も質が悪かったとだと思われる。筆に関して言えば、今はコリンスキー系統の良い筆があれこれでているし、日本の筆でも水彩画に向いている物が、多数存在する。隈取り筆や豚毛の筆も水彩画の表現を多用にしている。

 材料が豊富になったこ原因は水彩画を描く人が、格段に増えたためである。趣味で水彩画を描くという人が、多くなった。カルチャーセンターなどの水彩画教室という物も、多数存在する。水彩人口が増えたことで、水彩画材料の商品として品質が向上した。海外からの水彩材料も揃うようになった。

 しかし、増えた水彩画人口が必ずしも水彩画の世界の質を上げたかというとそういう訳でもない。泰西名画とでも言うような、古い時代の描写的な水彩画の復活が中心である。まるで100年以上も前の英国風水彩画の復活である。こうした絵画は、当時も芸術としては評価をされなかったものである。

 一見絵のように見えれば、それでいいという趣味の世界の浅い絵画ばかりが広まってしまった。これは水彩画だけの問題ではなく。芸術としての絵画という物が社会の中から、失われた結果なのだ。映像の世界の出現である。誰しもが手軽に映像を作る時代が来ている。

 無数にユーチューブ画像が存在し、ウエッブでは様々な映像が飛び交っている。絵画はむしろ、そうした映像世界からの影響を受けて、絵画としての芸術表現力を失ったと言える。野見山暁二氏が亡くなり、日本には画家という存在が居なくなったように見える。

 芸術としての絵画はその存在を内的な物に変えているのだと思う。描くという行為それ自体がその主たる物になっている。人間が生きると言うことを、実感させてくれる物としての描写である。描くことで生きていると言うことを確認するような行為である。

 その結果としての絵画を、発表するという意味は、従来の絵画展とは大きく違うはずだ。そこに絵を語ると言うことがあると考えている。自分の絵について、絵の前で絵を語る。自己確認である。何故この絵を描いたのかを、語ることで自分の描くという行為を自覚すると言うことが主目的である。

 水彩人展では絵を語る会も会場で行っている。9月10日と13日の午前中に行う予定で居る。絵画の次の可能性を絵を語るという行為で切り開きたいと考えている。制作者が自分の絵の前で、何故絵を描いているのかを語る場である。

 絵を語るなどおかしい。むしろそういう意見が多くある。発表した絵はそれだけで独立し、作者からは霧離れたものだと言う考えだ。それを説明などするのは、絵が不十分だからだと言われる。従来の藝術としての絵画であれば、その通りだ。ゴッホの絵を語る必要など丸でない。ゴッホは手紙という形で随分絵を語っている。

 ところが、そうした自己表現としての絵画は終わった。絵画は描くという行為の方に藝術行為としての意味が移ったのだ。描くという自分の充実が、すべてなのだ。それは舞踏家が舞踏をすることを表現だとする意味と、古代の人が神の前で踊り続ける事との違いのような物だ。

 踊ることで神と一体化する。描くことで自分という根源的存在に至る。根源的な存在など無い。と言うことも分る。だから根源的存在に居たろうという努力、自分という物が生きると言うことの実感を得るために描く。それが藝術としての絵画の新たな意味なのだと考えている。

 アクションペインティングという物があった。描く行為時代を芸術作品として見せた。舞踏に近い形で描くという行為自体を表現としたのだと思う。しかし、現代の描くという行為を芸樹的行為とするのは、描く行為を見せる物ではない。描くという行為の内面的な世界観を言葉にするというものである。

 だから、絵はそれぞれの人の物なのだ。かつての絵画は描けばそれはもう自分の物ではなくなった。だから制作者は絵を説明などしてはならなかった。しかし、次の時代の絵画は描くという行為こそ、問題になるのだ。だからその行為の結果を見せることになる。

 そこはまだ未開の部分だと考えている。描かれた絵画が、行為の何を残存しているのか。ここを探っている。行為の深まりが、画面に現われるのかどうか。本来であれば、ここは藝術評論の分野の仕事で在る。ところが、絵画の衰退と共にほぼ失われた。

 評論家という人で、現代絵画芸術論を書いている人が居ない。いや、私が評価できるような芸術論に出会っていない。私なりに探しては居るのだが、見つからない。もしご存じの方が居たら教えてほしいものだ。本来新しい藝術は新しい芸術論と共に表れるはずだ。

 ししやまざき氏の動画に感銘を受けた。これほど新鮮な感動を受けたことは久しぶりだった。こうした動画芸術論ならばあるのだろうか。それも分からないが、旧来の平面絵画が芸術の表現力を失っていることは確かだと思う。

 一方で商品絵画は存在する。経済の時代だから、バンクシーの絵画が商品として扱われる。全く陳腐な物だ。そんな陳腐な絵画と同列の商品絵画なら多数存在する。様々な投資家が商品を求めているのだ。結局の所、商品絵画の底の浅さが寂しい時代と言うことになる。

 水彩人展が9日の午後から始まる。私は13日の午後から、14日前日、15日午前中以外は会場に居ます。受付で聞いて貰えばと思います。10日と13日の午前中に絵を語る会をやろうかと思っています。興味のある方はいらして下さい。

 
 
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