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国語教育は読書から

2022-11-25 04:03:16 | 


 江戸時代の寺子屋教育では、「よみ、かき、そろばん。」と言うことが言われていたようだ。実に端的に、日本語の学習の場だったと考えて良い。そして計算が出来ないとには生活に困るという意味でのそろばん。寺子屋は生活の実学の教室と言うことだろう。寺と言う名前があるように、生活を律する規範を学ぶという意味合いもあったようだ。

 日本語を学ぶと言うことは、日本人になると言うことでもある。人間が学習する物の内で、自国語の学習ほど重要な物はない。話し言葉という物は自然に身につく物だが、書かれた言葉という物はそれとは又別のものである。人間を人間にする物と言っても良い。

 言葉の奥にある書物の宝は人間と言う存在を、思想的なもの、哲学的な物にしたのだと思う。文字という物がなければ、人間は一定の領域から成長することは出来なかったはずだ。文字を学ぶと言うことほど重要な教育はない。日本人は日本語を学び日本の文化を身につける。

 江戸時代の教育の実情ははっきりはしないようだが、私の生まれた山梨の藤垈の向昌院のような山村でも、寺子屋が行われていたと聞いている。当時の机が残されていた。どんな教育だったのかはまったく不明だが、たぶん読み書きそろばんであったのだろう。

 江戸時代の生活教育の仕組みは、それなりに全国に行き渡っていたようだ。百姓の子供であった二宮金次郎は、儒教の経書『大学』を学んだ。尊徳は独学用の「経典余師(けいてんよし)」で読んだとされている。独学できるような解説付きの書物であり、かなりの数出版されていたという。

 江戸時代の識字率が世界的に見て高い方だったことは確かなようだ。それが日本の社会の成熟度に大いに役に立っていた。読み本が庶民に向けて出版されていたのだ。そういう国は少なかったはずだ。本を読み想像の世界を広げる。そして庶民も俳諧連歌、狂歌と川柳と創作を楽しんだ。

 江戸の文学者が全国を訪ね歩いた。その時地方の有力者がその文学者を受け入れて、地元の文学者と交流する。宿を提供する。文学、藝術を大切にする文化が日本津々浦々まで広がっていたのだ。各地方に高いレベルの文化がある事で、日本独特の文化が形成された。

 支配階級の武士だけの文学の世界ではなかった。百姓だからといって、学問など無用などとは、江戸時代の庶民は考えていなかった人も居る。頭を使わなければ、百姓仕事ははかどらないと、考えていた農本主義があった。当時の稲作の水田技術全体が、世界でも優秀な物であったことは、証明されている。

 現代の有機農業の技術の大半は江戸時代にすでに存在して、実践されていたものばかりだ。機械や化学肥料を使わないという所だけが違うが、糞尿の堆肥化など、ありとあらゆる廃棄物が、循環農業の材料として利用されていたのだ。世界の循環型社会のお手本である。

 国語の教科の方向が変わると言われている。文学的な国語教育から、実用的なののへと変わると言うことらしい。どうも政府には国力の衰退に焦りを感じて、何でも実用教育への転換なのだろう。どこがどう変わるのか分からないところが在る。

 高校の必修科目は現行の「国語総合」から「現代の国語」「言語文化」に、選択科目も現行の「国語表現」「現代文A」「同B」「古典A」「同B」から「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に変わる。実用性を強めたことや、「論理」と「文学」を分けた と言うことらしい。
 
 文学が分離され、余り時間が割かれなくなると言うことらしい。教育の基本は国語教育に始まる。読書百遍である。自ずと理解が出来る訳だ。本を読むという習慣が学力の基礎を作る。読書はおもしろいから読むのである。別に教育のつもりではないだろう。

 しかし、文学という世界が若い人達から離れ始めている。読書の時間がスマホの操作に変わったのだ。もちろんスマホで文学作品を読む人も居るのだろうが、アニメやゲームに熱中する若者の方が、はるかに多いと想像する。

 中学卒業の時に、図書館で一番本を多く借りた人で表象された。本を多く借りて読むことが奨励されていたのだ。何しろ宮本武蔵を学校の授業中に毎日一冊読んで、1週間で読み切ったくらい本を読んだ。一体授業中に何をやっていたのかと言うことになる。

 本であれば何でも読んだのだろう。日本人の書いた文学が好きだった。世田谷学園の学校図書館にある本なら、何でも読んだ。曹洞宗の学校だったから、仏教の本が多かったのかも知れない。ともかく何でも乱読していた。活字を見ていれば満足という感じだった。活字中毒だったのだろう。

 井伏鱒二の山椒魚が中学3年の国語の教科書にあって、すっかり好きになってしまい。端から読んだ。今でも好きなところが変わらない。井伏鱒二が山梨に疎開していたので、山梨の話も出てきたので、余計に好きになったのかも知れない。

 国語教育は文学の教育で良いと思っている。文学を好きにするのが、国語の教科ではないかと思うくらいだ。文学の表現は多様である。好きな文章もあれば、嫌いな文章もある。整ったものも在れば、訳の分からないものも在る。理解しがたい作品を理解しようとして読むことが大切である。

 教育が余裕を失い、直接役立つ実学中心に行われるようになってきている。小学校から外国語まで学習するなど明らかに間違っている。日本語が十分でない人間が国際的に通用しないのは当たり前の事だ。外国語で話すとしても、その背景に日本文化がなければ無意味である。

 インターネット時代になり、意識して読書を教育に取り込まないと、読書の習慣が身につかないことになる。時間を潰す方法が溢れている。子供の頃は朝まで本を読み続けたことが良くあった。それくらい読書はおもしろい物であった。読書の面白さを是非教育してもらいたい。
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