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地場・旬・自給

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「世間とは何か」阿部謹也著

2020-11-18 04:20:46 | 


 一度こう言う道を描いてみたいと思っている。歩いている内に出来たような道である。この道は海に続いているように見える。そしてその海の先には竹富島が見える。この雲も良い。生えている木も悪くない。

 でもまだ道は描いたことは無い。道という意味合いがどうも、タオのようでもあるし。繪にしたとき嫌みな意味が出てきて恥ずかしい気がするのだ。そういう意味が好きな人がいる。絵手紙のもっともらしい言葉などよくもまあと思う。繪はそういうものに近づいては成らない。

 「世間とは何か」阿部謹也著講談社現代新書を読んだ。思い当たることばかりで面白かった。日本には世間はあるが、社会は無い。そう言われるとそんな気がしてきた。世間様にしたがって言えばそれなりに生きて行ける。長いものには巻かれろの、長いものはお上では無く、世間だったようだ。

 そのことは社会という言葉が出てきたときに、世間と置き換えてみると分かる。社会と言いながらも実は世間に過ぎないと言うことの方が多いようだ。日本ではこの世間というものをよく考えないと道を誤りかねない。

 私には社会はあっても世間は無いつもりで生きてきた。智に働けば角が立つ情に棹させば流される 。とかく人の世は生きづらいと漱石は「草枕」で書いている。漱石の人の世は世間のようだ。

 世間という意味は、まわりに生きている人にどう思われるかによって、自分の行動を決めるという意味と考えれば分かりやすい。世間様に顔向けが出来ないというようなことだろう。社会という意味は社会的共通価値が存在すると言う意味と考えている。

 日本にはあるのは世間であって、社会では無いというのは、日本人の暮らしの規範は社会的ルールよりも、世間的な判断が重要と言うことなのだろう。回りの目を気にして生きる日本人と言うことである。社会的ルールとしては正しくとも、世間では通用しないという日本にある特殊な社会。

 憲法とか、法律とか言うものもは社会的なものである。世間で通用している規律は文章として定めるようなものと言うより、不文律というようなもので、無いと言えば無いのだが、あると言う意味では法律よりも思いしがらみ的なものである。この見えない抑止力のようなものが、日本を形成する世間である。

 世間をあえて無視するように生きてきた。世間が出来る前に引っ越しながら生きてきたとも言える。小田原久野で自治会長を引き受けたときの条件は、自治会規約を作ると言うことだった。舟原自治会費の領収書が無かった。「領収書はないのですか。」と徴収に見えた組長に聞いたらオレが信用できないというのかと怒られた。久野に存在する世間様を、少し社会に近づけたかったのだ。

 世間の方はそんなものを作ったところで、無視すれば良いのだからと仕方なく受け入れてくれた。しかし、仕方なくであるとしても、一度出来た規約は世間の思惑を越えて、存在する。必ず役に立つときがあると思っている。もちろん役立つような問題が起きないことが一番良いのだが。

 私の自治会長の時には、自治会に加盟しない人がいて、ごみを出して良いのかどうかが問題になった。裁判の事例では、自治会に加盟していなくともごみは出して良い。となっているこれが社会だ。ところが自治会という世間様では、とんでもない奴だと言うことで村八分である。しかし、今の時代村八分も有り難いという人が多い。

 この世間が嫌いなものなので、田舎社会を出るという人も多い。都会には世間がほとんどないと言えば無い。それでも東京の商店街の中に住んでいたことがあるのだが、そこにも世間は存在した。意味不明な非難を受けることも少なくなかったが、社会の規範で押し切っていた。

 そういう世間の空気が読めない人間なので、山北の山中の開墾生活に入ったとも言える。発達障害の人間は空気が読めないと言われるから、それは仕方がないとも考えてきた。世間から離脱して、ひとりで自給自足で生きる。そうできれば世間の目が無くなると思ったのかと思う。

 その頃考えたことは世間は理不尽なものだから、もし世間で生きて行くならば、なんでも7対3を五分五分と思っている他ないと言うことだった。対等と思えば、やって行けないのが、世間だ。

 対等と思うことは世間的には私がひどく得をすると言うことらしいと思っていた。そのころは社会の中で生きたいと考えていたので、この7:3を処世術として受け入れることにした。それを損だと思わないことにしたのだ。ひどい話だと思わないことにしたのだ。このくらいが世間の五分五分だと受け入れることにした。

 その結果世間からは遠ざかることが出来た。世間から大分遠のいた頃に、社会が表われた。それが、酒匂川フォーラムである。あしがら有機農業研究会である。ここでは世間は存在しない。社会としての普通のルールで動いている。社会的な集まりには世間的なものを持ち込まないことだ。

 そのルールを受け入れた人だけの社会である。そのルールを違うと思う人は離れて行く。そうして、暗黙のルールをルールとして理解できる人が残って行く。ここには何一つ命令されたり、世間的な配慮が必要なことはない。やりたいことをやっても良いだけである。やりたくないことはやらないで、止めて行けば良いだけである。自治会が困るのは世間的なものであるのに、自由に止めることが出来ないところだろう。

 価値観の近いものが残って行く。この自然淘汰がとても大事なのだ。自然淘汰が起きないで、異質のものが残って行くと軋轢が生まれ、世間が誕生する。この生まれてくる世間が、なかなか手強いのである。世間的な常識という形で、自分の主張を押し付けようとする。

 社会には世間がないと言うことを理解できない人もいる。私を何歳だと思っているのかと怒った人がいた。年齢の上のものの意見は、批判をせず聞けと言うことらしかった。当然新参者が何を言うのかと言うことでもある。

 残って行く人はここの連中は世間的でない変わり者だから仕方がないと思い、ここでは世間を持ち出しにくくなるのかもしれない。この曖昧さがとても良いのだが、曖昧だからルールがないかと言うと実は厳然とルールはある。むしろきついルールはある。

 例えば平等というルールがある。公平という考え方がある。ところがこれが実に難しい。先日欠ノ上田んぼで作ったクン炭が不足してしまったらしい。早く持ち去ったものは多く確保できて、後からのものはなかったようだ。それで、クン炭の分け方を平等にする案が出ていた。

 平等なぞあるのだろうかと思う。何が平等なのだろう。必要な人が必要なだけ使うのが一番の平等である。その必要の意味はそれぞれに違う。均等に分けるのが平等だという人はいるだろう。労働に応じて分けるという平等もあるだろう。その分け前を販売する人がいたたばあいどうなるのだろう。

 神様がいて、必要に応じて分けてくれるのが平等なのだとおもう。みんなが神様になれば、どのように分けても平等である。お互いを神様と思えるかどうかが世間と社会の違いなのかもしれない。世間はお互いを対抗するような、序列のある存在とみている。社会はお互いを対等の存在とみている。

 世間の方が都合が良いと考える人が多々存在する。自分の理不尽のような押しつけが世間と言うものだと言えば、通るとと考えるからだろう。世間の名の下に自分の都合を主張しようとする。
 
 
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「イリオモテヤマネコ」戸川幸夫著の再読

2020-09-24 04:09:07 | 

 海の向こうに見えているのが、西表島である。ここに奇跡のように、イリオモテヤマネコという貴重な野生山猫が生き残っていたのだ。現在100頭以下が生息しているだろうと言われている。残念ながら減少しているのではないかと言われている。

 「イリオモテヤマネコ」戸川幸夫著を再読した。高校生の頃世紀の大発見と言うことで、新聞に掲載されていたような気もしたのだが違ったのだろうか。イリオモテヤマネコを飼っていた戸川さんがなんともうらやましかった記憶がある。あのときの島の見える石垣島に住むことになるとは思わなかった。

 熱中して読んだ。石垣島に来てもう一度読んでみた。前とは大分違う感想を持った。猫を食べた話があちことに書かれていて、世紀の大発見の背景にある、西表島の60年代の状況を感じさせる。西表島の明治時代の石炭開発のことを含め、八重山諸島の歴史とついこの間までの暮らしのことを思った。

 西表島での明治時代の森林開発。そして、植民地労働者を酷使した炭鉱開発。未開地域としての位置づけ。しかも、野心の渦巻く西表島を開発する政府と資本家の登場。マラリヤの蔓延と、無理な入植と挫折。戦後も続く困難な入植。その意味で、屋久島などとは全く状況が異なる。そこに起こった、イリオモテヤマネコの新発見。

 動物の本が動物好きの人間にした。母が月に一冊づつ買ってくれたのだ。きっと動物好きに成って欲しかったのだろう。動物の本が私の生き方を決めたような気がしている。講談社/少年少女世界動物冒険全集少年少女動物とシートン動物記が自然を見る眼を変えてくれた。動物というものの世界の魅力が、読書と言うものにのめり込ませてくれた。

 戸川幸夫は毎日新聞の記者だったのだが、高安犬物語を書いて直木賞を受賞した。日本の動物小説を確立させた人とも言えるのだろう。長く動物愛護協会の中心人物であった。動物好きとして随分と動物の本を読んだ。シートンを代表とする海外の動物物語に比べると日本のものは若干見劣りがする気がしていた。

 今回イリオモテヤマネコを再読して、何故動物愛護協会を続けながらも、イリオモテヤマネコのことから離れたのかと不思議に思っていたことが、少し理解できた。地元の自治体から、人間より猫の方が大事なのかというような、強い反発や抗議が起きたと言うことが原因だったようだ。

 自然保護と西表島の地域人達の生活が対立してしまった。石垣島に来てみて、そういうことは、今でもままあることが実感できた。西表島は世界自然遺産を目指している。これも観光目的つまり、経済が良くなることが優先されそうな気がして成らない。自然保護の方に全体が向いている状態であればイリオモテヤマネコの現状はもう少し違う展開になっているはずだ。

 西表庵植物園・高相徳志郎氏が提起。 西表在来植物の植栽で地域振興を進める会は2013年に設立されました。会の目的は、在来植物の植栽とこの普及、 植栽植物の探索 、在来植物の植栽による地域振興への貢献です。会代表の西表島での学術的活動・履歴につきましては総合地球環境学研究所のサイトをご参照ください。

 現在の西表島は観光と自然保護の対立というようなことだろう。今もイリオモテヤマネコの生息地の保護のためにクラウドファンディングを立ち上下無ければならないような状況なのだ。西表島現地の保護団体が、保護地域を300万円で保護しようという計画のようだ。参加させて貰ったが、実際の整備活動にも加わりたいと考えている。

 現在目標額300万円にたいして55万円が集まったところにすぎない。300万円が集まらないようでは、イリオモテヤマネコは絶滅すると言うことになる。世界自然遺産どころではない。日本人の自然保護意識というものが、この程度のことであればそれはそれで致し方のないことだ。日本人の自然保護意識はどうなのだ。全国紙はこのことを報道しているのだろうか。

 西表島データ 周囲/130km 面積/289.27ヘクタール 人口/2,282人(男:1,195 女:1,087) 世帯数/1,200戸 人口は停滞している。2,407人に令和に入り増加。農業は老齢化で減少傾向。人口増は流入人口で、観光関係や飲食の関係のサービス業が増加している。

 一次産業の減少で島中央部の開発は止まっていて、原生林に戻ったところも多い。ただ、ずさんな農地化が行われて、島周囲への赤土の流出は今も続いている。

 環境省の現状認識をホームページからイリオモテヤマネコについて上げておく。
3.生息を脅かす要因
  • 交通事故
  • 好適生息地の消失及び改変
  • 不適切な飼養をされた飼いネコとの間でFIV(猫免疫不全ウイルス感染症)等の重篤な伝染性疾患の伝染や生息地内での競合
4.保護増殖事業の概要及びその効果
  • 昭和49年度から生態・生息環境等の調査を実施
  • 平成6年国内希少野生動植物種に指定、平成7年保護増殖事業計画(農林水産省、環境省)策定
  • 平成6年より西表野生生物保護センターを拠点として、生息状況等のモニタリング、行動圏調査、外来生物等による影響の防止、普及啓発、交通事故防止対策等を実施
5.他法令等による保護の状況
  • 鳥獣保護法:生息地の一部を国指定西表鳥獣保護区に指定
  • 自然公園法:生息地の一部を西表石垣国立公園に指定
  • 文化財保護法: 国の天然記念物(昭和47年)、特別天然記念物に指定(昭和52年)
  • 条例:竹富町ネコ飼養条例により、飼いねこの管理について、マイクロチップによる個体登録、西表島に持ち込む個体の検疫が義務づけられている。

 その提言によると、「地域住民の多くが世界遺産登録に難色を示す中、前のめりに手続きが進められています。登録される・されないにかかわらず、西表島の自然環境保全には、早急で実効性のある対策が必要となっています。」とあります。

 日本で最も重要な哺乳類の保護が万全ではないのだ。毎年交通事故死が続いている。幸いこのところ一年半ほど事故が起きていないが。「ヤマネコの交通事故死は右肩上がりで増加してきました(年による増減あり)。対策として、道路沿いでの草刈り、アンダーパスの設置、道路への侵入防止柵設置等が取られてきましたが、ヤマネコの個体数は増加していません。むしろ減少が推測されています。西表島の世界自然遺産登録を想定すれば、島を訪れる人が増え、ヤマネコの交通事故は増加するでしょう。」

 「当プロジェクトでは浦内川に接する湿地(浦内湿地)、約20ha、に餌場となる池の造成を計画しています。山地沿いの放棄田を常に水が張る状態にして、ヤマネコが餌を捕れる池の造成です。水の流れがある池と淀んだ池の二つとします(各10m四方)。私たちは放棄田に畔の様なヤマネコが歩ける堤を造る予定です。」

 自衛隊基地には住民の賛否は関係ないとして、あれほど強引な手法で建設を進める。ところが国はイリオモテヤマネコを保護することに実に消極的だ。何故だろう。何を守るために自衛隊の基地を作るのか。イリオモテヤマネコなどいなくなってもかまわないというような日本人を守るためなら、やめておいた方が良い。

 日本で最も貴重な野生動物が絶滅の危機にあるにもかかわらず、300万のお金が集まらないのだ。たとえ、300万集まったとしても高相さんによると、十分とは言えない状況らしい。私はたちまち集まるだろうと思っていただけに、情けない気分である。

 お金もなんとしても集めなければならないが、それ以上に300万で整備する労働力の方が心配である。これはボランティアで整備する材料費ぐらいである。私もまだ動けるので、参加するつもりだ。

 その昔、戸川幸夫さんがイリオモテヤマネコを探して入った、イナバそばである。今はもう集落は失われた。浦内川のそばの湿原の整備らしい。肉食獣である山猫の保護は極めて困難な事業だ。この小さな島に生き残っていたことが、まさに奇跡的なことなのだ。

 この奇跡をなんとしても守りたい。先ずは何が自分には出来るか.そこから考えてみたい。
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「首里の馬」高山羽根子著を読んで

2020-09-23 04:06:50 | 


 車には何冊か読んでない本を積んである。絵を描いていて、急に読みたくなり本を読むことがある。本がないと落ち着かないのだ。現代農業は必ず車にある。急に読むためである。農文協には感謝の気持ちがあるので、たぶん死ぬまで定期購読であろう。

 車の中で「首里の馬」を読んだ。最新の芥川賞受賞作である。首里とあるものでついつい購入した。購入したので読んだのだが、沖縄の匂いがほとんどないので、がっかりした。すばらしく上手な構成の作品である。小説の構成がしっかりとしている。それが計算に見えるとしらけてしまうのでもあるが。

 首里の街を馬に乗って撮影して歩くという当たりがどう考えてもすっきり入らないことだった。琉球大学病院に行った帰りにバスの乗り換えもあり、首里の街を大分歩いた。ちょっと無理だろうという感じがした。引きこもりのような女性がそんなことやるのは余りに荒唐無稽な感じがした。首里に行ってみて余計に、不消化になった。

 その場所の記憶を意味も無く、記録を続けるという感覚は面白い。そういうひとは案外に多いものだ。生きるという意味をそういう所に見つけたくなると言うことはままある。その記録の多く場合は歴史的なものなのだが、この歴史的というのも意味があるようではあるが、よく考えてみれば底に生きる意味を見つけようとしても何もない。

 コレクターがテレホンカードを集めていて、そういうコレクションが無意味になる感じのようなもの。昔はマッチ箱をコレクションするというのもあった。ものをいくらでも集めるというのは収集癖というのか、一種の病のようなものなのだろう。何かを記録することで空いた穴を埋める。

 生きる上での精神的な穴埋めのようなものではないのだろうか。私は筆を見ると欲しくなる。意味なく欲しくなる。絵がよく分からないからだと思う。分からない絵の穴埋めとして、筆を買えば絵が描けるような意識が、どこか潜在的に繋がっているのではないか。

 平櫛田中という彫刻家が100歳に成って大量の彫刻材料を購入したという話もなんとなく似ている。長崎の平和祈念像を作った人である。あれは彫刻としては余り良いとは思えない。あと30年ぐらい作れるという安心感がないと、次の一作が作れないと言うことなのだろう。最近紙をまた100枚買ったが、これは一年分だから、まだ健全な方だろう。

 家から遠くない場所に南島博物館というものがある。古い石垣島の大きな民家にやたらに歴史的遺物というか、その周辺のものも含めて収集を限界を超えてやっているところがある。所というか、そういう人がいる。とても興味深い人間である。

 もし石垣島に来て、夜に時間があるのであれば、一度寄ってみると良い。大川という、街のど真ん中である。夜だけ「こおもり」かふぇと言うのをやっている。夜コーヒーは飲めないので行ったことはない。昼間たまたま博物館が開いていたので、入れて貰ったのだ。

 一応昼間も開いていることもないわけではないが、大抵はしまっている。博物館の収蔵品もそれは様々で面白いのだが、全く整理がされていないので、悪く言えばゴミ屋敷状態とも言える。集めるだけ集めたが整理がされていないのだ。これをカード化して、コンピュターでデーター化するのはひとりの人間の一生仕事となるだろう。

 しかも、すべてのものに意味はあるのだが、その意味は南島博物館の館長以外には分からない。特に八重山上布のコレクションはかなり貴重なもの手本になっている。それはどうも館長のお父さんの集めたものらしい。だから、親子2代にわたる収集三昧である。

 どうも館長の説明はあちこちにに飛ぶので、混乱してしまうのだが、この前館長は知事だったということらしい。ここでの知事職というのはアメリカ統治下の、八重山の統括者というようなことではないだろうかと想像している。少なくともこの博物館の家柄は八重山の中心の家系の一つダあることはたしかだ。

 すべては館長のミャクリャクノナイ話をつないで想像したことだ。この博物館の館長ではあるのだが、棒術の指南でもある。ただ門弟はひとりもいないそうだ。見るからに弱そうな感じであるが、もしかしたら名人なのかもしれない。この博物館の一隅に台所がある。これも間違いなく、無理矢理古い民家の一隅に、館長が手作りしたと思われる。そのカウンターが喫茶店と言うことらしい。絶妙な雰囲気で他にはない。

 ここでコーヒーを入れて飲ませようというのだ。そのカウンター越しに「こうもり」という名前にしようと思うがどうだろうか。と相談された。いや、こおもりは不気味だから、お客さんが来ないでしょうと、普通に相談に答えたが、次に通ると「こうもり」カフェと看板が出ていた。人の話は聞こえていないひとにちがいない。

 石垣にはオオコウモリがいる。この町中の家にも尋ねてくるそうだ。フルーツコウモリともいう。猫ぐらいある。かわいらしい顔をしている。かわいらしいクリッとした目をしているが、コウモリはコウモリである。民家に来て、フルーツを食べるのだそうだ。庭にある、マンゴーやパパイヤが狙われる。館長はコウモリかわいらしくて来るのが楽しみで仕方がないらしい。

 この博物館で収集物のカード化を誰かがしなくてはならない。首里で馬など載っていないで、是非石垣でカード化を進めてくれないだろうか。相当貴重なものが、分からなくなるだろう。読む前に「首里の馬」はそういう話なのかと思ったのだ。首里の街の記録をただ集めた人がいて、その集めたものの整理を続ける話ではないかと思った。

 それなら、集めた人の想像の出来ない面白さに触れるのではないかと。ものを集める病についてである。ところがそうではなかった。集めるという病の方ではなく、記録するという方の病だったのだ。意味なく記録を続ける。これはこれで恐ろしい世界である。

 何故恐ろしいかと言えば、人ごとではないような気がしたのだ。私の描いている絵は私の中を記録しているようなものだ。私絵画はその意味の価値はどうでも良くて、自分の中を見続けると言うことだ。首里の街を馬に乗ってスマホで記録を続ける。

 すべて戦争で焼け尽くされた首里の街である。古い町の空気だけは再現されている。谷間の多い坂の街である。無くなった街が再現されたと言うことではドイツなどにも、そういう街があった。石の文化ではないので、首里の古さは古都の古さではない。やはり首里でなければ行けない話かもしれない。戦後脈略無く街になったものを記録する。

 何故、昔を再現しようとするのだろうか。これも病の一つかもしれない。人間の病理を描くというのであれば、「コンビニ人間」村田沙耶香著も同じであった。現代は病の時代なのかもしれない。ただし、首里の馬の著者はとても健全な人だと思えた。文章が健全なのだろう。

 

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「サル化する日本人」内田樹著

2020-04-03 04:02:06 | 
  石垣島大里集落の田んぼ。大里は山のくぼみのような所に田んぼがある。天水田んぼのような、天候によっては出来ないときもあるのではないかとみえる田んぼもある。

 内田樹の研究室というウエッブサイトがある。思考がとても深い人である。最近見つけてしまった。今まで何故知らなかったのかと思った。それで三冊の本をアマゾンで取り寄せて読んだ。興味がある分野も似ている。かなりの部分同じ考えである。

 当然私より思考が深く、論理が明快な人である。そのおかげで学ぶところが山ほどあった。自分がやってきたことの意味や位置づけが出来た気がした。養老孟司氏と思考法が似ていると言うのが第一印象である。

 すべてを自由にお使いください、という考えらしい。私の絵もどのように使っていただいてもかまわないと書いている。何かに有効に使えるならありがたいぐらいだ。石垣島観光に役に立つような絵だといいのだが。どこだか分からないような絵だから、私の絵を見て観光に来た人がいれば詐欺になってしまうかもしれない。

 「サル化する日本人」「農業を株式会社化するという無理」家の光協会「ローカリズム宣言」 「成長」から「定常」へ。論理的で説得力がある。こんな人が、こんなに似たことを書いているなら、今更私が書く必要などないのかとさえ思うところもある。これは言葉の調子で、本当にそう思うほど私は謙虚な人間ではないのだが。

 余りに考えが似ているので、私が内田樹さんを剽窃しているかのようだ。まあ、剽窃もご自由にどうぞということだから、問題はないだろうが。それほど考えが近い。しかしひとつだけ根本で違うところがある。

 それは私は実践に基づいたことを書くことを基本としてきた。例えば、ローカリズム宣言では、移住の分析のようなものが書かれている。とてもわかりやすくて、説得力がある。しかし内田さんは移住はしたことはない。神戸の都会暮らしのようだ。

 確かに分析力はすごいが、実践してみないと分からないこともあるのだがとも思う。若者が気軽に移住をすると書いている。私の印象では簡単にあきらめて都会に戻るともみえる。私はそれは生活の技術上の問題が大きいと考えている。田んぼをやって自給出来るのは技術である。これは素人が乗り越える壁になる。

 何故田舎に行くのか。この命題には代わりに答えてくれている。ありがたいというか便利である。田舎に行く若い人の流れの、文明論的分析である。田舎に行く説明にはなるが、田舎で暮らす実技書ではない。私の場合は田舎で暮らす方法論を書いてきた。

 30年前に自給自足のために山の中に移住をした。そして、一人でシャベルとのこぎりぐらいで、山を切り開き自給を達成した。やれると思って始めたわけではなかったが、案外にできたのだ。そこから、みんなの自給ということへと進んだ。その実践者としての実技に対する思いがある。

 技術がないから、自給に挫折すると思っている。手仕事の技術があれば、半分の時間で作業がこなせる。農作業の手仕事の技術は伝承がすでに途絶えている。発掘して、実践してみない限りわからない。手で行う田起こしはどうすればいいか。シャベルで出来るのか。こういう所が肝心になる。

 内田さんは私とほぼ同世代である。同じ時代を生きてきた人だと思うところがある。違いは内田さんはなんとかなった人で、私はどうにもならなかった人生を生きてきた人間である。

 どうにもならない日々を生きたことを、良かったと思っている人間である。どうにもならないので良かったと思っている。おかしいのだが、どうにもならない道の実技書を人にもお勧めをしているわけだ。それが最近はどうにかなる人が、自給の道に入り始めている。どうにもならないのだが、こっちの方角もあるよと言う実用書だ。

 どうにもならないものだと言うことから、いろいろ生きると言うことをひねり出した。世間的な能力競争では大分劣る。劣るとしても生きていかねばならぬ。負け犬の遠吠えを、理屈化しているのだとおもう。居直って言えば、大体の人は私と同じ劣る人なのだ。劣って何が悪いのかと思っている。農業は資本主義と関係がない。能力競争など無い。

 人間が自給自足で生きることは、少々劣っていようがいまいが可能だと言うことだ。人類はそうしてズーとやってきた。私はそれを身をもって証明したつもりだ。これが劣る人間の安心立命である。

 具体的に書けば、それが「地場・旬・自給」のあしがら農の会を始めたことである。みんなでやる合理性を追求してきた。一人で出来たらみんなでね。そして、その安定した発展を願い石垣島に引っ越すことにした。あしがら農の会のためには始めた人間がいつまでもいたままでは、次につながらないと考えた。

 どこの農業の共同体的活動も、中心人物が死んで尻すぼみで終わる。それを避けたかった。活動を始めたときから考えたのは、私は中心にいること自体を、どうにかして避けようとしてきた。しかし、そうは言っても中々難しいものがあった。

 農の会の運営で感じたのは農業に関心を持つ新しい人達は、言われてやるのは余り好きではないと言うことだった。自分勝手にやりたいという人。何か利用できるかもしれないという人が多かった。そういう人達で、どう気持ちよく協働できるか。

 農の会を尋ねる人は多種多様で、すべて種類の人だ。農業に興味があっても自給的生活に興味を持つとは言えない。先入観で見ることはできない。そのありとあらゆる人を拒否しないと言う協働でなければ、次の社会のためには成立しない。しかも、小田原ぐらいがちょうど良いという、考えで場所決めをした。

 利用したいという人は何も利用できないので、いつの間にか離れて行ってくれる。そして、なんとなくゆるい空気感が肌に合うという人が残って行く。ゆるゆるの会だから、運営の明確なものはない。ないから、明確なものを求める人には辛いところはあるだろう。人間には書かれたルールがないと動けない人が多い。

 つまり内田樹さんの農業の共同体の意見は、実戦した私にはかなり違うというと感じられる。どこまで曖昧であり続けられるかが次の時代の組織論である。それは資本主義が終わるという予感に基づいている。この認識は同じである。ルールに従うというのは競争の論理には便利なのだ。効率とか、合理化とか。農業も企業的論理が持ち込まれる。

 農の会のゆるゆるは江戸時代のの思想をから導き出した。時間をかけると言うことである。話し合いは深夜にも及ぶ、何も決まらない。明確に決まることはほとんどない。結論ではなく、なんとなく充分に話したという共感だけを重視した。

 心底話し合える人がそこにいるという状態が重要と考えていた。まあそんな何も決まらない状態に耐えがたいと言うことで、集まりに人は徐々に来なくなった。それでも集まって決めなければならないことはあるので、志のある人は集まり決めごとをせざるえない。

 内田さんも資本主義が終わると考えている。それが歴史の必然と考えている。やはり同世代の方の感じ方だと思う。私は1970年にこのままではダメだと感じるようになった。大学闘争の時代である。

 絵を描くことにした。絵が好きだから絵に逃げたと言うことでもあるのだが、この時代に絵を描くことは、大学を占拠するのと何ら変わらないと主張をしていた。絵を描くことで自分の思想を伝える主張していた。

 夜中に旧生協にあったアトリエに押しかけてくる、中核派や革マル派と議論していたのだ。コンナトキニ絵を描いているおまえは何者だというわけだ。私が真夜中でも明かりを付けていつもそこにいつもいる。占拠している教室から退屈して出てくるので、いい話し相手だったのだろう。変えられない社会をどうすればいいかと言うことである。

  内田氏はこう書いている。「1970年代に左翼運動から召喚した過激派の青年たちの一部は就農をめざしました。帝国主義企業なんかに勤められるかと言う潔癖な嫌悪感からだった。」そのとき就農など考えなかった内田氏はどんな顔をして生きていたのかとは思う。

 内田氏は2011年神戸に「凱風館」を開設した。「武道と哲学の研究のための学塾」と言うことである。学塾の指導者と言うことだろう。この点には大いに疑問がある。先生と呼ばれてきた人の発想に思える。指導者がいるという形が、すでに次の時代の方角ではないと言いたい。

 あしがら農の会で私が努力してきたのは、技術と仕組みである。誰もが技術と仕組みをもって、自立して未来に生きて行くことである。そのためには偉そうな先生が指導するなど、方角が違う。この点では内田氏を信用ならないなと思うところもないとは言えない。

 普通はこんなことは書かないことなのだが、今回は内田樹と言う人に刺激されて、書きすぎた嫌いがある。今度内田さんに私の書いた実践記録の本を送ろうかと思うが、どうだろうか。次の実践者にバトンを渡してくれるかもしれない。
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 井伏鱒二全集を読む楽しみ

2019-09-11 04:36:46 | 
 

 井伏鱒二全集を読んでいる。購入したのは25年も前になる。山北で開墾生活を始めた頃である。井伏鱒二の完全な全集が出るという話で思わず購入した。しかし、読む時間も余裕も無かった。開墾、養鶏に、田んぼにそして絵を描くことで、とても文学書を読むことはできなかった。

 それでも、井伏鱒二だけは全集だけは買っておこうと思った。きっとゆっくりと読めるようなときが来るというか、そういう日が来るように暮らそうという、目標だった。それが、25年経って読めるときが来た。これ以上無い贅沢のような気がする。石垣の景色の中で、ただ井伏鱒二を読んでいる。これ以上の日々はないような気がする。

 何しろ、この全集には井伏鱒二の水彩画編さえある。井伏鱒二という人はそもそも絵描きになろうとした人なのだ。ある日本画家に弟子入りしようとして断られて止めたそうだ。農業については私より詳しいほどの人である。動植物の蘊蓄もなかなかである。鶏も飼ったことがあるらしい。見本としたいような人なのだ。そうか、真似をして生きてきたようなものなのかもしれない。

 井伏鱒二は大学生の頃に好きなった。金沢の古本屋で買ったのが始まりである。高校の国語の教科書に山椒魚が出ていたものを読んで記憶があった。多くの人がそうかもしれない。頭でっかちになって、こもった穴蔵から出られなくなるということに衝撃を受けた。うなされるほど苦しい想像であった。

 良くもこんなことを考えたものだ。恐ろしいことだ。人ごとでは無い話だ。高校生の私は山椒魚のような人間だと自覚した。金沢で久しぶりに井伏鱒二の本に出会い、井伏鱒二という名前を見ると、手に取った。

 そういえばあの頃は金沢には古本屋が沢山あったが、今でもあるのだろうか。古本屋さんをぐるりと回るのが、野良犬の楽しみであった。駅の方から、笠舞の方の本屋さんまでうろうろと歩いた。卯辰山に住んでいた頃でも、歩いてどこまでも行った。海まで歩いたことさえあった。

 筑摩書房から出ている。厚手の本で全部で30巻ある。やっと読むことのできる日が来た。25年も待って読める日が来たことが嬉しい。1冊1ヶ月としても、30ヶ月も読むことができる。そうか、小田原では読まないのだから、4年ほど読める。

 死ぬまで読めないのでは無いかと思うときもあった。読む前に死んだらもったいないことだと。本はなにかしらいつも読んでいるのだが、井伏鱒二を読むのは特別なことだ。モーツアルトの音楽と一緒で特別なときのために残してある。

 慣れてはダメなものだ。救済のようなもので、いざというときに効果があるように、残してあったのだ。本当に苦しいときはアイネクライネを聞きたい。そのためには初めて聞いたようでありたい。そして心落ち着けた大切な時間には井伏鱒二を読みたい。

 繪を描く「間として」、井伏鱒二はとても良い。井伏鱒二を読む間として絵を描いているかのようである。文体に入り込む。意味なく、ただ読んでいて考えないでいる。気に触るようなところが無い。

 内容はどうでもいいと言えば言えるような文章の方が多い。山椒魚はその点異質である。話が面白いというものはむしろ少ない。どうでもいいような話が、ボコボコしながら、書かれている。結局は訥々とした文体にはまるという感じか。いやそうでは無い、大切すぎてこれが生きると言うことだと言うようなことが、何にげなく淡々と描かれている。

 井伏鱒二信者である。水彩画を描くし、農業にも関心も経験がある。麦を送るという短文があるが、この文章はそのまま書にして書きうつしたこともある。書にとしてみても名文である。あの有名な、「サヨナラダケガ人生ダ」の漢詩の訳などすごいものである。

 すごい技巧派の弓の名人が、この曲がった棒は何に使うものですかと、弓を忘れたようなすごさがある。それでは井伏鱒二の繪が、それなりのものかというと、悪くは無いのだがまあそれほどでも無い。天は2物を与えず。

 人間がすごいひとであるから、さすがに繪を分かってはいる。分かっているすごい人なのだから、梅原龍三郎のような絵を描いてもいいはずである。ところがそうもいかない。絵も文体ではないが、相当の熟達が必要なのだ。筆に自分を託せるためには、修練が必要である。修練を積んだすえの下手で無いと、上手くなりたい人の下手になる。

 初期の山椒魚、還流の島という青が島の話。「青ヶ島大概記」すごい力作である。青ヶ島の話はあまりにすごいので、コピーして人に渡したぐらいだ。そうした若いころの作品がすごいわけだが、なんでもない文章もすごいのである。そうした何でもない文章は、選集を作るときに外されたようだ。

 全集にはすべての文章があり、本人が駄文としたものもあるところがいい。今の私にはその外された文章の方がいいのだ。同じ文章が違う話にもう一度出てきたりする。
 
 太宰治が井伏鱒二選集の後記のようなものを書いている。まとめられたものが、青空文庫でよめる。井伏鱒二のこともわかるが、太宰治がすごいということもわかる。しかし、太宰のすごさは、さすがに絵を描く間としては読めない。取りつかれて頭に残り絵どころではなくなる。

 井伏鱒二の力も借りて絵を描いていると言うことになる。これで一歩進めないようなら、井伏鱒二先生の責任である。

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台湾疎開 松田良孝著 やいま文庫 

2019-08-28 04:13:08 | 


 石垣では石垣のことを書いた書物が驚くほどの数、出版されている。毎月新刊がある。山田書店に行くと地元関係の出版物が所狭しと並んでいる。またその本がどれも内容が深く、石垣の知識人というか、その奥行きの深さに感銘する。

 この書物文化を支えているのが、南山舎という出版社である。素晴らしい他に類を見ない良書を出している出版社だ。石垣に来る前から取り寄せて読んでいた。やいま文庫はその中核をなしているシリーズだと思う。今回取り上げてみたい本は「台湾疎開」琉球難民の1年11ヶ月という本だ。

  対馬丸米軍撃沈事件が子供達の疎開船だったことが知られている。沖縄の子供達を九州に疎開させる途中、輸送船対馬丸が潜水艦によって撃沈された。1484人の人が亡くなった。その半分以上が子供達だった。当時、石垣島では台湾への疎開が行われていた。

 「台湾疎開」の著者は地元新聞社「八重山毎日」の記者である。松田良孝氏である。新聞に連載したものを改めてまとめたものだ。まさに新聞社の責務である調査報道の事例である。素晴らしい新聞社があると言うことも、石垣の文化の高さを感じる。

 松田氏は念入りな調査をしている。学術調査書、公文書。そして八重山の台湾疎開体験者の聞き取り。台湾の現地で関わった方々の調査。幅広く調査がなされている。できる限り冷静な視点を失わない決意が感じられる。「視野は世界に視点は地域に」という、八重山毎日新聞の方針そのものである。

 第2次大戦の末期、沖縄全域に疎開が命令される。本島からは九州地方への疎開。八重山や宮古からは台湾へ疎開命令が行われる。連合国の沖縄上陸作戦への抵抗の邪魔になる、老人や子供を沖縄から取り除いておく軍事作戦。全く無謀な作戦としか思えない。ここでの命令は命令と言っても良いのだが、通達という形のようだ。

 石垣島には台湾からの移住者も多かった。台湾に移住している石垣出身者も多かった。そうした場合は縁故疎開が進められる。縁故を持たない人には子供とその保護者というような小集団を作り、台湾へ送り出す。東京の子供達の集団疎開とは少し違う。台湾では様々な施設を収容し、そこに仮住まいをさせる。

 沖縄を日本国がどういう場所と考えていたかがうかがえる軍事作戦である。沖縄の犠牲で本土への攻撃を遅らせる焦土作戦を考えたのではないか。果たして日本軍は九州を焦土作戦として同じように考える事ができただろうか。

 渡航費用や生活費は国が補償するからと言うことで、強引に進める。実際には台湾での生活費はすぐに途絶えた。行政が取り仕切り、軍による強制ではないようだ。しかし、様々な状況的圧力で、疎開せざる得ない状況になり、沖縄全体で1万3000人、石垣からは3000人が疎開して行った。ここでの強制の姿は従軍慰安婦問題と似たようなものが感じられる。

 九州へ行く子供も、台湾へ行く子供も、案外楽しみにしていたような様子がある。状況をわかららず、台湾という都会に憧れる子供達。そのことと、国の方針である疎開とは別問題である。子供が喜んでいるから、許されるというようなことでは無い。これはやはり棄民の一種である。

 日本軍は米軍が石垣島に上陸するものと想定していた。石垣に残越された石垣の住民は軍に役立つとされた青年たちである。石垣に残った人たちも、於茂登岳周辺の山間部に強制移住させられる。農地は強制収容され飛行場に作り直されて行く。そして、山間部の生活と、栄養不足でマラリヤの感染に陥り、3千600人の人命が失われることになる。

 行くも地獄、残るも地獄とはまさにこの事態である。台湾にはどのようにして行くことになったか。そしてどうやってたどり着いたか。そして、台湾での生活。そして日本が降伏し、石垣への引き上げる苦難。この状況が調べ上げられ書かれている。

 日本帝国主義国家というものの実相がよく現われていると思う。国は戦時体制下、どうやって国民を犠牲にしたのかである。国は戦後も移民奨励という形で、余る国民を棄民して行く。民主主義国家といえども、国は常に国家のためには国民を犠牲にして省みないものなのかもしれない。お国のためという言葉はいつも気をつける必要がある。

 敗戦後取り残された、疎開者がどうやって石垣に戻ることができたのかは、息をのむような場面の連続である。国が統治能力を失い、一切が民間の努力と、台湾側の支援とで、苦難を奇跡的に乗り越えるのだ。台湾で医師をされていた方が、大きな力になってくれたようだ。

 宮古島からの疎開が一番多かったそうだが、戦争中宮古の町長だった石原氏は、戦後すぐに町長を辞め台湾に渡り、疎開者の引き上げに私財を投げ打ち努力をする。疎開を進めた責任者として身の処しかたである。

 台湾宜蘭県イーランケン南方澳ナンファンアオという港がある。与那国島から、111キロの日本に一番近い台湾の港である。戦前には日々行き来する船があった港だ。石垣関係の引揚者たちはここ集結し、石垣に戻ることを待つ。宮古島からの疎開者は基龍港に集結する。石垣から、台湾に戻るものも多く、その際は帰り船に乗ることになる。

 近いうちにナンファンアオに行ってみる。八重山の人が集まって暮らしていた港。今では当時のものは何もないそうだが、それでも台湾に作られた港を見てみたい。石垣島との交流拠点だった港を見てみたい。

 そして、日本の国境というものを実感してみたい。この港が八重山からの台湾への窓口だった時代を想像してみたいと思う。手助けしてくれた台湾の恩人たちへのお礼の気持もある。

 「台湾疎開」 松田良孝著 やいま文庫 良い本である。

 

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「移民 棄民 遺民」安田峰俊著

2019-07-22 04:36:03 | 


 国と人間の関係を考えるときに、移民、棄民のことを考えることはとても重要だと思う。日本では外国人労働者を受け入れている。その労働環境には問題がある。日本人の大半の人が知っていることである。問題があるが、労働力不足が深刻と言うことで、問題は曖昧に見ないことにされている。

 国とはどういうものなのだろうか。明治大正昭和と帝国主義の富国強兵政策で人口増加が政策された。しかし、農村の疲弊は農地の不足になり、移民、棄民が行われる。この時代の農村部の貧困は江戸時代よりひどいものであった。それをごまかすために、江戸時代の飢饉が宣伝されるが、それは異常気象による飢饉で、明治以降の農村の貧困は軍事費の増加による。

 親戚にアメリカのサクラメントに移民した人が居る。その人が昭和35年頃に日本に里帰りしてきた。話だけだった移民した人と言うことが現実になった。北朝鮮に戻った友人がいた。東京の松陰神社にあった靴屋さん家族である。三宿の朝鮮学校に通っていた。昭和40年頃だから、最後の帰還事業の時だったかと思う。

 子供の頃の藤垈には満蒙開拓に行った家族があった。子供を連れて大変な思いをして逃げ帰った話を聞いた。樺太から引き上げて三軒茶屋で鞄屋さんをしていたSさん家族とは今でも連絡がある。国策に翻弄される人間の暮らし。

 国と言う暴虐は、一人で歩き出し、国民というもの食い尽くす。国家というものは本来国民の安寧な暮らしのためにあるものである。ところが、お国のためと言う錦の御旗を建てて、国民をむさぼり食うときがある。

 「移民 棄民 遺民」ではベトナム難民のこと。ウイグル弾圧のこと。台湾という、所属の定まらない国のこと。等がルポルタージュ的に取り上げられている。大体の内容は考えていた範囲のことである。どこにも行ったことはないが、想像していたことと違いはない。

 ウイルグル難民のこと、中国政府の過酷な弾圧のこと。そして、日本の右翼勢力のウイルグル問題利用。このブログにもウイルグル問題を取り上げろ。と言うコメントが繰り返されている。アベ氏の仲間達がやっていることだ。この著者はこのことに関連して訴えられたが、裁判で勝訴している。

 ウイグル問題の政治利用によって、ウイグル難民が翻弄されている現実。中国との敵対関係をことさらに強調したい勢力が日本には生き残っている。中国のことをシナと呼ぶような人たちである。

 中国の脅威を強調すれば、日本の再軍備が可能になると考えているからである。日本を、明治の日本帝国に戻したい人たちがいるのだ。そのためには、中国は極悪非道な独裁国家でなければならない。悪意の計画でその拡張主義と弾圧政策を強調しようとする。

 そういう人たちが不思議にアメリカの一国主義を批判しない。批判しないどころか、お友達であることを自慢げに吹聴している。尖閣諸島を東京都が購入すると石原慎太郎が記者会見したのもアメリカである。

 正義のアメリカとは今や言えないだろう。はっきりとアメリカさえ良ければいいと主張しているのだ。このアメリカ桃太郎に従うキジか、猿か、犬なのか。中国批判も正しい。それなら、アメリカ批判もしなければならない。アメリカは現状日本の宗主国である。日本は本質としてはアメリカから独立はしていない。

 アベ政権が辺野古米軍基地を強行するのは、日米安保条約に日本はアメリカは自由にどこでも基地を提供する。その代わり日本が攻められたときには守ってくれる。とあるからだ。

 国とは一体何なのだろうか。鵺のように増殖し一人で歩き出す。国というものを自分の野望に都合良いときに持ち出す。そして人間を踏みにじる。一人の人間というものは、国とは別の存在である。一人が幸せであることが、最も大切なはずである。

 カンボジアの人たちと、フランスのナンシーで知り合った。フランスにはベトナム人、カンボジア人は多く居た。フランス語がしゃべれる人が多かった。カンボジア人にはポルポト政権から戻ってくるように、戻れば政府で優遇すると言われていると言っていた。本気で戻ってはならないと引き留めた。その後一気にカンボジア難民が急増した。

 ベトナム難民は北朝鮮政府からの難民なのだ。カンボジアで起きたことと同じ事が、勝利した北ベトナム政府によって起こされたのだ。

 日本は危ういところに立つ。アジアの一国であることを忘れて、アメリカの虎の威を借りる存在になっている。この国のゆがみが日本人の暮らしにまで、今後及ぶと思われる。

 国家主義とは。ナショナリズムとは。一人の個人の観点からもう一度考えてみたい。

 
 
 
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コンビニ人間 村田紗耶香を読む

2019-07-16 04:15:14 | 
 


  石垣から小田原に来る、飛行機の中でコンビニ人間を読んだ。5日のことだが、まだ感触の異様な感じが残っている。街で危ない人に会った時のような緊張感を感じた。そういう自分を生半可だとは思う。

 電車の中でお隣にしゃべり続ける人が座った時の居心地の悪さだ。落ち着かない自分を情けないと思いながら、普通でいられる自分でありたいと思いながら、胸の中のざわざわ感が起きる。

 何かを怖れるのかと思うが、かわからない事への違和感。覚悟はあるつもりだが、違うという事への反応が起きてしまう情けなさ。何故違うと困るのか。なぜ自分と同じでなければならないのか。何故、人間は一般的でなければならないのか。

 同調圧力。社会的に普通であれという意味。自分が世間を形成しているという事を突き付けられる。それは当然のことなのだが、黙っていることが、追い詰めているという現実。

 コンビニ人間は普通である意味が理解できないために、普通であるという手順書に従おうとする。規則は学ばなければならない。教えられなければわからない。教えられなくとも気付くという機能は、誰にでもあるという前提の社会。

 普通でないことを嘆く周囲の反応から、普通を学ばなければならないと考えるコンビニ人間。大抵の場合は違和感を抱えたまま、修正が利かないのだろう。修正し対応する意味。

 石垣南の島空港の夏の滑走路で読み始めて、成田空港の露寒の中着陸した時読み終わり、解説文を読んでいた。深刻な気持ちを抱えたまま飛行機を降りた。東京駅までバスに乗ったのだが、バスの中でコンビニ人間に考え込まされていた。

 例の感触の小説である。例の感触はそのまま残ってしまった。コンビニに行くと再現するのだが、本当のコンビニは全くかけ離れている。特に石垣のファミマはのんびり世間話している人さえいる。後ろに並んだ人がいようが、村の共同市場のような空気がある。コンビニ人間はここでは暮らせないだろうな。

 都会のコンビニとは違う。だから、コンビニ人間は都会に出てゆくのだろうか。都会のほっといてくれる空気。紛れ込める空気。違和感を吸収できる都会。つまり、現代社会の疎外。

 本物のコンビニにはコンビニ人間には無い手順がある。「温めますか」という、フレーズである。鶏のから揚げを温めますか、が省略されて「温めますか」が書かれていない。温まったら違和感が薄まる。

 あのレジの処理の慌ただしい手順の中で、レンジに入れて温めるという過程が入るのだ。現金を払う事さえ短縮しようというシステムの中で、レンジで「温めますか」が入るのだ。私の場合、最初何を温めるのか、一瞬緊張した。

 温めますかと、声をかけるのはコンビニ的サービスだと思っている。みんな冷たいのだ。関係は冷え切っているのだ。いやべとべと暖かいのが嫌な社会なのだ。決め台詞の「温めますか」はないよりはある方が空気がゆるむのではないだろうか。人間の介在のシステム化。

 温めてもらった方がいいはずなのに、何故か緊張していいですと答えてしまう事がある。しまったと思うが、もう一度、やっぱり温めてくださいという事はできない。人間としてそこにいる訳ではないのだ。温めてくれるという仕組みとしてそこにいるに過ぎない。

 だから、コンビニおでんはこの点凄い。おでんという、いかにも家庭的なものが、今時システムに組み込まれている。おでんを購入してみればわかるのだが、案外に戸惑う。戸惑っていると、すぐ出てきて選んでとってくれる。何故かと言うと、メニューにあるからと言って、あのおでん鍋の中には揃っていることは少ないのだ。つくねはないかと、かき回すわけにもいかない。

 そして、おでんも温めてくれるのだ。小説にはコンビニ常連のおばあさんが出てくる。温めてくれたおでんを抱えて帰り、半分量の温めてくれたご飯とで夕食なのだと勝手に思う。システムに組み込まれているのは、店員だけではない。おばあさんはここは変わりませんねと、繰り返しつぶやく。社会システムという永続性。

 この社会の病巣をコンビニ目線で的確にとらえている。ここがこの小説の斬新なところだ。病巣と言っても、自覚のできない分断社会。機械的システム言葉の「温めますか」を入れて欲しかった。たぶんそういう生ぬるさは著者に入らなかったのだろう。

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好きな雑誌の見つけ方。

2018-08-26 04:05:52 | 

権威ある雑誌というものがあった。雑誌に書かれたという事で、評価が定まるような雑誌があったのだ。雑誌の中に世界観が広がっていた。FMファーンという音楽雑誌はよく読んでいた。一ヵ月の放送予定表がある。録音チェックをこの雑誌で行う為にこの雑誌を買っていた。当時はクラシックファーンだったので、FM放送でリリークラウスのモーツアルトの演奏があるというのを調べて、それを聞くために家に戻る。あの頃はモーツアルトファーンだった。余りに大事で、これという時だけ聞くことにしていた。音楽好きの友人がいたわけでもないので、一人でその演奏をただ聞くだけなのだが。誰の演奏がどうだこうだというような、高いレベルでもない。ただ音楽を聴かないといたたまれない気分だっただけだ。蘊蓄も全くなかった。それでもFMファーンの音楽評論がどこか面白かった。季刊芸術は高校生の頃から買っていた。それが新刊で買うのではなく、売り出されてしばらくすると三宿の古本屋さんに100円で必ず出るのだ。今でも捨てられず全巻残してある。あの雑誌で現代美術と言うものの存在を知った。美術雑誌というものがなくなり、芸術論など存在しない時代になった。

大学の頃はアルバイトの収入があると本屋に行って雑誌を買うのが楽しみだった。本屋さんに行くのは雑誌を立ち読みするためだった。それで何か一冊買ってかえる。雑誌黄金期だったのだろう。愛犬の友と美術手帳と将棋世界を一番買ったかもしれない。情報は雑誌からではなく、ネットから得ることの方が多い。将棋連盟のホームページを見れば、昨日の羽生竜王の勝敗が分かる。棋譜も出てくる。講評もある。自分の見解をコメントすることさえできる。こうした社会の情報機能の変化の中、週刊誌ジャーナリズムはどうなるかである。文春砲と呼ばれる、スキャンダルの調査機能を高めて、新聞とは違う脇から足をすくうジャーナリズムの誕生したかにみえたのだが。新聞に持ち込んでも取り上げてもらえないような際物も、雑誌なら掲載される。雑誌の低俗化が、ジャーナリズムの健全性を保っているともいえる。雑誌を売らなければならないという必死さが、週刊誌世界の調査報道を生み出している。

雑誌編集者は新たな若い購買層を探すことは諦めているようだ。残ったパイをちぎり合っているのが現状であろう。中高年向きの雑誌の生き残りは健康志向である。どの雑誌にも健康欄がある。今でも何かないかなと、つい本屋さんの雑誌欄を一渡り見る。残念ながら、買いたい雑誌がないまま帰る。もちろん様々な健康本が溢れている。そこに週刊誌も割り込もうというのだ。こうした情勢の中、ネトウヨの雑誌化と言えるような傾向が新潮45に生まれた。 自民党の杉田水脈衆院議員の記事が掲載された理由だ。ざっと読ませてもらった。自民党議員の知性の低さを証明したような記事だった。ネトウヨレベルの鋭さもない。こんな国会議員も存在することが証明されたことは良かった。もう自民党はまともではないなと思う。しかし杉田氏を良いという層があるらしい。ご本人の話では自民党内にも、もっともな意見だとしてくれる先輩がいるという事だ。これだから新潮がネトウヨ化したのだろう。

今も継続して買っているのが、「現代農業」である。40年前から私を農業に導いてくれた雑誌である。三軒茶屋の甲文堂書店で出会った現代農業。現代農業を読んで、いつか自給農業を始めてみたい。鶏を飼うような暮らしがしたいという思いを高めた。きっと現代農業は今も若い人の灯台になっている気がする。自給農業を考えるようになったのも、現代農業を読んできたからだ。人間が精神の自由を保って生きることができる社会が遠のいている。日本もすでにそうなっていると思う。捨てられないで季刊芸術を今も持っているのは、こんな時代があったという証だ。良いものが存続が難しいのは世の常であるが、次の世代の人に申し訳の立たないことだ。私たちがだらしがないから、こんな事態になったのだろう。一寸の虫として、ブログを書き続けている。ブログであれば、お金がかからず自分の考えを発信続けられる。

 

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映画:「万引き家族」

2018-06-22 04:33:29 | 

カンヌ映画祭で最高賞を受賞した、是枝裕和監督の「万引き家族」を見に行った。小田原のTOHOシネマである。100人ぐらいは入っていた。さすが受賞作品は違う。すぐれた作品である。心をえぐる作品である。身も心も切り刻まれるような痛い映画だ。余りに凄まじくて、直ちには言葉にならない状況にまだいる。人間が生きるというどうしようもない悲しみがにじみ出ている。心の奥の奥の方をえぐられた感アリ。見ないできたものを、さらけ出されたという感じ。まったく突如、死んだ父と母を思い出した。この年になって縋りつきたいような気持だった。悲しさは喜びよりも強く記憶に残っている。人間が存在することの悲劇性のようなもの。すごい映画だなあ。日常の中のドフトエフスキーか。日本にはこんなにもすごい映画人がいるのだ。日本という社会の上滑りな実相の裏側にこんな地獄の世界がある。どうしようもない人間の生きること。どこまで行ってもあの嘘で塗り固められているアベ政権を支持する、日本人というどうしようもない現実までもが重なり合う。

悪の意味を実感させられる。人間というものが引きづっている、悪。少年の中に芽生える、正義の意味。命に代えられる正義などあるのだろうか。正義を飲み込むこの不安定社会の暗闇は底なしである。意味なくわが子をいたぶってしまう人間の意味。わが子を苛め抜くような人間の歪みはどこから生まれるのか。人間本来の病気なのか。社会の病なのか。歪み始めた人間は何処に行くのか。幸せな家庭は軒先から焔が揚がっている。卑劣と呼ぶしかない幸福がある。全ぶ嘘なんだ。嘘だったんだ。人間の奥底に横たわる、暗い焔。暗ければ暗いほど、燃えが揚がる幸せ感の不安定な世界。命というもののどうしようもなさ。心はいつも道を探し、道に迷い、止まる。動けない命。それでも這いずり回る命。子供という一人では生きられない命の哀れさ、悲しさ。どうしようもなさ。この話はまぎれもなく私のことであるという耐えがたい痛さ。卑劣な人間の真実。きれいごとの表面性が脱ぎ取られる。

この映画がフランスで評価された意味をかみしめる。フランスは映画国である。学生は文学のように映画を語る。日本の昔の学生が文学青年であったように、フランスでは映画青年がいる。映画の芸術性、文化性が高く評価される。この日本の病巣のような複雑な映画が、フランスで評価されたことに驚きがある。世界の映画人の見識。フランスの文化レベルの高さ。アンドレマルローが日本美術を理解できたように、フランスの評論文化の深い思想を思う。受け止める文化があるからこそ、この理解しがたい日本社会の特異性を理解しえたのだ。犯罪というものを通して家族を描く意味。万引きをしながらしか生きることのできなかった家族の幸せ感はあまりにも悲しいだろう。万引きした飴が甘いわけがない。苦い飴を幸せとする、悲しい虚構。万引き家族は、思いの家族である。血族ではなく、気持ちで仮想される家族。疑似的家族にフキ寄せられる下層社会。下層であるが故の生きる日々の生々しさ。傷を刻み付けながらしか生きられない苦界浄土。痛みが故の救い。分断された社会。階層化され上昇のできない絶望の社会。

社会のシステムが完全に無意味化している。児童相談所の現実遊離。警察を代表する社会と言う法律に準拠する社会の陳腐化。児童虐待防止のキャンペーンが行われている。日本では毎日一人の子供が虐待で死亡している。この目をそむけたくなるような事実に向かい合う必要がある。子供はどれほどの虐待を受けても、本能的にその親に助けを求める。まさに地獄である。それを防ぐことのできない病んだ社会がある。競争主義に踏みにじられる人間性。敗れるたものに待っている地獄。子供をいじめること以外にはけ口のない病んだ親。その病んだ親をどうにもできない社会。児童相談所の職員を今すぐ倍にするくらいのことは、出来るはずだ。待機児童などいない社会を今すぐ作れるはずだ。日本は虐待防止予算の対GDP比ではドイツの10分の1だそうだ。アメリカの130分の1だそうだ。国際競争力の前にやることがある。日本の危機は、日本社会が危機的状況にあるという事に気づかないところにある。

 

 

 

 

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新しい形の田んぼをする人

2018-06-19 04:34:24 | 

田んぼの仲間の岡本さんが作った本を頂いた。「特例子会社の仕事の進め方」河出書房新社発行。という一見難しい名前の本だが、これが実にコミック入りという何処までもわかりやすく作られた本なのだ。この発想がすごいなぁー。ーーードコモが実践する発達障害者・知的障害者の理解と対応策。と表紙に書かれている。岡本さんはドコモに勤めているとは聞いていた。10年以上前になるのか、岡本さんは東京に勤務しながら、小田原で農業は出来ないかと訊ねて見えた方なのだ。その生き方には興味深いものがあった。農地の世話は必ずするからと、まずは家探しからしたらどうかなど相談した。その後小田原に転居して来て、畑をやったり田んぼをやったりしてきた。奥さんがまた面白い方で、創作モンペを作ってネット販売を一時していた。私も裁縫仕事は好きなもので、どこか話が合うところがある。子供が生まれて、小さい頃から田んぼをよく手伝う良い子だ。今年も田植えに来ていた。小さな子供たちがたくさん来ていたので、にぎやかな華やいだ空気に欠ノ上田んぼもなっていた。

岡本さんがドコモ・プラスハーティーという会社で働いているという事を初めて知った。障碍者と一緒に働いているという事は、少し聞いていたが、こんなすごい仕事をしているのかと改めて分かった。独特の人だとは思っていたが、良い仕事をしている。何かの会社でのアンケートに趣味は田んぼと書いたことから、こういう仕事に入った。というような話を聞いていた。何かすごいことがあるらしいとは思っていた。いつも企業と言うと悪いイメージで見てしまうが、企業でなければできないような良い仕事を作り出している。私も農業分野の作業所を作ろうと、努力したことはあったのだが国が求める設備とか、規模とかいうもので挫折した。それだけに、ドコモの取り組みには何か打たれるものがある。企業というものを刮目してみなければならない。反省。

これだけの仕事をしながら田んぼをやり続けるというのもすごいことだ。これこそ家庭イネ作りではないだろうか。この素晴らしい生き方に、協力できるのはうれしい。趣味の息抜きというようなものではない。バリバリに働きながら、自給の田んぼをやっている。こんな事例が日本に増えてきたら、日本が面白い社会に生まれ変わるような気がする。岡本さんは先駆者としての大変さもあるが、大いにやってもらいたいものだ。実は農の会にはこうした企業に勤務しながら、自給の稲作をやってみたいという人が何人も集まっている。岡本さんは特殊な事例ではなく、むし普通である。奥さんがキャリアウーマンで旦那さんが新規就農者という女性活躍の家族もある。そういう暮らし方が選択できる社会こそ面白いのではないか。そんな農業が都市近郊の耕作放棄地に広がってゆく。それを可能にする制度を国は作る必要がある。農地法の壁など早く取り払う事だ。日本らしい新しい、瑞穂の国がそこにはあるはずだ。安倍昭恵さんが見せかけだけでなく、本気の稲作をしていたらまた違ったのにな。

岡本さんが特例子会社の仕事を模索できたのは、田んぼをやりながらだったからこそではないだろうか。私はこの本を読みながらそういう事を思った。田んぼをやることを通して、プラスハーティーという事になったのだろう。田んぼをやることで、心が温かくなったのではないか。暖かい人だから田んぼをやったのか。それにしてもこの本で語っている岡本さんは、実に雄弁で見違える。私が絵が少しはまともな方に向いたのは、私が、自給の暮らしを続けたからだぞー。そう言えるくらいに絵がなればいいのだが。今のところ、まだまだである。一昨日も遅くまで、岡本さんは田植えをしていた。奥さんはいつものように、口ではこぼしながらも笑顔が明るかった。私は遠巻きに近づかないように見ていた。農の会の距離感である。そしてそういうすべてが絵になると思って見ていた。

 

 

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文体と筆触

2018-05-02 04:01:25 | 

名蔵湾の絵の部分 ---筆触について

最近、「八重山日より」を読んだ。宮城信博さんという方の書いたものだ。いわゆる散文というのか、随筆というのか、もう一つ違うような気もした。たった一行だけの、何と呼べばよいかわからないが、詩とは違うと思う文章もあった。雑誌の囲み記事のような文章である。はじめて石垣の人のことが少しわかった。けっこう芯が強い。石垣の人間模様が書かれているから石垣が分かったというのではない。この文章に現れる石垣の人の持つ空気感のようなものを感じた。それは内容というより石垣人の書く、独特の文体というものを感じたからなのだ。何気ない文章のわりに自己主張が強い粘りのある文体。内容が負けず嫌いというのではない。文章の言い回しの仕方や、言葉遣いにそんな感じがしたのだ。石垣に生まれた人が、沖縄本島に暮らしているのだなあ。どうも八重山料理の店をやっているらしい。それなら納得がゆくと思える何かがある。文章のあちこちにふるさと自慢がある。がそれが気になる訳ではない。

むしろ、何かいいがたいものがあるような、書き残しているような、あるいは言いよどんでいるような、書ききれない何ものかが、文体から匂う。極めて聡明で論理的な文章である。にもかわわらず肝心なことには触れようとしない。肝心なものがないのであればいいのだが、肝心なことがかなり重く横たわっている気がしてならない。そんな文体なのだ。その有様を分かりやすく書けないで残念だが、そうとしか言いようもない。本当は文体ではないのかもしれない。さっぱり見せようという、技巧的な文章ではあるのだろう。そこに理由の分からない晦渋が残る。何気なさげのでは済まない心の淀みが聞こえてくる。そんなこと一番遠くのことだと示そうとはしている。ここが人間のどうしようもないところだ。このどうしようもない、いわば馬脚のようなものが文体にあらわれてくる。文体の余韻。切り上げ方にある。多分そういう事は私の勝手読みなのだろう。人間というものは結局たくまずして文体に表れる。

究極の教師というものは存在したことすら思い出しもしない人だそうだ。素晴らしい教師は自分の存在を消してしまう。あの先生は良かったなどといわれるうちはまだまだなのだという。まだ恩着せがましい教師かもしれない。あの人のお陰という形で、生徒と接するという事は、先生としてはまだまだというのだ。少しも役立たなかったと生徒当人は思っているのだが、実はその先生のお陰であるというようものが教育であると。本来の教師というものは、その生き方で人の道を示しているだけである。方法論を示すのではなく。先の方の方角を生きているのが教師である。道元禅師は自分がそう生きただけであって、後に続くものにこうした方がいいなどとわざとらしく示すことはない。後に続くものがその生きた道をたどり、こういうことが道らしいと学なぶだけだ。教師は消えなければならない。そういえば先生の生き方は素晴らしかったかもしれない。そんな私の先生を何人か思い出すことができる。その人は自分を教育者とは考えもしなかっただろう。

生きるという事はくだらなくて沢山だ。ダメでもいいじゃん。その人であればあとはどうでもいい。他人から見た価値などどうでもいい。人の素晴らしさと較べる必要などあるはずもない。文章では書いている内容とは別に文体である。それは絵で言う筆触のことなのだと思う。絵には、色とか、形とか、ある訳だが、一番意味のない筆触が一番重要だと考えている。主題から見れば、どうでもいいような文体とか、筆触といか言う事にむしろ、重要なことがある。上手な筆触というものは、その描く人間に近づくことを出来なくする。下手な筆触はわざとらしくて鼻に着く。筆触はただ在るものだ。筆触は筆跡と似ている。筆跡鑑定という事があるように、そこから読み解けるものが沢山ある。書道というのはほとんど筆触のことともいえる。水彩画では筆跡ほど絵を左右しているものはない。良い筆触になるためには、自分を磨く以外にないという事は、文体と同じなのではなかろうか。 

 

 

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日本の自然宗教 5

2017-05-19 04:31:36 | 

日本精神史 阿満利麿 著を読んでの感想である。ずいぶん長いブログの文章になったのは、有権者がアベ政権を支持してしまう、今の政治状況をいろいろ考えながら読んでいたからなのかと思う。阿満氏は法然の絶対凡夫の思想というような考えから、日本人の自然宗教を否定しなければならないものと考えているようだ。日本人の中にある自然宗教の影響がアベ政権に従ってしまうお上意識にもなっている、と考えていいのかもしれない。そうかもしれないと思うが、むしろ日本の自然宗教というものは乗り越えると、言うような何とかなるものでなく、事実を確認すべき様なことと私は考えている。科学的に日本人を分析する上での要素という事である。日本人にはこうした自然宗教の民俗性がある。という形で分析する以外にないことだと思う。日本人が人と挨拶をするときに何故頭を下げるようになったのかというような歴史的分析、というようなことに近いことだと思う。

日本人はそうした民族性を深く自覚はしなくてはならないことは確かだ。しかし、それは否定するべきものというより、未来に生かす方法を考えなくてはならない性格のことだ。絵を描くときにより日本人に入り込むことこそ、世界にとって意味あるものになるのだと思う。日本人が宗教的ではない民族であるのは、良いことだと私は思っている。公明党が創価学会を背景に政治の分野で、ご都合主義の悪い動きをしている。アベ政権に対して、現世利益と引き換えにすべて従っているように見える。そうでないというなら、平和の党の安心とはどういうものなのか政策として示してもらいたいものだ。そして創価学会員は、教祖の言葉をどのように聞いているのだろうか。これが日本の自然宗教の影響だとは私には見えない。教祖の池田氏は平和主義者ではないと考えた方が良いのだろうか。こういう政治理念のない宗教の形が、民主主義に最も悪い影響を与える。日本の宗教が政治と関係してよかったことはない。日本人の民族性は政治と宗教と上手くかかわれない関係なのではなかろうか。

日本の宗教は戦争に加担した。その反省が不足している。それは自然宗教の影響というより、日本の宗教が既得権益団体化しているからだ。その教団の繫栄の為には、宗教としての教義すら、軽んじて恥じるところがない。自民党総裁が主張する憲法9条の改定に対して明確に教団として反対しているところはあるのだろうか。お上の意思を忖度するのが得意なのが宗教組織のように見えて仕方がない。法然や親鸞が提唱した浄土宗がどの宗教よりも、寺院も衣装も絢爛豪華である。日本人にはまれなほど派手な姿である。それが凡夫の姿というものなのだろうか。私は悟りを目指す曹洞宗の僧侶ではあるが、生涯凡夫だろうと思う。悟りなど開ける感じもない。しかし、自給に生きること、絵を描くという事を自分の道として、取り組み続けるつもりだ。それは悟りを開くためというのでなく、そうしたいという思いだけだ。

日本人は3000年の稲作農業を続けることで日本人を形成した。それが日本人の精神史の根本にある。このことを考えない限り日本人の精神史は明確にならないのではないだろうか。何故天皇が天皇として存在しているのか。この独特な近代国家を生んだ原因も見えてこないだろう。政府に従ってしまう日本人が形成された理由は、江戸幕府の統治手法と、明治帝国主義にあるのではないだろうか。1500年も学んだ仏教もそれほど精神史に影響があったとは思えない。日本人の自然宗教というべき体質が、こういう国を作り出した。神や仏は実は死んだ祖先のことでる。仏さまと言う言葉はむしろ死んだ人のことの印象が先である。お釈迦様でも阿弥陀仏でもない。ここに抜き差しならぬ日本人がいる。そして、稲作を止め、地域に根付いた暮らしが失われた現状。日本人の精神は危ういところに来ていることは間違いがない。

 

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日本の自然宗教 4

2017-05-17 05:17:35 | 

明治政府が日本人の精神世界を大きく変貌させた。廃仏毀釈と靖国神社である。まさに、イスラム国やタリバンの仕業と同じことを明治政府は行った。寺院を破壊し、仏像を燃やした地域まである。大量の僧侶が還俗させられた。神道を天皇を中心の国家宗教にしようとした為である。この問題は深刻なことで、安倍氏が突然語った美しい日本にまで影響している。安倍氏一派が靖国神社にこだわる姿は、明治政府の末裔のつもりだから。靖国神社というように神社の名前がついてはいるが、他の神社とは全く違うものと考えなくてはならない。日本人の自然宗教的なご先祖信仰を、国家が利用しようとしたものである。それぞれの家に於いて、ご先祖は神様になり、山に帰り自分たちを見守ってくれているという意識があった。それは稲作にを継続する暮らしでは、具体的な感謝であり、また自然の力への畏敬の念と自然災害から神の力で守られたいという気持ちである。

日本人の自然宗教を日本帝国主義成立の為に、利用しようとしたのが靖国神社である。近隣諸国が靖国神社を忌み嫌う理由はここにある。靖国神社では死んだ軍人が、神様になり日本を守ってくれるという意識を形成しようとした。村の鎮守の神様への信仰心は日本人の自然宗教と繋がる、原始に繋がるものだ。この意識を軍国主義に置き換えようとしたものが靖国神社である。ご先祖に見守られて生きる日々の安心感や生きる目的。この信条を国家というものに置き換えようというのが、靖国神社である。徳川家康が檀家制度を作り、仏教を葬式仏教に変え、すべての国民をお寺の下に置こうとしたことに繋がる。家康の奥深さは檀家制度を作りながら、村野神社に関しては否定をしない。ところが明治政府は靖国神社を作る一方で廃仏毀釈を敢行し、仏教と檀家制度を破壊しようとする。

しかし、死者という恐ろしいものを始末してくれて、預かってくれる有難いお寺さんから、日本人の心は離れることはなかった。これは現代の溢れてゆく墓地の存在を見ればわかる。墓地の管理人であるお寺の存在のいい加減さ。公営墓地の方が安くていいと言う程度の立場に今やお寺はある。土地に根差して生きていた、3000年の日本人の暮らしが、影響を与え作り出したものが日本の自然宗教である。中国から渡来した仏教は、奈良時代にも律令制度を支えるものとして、神社も国家宗教として、日本統治の制度に取り入れられる。しかし、その時代においては神社も仏教も死者との関係は薄い。死者を宗教的に弔うという事よりも、土俗的に死者を弔う事が日本人の心には納まりが良かった。沖縄の墳墓がチャンプル文化をよく表している。死者の弔い方には古い時代の薦骨の風俗を残す集まりのできる墳墓である。その沖縄式の墳墓の屋根の上に本土的なお墓の形を載せている。

読み進めているのだが、なかなかこの本の主題は、私には見えてこない。政府をお上と感じ、お上はそうひどいことはしないだろうという、論理を超えた従属意識の根源を探るという事だろうか。自然宗教というものは、絶対的な自然の力の前に生かされているという人類が共通に持つ、自然畏敬の念である。この人類共通の原初的な宗教間の影響というより、仏教的な思想を感じた。読みながら、金沢大学時代の出雲路暢良先生のことを思い出した。極めて論理的な思考であって、明解なようでありながら、結論に至らないのは生きるという事がそういう探求という事なのであろうか。出雲路先生の部屋で週一回集まりがあり、出席させてもらっていた。出席者が順番にその週にあったことを話すのだが、誰かの話から、先生は飛躍して自分の宗教観に入り込んでゆく。あの感じを思い出した。多分、著者阿満氏はどこかへ深い穴に入り込んでいる。その穴ぼこの深さが恐ろしい気がした。

 

 

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日本の自然宗教 3

2017-05-17 04:23:26 | 

天皇の存在が日本の自然宗教を考える上で重要である。また、日本人の個の独立のない、お上に従う意識には、天皇の在り方が影響されているのも確かなようだ。私にはそのその意味でも修学院離宮を考えてみる必要があると考えている。修学院離宮は天皇家がもっともその意味を確認させられた、消滅の危機にさえさらされた時代に作られたものだ。日本の水土の理想郷を作ることで、その在り方を形として確認しようとしているのではなかろうか。それは、日本の3000年の循環農業の行き着く姿でもある。アジア学院というものが栃木にある。鶴川農村伝導神学校東南アジア科を母体とする。ここにおられた方で、アジア学院の成立にかかわった方がいる。小田原のキリスト教会の牧師さんであった。この方が農業を小田原でもやりたいというので、協力させてもらったことがある。その過程でアジア学院が作られたころの話を詳しくお聞きすることができた。やはり宗教的想いを根底に持つ一つの理想郷作りである。那須にあるアジア学院を訊ねて、その感想をより強く持った。

農業では考え方が具体的な農場の形に表れる。斜面を利用している。上部に宿舎を作り、そこで出るすべての排せつ物が、下の方の田んぼに流れ出てゆき、その施設から出るものは水以外はない形であった。修学院離宮も規模はさらに大きいが同じである。修学院離宮の形に江戸時代の天皇家の考えていたことを知ることができる。「17世紀中頃、後水尾上皇によって造営されたもので、上・中・下の3つの離宮からなり、借景の手法を採り入れた庭園として、我が国を代表するものです。」と宮内庁の説明にはある。しかし重要なことは田畑と離宮の関係である。上部の池からの水は下の田畑を潤すことになる。美しい日本庭園ではあるが、溜池でもある。借景には水田も取り入れられている。稲作における文化の側面。何処を天皇家が、日本人が目指すのかの、一つのかたちとして示そうとしたと考えられる。

後水尾天皇は戦国時代から徳川幕府が形成される時代を生きた天皇である。徳川家康という永遠の統治思想をもった権力者の前に、天皇家をどのような存在として維持するかを模索し、示したものが、修学院離宮ではないかと考える。徳川幕府は皇室に対して、尊重し利用してゆくという姿勢になる。家康は仏教を檀家制度という形で利用する。檀家制度が村という組織を強力なものに、日本人を固定する役割となる。深い政治感覚を有した家康は、日本人とは何かをよく理解していた。天皇や仏教を否定するよりも政治に介入させない位置に、止める方針を持ったのであろう。後水尾天皇は上皇になり85歳で死ぬまで天皇家の意味を修学院離宮という形でしめそうしたのではないか。日本を農的な文化によって治める中心となる存在であることを示そうとしたのではないかと考えている。日本人の精神史を考える上では、天皇と東洋3000年の稲作農業の存在がある。稲作は運命共同体を作る。

村という単位の水で繋がる単位を形成する。田んぼの中で生きるという事は、協力しなけば生きて行けないという事である。個人で独立して生きるという事は村八分を意味する。葬式と火事以外にはかかわらないという閉鎖社会。化けて出られると困る葬儀。火事で延焼したら困るときの消火。後はかかわりを断つ。稲作で生きる社会において、村八分になるという事は生存できないという事を意味する。いじめのようだが、暮らしの上で必要であるから行われた処罰制度である。これはムラ全員の賛成があるとき行われる。こうした生活形態から、逃げ場のない村という社会において、日本人が形成されてゆく。この逃げ場のない形は西欧的な封建社会を当てはめて考えると、違うと思う。どう違うのかも書きたいのだが、まだ本を読み終わらないまま、感想を書き続けている。

 

 

 

 

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