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石垣島に戻って、

2022-09-27 04:55:35 | 楽観農園


 石垣島に戻ってきた。戻ってホットしたと言うことでもない。どこにいても、旅行先でも気持ちは余り変わらないようだ。戻れば色々の用事が待っていて、片付ける終わるまでまだまだ時間がかかりそうだ。これもいつものことで、絵ばかり描いていれば良いという暮らしは何時になることやら。

 まあそういう日は生涯来ないのだろう。そう思うしかない。考えてみれば、ゴッホだってゴーギャンだって、日記を読んでみると、一体いつ絵を描いていたのかと思うほど煩雑な生活に追われている。それであれだけの絵を描いていたのだから、言い訳は出来ない。

 まず、田んぼは台風で大分やられた。これはちょっとがっかりするレベルだった。送ってくれた写真の状態では被害は無いように見えたのだが、後から台風の影響が強くなったようだ。他所の2期作目の田んぼはそれほど被害がない。

 どういうことかとよくよく見ると、台風が来た時期と稲の穂の実った状態がまずかったようだ。強い風と潮風で穂がやられたという状態。そこから病気が広がり穂がおかしくなってしまったように見える。今になってみては正確な原因は分からない。

 なかなか石垣の稲作は難しいものだ。最後に遅れて稲刈りをした、5番田んぼだけはかろうじて収穫できる可能性が残っている。今日黒い糸を張ろうかと思う。鴨が来ているから、そのうち食べてしまうだろう。黒い糸ではだめと言うことのようだが、このままでは食べられるのを待つようなものだ。

 しかたがない。ひこばえ農法の事を考えると、収穫は見込めないのだから、早めに刈払機で刈り取ってしまった方が良いだろう。私が居ない間に、電気の刈払機が壊れてしまったと言うから、刈払機を借りて、早く刈り取ってしまおうかとおもう。

 水は5番、8番は溜まっていない。溜め池からはみずがかなり流れ出ているのに、やはり一度乾いた田んぼに水が戻るのは大変なようだ。それでも5番田んぼの稲は調子が悪いという状態ではない。それなりにひこばえが再生したように見える。

 機械小屋の工事は始まっていた。しかし、まだしばらくは時間がかかりそうだ。早く工事が終わらなければ、色々の整備も次の段階に入れない。来週の金曜日には軽トラダンプとハンマーモアーが来るので、そうしたら草刈りから始めようと思う。

 良いこともあった。1番田んぼにアカウキクサが一面広がっていた。穂7番田んぼ、2番田んぼはそこそこアカウキクサが出てきている。稲がなくなり水が張られれば、田んぼの水面は前面がアカウキクサになることだろう。この状態であれば雑草は生えない。

 溜め池は1番はほぼミズオオバコで覆われた。2番もミズオオバコが広がり始めた。2番には睡蓮も広がっている。3番はコナギが広がり始めているが、ミズオオバコもいくらか出てきている。うまく広がってくれれば、溜め池にコナギが増えることはなくなるだろう。

 色々やりたいことはあるのだが、まだ石垣の陽射しは強くて、太陽の下では働けない気がしている。働いた途端に光りアレルギーがぶり返しそうな気がしてこわい。それでもやらなければならないことは山積みなので、すこしづつ片付けて行こうと思う。

 のぼたん農園で少し苦しい思いで絵を描いた。何とかなるだろうとは思いながらこの冒険は一筋縄ではいかないと言うことをしみじみ感じた。この強烈な気功をどう乗り越えるかは、これから日本全体での問題に繋がっていそうだ。ひこばえ農法も想像していたこととは違う事が起こりそうだ。

 絵を描き始めればそういうことも忘れて描いている。それでも絵にそういう苦しさは表われるのだろう。絵はそういうすべてを含んだものに違いない。一日一枚の繪はブログ以上に、日記のようなものなのかもしれない。その時の自分というものは現われてくるはずだ。

 その意味で言えば、今回の水彩人展から、金沢の旅行は自分の中には、大きな物ではあった。絵を描く心を支えてくれたのは水彩人展の仲間であり、金沢での学生時代の暮らしである。そのことを伝えられたことは今回の旅行は良かった。

 自分の絵を描くところまで行かなければならない。まだもう少しの深みに向かうことは出来きると思う。絵にはまだ先がある。その先までやり尽くさなければ、支えてくれた人への感謝は形にならない。このまま終わってしまうのでは、余りにふがいないことだ。

 今回、医王山の入口にあった谷戸田と出会えたことは一つの収穫だった。確かに20歳の時に、この田んぼを見てこんな田んぼのある暮らしをしたいと考えたことを思い出した。あれから50年、この田んぼの暮らしは何も変わらず続いている。

 たぶん、400年前から変わらない暮らしがあったのだろう。金沢だから1000年前からかも知れない。人間の暮らしは田んぼと共に続いてきた。その日本人の暮らしが今変わろうとしている。これほどの変動の時代はなかったはずだ。日本人はもう終わるのかも知れないと思える。
 
 日本に人は素晴らしい民族だと考えている。江戸時代に作り上げた、自給自足の社会はこれからの世界の持続可能な一つの形のはずだ。資本主義社会が拝金主義を生んで、社会の倫理は失われた。資本主義の次の形が見えない理由は拝金主義がまさに資本主義の根本だからだろう。

 悪貨が良貨を駆逐しているのだ。もう一つの資本主義は道徳のある資本主義だそうだが、一体人間の根本には悪魔が住むのか。天使が住むのか。人間を信じたいと思う。今の時代は9人の天使が1人の悪魔に圧迫されている時代だ。

 今日は日本をだめにした一番の責任者の国葬なのだから、日本の方角は極めて危うい。何が日本をだめにしたのかが、すれ違っている。日本をだめにしたのは倫理の喪失なのだ。身内を桜の会に平気で招待するような人間こそ、日本をだめにしたのだ。この国葬はそういう忖度社会を温存するためのものだ。

 のぼたん農園もあしがら農の会も、人間次第である。思いやり、献身、楽観。改めて思うところだ。人を責めるのではなく、自らを反省することしかない。ここで頑張ることだけが、未来に繋がる。のぼたん農園の先にあるものは未来社会の可能性だ。

 ささやかな農園だが、ここに希望がある。人間は自分の体力だけで自給できるという証明である。楽観をもって、のぼたん農園に献身することを自己確認する。あと4年と3ヶ月身体が保ってくれれば、何とかなるだろう。
 
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