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トレイン テレビ

2024-08-06 04:04:06 | 暮らし


 自然に生えてくるギンネムノキである。私は悪い木では無いと思っている。荒れ地での繁殖力が強い。ミネラルやカルシュームが多いためにお茶として飲むことも出来る。ただ有害物質も含むために、そのまま食べることは出来ないと言われている。

 牧草地では牛が食べて困ると言うが、水牛はかなり好物と見える。いくらでも食べてしまう。しかし、それでお腹を壊すようなことは一度も無い。水牛は本当に素晴らしい生き物だ。水牛の放牧地にはギンネムがあれば日陰にも成るし、若い木が出てくれば餌にも成るだろう。

 今回は東京に行った時 電車に何度も乗る事があった。電車の中にテレビがあった。お上りさんであるが、石垣島には電車はない。電車に乗るとなんとなくキョロキョロしてしまう。ついついテレビに見とれてしまった。なかなか美しい画面だったのだ。中刷り広告もいつの間にか凝視している。

 以前の車内にあった写りの悪い動画より、はるかにきれいな液晶の映像が流れていた。トレインテレビという映像が流れていた。短時間のコマーシャルの多い映像なのだが、つい見いってしまった。内容はどうでも良いようなものなのだが、CM映像の品質がかなり優れたものであった事に驚いた。

 電車の中にある中ずり 広告のポスターに比べて、 制作者のレベルの高さに驚かされた訳だ。それは映像の展開の構成レベルが高いということもあったし 、同時にポスターのレベルが急激に急激に下がっていると言うこともある。もう ポスターを制作するデザイナーの時代ではないようだ。

  最近のこうした中吊りのポスターは印刷屋さんが、片手間に作っているレベルのものなのだろう。一気にデザインレベルが下がってきている。それを一番印象付けたものが、トレイン テレビのビールの広告であった。色彩の感性が違いすぎるのだ。

 テレビの方は飲みたくなるような色彩をしている。比べて 中吊りのポスターのビールは色が汚くて、飲みたくもないような状態だった。印刷費が抑えられているのだろうか。 それはビールそのものの色が悪いということもあるのだが、背景になっているブルーがあまりにビールの色に合わないのだ 。

 こんなに色彩感覚がない デザイナーは昔ならば 考えられないことだった。 優秀なデザイナーは多分 映像作家として 動画の方に集まっているのだろう 。トレイン テレビのコマーシャルの映像のセンスは それはびっくりするほど、高い水準の作りのものだった 。普通のテレビコマーシャルよりも上を行く。

 またテレビの多分液晶画面の映像の美しさは、色彩の奥行の深さからいっても到底 中吊りポスターではかなわない。移動している車内での安定した液晶テレビ技術に驚かされた。画面の質が以前より数段良くなったのだ。もう日本の広告業界は 中吊りのポスターの時代ではない。当たり前か。

 といって、その放送内容の方はというと、どうと言うことは無い。コマーシャルが40%だそうだが、コマーシャルの方がはるかにましである。作り手の力の入れ方が違う。Tiktok は見たことないのだが、多分そこにあるような短時間勝負の映像が一応テレビの放送内容であった。

 コマーシャル映像の方が凝っているために、本編の映像よりもかなりきれいなのだ。映像が色が発せられている。光が色を放っている。この美しさは色彩の新しい世界なのだと思う。絵に描いている色は、映像の色とは違う。絵に描いている色彩は、言葉に似ている。絵の色は語っている色なのだ。

 外界の色彩の世界は光の放たれた反射光と言うことである。絵を描くと言うことはその色彩を言葉に代えながら画面で構成している。いわば言葉で観ている世界を説明しているのが、えなのだろう。絵で表わしている色彩は見ている色とは違うものなのだ。

 違うものだが、似ているためについ、見てその色を描こうとしてしまうことがある。所がそ言うことは出来ない。光の放つ色を画面に置き換えたいのであれば、液晶の画面の方が優れている。絵で外界の色を表わすと言うことは、全く再現ではない、言葉で色彩を語るような遠回りになるのだろう。

 詩で言葉で外界を語ることに、絵を描くと言うことは近いのだ。画面に絵の具という色のある物質で、観ている世界とは別物の世界を構築している。その構築されたものは、確かに観ている世界を材料にして、自分の世界を再構成して居るようなものなのだ。

 見ていると言うことが突き詰められて、世界を認識していることになる。絵は世界をこういうものだと指し示している。つまりそれが自分の世界観と言うことになるのだろう。絵が世界観の表現と言うこと成ることによって、絵は自分のことを表わしていると言うことになる。

 自分に表現すべきものがなければ、自分に世界観がなければ、絵は描くことが出来ない。絵がつまらないと言うことは世界観がないと言うことになる。もちろん世界中にある絵のようなもののことではない。私自身の描こうとしている私絵画のことである。

 私絵画は絵の具という言葉を使った、世界の断片の構築なのだ。だから、私であれば、自給的な世界の希望が絵と言うことなのかもしれない。絵は遠回りしているものだ。言葉で世界観を語ることも困難であるのと似ている。絵は図であるから、言葉よりはある意味直接的に示すことができる。

 言葉には出来ないことも絵には出来るという部分がある。多分絵を描くと言うことは全く、写真を撮ると言うことに似てはいるが、意味が違うものなのだ。ここまでのことは今分っていることだ。分っては居るから、そのように描こうとはしているのだろう。

 そのようにと言うのは、絵を描くときには何をしているかなど考えないからだ。何をしようとも思わないからだ。画面に向かいただその時に応じて反応を繰り返して、自分の感じているものに、自分の内なる世界に、近づけようとしているだけなのだ。

 東京では絵が描けない。自然の情景がなければ絵は描けない。作られた公園では絵は描けない。石垣の夏であれば絵が描ける。見ているものに似ているとしても、見ているものを写しているわけではないから、観ている世界への反応がなければ、絵は出てこない。

 石垣島の夏に反応できている。このくっきりとした曖昧さのない世界。この毅然とした世界。このすごさに触発されて、絵を生み出そうとしている。やっとやるべき事にたどり着いた気がしている。やれるかどうかは別にして、やるべき事は分った。


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