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金沢大学美術部同窓会

2022-09-26 04:11:16 | 水彩画


 金沢で4年ぶりに同窓会が行われた。20名の参加だった。今回は人が半減した。コロナのためだと思う。でも20名の方にお会いできて、昔のお礼が言えたことは良かった。今絵を描いていること。田んぼをやって楽しく暮らしていることはあの時の美術部のみんなのおかげに違いない。

 人間は人間と出会うことで作られる。そういう実感があのときの美術部で起きたと、思っている。特に若いころは人間と切磋琢磨することで、決定的な影響を受ける。美術部の50人余りの人間の渦の中で、学ぶことが多かった。

 特に般若さんというすばらしいリーダーがいたことで、魅力的な混沌のいくつもの輪が重なり合い、なにか未来に向かうエネルギーが生み出されていた。あのときのままその後は生きてきたのだと思う。辛いことも多かったが、今抗して楽しくやれているのは、幸運としか言いようがない。

 悩める高校生だったわけで、でいろいろあって、宗教を目指した時もあった。金沢に行くときも、金沢大学に行くということもあったのだが、大乗寺に行くということでもあった。大乗寺に行ってみろとは、山本素峰先生に言われたことだった。しかし、大乗寺には迷って迷って、結局は行かなかった。怖かったのだと思う。

 大学1年生の夏休みに素峰先生について、立職した。蘇峯先生の入山式があったのだ。だからまだ当時は僧侶になるという気持ちが十分にあったと言うことになる。あのときかろうじて立職したことで、今でも僧侶でいることになる。世田谷学園に勤めることになるのも、そのことがあったからだ。

 先日行ってみた卯辰山の廃墟になった家で毎朝、経を読んで、座禅もしていた。それが徐々に絵を描く事にのめり込む生活に変わり始めた。そして、座禅もしなくなり、お経も読まなくなった。結局、この歳になって動禅をする暮らしをしている。

 禅の生き方では絵を描くということが許されないことだという意識が強くあった。そのことで大乗寺にも行けなかった。どちらかに決める必要があった。そして絵を描くということを選んだ。金沢大学に行くまでは考えても居なかったことだ。

 絵は小学校のころから好きだったことだから、反対していた親元から離れて、絵を描く生活に入るのは必然だったのかもしれない。出も小学校の頃の好きは曖昧なものだったが、大学の時に明確な意識にに変わった。その要員が美術部の仲間の刺激だった。

 絵を描くことは今のほうがもっと好きだ。絵を描いているうちに、どんどん絵を描く面白さが掘り起こされてきたような気がする。絵はわかればわかるほどその描く面白さが深くなる。今は全力で取り組むことが出来る。

 大学の美術部ではなぜか、シュールリアリズムが盛んだった。ダリやマグリットをまねたような絵が多かった。私はそれには少しも興味がわかなかった。ただの近代絵画風の絵を描くというようなことを、大学の美術部であえてやるのはおかしいという空気だった。

 ボナールが好きだったので、まねたような風景を描いていた。それは高校の頃描いていていた絵の延長であり、大学の美術部でシュルリアリズム風になることはなかったわけだ。絵が好きだから描くという意味では、ほかの人よりは熱心に絵を描いていた。

 旧生協の建物の2階に美術部のアトリエがあり、ここで遅くまで絵を描く毎日だった。熱中して描いていた理由は、新しい環境に入り、自分のを見失いそうで絵にすがりついていたのだと思う。自分の立脚点がないから、絵を描く以外にやれることがなかった。

 それは当然といえば当然で、生き方として絵を描くということは当時から変わらず同じである。早く死んでしまった美術部の先輩の元木さんにそういう私の、近代絵画的な絵の描き方は、いつも馬鹿にされ否定されていた。元木さんの論理の鋭さと知識の量に圧倒されていた。

 金沢には美術大学もあるから、近代絵画を描く奴ならば美大にいくらでもいるという意識だったようだが、絵を描くときにそういう影響は全く受けなかった。絵を描く友人という意味では美大のほうに少しづつ増えていった。美大生のほうが絵がうまいなどとは思わなかった。

 美大の人でおもしろかったのは、彫刻の人達で、その人達とは今でも付き合いが続いている。葛飾美術研究会の人達だ。中央公園で野外彫刻展を企画してやった。こういうことを新しく実現するエネルギーがある人達だった。

 同窓会は女性がほとんどこなかった。女性は容姿の衰えを気にしてこなくなるのだと、中村さんは言っていたが、中村さんは静岡で劇団を長くやっている人だから、そういうことは分かるのかも知れない。歳をとり人間がおもしろくなるに違いない。

 絵を今でも描いている人もいないわけではないようだが、それはやはり女性の方だ。男の人は絵を描いているという人はいない。小説を書いているという人がいた。それなら、今度同人誌をもう一度出さないかという話が出た。もし出すことになれば、私も一つ書いてみようかと思う。

 昔の美術部はいつも同人誌が発行されていた。私も書いてみたことはあったのだが、参加することはなかった。その同人誌を読ませてはもらったが、参加しなかった。意気揚々と同人誌を作っている空気に加わることが出来ない、屈折した気持ちがあった。

 一つ書きかけの小説があるのだ。まとめきれないで長引いているのだが、もし同人誌を作るというのであれば、もう一度挑戦してみようかと思う。美術部ではガリ版を切ってつくったのだから、それは大変だったはずだ。今はパソコンがあるから、すぐにそれなりの物になる。

 何でもやらないよりやった方がおもしろい。中村さんは脚本を年2本書くそうだから、それで一つはある。今小説の勉強をしているという塚本さんは発表は練習には成るだろう。もしそういう物が出来たら、あれからの50年後と言うことになる。

 同窓会も美術部だけになった。美術部だけはもう少し続きそうだ。開かれたら、また金沢に行きたい。金沢には絵を描く材料が色々あった。やはり記憶の中から絵を描いているから、金沢周辺には描く材料がある。ただ一番よく描いた大学の構内が、完全になくなってしまった事は残念だ。

 今度金沢に行く機会があれば、お城の中に入って描いてみようかとおもう。石垣は残っているのだから、描いていれば思い出すこともあるだろう。
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