今のぼたん農園に来ている。キヨマル君。雄の水牛で、桜の種付けのためにいる。馴染んでいないし、種付けで興奮しているし、気をつけなければならない。サクラとのぼたんは寄ってきて、ベロベロ大歓迎なのだが、その姿をじっと見ている。自分の群れに何をするのかという感じだ。
小田原に行く行き帰りの飛行機で「街道をゆく40」を読んだ。丁度石垣空港に降りるところで読み終えた。国家というものは何だろうと言うことが、主題の話になっている。考えさせられた。日本が日中国交回復をするために、切り捨ててしまった台湾である。
この不思議な国ではあるが、国ではないという奇妙な状態の国を考えている。台湾は中華民国であり、むしろ国家という意味では、中国全土を支配していた国なのだ。今になって、その中国が仮想敵国だと日本政府は騒いでいるのだから、ひどい話である。
1972年に台湾に対して国交を一方的に断絶した。沖縄返還の前後だ。学生だったころで、この理不尽は許しがたいと言う怒りを覚えている。あれから52年である。随分長い年月が経った。台湾を植民地化した期間は50年間だ。それ以上の辛い年限が経過したことになる。
司馬遼太郎も繰返し書いているが、植民地化したことの愚劣さである。日本は明治政府の帝国主義によって、取り返せない汚点をアジア各所に残したのだ。全く品位にかけた国家である。そして、さらにひどい国交断絶をしたのである。そのことさえも受け入れてくれている台湾という「国」はすごい立派な品格の高い国家だ。
日本は台湾に申し訳ないことを2度もした。幸いなことと言って良いことなのか、台湾は日本からひどい仕打ちを2回も受けながらも、親日的な国家である。台湾人の有能さがこの背景にはある。台湾人である。台湾では本島人とも言うようだ。台湾人で始めて総統になった人が李登輝さんである。京都大学の農学部で学んだ人だ。
この中国で言う李登輝大人がいたから、台湾は救われたのだと思う。それ程立派な人だ。中国人には立派な人が沢山いる。中国は文化の深い国だ。その李登輝さんは、植民地日本で、日本人として出来上がった大人だ。権力が自然に自分に移る道を作った。1988年1月その日が、台湾の民主主義が始まった日である。
李登輝さんは中国人の哲学と、日本人的教養を併せ持つ、日本人こそ手本にしなければならない、理想的な人間像と言えるようなすごい人だ。当時の京都大学の教育も良かったと言えるのだろう。農学部であったと言うことが、特に良かったのだと思う。
それから、台湾は成長を続けて、36年が経過している。今やアジア一の国と言えるところまで来た。それも、中国の圧力を巧みにかわしながら、ここまで成長を続けた。台湾の存在が、中国にも恩恵がある形を模索したのだ。中国の高度成長は台湾の前例に学び、従ったとも言える。
一体国というものは何だろう。台湾は国家ではないと中国は決めつけている。まるで、明治日本のようではないか。琉球国のことを思う。琉球国は国家であった。その意味では与那国島は、国境の島で本島からも、さらに鹿児島からもあまりに遠くにあったために、与那国国家であったとも言える。
しかし、明治政府の帝国主義は忽ちに日本に組み入れてしまう。それは今中国が台湾を併合しようとしていることと同じことになる。いわゆる覇権主義である。琉球国は日本の軍事力によって、無理矢理組み入れられたのだ。日本になりたくて成ったわけではない。国の枠は何だろうかと思う。
琉球の独特の司祭と政治を兼ね備える国家という枠組みも簡単に廃棄された。日本の天皇制のような、君主をいただく、帝国主義をヨーロッパに真似た恥ずかしい国作り。天皇制よりも、ごく自然に国の統治に、宗教的な要素が組み入れられていた、平和国家が南の孤島に存在したのだ。
台湾も琉球王朝とよく似ている。中国に対して、支配されながらも独立性を維持し、列強の植民地政策に翻弄されることになる。しかし、国というものは人間がいて、暮らしていればそれが国である。それが島という地域で区切られていると、台湾島が一つの国である歴史も大切になる。
台湾が台湾であるのは、緑豊かな美しい国土があったからだろう。この美しい豊かな深い自然があれば、そこに暮らそうという人は必ずいる。その島というひとかたまりの中で、様々な部族が存在する。そして、中国大陸から特に福建省から多くの人が渡ってくる。
こうして、徐々に自然発生的に台湾人というひとかたまりが出来たのだ。中国の一地方と言いながらも、ある意味独立した形に近い形を維持されてきた。それは琉球王国と近い形とも言える。日本の江戸時代、交易国家として成長した琉球王国は、対外的に認知されていた国家だった。
明への冊封・朝貢 をおこない、臣下の国という体裁を取りながら、独自に江戸幕府に対しても朝貢を行う。軸に中継貿易を行い、東アジアの各国・各地域の独自の外交秩序を巧みに操りながら、文化力を高める事で、尊敬される国になった。そして、交易国家として成長をする。
その背景にあったのは、明が沿岸地帯の海賊の横行を抑えて、海外貿易をするために、琉球国を利用していたと考えられる。琉球の対明通交においては、当初は実質的に那覇の華人が担っていた。彼らは琉球の代表者として、しばしば明へゆき、琉球の対明外交と交易を活発化させた。
一方で琉球は16世紀には薩摩藩に対しても、独自の外交秩序にしたがい、琉球が他の大国に振る舞ったのと同じく、琉球交易の利益を得るための「従属」のポーズであった。琉球はこうした何重にも存在していた多元的な世界秩序をそれぞれ使い分けていた。
この琉球国の在り方は、特殊なものではなく、東アジア一般の外交姿勢であった。とすれば、台湾も隣りにある大国明に対して同様の対応をしていたと考えても良いのだろう。従属するような形を取りながら、一定の独立性を維持する。しかし、台湾には列強の支配が及び、さらに複雑な国際関係が生まれる。
この複雑な国際関係の中で、大きな島である。台湾という一地域が形成される。当時の明からして見れば、支配をして運営するような気持ちは無かったのだ。そうした覇権主義の範囲に入らなかったとも言える。この独特の位置に、台湾は台湾人の存在意義を作り上げたのであろう。
そうした歴史から見れば、今の中国の教養のない、一方的な態度は見苦しいばかりである。中国が民主主義を尊ぶ国になれば、自ずと台湾は中国の一地方になるはずだ。問題は中国という国の独裁政治にあるのだ。中国が歪んだ国作りが問題と言うことを自覚すべきだ。