地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

絵を描くと言う意味

2024-08-29 04:24:44 | 水彩画


 自分という物をやり尽くしたい。絵を描くと言うことで、自分の生きると言うことを、やり尽くせるのではないかと考えている。絵を描くと言うことはそれ程手応えがあり、実に楽しい奥深い物なのだ。奥深すぎて、一向に分ったという気持ちには成れないのだが、確かにこの先に何かがあると思える。

 それは画面に自分が描いたものだと言う痕跡を感じるからだ。この絵を自分の何かだと言っても良いのかも知れない気になる。ゴッホの絵を見るとゴッホという、お会いしたこともない人間がそこに居ることを感じる。ボナールの絵を見ると、ボナールという人の、人間を見ているような気になる。

 それなら、私が私の絵を描き尽くすことが出来れば、私という人間が絵を通して、表れてくるのではないかと思えるのだ。もちろんそれ程の才能があるはずもないことぐらい分っている。絵が良いとか、素晴らしいと言うことは別にして、自分を探る方法として絵を描くという意味はあると考えている。

 私という人間がどうであるかを絵を描くことで突き詰めている。例えばゴッホはとんでもない人だ。しかし、絵で人間を救済できると思い込んでいた人でもある。牧師になること以上に、立派な絵を描くことで何か、人のために役立つことが出来ると考えていたのだと思う。

 その立派な絵とは何かと言うことが、ゴッホには難しいことだった。大体実際のゴッホは周りの迷惑のような人で、役立つようなことはどこにも無かった人なのだ。結局絵にとりつかれてしまい、絵を描くこと以外無くなってしまったのだ。評価されないと言うことで破綻して行く。

 ゴッホは圧倒的な絵の力を示したのだが、立派な絵とはほど遠い絵を描き続けた。ゴッホにはそれしか出来ない絵の描き方があった。そのやり方ではとても、立派な絵にはならないのだが、ゴッホという独特の思い込みの強い、いわゆる絵の常識など全くない人には、独特の手法以外にやりようがなかった。

 新しい世界を切り開く特別な人はそういう物かも知れないが、私は普通の人が普通の生き方を、十二分にやり尽くす方法としての絵を描くことになる。どれほど頑張ったところで、私のすべての絵が、消えて行くものだ。物に生きる価値を託すことは意味が無い。

 描くという行為を極めることこそ意味がある。絵は結果であって、後から自分の絵を描く行為を、確認する為のものだ。どういう心境で描いていたかは絵を見れば分る。人に褒められたいような心根があれば、すぐに画面に現われている。画格が卑しい物に下がるわけだ。

 どこまで自分の描くと言う行為に、なりきれているかの、行為の深度を絵は示している。それが只管打画の意味である。道元禅師の坐禅に至る事ができなかった、乞食禅の人間だから、逃げ道として考えたことである。だめだからと言って生きる事を諦める訳にはいかない。

 いわば次善の策のようなものである。自分がだめな人間であるとすれば、だめな人間を極めるほか無い。立派な禅僧を真似たところで意味が無い。目標はあくまで自分という人間である。生きると言うことは、立派な姿を真似ることではなく、だめである自分を生ききると言うことだと思う。

 これは自分を向上させる事を諦めた言い訳のような物なのだろう。諦め言い訳をするのが自分。そうであるとしてもその向上心の足りない自分で死ぬまで生きるほか無い。自分など無いと言いきることも出来ない。曖昧模糊とはしているが、ここにある自分をやり尽くしたい。

 絵は生まれてくる。意図的にこういう絵を描くというようなことはないのだが、描き始めると画面が次の状態を呼び出している。次の状態にまで済むと、また新たな描き進める方角が見えてくる。この繰返しを続けることが、絵を描く実際の状態である。

 何もない画面の前に座る。まだその時には何を描くかは決めていない。決めていないまま、絵の前に居るとすぐに始める。この時にはあまり迷いはない。例えば於茂登岳を描こうとか、富士山を描こうとか、海を描こうとか、湿原を描こうとか。蘭を描こうとか。思いついて始める。

 過去に直接見て、繰返し描いた対象を思いだして描く。見て描いたって良いのだが、観ているからと言ってその見ているものを移す気持ちにはならないようにしている。記憶の中でその対象は出来ている。記憶の世界を描くようにしている。絵を描く眼が作り上げた記憶は、対象を昇華している。

 あまり対象が何であるかは描き出すときには意味が無い。ただ描くことの反応に集中できれば良いと思っている。紙は3,4種類持っているので、たまたまその日これに仕様と決めた紙で、全く絵は変って行く。これでは違う、これでは違うと進んで行く紙もあれば、これだ。これだ。と進んで行く紙もある。

 絵は結局の所行き着くところに行くのであって、どういう紙でも変わることは無い。ただその日の紙が波長が合い、終わりまで進んで行けることもある。大抵はどこかで止まる。何か描いたものを否定し無ければ、先に進めないような状態に陥る。

 この何がだめで、何が良いのか。このところが難しいし、一番興味深いところだ。何故、今描いた物が気に入らないと感じるのか。何故変えなければならないのか。そして変えたものなら何故良いのか。一度は表れた、だめだと思う物にこそ意味があると思っている。

 良く一度描いた画面を洗うという人も居るらしいが、そういうことはしない。描いたと言うことは、何か反応したのだ。それを意味あるものと考えて、画面を進めて行く。今ある画面が下地であると言うような意識で描き続けている。

 それでもほとんどの場合行き詰まる。先行きが見えなくなり、何かが表れるのを画面を見ながら待っている。そのまま寝ているときもある。目が覚めたときに、先が見えると言うこともある。畑の方を見に行く。水牛を見に行く。農作業をする。そしてまた戻り絵を続ける。

 できる限り無念無想で描こうとしている。ああしようとか、こうしようとか、理屈で絵を考えることはしない。いつか自分の絵になるだろうと待っている。以前は一日描けば何とか出来たのだが、最近は一日で終わらない絵が多い。

 絵が完成して終わるというのは、確かに画竜点睛なのだ。それには決まりがない。しかし、何かをしたことで絵が出来上がる。画面の緊張感が急激に高まる。絵が世界観を持つ。画竜点睛は一箇所に手を入れると言うことでは無い。あれこれ描いている内に、どこかで絵が出来上がる場合が多い。

 この状態を今のところ自分の絵になったと考えている。そうなのかどうかは分らない。そして出来た絵として、日曜水彩画展示に出す。これは終わりをはっきりさせると言うことがある。一応発表することで、完成したとような意識になる。

 実際は、もう一度進めたくなることもある。その時は又描く。そして時々前の絵と較べるようにアトリエに展示する。アトリエにはその時の基準になる絵が置いてある。それより良くなれば、進んだと言うことになる。それよりだめならまだやることがあると思って絵を眺めている。

 眺めていると、何がつまらないのかが分ることが多い。描いていて間違うと言うことは良くある。ただ描き継ぐ場合、間違えを直すという意識ではやらない。修整する気持ちは弱い気持ちになる。あらためて糸口を見付けて、最初からやるほか無い。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 90歳を超えた歯科医 | トップ | 河野氏の裏金「返還」発言 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

水彩画」カテゴリの最新記事