あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

飯能の歴史散歩ウオーキングへ(埼玉)

2013-10-25 21:58:28 | ウオーキング
 2013年10月24日(木)

 台風27号の影響で雨が気がかりだったが、所沢・山里探訪会主催の「第8回とことこ
漫歩」と呼ぶウオーキングに参加した。今日の目的は「飯能(はんのう)の歴史散歩」で
ある。


 西武池袋線の飯能駅に10時に集合したのはおよそ30人。山里探訪会の代表、飯野さ
んからコース説明があり、10時10分に出発した。

 駅北口から真っ直ぐに伸びる繁華街を北へ、国道299号線に入って西武鉄道の踏切を
渡る。国道299号バイパスとの交差点際に、二つの大きな看板があった。


 北側の中山集落一帯は、武蔵七党のひとつ丹党(たんとう)出身の中山氏ゆかりの地で、
飯能発祥の地でもあるという。

 バイパスの北を東西に走る、秩父往還・吾野(あがの)道に入って東へ。近くには、千
木(ちぎ)の上がった歴史ありそうな民家も残っていた。


 次の角を北に入り、まずは加治神社へ。加治神社は中山氏の創建で、明治2年(1869)
に聖天社が改称されたと考えられるとか。明治40年(1907)に村内各社を合祀(ご
うし)して、中山の総鎮守社としたという。


 カシの続く参道の両側に、高さ1.75mの石灯ろうが並ぶ。もとは近くの智観寺境内の
丹生明神にあったが、合祀の際に社殿とともに移されたようで、寛永19年(1639)
の造立らしい。


 本殿の西側斜面には、江戸時代の書家だった本橋氏の大きな筆塚↓と記念碑が並び、境
内南側には、中山集落の山車蔵(だしぐら)がある。


 山際の道を西へ、「彩の国みどりの基金」を活用して再生した林の前を通過する。その
先、少し下った住宅地の一角に、「県史跡・中山家範館跡(いえのりやかたあと)」の説
明板が立ち、館の土塁がわずかに残っていた。


 中山氏は、武蔵七党・丹党の加治氏の出身。この地中山に居を構えた後、中山氏を名乗
り、当初は上杉氏に属していたとか。川越夜戦で上杉氏が敗れた後、中山家範は北条氏照
の重臣になり、北条氏が豊臣軍の攻撃を受けた際には、小田原の支城、八王子城を死守し
たという。

 近くを流れる丹荘堀を渡り、本堂の背後にある智観寺の墓地へ。本堂に近いエリア一帯
は中山氏の墓域で、築山の上に高さ3mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ初代中
山信吉の墓を中心に、47基の墓がある。


 智観寺は、元慶年間(877~885)に中山氏の祖、丹治武信が創建したと伝えられ、
その後火災や慶応4年(1868)の飯能戦争で焼失したが、明治9年(1876)に再
建された。


 中山信吉は徳川家康に取り立てられて側近として重きを置かれ、また水戸藩の付家老
(つけがろう)となり常陸松岡藩2万5千石の領地を持ち、以後中山家は代々、水戸藩の
付家老として活躍したという。


 ご住職から、中山氏のことを中心に飯能戦争や戦後の困窮期にいたるまで、寺の歴史を
詳しく分かりやすく、時にユーモアも交えてたっぷり伺う。

 3日後の10月27日(日)には境内の宝物館が公開され、県文化財などの貴重な資料
を拝観することが出来るという。

 山門を出て、秩父往還・吾野道を西進する。国道299号バイパスを横切り、西武池袋
線のガードをくぐって飯能一小の北側へ。

 そばの公園に、「ナンジャモンジャ」と呼ぶ大樹が立っている。ナンジャモンジャは、
モクセイ科のヒトツバタゴを呼ぶことが多いが、この木はクスノキ科のカゴノキとのこと。


 通りの北側には、飯能特産の木材を豊富に使った、新しい市立図書館が出来ていた。



 市民会館の北側にある中央公園に12時7分に入る。園内に世界で一つという鉄腕アト
ム像があり、1983年の落成式には手塚治虫氏も来て除幕したことが記されていた。


ここで昼食となり、ポチポチ雨が落ちてきたので、屋根のあるベンチやフジ棚の下などで
弁当を広げた。

 昼食を終え、交差点を挟んで公園の北西側にある能仁寺の山門を入る。能仁寺は、文亀
年間(1501~4)に扇谷上杉氏の重臣、中山家勝が創建したとされ、その子家範が父
の菩提をともらうため大寺として興隆に導いたという。


 天正19年(1591)には徳川家康から五石の朱印地を与えられ、五代綱吉のときに
五十石に加増されたとか。それに力を尽くしたのが、家勝から4代後の中山直張の子で、
黒田家の養子になった直重、後の直邦という。

 本堂の左手から背後の斜面を上がった墓地に、↓自然石に刻まれた中山家範の墓を挟み、
上に父家勝、下に子の照守3代の墓があり、周囲にも中山家の墓が並んでいた。


 能仁寺は、幕府の大政奉還に反対して結成した彰義隊と分かれて結成した振武軍(しん
ぶぐん)の本陣が置かれ、慶応4年(1868)5月の飯能戦争の最後の戦場になったと
ころ。開山堂の前には、そのことを記した「振武軍の碑」が立っていた。


 よく手入れされた木々の広がる境内にはモミジの古木が多く、晩秋にはその彩りが見事
だという。


 中央公園に戻り、市民会館の南側にある飯能郷土館に向かう。西側道路際には、若山牧
水が大正9年(1920)に飯能を訪れたときに読んだ、「しらしらと 流れて遠き杉山
の 峡のあさ瀬に 河鹿鳴くなり」の歌碑がある。



 飯能郷土館に入り、学芸員の方から飯能の地形や歴史、産業などの説明を聞く。さらに
飯能焼↓、幕末の飯能戦争のことなどもうかがい、その後、少しの時間自由観覧する。


 企画展示室では、特別展「飯能方面湖水の如し」というテーマで、明治43年(1910)
8月の水害模様や、飯能市域の災害記録、関東大震災の模様などが展示されていた。


 観覧を終わり館を出ると、中央公園の北側に天覧山が望まれる。


 市民会館の東に回り、諏訪八幡神社へ。創立は永正13年(1516)で、安永年間
(1772~80)に火災で焼失したが、その後再建されたという。



 境内には、古くは羅漢山(現在の天覧山)山頂にあったのを元禄年間(1688~1704)
にこの地に移したという小さめの社殿の丹生神社↑があり、夫婦円満で知られる、杉を抱
えたご神木の丹生樹(たんしようじゆ)と呼ぶカシの古木が立っている。


 地元の俳人吉良蘇月の「稲架取れて 野に幻想の 獅子の笛」と刻まれた句碑もある。

 杉などの繁る林間の谷間を回った東側の観音寺に行く。弘法大師の草創と伝えられる寺
で、江戸時代には高麗郡三十三か所霊場十番札所として庶民の信仰を集めたとか。本堂に
は、西国、坂東、秩父観音霊場の本尊写しを合わせた百観音が安置されているという。

 境内にある二つの手水鉢のうち小さい方は、「筏衆連中、嘉永2年(1849)」と刻
まれた珍しいもの。


 鐘楼のような覆屋には、白象の像が立っていた。新しい庫裡のそばには、水原秋桜子の
「むさし野の 空真青なる 落葉かな」の歌碑がある。


 東側のT字路に出て、車返しの坂と呼ぶ入間川左岸沿いを上流に進む。


 飯能西中の校庭前を過ぎ、民家の間を入ったところに小さい赤鳥居が立つている。

 本郷大六天神社で、小さい社の背後にシラカシの古木が立ち、その幹に取り込まれるよ
うに2基の板石塔婆が並ぶ。

 阿弥陀三尊のほかに銘も年号もないが、鎌倉時代のものとされ、畠山重忠の墓と伝えら
れているようだ。

 ここで今日巡る行程は終わり、駅に向かう。南側の車道に出ると、臼や木鉢、麺板、水
車など木製品の店があった。


 小雨模様で、上流の山の霞む岩根橋を渡る。眼下の木々の一部には紅葉が始まっていた。


 東進して下流の割岩橋を渡る予定だっが工事中で通行止め。上流、飯能河原にかかる冠
水橋から朱塗りの割岩橋を眺め、左岸に戻る。




 車道に上がって真っ直ぐに東進して、14時52分に飯能駅にゴールした。

(天気 曇後小雨、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 飯能、歩行地 飯能市、歩数
 13,300)




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