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ちばあきおを憶えていますか。

2024-02-23 04:04:21 | 


 昔自殺してしまった、一番すきだった漫画家、ちばあきおさんのことを思い出した。女性の漫画家の方が自殺されたからだ。それで、「ちばあきおを憶えていますか」千葉一郎著集英社(あきおさんの長男の方)という本を読んでみた。

 いろいろ思い違いがあった。「ふしぎトーボくん」が最後の作品と思っていたら、その後に「ちゃんぷ」と言う作品があったのだ。しかもその仕事が自殺をされる要因になったらしい。そんな事さえ知らなかったのだから、尊敬していたなどと言える資格がない。

 ちばあきおさんはうつ病での自殺だと思っていたのだが、実際は創作の苦しみから、アルコール中毒になり、飲み続けていて、漫画を書けなくなっていた。しかし、何とか再起しようとして、もう一度「ふしぎトーボくん」を書いた。その漫画の不思議に静かな透明感はさすがのものであった。

 もちろん私は当時、何故か、プレーボールが途切れるように終わり、その続きがはじまら無いのかと期待していた。全く理由が分からないままいたので、何時プレイボールが再開されるのか。などと安易な想像していた。谷口君が墨田二中の後輩達と高校で甲子園に出る努力を、何時始めるのかなどのんきに考えていたのだ。

 それから三年間、何とか再起しようとしていた。そして、危険な最後の賭けのような創作に戻ったのが、トーボ君だったのだ。やはりそれが無理だったのだろう。完全主義者だったようだ。何しろ出版後の本が、赤ペンでびっしりだったそうだ。

 しかし、プレーボールは再開が無いまま力尽きて、つまりまた酒浸りになり、自殺してしまったのだ。そういうことは全く想像していなかった。辛かったことだろうと改めて思う。私には創作の苦しみはないので、分からない。が、あの谷口くんの世界観は身を削って生まれていたことは分かる。

 トーボくんの透明感は、死を予感させるものだったのだ。全く迂闊な読者である。ちばあきおさんは元気で、次のプレーボールの合図を待って、準備体操をしているのだと思い込んでいた。その先入観は、どうしても、あの谷口くんが戦いを諦めるとは思えなかったのだ。谷口くんとちばあきおさんがごっちゃに成っていた。
 
 ちばあきおさんは、ちばてつやさんを長男とする、漫画家一家、千葉家の4兄弟の一人なのだ。4兄弟は皆さん漫画の世界で立派に生きている方だ。もちろん長男のちばてつやさんは「あしたのジョー」で一世を風靡した。今や漫画界を代表する芸術院会員である。

 ちばてつやさんの助手から、ちばあきおさんの漫画への人生が始まる。ちばあきおさんは満州の奉天で生まれた人だ。千葉さん一家の満州での暮らしのことは、読んだことがあった。家族6人がなんとか栄養失調になるが、命を失うこと無く引き上げることが出来た。

 その中国からの引き上げの過酷さが原点になる。国から見捨てられたのだから、自力で生き抜くほか無かった。千葉家の6人は、お父さんの工場での同僚だった友人の中国人の徐集川さんに救われる。徐さん家の屋根裏にかくまわれて、命拾いをする。そして、引き上げてからの苦難を長男のちばてつやさんを中心に生き抜く。

 ちばてつやさんが、徐集川さんを探しに中国に行くドキュメントを見たことがある。やっと探し当てるのだが、徐さんは3年前に亡くなられていた。娘さんがちばてつやさんのお父さんから貰ったという、古いタオルを大切にしなければ成らないものだと言われて、今も取ってあった。

 私の父も中国に兵隊として七年間も行かされたわけだが、中国語を学んで、民俗学の学問の姿勢で中国人と関わろうとしたと話してくれた。長沙という町でお世話になった先生の話を良くした。中国人の友人が出来て、敗戦後やはりその友人に助けられて、日本に戻れた話をしていた。中国人の実像がそういう話からできた。

 ちばてつやさんは弟のあきおさんを漫画家にしてしまったことを悔やんでいる。自分の仕事が忙しすぎて、優秀な弟をアシスタントに頼んでしまったのだ。その結果他の誰にも書けない素晴らしい漫画を書いたのだから、良かったとも言える。

  しかし、兄弟として、漫画家として、創作の苦しみが一番分かるのもちばてつやさんだったはずだ。何としても酒を止めようとしたらしいが、どうしても、アルコール中毒から抜け出られなかったらしい。谷口くんになりたかった、あきおさんの苦しさなのだろう。

 創作と実際の人間は当然違う。自分の中にある、こんな人間でありたいという、理想の自分になれないという苦しみが、繊細な精神を痛めつけたのだろう。愛読者だったものとしては残念だと思う。多分一番残念だったのはあきおさん自身だろう。

 漫画というものが、自分を追い詰めてしまう、危うい創作なのだと思う。これが映画であれば、まだ共同責任的な創作になる。小説であれば、文字の世界のことだから具体性が薄い。絵画となれば、具体性がさらに薄くなる。漫画の持つ総合性が人間を追い詰めやすいのかも知れない。

 一人で全部やれる創作。子供のころ漫画を作って見せてくれた友達がいた。彼はある新興宗教の教祖になった。漫画を描く発想が宗教に繋がったような気がした。漫画にはそういう危うい部分がある。子供のころ小説を書いてみたいと努力したことがあった。ある場面を書くという事は出来るのだが、そこまでだった。

 小説が始まる場面なのだ。それをストーリーと組合すことが上手く出来なかった。実は今もこのブログの先の方のページには書きかけで、止まっている小説がある。もしかしたら、紙芝居ならば、出来るのかなど思ったりするがつまらない。

 散文詩というようなものかもしれない。梶井基次郎さんが好きで時々出してはまた読んだ。ストーリ性よりもその文章の感触に憧れがある。ちばあきおさんの漫画も同じようなものがある。谷口くんが手帳に書き留めている姿とか、夜に素振りをしている姿とか、一場面に詩がある。

 その切ないような詩情がにじんでくる漫画なのだ。芸術院会員のツゲ義春氏の漫画もそういうものだろう。私が知らないだけで、埋もれている散文漫画はいろいろあるのだろう。絵本とも違う。絵本のどこか高尚ポイところがはそれほど好きではない。

 白土三平氏の忍者武芸長の貸本漫画で育った。子供のころは白土氏の絵が好きだった。あの激しいデッサンが格好いいと思っていた。それがいつのまにか、ちばあきおさんの絵になった。私も成長したのだろう。あの絵の素朴なすごさにやられた。

 それは自分のデッサンの基になった気がしている。単純な線描デッサンにいまでも憧れている。時々樹を線描で描く。面白と思う。一本の木が村山槐多 のデッサンになる。ちばてつやさんがあきおさんの漫画の続きを書こうとして、あの絵は描けなかったらしい。とこの本にはあった。
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