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虎と翼のタイトルバック

2024-08-22 04:10:21 | 水彩画


 「虎と翼」のタイトルバックを毎朝見ていて、やっと分ったことがある。それは恥ずかしいことだが、アニメーションというのは、究極のイラストレーションだと言うことだった。当然のことだが、映像で説明をする為には静止画よりも動画の方が優れている。

 絵画の時代ではないのだ。絵画は自己表現であり芸術である。目的があるイラストレーションは主人のある表現で、芸術に主人はあってはならない。「絵画は説明であってはならない」とイラストである事を恥じた時代は終わっている。

 人間の考えや思想を、図解したり、説明する時代なのだ。説明品ければ分からない時代とも言える。芸術が表現しようとしたものは、説明が出来ないようなものであると考えられていたのだ。つまり唯一無二に絵画という表現だから可能な世界観なのだと。

 固有色の考え方と同じで、表現そのものに純化されていることを大切だとしたのが、絵画の考え方であった。事例を挙げれば、樹木の葉の色は固有色では一つである。絵画はこの固有な色を捜すところあった。しかし、実際の木の葉の葉は緑であり、黄色であり、ピンクにも成る。白も黒もある。光の反映で、色に固有性など無い。さらに分りにくいか。

 純粋絵画の自己表現論に支配されていたのだ。絵画には物語性は邪魔だ。絵画には説明的な要素はいらない。絵画は自分の内部世界を画面に絞り出して、表現されるものなのだ。もちろん私はそういう考えに今も支配されているし、そのように考えて、制作している。

 タイトルバックの画像作家はシシヤマザキ氏だが、このタイトルバックには演出家がいるのだ。シシヤマザキ氏の画像を使い、アニメーションに仕上げて、いるのはその演出家なのだろう。もちろん、両者の試行錯誤のある共同制作ということになっているのだろう。

 その目的はこの「虎と翼」と言うドラマの空気に変えて行く力だ。ドラマのどの場面以上に、虎と翼らしい世界観の表現である。実にややこしいドラマなのだが、美しい世界観が貫いている。女性が生きる世界の厳しさと、また素晴らしさである。

 様々な仕掛けがあり、シシヤマザキ氏の表現が共同作業によって、見事に完成していると思う。この形はアニメーションとしては当たり前の事であるのだが、この形に表現を展開している画家としてのシシヤマザキ氏の新しさがあるのだろう。

 芸大のアニメーション科(動画科)の出身と言うから当然かも知れない。つい芸大と言うから、画家のように考えてしまったていた。芸大でもアニメーション科があったのだ。アニメーションが芸術表現として、学科として取り上げられたのだ。その意味でいえば水彩画科はない。

 一画面一画面が優れた絵画である事も確かなのだが、そこに他の人が描いた家があえて挿入されている。多分、その入れられた絵は絵を描くのに慣れていない人の描いたものだ。またそこが良いのだ。そこに思想が込められている。そんな大げさでなく、シシヤマザキ氏としては、当然のやり方なのだろう。

 自分の作品を他人が動かし、しかも他の人の描いたものを自分の作品に入れ込んで行く。この違和感というか、異様さが実に新鮮なのだ。つまり個人と社会の関係なのだ。描くと言うことは誰にも出来る事であり、誰のものにも表現としてのおかしさがある。
 
 「虎と翼」のタイトルバックを見ていて、分ったことがある。それはアニメーションというのは、究極のイラストレーションと言うことだ。つまり、究極の説明法と言うことになる。虎と翼の場合で言えば、このドラマのすべてがこのアニメーションで終わっているのだ。つまり説明が尽くされている。

 そんな馬鹿なと言うことだろうが、このドラマは朝ドラの中では全く異質な作品であった。予定調和がどこにもないのだ。問題の解決ももちろん無い。問題の提起を繰り返している。こんな問題があるということを、繰返し、繰返し叫んでいる。この異端のドラマのすべての空気をこのタイトルバックは説明している。

 ここでは主人公の裁判官は踊っているのだ。バカみたいに、あり得ない踊りを踊っている裁判官。いや踊らされていると言った方が、正確であろう。ドラマのすべては予定調和だと、裏切って叫んでいる。どれほど深刻な問題があろうと、ドラマという枠内のことだと言い切っている。

 良くもこれほどこの朝の連ドラを言い表しているアニメーションはない。シシヤマザキさんは十分朝のドラマの限界を承知しているのだ。どれほど深刻に、告発的に、日本の女性問題を提起したところで、バカのように美しく踊りまくるだけだと言うことを。

 それ程日本の女性問題は、民族性に根ざしたことなのだ。一応国連などの調査では、日本の女性差別は最悪、最低の国と言うことになっている。この最悪最低と言うことがどうも私には理解できない。女性が大切にされているとも思えるからだ。

 何故女性が世界で一番差別されている国で、女性の金メダリストが、世界でトップクラスに来るのであろうか。世界の女性差別のない国と言われている国が、金メダルが多いわけではない。アイスランド、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、ニカラグア、ニュージーランド、アイルランド、スペイン、ルワンダ、ドイツ 。が上位10カ国。

 たしかに、世界基準で言えば、女性の国会議員や知事や市長の数は最低であろう。女性の社長や重役の数。校長や学長の数。こういう所も最低と言えるだろう。選挙で選ぼうが、能力で選ぼうが、日本ではなかなか責任ある立場が、女性に任せられないのだ。

 だから、先進国中最悪の女性差別国と決めつけられているが、私は少し違うと思う。差別がないと言っているのではない。確かに差別の側面から見ればひどい差別がある。日本の女性差別は世界からの視点だけで見られても、分析され切れない独特の民族性に基づくものと考えなくてはならない。そこを考えなければ解消がされない。

 姥捨て伝説があるが、爺捨て伝説はない。訳立たずの年寄はじいさんに決まっている。役立たずの頑固爺ほど困るものはない。本音としては大いに捨てたくなるだろう。所が家督を譲ったとしても、隠居はそれなりに尊敬される一応の立場がある。

 桃太郎伝説ではじいさんは芝刈り、にばあさんは川に洗濯である。洗濯に言ったついでに桃を拾ってくる。実に役立つ。芝刈りはエネルギー確保である。洗濯は身の回りの生活である。生活することが何より重要だったのだ。何故か日本の民話はお爺さんやお婆さんが主役のものが多いのが特徴なのだ。

 社会的な役割を終えたものが、子供や異界のものと関わることになる。何故、お父さんとお母さんと一緒にではないのか。日本の家族制度に関わってくる問題である。お母さんやお父さんは、家督というものがあり、お爺さんが家長なのだ。

 家族制度の問題に虎と翼は触れていない。ここに突っ込んでいかないと日本の女性差別の問題は見えてこない。今ではおじいさんやおばあさんの居る家族は珍しいことだろう。多くが核家族である。私達の年代の多く家庭にはおじいさんやおばあさんが居た。

 いよいよタイトルバックから話がはずれてしまったが。ともかく魅力的なタイトルバックなのだが、一つおかしいなと思うところがある。顎の下の影の色である。これが少し濃い。顔の表情を強調するために影を意識しすぎたのだろう。唇と同じくらいの色にしている。絵としてはもっと弱い方が良い。場合によってはないほうが良いくらいだ。

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