あるきメデス

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門前仲町から両国へ、芭蕉ゆかりの地を訪ねる(東京)(続き)

2011-02-13 17:02:23 | 江戸・東京を歩く
 2011年2月11日(金・祝)(続き)

 ゆっくりと見た資料館を出て、清澄庭園の北に回り、臨川寺へ。松尾芭蕉がたびた
び参禅した寺とのこと。

 小公園のような一角に、芭蕉像と芭蕉由緒の碑、それに墨直しの碑が並んでいた。

 清澄二丁目のこのあたりには、八百長問題で揺れる相撲部屋が幾つかあったが、
いずれも玄関は固く閉ざされていた。


 隅田川に近い萬年橋通りに出て、その萬年橋を渡る。江戸時代の萬年橋は、葛飾
北斎の「富嶽三十六景」や、安藤広重の「江戸名所百景」に描かれたという。


 橋のたもとに、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の句が掲げられていた。

 橋の北岸には、「川舟番所跡」の説明板があり、江戸時代に、江戸から小名木川を
経て利根川を結ぶ流通網の出入口として、川舟を利用してここを通る人と荷物を検査
したことが記されていた。

 北側の通りを左折すると、「芭蕉稲荷大明神」ののぼりの林立する、狭い境内の稲荷
神社がある。

 芭蕉庵のあったところで、芭蕉は延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、ここ
を本拠としていたという。

 近くの隅田川と小名木川との合流点に、芭蕉庵史跡展望公園が整備されている。少
し高見の公園に上がると、下流間近に清洲橋↓が、上流には新大橋周辺が望まれる。


 園内には芭蕉像があり、小さな池などが設けられていた。


 堤防に沿って少し進み、裏口から芭蕉記念館に入る。建物に沿った、狭いながらも趣
ある庭園に、滝が流れて白梅が咲き、ところどころに芭蕉の句が吊されていた。



 館内2階と3階が展示室。句人の書簡や短冊、芭蕉の肖像や系譜など、ゆかりの品
々が並んでいた。ちなみに、館内は撮影禁止である。

 表門のある萬年通りに出て、八名川小の前を東に抜け、深川神明宮に詣でる。境内
南側に、近代的な御輿蔵が2棟あり、近隣八町内の御輿が収蔵されていた。


 本殿は近代的なコンクリート造りだが、ここは400年前、深川八郎右衛門が開拓して
伊勢皇大神宮を祭った「深川」の地名発祥の地だという。

 深川ゆかりの地で、今日の記念撮影とする。


 新大橋通に出て、都営地下鉄森下駅上を通過し、清澄通へ。首都高小松川線下を抜
けてすぐに左折、桐の博物館前を過ぎる。


 両国小の西に回ると、忠臣蔵でおなじみ、赤穂義士、吉良上野介の上屋敷跡の一角
が、本所松坂町公園と呼ぶ小公園になっていた。

 当時の吉良邸は約2,550坪(約8,400㎡)あり、公園はその86分の1に過ぎないと
いう。当時の海鼠壁(なまこかべ)を模した塀に囲まれた園内には、新しい吉良上野介
像があり、壁面には、義士関係の記録や絵画が並び、首洗い井戸などが残されていた。

 墨田両国三郵便局の先で、裏門をくぐって回向院(えこういん)に入る。

 回向院は、明暦3年(1657)の江戸大火・振袖火事の死者、10万8千を弔らうために
建立し、その後、安政大地震(1855)の死者2万5千人余りなども埋葬され、大正12
年(1923)の関東大震災の死者10万余人の分骨も、納骨堂に安置されているという。

 広い境内には、宝暦7年(1757)建立の塩地蔵↑、鼠小僧(ねずみこぞう)の墓、木遣
塚、江戸時代の戯作者・岩瀬京伝、京山兄弟の墓、江戸中期の国学者、加藤千陰の墓、
明暦大火横死者供養塔、力塚など、見るべきものが多い。


 一時小降りになった雪が、またかなり降ってきた。

 表門から出て北へ、名横綱の力士像や手形の並ぶ国技館通を進み、ゴールのJR総武
線両国駅に、13時35分に着いた。


 (天気 雪、参加 17人、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 江東
  区、墨田区、歩数 9,900)


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