あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…
2013年1月12日(土)
最終年の10年目に入って最初の「関東百駅巡礼歩行」が開催された。集合はJR常磐線
の取手(とりで)駅。昨年12月、所沢市でのやまさんの講演会で知ったというNさんご
夫妻も初参加され、参加者は久しぶりに10人を超える。
西口で記念撮影をして11時2分に出発し、南側の地下道を抜けて東口へ。取手二丁目
の商店街のすぐ背後が台地になっていて、階段を上がると広い境内に堂々たる堂宇が並ぶ
長禅寺(ちようぜんじ)である。
臨済宗妙心寺派の古寺で、朱雀天皇の承平元(931)年に平将門が勅願所として創建
したと伝えられるという。
大本堂のほか、外部は二層だが内部は三層になっていて、本尊十一面観音と坂東、秩父、
西国合わせて百観音が安置された三世堂↑、新四国相馬霊場の結願寺になる八十八番大師
堂、二階が鐘楼になっている山門など、皆見応えある造り。本堂の前には池もある。
山門を下って水戸街道である県道11号に出ると、取手名産という奈良漬の新六本店が
あり、おいしそうな奈良漬けを販売していた。
隣は、杉玉や「取手宿」のちょうちんの下がる、造り酒屋の田中酒造店。
2階が「やねうら画廊」になっているというので、細い急階段を上がって拝見する。
背の低い天井だが、骨組みのむき出た建物は年代を感じさせる造り。新年にちなみ、り
っぱな羽子板やきれいな刺繍を集めた額、中国の文学者、陶淵明(とうえんめい)の五言
絶句と天女を描いたふすま絵などが展示されていた。
県道の少し先に「MEDIA BOX」と呼ぶ骨董(こつとう)店が目に入る。店の前も店内も、
ほとんど外国ものの時計や人形、彫刻、飾り物などが所狭しと並んでいる。
その先の角を曲がり、利根川左岸河川敷に長く伸びる取手緑地運動公園に向かう。途中、
廃業した古い店を活用したらしい、ちょっと新鮮な感じのそば店があった。
運動公園はJR常磐線鉄橋の下から下流に向かって伸びているが、鉄橋近くではテント
が張られ、市民のたこ揚げ大会をしている。
その先では、10数mにもなる高く積んだ枯れ竹の周囲に、市民が持ってきたダルマや
正月飾りなどがたくさん積み重ねられていた。
16時から火を点けて、どんど焼きで燃やすのだという。付近には露店も並んでいる。
市民会館の南側辺りの川辺まで進むと「小堀(おおほり=こぼりではない)の渡し」の
立て札が立っていた。対岸の取手市の飛び地、小堀に向かう渡船場である。
渡船場は上流の運動公園駐車場前にもあり、小堀との間をここと合わせて三角コースで
結んでいる。正午前後には運行が無く、乗船することは出来ない。そばの駐車場際の芝生
地で昼食にする。
さらに枯れアシの続く河岸に沿って進んで、台宿集落からの流れが利根川に流入すると
ころで堤防に上がる。そばに、「海から83㎞」の標識が立っていた。
流れ沿いに進んで車道に出て、吉岡バス停のところで本泉寺裏集落に入り、まずはそば
の浅間神社へ。創建は永禄元(1558)年と伝えられ、江戸時代にこの地、吉田村の氏
神となったとか。
境内北側に、「富士浅間」と「大山石尊」と刻まれた石碑と、読めない字だが山の名を
記した参拝記念碑らしい石碑が並んでいた。
少し北側には字名(あざな)のもとになる本泉寺がある。境内に樹木は少ないが、枯れ
枝の密生したイチョウとサルスベリの古木が目に付く。
吉田小の西を進んで県道11号を横断し、次の青柳集落へ。県道229号に出て、すぐ
東北にある地図上の記念碑マークを確かめたら、「井野村耕地整理記念碑」だった。
青柳一丁目に入って鹿島神社に寄る。寛文13(1672)年の創建で氏子は40戸ほ
ど、こぢんまりとした社殿と境内である。
西南の井野中に向かう途中、畑のナノハナが咲き出していた。
その先の井野小前には除洗作業の看板が立つ。この地にも東京電力福島原発の影響が及
んでいるのだ。
40棟を超える中層住宅の並ぶ、井野団地の真ん中を西に抜ける。井野一丁目の古くか
らの住宅地に上がり、記念碑マークのところに向かうと、近くの交差点に「本多作左衞門
重次墳墓(ほんださくざえもんしげつぐふんぼ)」の標識が立つている。
石塀に囲まれた一角、桜の古木の下に墓石や墓碑が幾つか並んでいた。墳墓は後方の五
輪塔のよう。本多作左衞門の名は知らなかったが、「一筆啓上火の用心お仙なかすな馬肥
やせ」の手紙で有名な徳川の旧臣であると分かった。
重次は家康に仕えて当地で三千石を領し、文禄5(1596)年7月に病没したとのこ
と。お仙とは重次の長男・仙千代のことで、のち越前丸岡城4万3千石の城主になった本
多飛騨守(ひだのかみ)成重(なりしげ)だという。墳墓は県指定史跡である。
台宿二丁目の住宅地に入り、民家の間の細い急斜面を下って下の道に出る。少し迂回し
て西側の台地上にある井野天満神社に上がる。
室町末期の天正元(1573)年2月、祭神である天神様が昇殿された日に京都の北野
天満宮から分霊を申し受けて祭ったという。
参道際にカシらしい古木が大きく枝を広げ、南面には天神様ゆかりの梅畑が広がる。社
殿前には、新しい牛の座像彫刻があり、そばの伐採された木株に、花キャベツが植え込ま
れていた。
西側の取手一高際に出て南進する。高校の運動場でも除洗作業が進められていて、原発
汚染の現実を知らされる。
ゴールの取手駅には14時30分に着く。寒中とは思えぬ穏やかな日和で、日中の気温
は10度を超えたと思われ、寒さを感ぜずに歩き終えることが出来た。
(参加 12人、天気 晴後快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地
取手市、歩数 11,100)
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2012年11月17日(土)
関東百駅巡礼歩行の第89番に参加する。集合はJR吾妻(あがつま)線の川原湯温泉
駅。やまさんと敬子さんご夫妻は高崎駅で乗り遅れて集合時刻後に着き、11時30分に
出発した。
午前中から雨の予報だが、まだ降りそうではない、駅のすぐ西側に八ッ場(やんば)ダ
ムで水没する町並みの上部両側の移転地を結ぶ、県道の「湖面1号橋」と呼ぶ新しい橋の、
高い橋脚工事が始まっていた。
すぐ先で国道145号に分かれ、左手斜面を上がる川原湯温泉の温泉街への道に入る。
分岐際に小さい屋根をかけたお地蔵さんが立ち、傍らにその石地蔵を歌った歌碑があった。
川原湯郵便局に相対する丸木屋という店に入ってみると、土産物が並ぶ店の奥に「樋田
さんへ」と書かれた大きな似顔絵がある。男性グループ「嵐」の大野君が、ロケに来たとき
に描いたものだという。
次のカーブ点に嘉納治五郎別荘跡の表示があるが、空き地になっていて痕跡は何もない。
そのあたりまで上がると、紅葉の残る吾妻川北側斜面の展望が開ける。
こちらの周辺の林にも、色鮮やかな紅葉や黄葉の木々が残り、小さい谷間から、温泉の
湯気が立ち上る。
吾八寿司店の横から戻るように斜面を上がると、「聖天様の露天風呂」と呼ぶ小さな露
天風呂があり、地元の男性2人が入っていた。
聖天様は少し上に祭られていて、何を祈るのか変わったお供えが並ぶ。
玄関横に水車の回る、昔ながらの風情の温泉旅館・山木館には宿泊者の名が並び、いま
も来泊者の多いことが知れる。
共同浴場王湯(おうゆ)↑のそばから左に上がると、川原湯温泉新湯の源泉が湧出して
いて、屋根掛けの新しい足湯がある。源泉の温度は70℃台で、ゆで卵は10数分で出来
るという。
若い二人が足湯につかっていたが、ぱらぱら雨が落ちてきたので、そばの屋根下の足湯
の台を借りて昼食にする。若い人と入れ違いに来た別の二人連れは、王湯で買ったという
卵を源泉に浸していた。
食事を終えた頃には雨は上がった。さらに急石段を上がると、そう大きくはないがどっ
しりした構えの川原湯神社がある。社殿背後のモミジがよい彩り。
その先はダム水没地より上部になり、広いエリアで造成が進んでいる。新しい道路のト
ンネルが出来、眼下には、付け替え後のJR川原湯温泉駅の建設も進んでいた。
高度が上がり、吾妻川対岸の斜面の紅葉の紅葉の眺めが良い。トンネル際には、水没地
から移設したらしい新しい薬師堂が、ポツンと立っていた。
新しい道路の傍らに、取り残されたように古いお地蔵さんが立っている。
「自由にどうそおはいり下さい」と書かれた作業場のような古い建物があった。大きな
冷蔵庫など置いてあるが、現在は使っていないらしい。ちょうどその家の持ち主、Tさん
ご夫妻が来た。
聞くとT乳業の2代目で、ご主人のお歳は92歳。20代の多くを太平洋戦争に従軍し、
満州からシベリアに抑留されて3年間の苦役を経て帰還されたとか。現在は上の大きな建
物で、お孫さんが乳業を継いでおられるという。
その建物の下に、ヨーグルトや牛乳販売の看板があった。建物に上がり呼び出しボタン
を押すと、お孫さんが出てきた。直販のブルーベリー入りヨーグルトを求め、皆でおいし
く味わう。
広い渓谷になっている桜沢も、造成工事が進む。谷をまたぐ新しい橋を渡って下り、少
し迂回して工事中の新駅のそばを進んで、上湯原集落に向かって下って行く。
集落のほとんどは移転し、眼下に1戸だけ平屋の民家が残っていた。
地元の人だけの共同浴場、不動ノ湯↓の前を過ぎ、数本の柿の実る横を通過して栄橋に
出た。
上流に、完成した高い橋脚の橋が横切り、その向こうに独特の山容の丸岩(1130m)
が望まれる。
周辺の山並みや、下流の渓谷も紅葉、紅葉の彩りを残す。下流山腹には、八ッ場ダムの
完成後は水没する温泉街の一角が見える。
国道145号に出て下流に向かう。北岸高みに付け替えた新国道が開通し、こちら旧国
道の交通量は少なくなっていた。
流れの左岸に、柱状節理の岩が龍の寝ている姿のように突き出た、「臥龍岩(がりゆう
いわ)」と呼ぶ大岩が見える。
230万年の昔に出来たものとかで、国の天然記念物に指定されている。
すぐ先の国道の北側壁面には、安山岩の溶岩が流入して出来たという、「昇龍岩」と呼
ぶやはり国指定天然記念物があるが、崩落防止の金網がかけられ、説明板が無ければそれ
とは分かりにくい。
国道の短いトンネルを抜け、線路が迫ったところで線路を横断し、北側の川原畑集落に
入る。7年前に来たときには点在する住宅の間を上がったのだが、いまは移転してしまっ
たのか住宅は無く、跡地らしいのが点々と残っていた。
大イチョウの落ち葉が道いっぱいに埋め尽くされたところを曲がり、三平集落跡まで進
み、上部の付け替え集落からの車道に入る。
対岸の駅近くから伸びる予定の、湖面1号橋の新しい橋脚のひとつがそばに立っている。
対岸には、移設した新しい住宅が等高線上に並んでいるのが望まれる。
右カーブ点まで下ると、下流に現国道の橋が見え、橋を挟んで関東有数の名峡として知
られる吾妻渓谷の、散り残る紅葉の彩りが眺められる。
ダムが出来ると、この紅葉も見ることは出来ないのだ。
駅周辺の家並みや、周辺の紅葉などを見ながら国道まで下る。道路際には、ダム建設に
伴う新しい川原畑地区のまちづくりの、大きな計画図が立っていた。
国道を横断して吾妻渓谷を見下ろす千歳橋を渡り、付近のモミジの彩りも楽しみ、14
時45分に川原湯温泉駅に戻った。
(参加 10人、天気 曇一時雨、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 長野原、歩行地
群馬県長野原町、歩数 10,700)
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まだブログ不調中のウオーキングレポートのうち、アップせずに残っているのがあり
ますが、ここで割り込んで、最新のウオーキングレポートを先に報告します。
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2012年12月8日(土)
9年目の最後、90番目を迎えた「関東百駅巡礼歩行」に参加した。集合地は、真岡
(もおか)鐵道の終点・茂木(もてぎ)駅のひとつ手前、天矢場(てんやば)駅。
集まった6人は無人の駅ホームで記念撮影をして、10時46分に駅を後にした。
駅東側の踏切を渡り、散在する大塚集落を折り返すように進む。国道294号を跨道
橋で渡り、新しい住宅地の横から林間へ。
車の心配の無い広葉樹林の間を進み、サツキや針葉樹の樹木畑の横を過ぎると、リン
ゴ畑が現れた。永嶋リンゴ園で、まだたくさんリンゴが残る木もあるが、鳥に食べられ
た実もある。
二つあるリンゴ畑には、たわわに実るカリンの木が1本ずつ立っていた。
そばの坂井集落には、かやぶき屋根に赤いトタンを被せた家が多く、ひと昔前の農村
風景が広がる。屋根上をかさ上げして小さい屋根のある、たばこの葉の乾燥小屋だった
らしい建物も残っていた。
谷地田の間を東西に貫く坂井川沿いに出て、右岸の堤防沿いに進んだが、500mも
行かぬうちに荒れた雑草地で通過できなくなり、戻って北側の車道に回る。
国道294号を横断して「揚げたけころっけ屋」の横を通過し、すぐ先の田谷集落で
茂木の中心街に伸びる同じ国道294号に入る。
りっぱな長屋門が見られ、近くの高台にあった小さいお社のそばで昼食にする。
そば民家には、木組みで囲んだ珍しい造りの土蔵があった。
昼食後、国道を茂木駅に直行するというKさんと分かれ、田んぼの南側に回る。乾い
た田んぼやのどかな集落、冬枯れ近い里山などを眺めながら進み、幼稚園の横から国道
に戻った。
近くのT字路で国道に分かれて、北東に緩やかに上がる車道へ。
がっちりした家畜小屋の横を通過し、↓電子基準点のそばから、北側高台の並松運動
公園に上がってトイレを借りる。
公園の西側には、子ども用の遊具も並んでいた。
公園の東端から東に下って谷間を走る車道に入る。
少し先で谷地田と山林の間の草の伸びた農道を進み、小井戸集落でV字状に折り返し、
南に延びる谷地田沿いへ。
この道は、15年前の1997年11月、烏山から茂木へのカントリーウオークグル
ープの1泊2日のウオーキングのときに、大瀬のやな場や鎌倉山を経て歩いた道筋。
谷地田の横の農道を少しずつ上がって行くと、当時のことを思い出す。
谷地田が尽きて杉林の間を上がり、V字状に折り返して行くと、落ち葉をいっぱい詰
めた竹かごがあった。
いまはあまり見られぬが、40年以上前には里山でよく見られた懐かしい風景だ。
「関東ふれあいの道」の道標が現れたところで、もう一度V字状に折り返す。
色づいたクヌギ林を抜けると東側の展望が開け、冬枯れが近い緩やかな山並みが広がる。
右手の、スギやカシなどの古木に囲まれた薄暗い神域に、荒橿(あらかし)神社が祭
られていた。
大同元(806)年9月、茂木桔梗(ききよう)城主の鬼門除社として創始され、延
喜5(905)年には醍醐天皇の勅撰により延喜式に名を載せられ、式内社として下野
十二社の一つに数えられたという古社である。
社殿の左手にはご神木のカシの古木が立ち、南側には西暦1500年代の建立と推定
されるという三重塔があったが、すっかり朽ち落ちて初重部分だけが保護屋根の下に姿
を残していた。
小休止後、神社の南に出て西北に向かって下り、館集落を西に抜ける。高原状の台地
にある畑の間を抜けて、神社の西南側、桔梗山のピークにある城山公園に上がる。
鎌倉幕府の有力御家人、八田知家が奥州藤原氏討伐の功により源頼朝から下野国茂木
郡を賜り、三男知基がここに城を築き茂木氏を名乗ったところ。以後、16代400年
にわたり茂木氏の居城となり、慶長15(1610)年に廃城になるまで続いたという。
北側の芝生広場から入り、空堀を結ぶ知基橋を渡ると、南側眼下に茂木の中心街が一
望。茂木駅付近からは、発車間近のSLの白煙が立ち上っているのが見える。
橋の横に葉を落とした大イチョウが立ち、その先はソメイヨシノの古木が並んでいる。
「姫ノ望楼」と呼ぶ木造の展望台の横から、まだ花の見えないスイセンが広がる斜面
などを、ジグザグ状に桔梗町に下り、百騎橋を渡る。橋のそばに、逆川大洪水の洪水推
移を示す標柱が立っていた。
それによると、昭和61(1986)年8月、台風10号による集中豪雨で、逆川流
域の茂木町一帯は、浸水家屋1,200戸の大きな被害を受けたことが記されていた。
橋の横から支流沿いに次の橋際まで行き、町の中心街を貫く国道123号に入って駅
に向かう。通りの電柱にも洪水時の最高水位が記されている。
通りには、格子戸の造り酒屋や、旅館、糀店など、古い木造の建物が見られ、八雲神
社と相対して、NPOが運営する小さな観光PR拠点もあった。
ゴールの真岡鐵道の終点、茂木駅には15時ちょうどに着いた。駅舎に接する無料休
憩施設「ききょう館」でお茶を接待いただき、15時22分発下館行きに乗る。
(参加 6人、天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 茂木、歩行地 栃木
県茂木町、歩数 19,200)
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2012年10月6日(土)
第88番目となった関東百駅巡礼歩行に参加する。集合は埼玉高速鉄道の戸塚安行
(とづかあんぎょう)駅。地下ホームから改札を出て、道路に上がって記念撮影後、
11時3分に出発した。
西に向かい、県道103号を横断して小さい流れ沿いに進む。流れは周辺の民家の
雑排水で汚れている。
標識に従い公園を抜けて段丘上に上がり、西福寺(さいふくじ)に入った。
弘仁年間(810~24)に、弘法大師が創建したと伝えられる古寺。境内には、
三代将軍家光の長女千代姫が奉建した三重塔があり、元禄6(1693)年の建立と
いう。高さは23mあり、埼玉県下で一番高い木造建造物とのこと。
正面にある観音堂には、西国、坂東、秩父札所の百観音が安置されていて、ここに
参詣すれば、百か所の観音霊場をお参りしたと同様の功徳(くどく)があるとされて
いる。
境内ではほかに、延命地蔵堂や↑チャボヒバの古木が目についた。入口近くには標
高17.5mの三角点が埋設されている。
寺を出て南西へ。赤芝新田の林や雑草地、樹木畑などの間を進み、外環道の近くか
ら北に回って行くと、谷を隔てて西福寺の観音堂や三重塔が望まれる。
モダンな外壁の体育館がある戸塚西中前を通過して、石神集落に入る。「ご隠居長
屋 和楽久」と呼ぶ、間もなく開設するらしい和風建築の高齢者向け住宅が出来てい
た。
その先のコブシには、もう来春のつぼみがふくらんでいる。
東北自動車道を跨道(こどう)橋で越えて、源左衛門新田集落に入る。乱雑に立ち
並ぶ住宅地を進んで西側の木曽呂集落へ。昼食を予定していた薬王寺に、東側の車道
から入った。
本堂は、近代的なコンクリートづくり。うっそうとした常緑広葉樹に囲まれた境内
では、葬儀を終えて出棺前の学校関係者らしい人たちがいっぱい。昼食する訳にはゆ
かないと、南側の山門をくぐり階段を下って寺を出た。
西の段丘下に回って見沼代用水(みぬまだいようすい)東縁(ひがしべり)に入り、
橋のそばにあったベンチに腰を下ろして昼食をする。
午後は、外環道の南を進んで新井宿(あらいじゆく)駅がゴールの予定だったが、
変更して見沼代用水沿いの「緑のヘルシーロード」を北に向かう。
交通量の多い県道103号を横断して、国史跡に選定されている見沼通船堀(つうせ
んぼり)の東端に行く。
代用水東縁の木々の向こうに、「木曽路の富士」と呼ぶ富士講の信者により作られた
大きな人口の富士山が望まれる。
見沼通船堀は、享保16(1731)年に幕府勘定奉行の井沢弥惣兵衛(いざわやそ
べえ)によりつくられたわが国最古の閘門(こうもん)式運河。東西の見沼代用水と芝
川とを結び、芝川との水位差が約3mあるため、関を設けて水位を調節して船を上下さ
せた。
通船堀を通って江戸に運ばれたのは、年貢米や野菜、薪炭、酒など。江戸からは肥料
や塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれたという。
今は水の少ない通船堀の桜並木の下を西縁に向かうと、東縁第一の関があり、そばに
通船の仕組みの説明板が立っていた。
芝川↑を渡って県道103号に出て、見沼通船堀の差配役を努めた鈴木家住宅に行く。
公開日だったので裏庭に回り、納屋や復元したひらた船などを観覧した。
裏庭のヒガンバナが見頃になっている。
県道を少し進んで通船堀に戻り、先に進む。こちらにも西縁一の関と二の関が復元さ
れている。
見沼代用水西縁が近づき、モウソウチクの林の中の遊歩道を進んでたけのこ公園へ。
厚くなってきた雲から少し雨が落ちてきた。
当時の通船の様子を浮き彫りにした絵を掲げた西縁の橋を渡り、ゴールのJR武蔵野
線東浦和駅には14時5分に着いた。
(参加 5人、天気 晴後曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地
川口市、さいたま市緑区、歩数 10,200)
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先週は、昨年作成するつもりで遅れていた資料づくりに追われ、5日間ブログ投稿が
できませんでした。ようやく7日(金)に、とりあえずだけの部数を作成したので、そ
の一部を持って昨日、関東百駅巡礼歩行に出かけました。
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2012年9月8日(土)
「やまさん」こと山浦正昭さんの、関東百駅巡礼礼歩行の第87番に参加した。集合
は横浜高速鉄道の終点、こどもの国駅。終点といってもこの線は、東急田園都市線長津
田駅に接する始発の長津田駅と途中の恩田駅を入れて3駅しかない。
この線は、線路を保有するが運送は行わない第三種鉄道事業者の横浜高速鉄道が車輌
も保有し、運送を任せる第二種事業者の東急電鉄に貸し付けているのだという。時刻表
では、東急こどもの国線となったいる。
無人駅の改札前で記念撮影をして、10時55分にスタートした。
駅前には、こどもの国の来訪者用の広大な駐車場があるが、残暑の今日はガラガラ。
恩田川の支流、奈良川沿いの、空き家や雑草地のそばを進んで、横浜市奈良地区センタ
ーのそばで県道139号を斜めに横断する。
横断したところに掲示板があり、千葉県の養老渓谷を歌った歌手の写真入り、いすみ
鉄道のポスターがある。この地とどういう関係があるのだろうか…。
少し進むと谷間に、黄金色に色づいた田んぼが残っていた。
路傍にヒャクニチソウやキバナコスモスなどの咲く、静かなたたずまいの道沿いには、
趣ある民家も見られる。
谷間を上がって行くと、TBS緑山スタジオの広大な敷地に大きな建物が建っていた。
スタジオの西側上部を走る県道139号に出て、建物や構内を見下ろしながらプラタナ
スの緑陰の続く歩道を緩やかに上がる。
信号のある交差点を左折してすぐの緑山バス停のそばに、昨年の東日本大震災の鎮魂の
碑と、やはり新しい三界萬霊供養塔が立っていた。
右手下に広がる柿畑などを見下ろしながら進み、このあたりの最高点、標高84m水準
点の三差路から北に向かって下る。
行く手の谷間に、小田急鶴川駅周辺らしいビルや建物が見下ろせる。その周辺には緑も
多く、気持ちよい展望が広がる。
そばに、津久井納豆の原料になる「大豆栽培実験農場」の表示があり、よく茂った大豆
のうねが並んでいた。
ここは川崎市麻生区の飛び地で、東西、南北とも1㎞余りのエリアの大半は岡上(おか
がみ)の営農団地。地形図上は果樹畑マークが多い。
北に向かって緩やかに下がって行くと、イガの大きくなった栗畑、紙袋で身を包んだリ
ンゴ畑、イチジクの木や柿畑などが続いている。
路傍のあちこちに咲く色濃いクズの花を眺めながら進み、大規模な温室の近くから東側
に回る。
柿畑の多い一角に瓢箪(ひようたん)農場があり、何種類かのヒョウタンが大小の実を
付けていた。
再び県道139号に出てそばの岡上神社に入り、社殿の周辺で昼食にする。
この境内も高台なので、北側眼下に鶴川駅周辺のマンション群などの展望が得られる。
境内の小さな建物に、シンボルも刻んだ金勢(こんせい)大明神の石碑が立っていた。
ちなみに岡上神社は、明治42(1909)年に岡上村内にあった5社を、村の中央の
諏訪神社境内に合祀したとのこと。岡上村は歴史的に柿生村(かきおむら)との結びつき
が強く、ともに川崎市への合併を選び、飛び地になっているのだという。
神社に接する墓地を下って岡上小の校庭の南側に回ると、「丸山」と呼ぶ岡上小の学校
林がある。
広葉樹と竹林に覆われた山林の斜面を進んだが、道が途切れた。でも、すぐ下に見えた
西側の旧道に下りられ、岡上小の校門前に出る。
折り返すように南に向かう。眼下の畑には何色かのケイトウが並び、その先では頭を垂
れた稲田が、秋近しを感じさせてくれる。
次の斜面に向かって緩やかに上がる道は午後の日差しが暑く、ミンミンゼミが賑やかで
汗が止まらない。ポッカリ浮かぶ雲も、まだ夏の様相を見せている。
岡上の北西端あたりの稜線に上がり、北に下る途中にウッディな民家があった。写真を
撮ったりしていたら奥様が顔を見せ、岡上を巡る市のウオーキングコースがあることなど
を話してくれた。
その先の斜面は、緑が多く古い民家も残り、趣あるお地蔵さんが小さなほこらに立って
いた。
鶴見川の南に平行する車道に出てすぐ先を左折すると、工場直送のとうふを販売する酒
店がある。
鶴見川の大正橋を渡り、左岸沿いに進む。駐輪場の近くに「工楽室」と呼ぶ民家風の建
物があり、道路に面して10個余りガラス張りのケースが並んでいる。
のぞくと、中には傍らの小さな太陽光発電の省電力で回る手作りの玩具が入っていて、
ミニ石臼が粉をひいたり、夫婦で酒を汲み交したり、金属製の大蛇がとぐろを巻いたり、
小鳥がえさをついばむなど、遊び心たっぷりでユニークな作品ばかりだった。
川の南側を眺めると、今通過してきた学校林の上あたりに、大きな白雲がわき上がって
いる。
変種のヒガンバナのような花の咲く横を通過して踏切を渡り、ゴールの小田急線の鶴川
駅には、13時45分に着いた。
(参加 6人、天気 晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 原町田、歩行地 横浜市
青葉区、川崎市麻生区、町田市、歩数 10,100)
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2012年7月28日(土)
きょうも猛暑の予報だが、「関東百駅巡礼歩行」の第86番に参加した。集合は多摩
都市モノレールの甲州街道駅。参加メンバーは改札口の近くで記念撮影をして、11時
2分に出発した。
都道503号線上の高架を走る駅を下りて、住宅地を北東に向かう。多摩川右岸近く
の道路際に、赤松などの緑に覆われたりっぱな住宅があった。
そばのY字路から多摩川の右岸堤防に上がる。上流すぐに都道256号線の日野橋↓
が、下流には中央自動車道の多摩川橋が望まれる。
堤防下に桜並木の続く右岸を下流へ。中央自動車道近くまで進むと「万願寺渡船場跡」
の説明板があった。
慶安年間(1648~51)に甲州街道の道筋変更で、ここに満願寺の渡しが設けら
れ、日野橋が開通する大正15年(1926)まで利用されたという。
近くには「海から39㎞」の標識もあり、中央自動車道の下を過ぎ、満願寺一丁目で
川を離れた。
コンクリートブロック護岸だが水のきれいな根川を渡り、日野下田郵便局横を通過し
て、モノレールの次の駅、万願寺(まんがんじ)駅下を西に抜ける。
国道20号バイパスに入り、すぐ先で南の石田二丁目にある土方歳三(ひじかたとし
ぞう)資料館に行く。
日野市は新選組のふるさとで知られ、ここは副長土方歳三の生家。文久3年(1863
京都に上洛するまで青春時代を過ごしたという。
門を入ると土方歳三の胸像があり、母屋は改装工事中だった。
現在も土方家の方がお住まいで、公開は第1、3日曜の12時から16時までである。
近くには土方姓のりっぱな屋敷が多いが、その一角の猫の糞害に憤慨している家に、
飼い主へ注意をうながす大きな看板が二つ出ている。糞害に困ることは理解できるが、
もう少し表現に工夫があってもよいように思われた。
その先、浅川左岸沿いにあった石明(せきめい)公園に接した石明神社に12時10
分に入り、緑陰で昼食をする。
20分ほどで出発し、浅川左岸堤防を上流へ。
500mほどで歩行者のみ通れる吊り橋、ふれあい橋のところまで進み、北側の浅川
スポーツ公園を横切る。
公園内では、暑さをものともせず少年達がサッカーの練習中。隣接する大木島(おお
きじま)自然公園は広葉樹が伸び伸びと枝を広げ、よい緑陰を残していた。
満願寺六丁目の住宅地の一角に、小さい風車や陶器製の飾り物、ミニカーなどをたく
さん庭に並べたお宅がある。
その角を北に折れ、国道20号日野バイパスを横断する。交差点際には、新しい和菓
子店が出来ていた。
北に少しで、背の高いクロマツやヒノキに囲まれた別府神社に入り、水分補給を兼ね
て小休止する。
神社の背後の細道を抜けて、宮集落の真ん中を貫く旧道を西に向かうと、りっぱな長
屋門と土蔵の並ぶS家があった。
西側にはケヤキの高木が並び、何台も続く旧家であることが知れる。
日野郵便局の北で、南北に走る川崎街道を横断し、川辺堀之内と神明一丁目との境界
になる緩やかなカーブの旧道を進む。南側の住宅に囲まれところに、わずかだが田んぼ
が残っていた。
旧道が突き当たった斜面は「神明第7緑地」と呼ぶ広葉樹林。
遊歩道を上がると高台に出て東側の展望が広がり、先ほどそばを通過したふれあい橋
や、モノレールの高架などが一望できる。
北側斜面にも、「神明第1緑地」と呼ぶ広葉樹の斜面林が残っていた。
実践女子短大の東を進んで神明四丁目に入り、新選組のふるさと歴史館が今日のゴー
ル。13時35分に着き解散となる。
全員歴史館に入館し、各々のペースで新選組についての常設展示や、新選組から分か
れて結成された庄内ゆかりの新徴組に関する特別展示などを観覧する。
私は14時にふるさと歴史館を出て、最寄りのJR日野駅に向かう。西側の市役所通
りから中央自動車道南側の側道に入り、中央道を陸橋で横断する。
日野本町三丁目のカーブ点にあった矢の山公園には、明治の重鎮、山県有朋(やまが
たありとも)や乃木希典(まれすけ)などが揮ごうした記念碑が並んでいた。
坂を下りJR中央線沿いに出て、駅に近い宝泉寺に寄る。本堂は平成13年落慶とい
う堂々たる建物。
その左手に、新選組副長助勤(じょきん)・六番隊長で、鳥羽伏見の戦いで戦死した
井上源三郎の墓がある。
そばのJR中央線日野駅には、14時24分に着いた。
(天気 晴、距離 7㎞(日野駅まで)、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 日野市、
歩数 13,200)
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2012年5月12日(土)
関東百駅巡礼歩行の第85番に参加した。集合は山万ユーカリが丘線の女子大駅。
山万ユーカリが丘線は、京成本線のユーカリが丘駅に接し、北側に広がるニュータウ
ンの中を、テニスのラケットのような路線を反時計回りで運転される、全長4.1㎞の
モノレールである。
無人で、トイレもない女子大駅に集まったのは9人。記念撮影をして11時5分に出
発した。
地図を見ても女子大らしいものはない。それもそのはず、駅北側にセミナーハウスと
グランドのある和洋女子大が駅名のもとらしい。ちなみに、女子大の手前の駅名は公園、
次の駅名は中学校で、いずれも固有名詞はついていない。
そのセミナーハウス↑の南側を進んで、西ノ作集落に下る。駅から数分でニュータウ
ンとはうって変わり、日本の原風景を思わせる昔ながらの住宅や田んぼが、新緑みずみ
ずしい木々に囲まれている。
谷地田(やちだ)の間を抜けてモウソウ竹の多い林間の谷間を上がり、次の小竹(お
だけ)集落にあった西福寺へ。
参道に秩父三十四番供養塔や十九夜塔が並んでいる。近くに居られたご住職?の話で
は、十九夜講の集まりや秩父霊場巡りには、近在の奥様方が参加されているという。
田植えの済んだ田んぼでカエルの合唱が賑やか。
手繰川(たぐりがわ)のそばの田んぼで、10数人の人が入って田植えの準備をして
いる。その中の一人の女性が来たので聞くと、不耕起(ふこうき)移植栽培という農法
を実践しているグループとのこと。
不耕起移植栽培とは、イネを野生化させ病害虫や冷害に強いイネ作りで、農薬や化学
肥料は一切使わず、耕さないので省労働、省エネ、省コストになり、人にも環境にもや
さしい農法だという。
さらに、冬場に水を張ったままにすることで生きものが増え、水を浄化し、田んぼ本
来の環境が復元されるとも言われた。
田んぼと山林との間を西北に回り込み、西ノ作集落の北側まで行く。田のあぜ道を小
竹川(こたけがわ)のそばまで進んで、やわらかなあぜ草に腰を下ろして昼食にした。
ときどき近くでキジの鋭い鳴き声が聞こえる。声の方を探したら、向こうのあぜにキ
ジの姿が見えた。
食事を済ませ、凸凹があって少し歩きにくい小竹川沿いのあぜ道を東に回り、橋を渡
って北側を西印旛沼に接する広々とした田園地帯に出た。
シャベルカーが数台入って、田んぼを浚渫(しゆんせつ)している。大規模農地への
転用を図っているのだろうか…。
西印旛沼のそばまで進んで、小竹川と手繰川とが沼に流入する新先崎(しんまっさき)
橋を渡る。流れに小舟を浮かべ、釣りをしている人も見える。
西印旛沼南岸には桜並木が続き、その横をサイクリング路が平行している。
ときどき高速で数台の自転車が通過するので、湖岸の新しい堤防に上がって東進する。
湖畔の芦原ではヨシキリが賑やか。
沼を南北に縦断する県道64号の舟戸大橋南岸際にかっぱ公園があり、かっぱが立っ
ている。
県道の西側は千葉県内水面水産研究センターで、入口近くには「舟戸の渡し跡」碑が
ある。
南西に緩やかに上がり、八幡台一丁目の住宅地の手前から東に下ると、舟戸の古くか
らの集落。斜面林そばの細道を抜けて次の家並みに入るところに、朽ちかけたかやぶき
の納屋が残っていた。
その先の台地上は臼井城址(うすいじようし)公園。千葉氏の一族臼井六郎常康が臼
井に居を構え、14世紀の中頃、中興の祖といわれる輿胤の代に、この城の基礎がおか
れたと伝えられているようだ。
北側から本丸跡に上がると東側の展望が開け、西印旛沼周辺の展望が気持ちよい。
空堀を通過して新緑に囲まれた芝生広場になっている二の丸跡を横切り、南口から公
園を出た。
近くの三差路際の盛り土上に、太田図書の墓がある。
室町中期、千葉氏一族は古河公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれ
て争った。文明11年(1479)正月、道灌の弟太田図書と千葉自胤の軍勢が臼井城
を包囲したが、城兵が討って出て戦いとなったときに、図書ほか53人がこの地で討ち
死にしたことが記されていた。
星神社の前から、台地上の住宅地を真っ直ぐ延びる道を1㎞ほど南進し、東に下って
国道296号に出る。
そばの宗徳寺には、江戸時代の大関、雷電為右衛門の墓があるというが見つからない。
帰宅後調べたら、通過した台地上の臼井台の、臼井西中の南東、妙覚寺の近くにあるよ
うだ。
国道東側にある集合住宅の横を上がり、稲荷台一丁目の住宅地を進んで、ゴールの京
成臼井駅に14時56分に着いた。
(天気 晴、参加 9人、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 佐倉、歩行地 佐倉市、
歩数 13,700)
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2012年4月28日(土)
関東百駅巡礼歩行の第84番に参加した。集合駅は、鹿島臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒
(しおさい)はまなす公園前駅」。駅名の長さ13字は、九州・南阿蘇鉄道の「南阿蘇
水の生まれる里白水高原駅」の14字に継ぐ日本第2の長い駅名である。
集まったメンバーは駅名標の前で記念撮影をして、11時35分に出発した。
駅名になっている公園は駅から東に700mほどにあるが、やまさんの設定したコー
スは西側を歩くことにしている。
商店は無く人家も少ない駅前に、「みちくさ小屋」の標識の出た新しい建物がある。
無人だが管理人に連絡すると、グループの集会などに有料で利用できるようだ。
線路をこ道橋で越えた北西側には、こんな閑散なところで商売になるのだろうかと思
われるレストランがあった。
直線で延びる線路に平行する県道242号を越えて棚木(たなぎ)集落へ。畑と平地
林とが適度に混在し、林にはカラマツが芽吹き畑にナノハナやタンポポが咲くところに、
新しい住宅がポツポツと増えている。セカンドハウスも結構ありそう。
地図上の道が林で途切れ、畑の隅を回って市営第二球場の横に出る。その先も新興住
宅地が続き、ある家にはペットボトルを加工した風車がたくさん回っていた。
松苗をびっしりと育てている広い苗木畑の横を進み、中村集落に入る。こちらは古く
からの集落のようで、緑も多い。うっそうとした常緑広葉樹に囲まれた椿神社に入った。
簡素ながら荘重な本殿は江戸時代初期の造りらしい。
境内には適当な場所がないので社林の北側にシートを広げ、きのうの雨で湿った畑か
ら上がる湯気を眺めながら昼食にした。
20分余りで食事を終え、12時45分に神社を出る。近くの民家のモミジが色鮮や
かな彩り。
集落の中ほどに、本堂がコンクリート造りの宝幢院があった。鹿嶋市指定文化財で絹
本着色(けんぽんちやくしょく)の「釈迦十六善神図(ぜんじんず)」が所蔵されてい
るという。
集落の多くの民家にはマキの生け垣が多く、屋敷林も豊富で落ち着いたたたずまいを
見せる。
りっぱな瓦屋根の家もあちこちに見られるが、昨年の東日本大震災で被災したらしい、
ブルーシートに覆われた屋根もあった。
集落の西北端にも、宝幢院と同じ彩りで同様なコンクリート造りだが、小さめのお堂
の寺があり、道路際に常緑広葉樹の高木が立っていた。
集落を出て北西に回り込んで下ると、北側の山ろくに3つの大きな建物が見える。
田園地帯を横切りそばに行ったら、「鹿嶋斎苑」と呼ぶ市の斎場。閑散としていたが、
維持費がかなりかかりそうな大きな施設だ。
隣接する広場には、3つの石材店の名で、新しい石仏が見本のように並んでいた。
サギの休む田んぼと斎場背後の丘陵との間の農道を進む。西側の田んぼの向こうに北
浦が望見できる。
田には水が入っていて、連休中には田植えが始まりそう。
車道の三差路際に「景清の松復元記念碑」と記されたりっぱな記念碑が立ち、小さい
松が背後に植えてある。
文治4年(1188)、壇ノ浦の源平合戦で戦った平景清(たいらのかげきよ)が、
娘の人丸に守り本尊の十一面観音菩薩を託し、源平合戦の犠牲者慰霊と世の平和祈願を
命じた。人丸はこの地に着いたが本尊安置場所がなく、松の老木の根元に仮宮として仏
像を安置し、のち出家して妙庫比丘尼(みょうこびくに)となり、近くの大福寺を創建
したという。
景清の松は昭和47年(1972)8月の台風14号で倒され枯死したが、平成元年
に2代目の松を植樹してこの記念碑を建立したようだ。
そばのふた付きコンクリート孔内に、標高10.5mの四等三角点が残っていた。
車道の北側から、北東に延びる谷間を進む。地図上は田んぼだったところだが、休耕
田となり田は数枚しか残っていない。
休耕田の一つに、たくさんのサツマイモが捨ててある。福島第一原発の放射能の影響
で廃棄したものらしく、もったいない。周辺の広葉樹林の、軟らかな新緑とは対照的な
悲しい風景だ。
行き着いたところに静かな沼があり、ここも周辺の新緑がやわらかな彩りを見せる。
車で来た何人かが、ブラックバスを釣るのだと釣り糸を水面に下ろした。
記念碑のところまで戻り、東側の棚木集落に向かって緩やかな斜面を上がって行くと、
記念碑に記された大福寺の山門が見えてきた。
妙庫比丘尼が文治5年(1189)に創建した寺で、本堂に祭られた十一面観音菩薩
座像は、県指定文化財だという。
本堂の左背後に、人丸の墓である「妙庫塚」がある。
寺で小休止後、東側の道路に出て北に進んで小見集落へ。植木園に色鮮やかなモミジ
の新録が、畑のあちこちにはナノハナが咲き、民家の庭先の枝垂れモモが咲き始めるな
ど、春色がいっぱいである。
このあたりには桑畑も多く、手入れされていて養蚕農家も残っているようだ。桑の木
には、若葉の下に花芽がいっぱい付いていた。
ナノハナの横を何か所か過ぎ、集落が終わると道はうっそうとした竹やぶの間に入る。
少し迂回して点在する春秋集落を抜ける。
離山集落の民家の一つでも、色鮮やかな2本のモミジが目につく。
県道242号を斜めに横断し、ゴールの鹿島大野駅には15時20分に着いた。
午前中は曇っていて東風が少し冷たかったが、午後になってすっかり青空が広がり、
連休らしい暖かさになった。
(天気 曇後晴、参加 5人、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 武井、歩行地
鹿嶋市、歩数 17,200)
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2012年3月10日(土)
「関東百駅巡礼歩行」の第83番は、東武宇都宮線のおもちゃのまち駅。家を出ると
きは雨、東京都内では雪だったとのことだが、出発の11時にはほぼ止んでいた。
記念撮影後、西口を出て広い通りの県道2号を横断する。あけぼの町に入ると、畑や
広葉樹の平地林が広がる。
町外れの「あけぼの公民館」に、絵や絵手紙などの展示をしているとの掲示があった。
「見て行きませんか」と声をかけられたので、入って見せてもらう。
近隣を描いた洋画、高校時代から描いている絵手紙、材料造りからしているという竹の
工芸品、46歳で始めたという書の4人の作品。各々10点足らずだが、いずれもなかな
か味わいのある作品。お茶と菓子も頂いて公民館を出た。
この冬の寒さで遅れた、近くの紅梅もようやくつぼみがふくらんでいる。家並みが途切
れた県道71号のそばで右折し、田んぼの東側の交通量の少ない車道を北に向かう。田ん
ぼの向こうには、杉やケヤキなどの斜面林が続いている。
中ほどまで進むと、右手台地の向こうに、獨協医科大の大きな建物が見えてきた。田ん
ぼの真ん中を貫く用水と合し、用水沿いを少し進んで橋を渡り、中坪に向かう。
台地に上がった畑の中、ブロック積みの小屋の横に標高80.5mの三角点があった。
普通の石の三角点と違い、少し細い柱状の角柱が50㎝くらい上に出ていた。
天気が回復して、北方にごつごつした独特の山容の山並みなどが見えてきた。中坪集落
の民家の幾つかに、近くの宇都宮市大谷(おおや)特産の大谷石造りの土蔵が見られる。
集落の中心にある宝光院へ。墓地に、日露戦争のときの「徴馬(ちようば)記念碑」や
「馬力神」碑があり、この集落に昔は馬が多かったことが知れる。
東側の木造の宝蔵庫には、町文化財「助谷(すけがい)の天棚」が収蔵されているよう
だが、どんなものなのかは分からない。ご住職の奥様に断り、本堂前で昼食にした。
食事を終えた後、やまさんが用意してきた関東1都6県の影絵を1枚ずつ渡し、どの都
県か当てるクイズがあり、7人が都県名の画用紙の上に並べる。
見慣れているようでも案外、県を間違えたり方位が違ったりするものだ。
12時50分に寺を出て、西に向かう。かやぶき屋根にとたんを被せた家の見える西坪
集落を通過し、排水路工事中の田んぼを横切る。
南側の台地に上がると、鹿沼土(かぬまつち)を貯蔵する2つのビニールハウスがあっ
た。まだ枯れ枝の広葉樹林を進んで、広い墓地になっている聖地公園の東側を通過する。
県道172号に合するところに、使い古した石やレンガ、ブロック、石臼などの並ぶ一
角があり、煙突のある小さな洋館が立っていた。
ちょうど家主さんが顔を出したので立ち寄る。「グリーングラス」と呼ぶ、手作りのぬ
くもりを感じさせるエクステリアとガーデンデザインのショールームで、喫茶もできると
いう。時間が無いのでパンフレットを頂いただけで出た。
県道172号の南側一帯が壬生(みぶ)総合公園。「とちぎわんぱく公園」と「壬生町
おもちゃ博物館」、『みぶハイウェイパーク「道の駅みぶ」』の三つの施設がある。
北入口広場から古木のリンゴ並木を進んで、顔のような形のわんぱく公園の正門を入っ
た。
枯れ枝のままの広葉樹の並木や池のほとりを回り、まずは東側の「おもちゃ博物館」に
行く。
館内は3月下旬までリニューアル工事で休館中だが、玄関を入ったホールは開放されて
いて、子どもさんが大小幾つかのおもちゃで遊べるようになっていた。
中心の虹の広場に戻り、西側の建物、「こどもの城」の方に向かう。電子音の蒸気を鳴
らして、園内を巡る色鮮やかなSLスタイルの「わんぱくピッピ号」と呼ぶ遊覧車がやっ
てきた。
「こどもの城」を囲む植え込みに、大きな恐竜の模型があり、館内にも優しい形の恐竜
の滑り台がある。ガラスドームの館内は温室のように暖かく、下の広場で子どもたちが遊
具などで遊んでいた。
クロッカスの咲き出した横を通過し、南側の「ぱなぱなのまち」へ。中庭を挟んで売店
やレストランがある。そばのメルヘンファームに回り、メルヘンハウスにて休憩して、今
日の参加メンバー各々の紹介をした。
「風の原っぱ」と呼ぶ広い芝生広場を通り、たくさんのカモが休む「冒険の池」の東側
から南に回りこむ。東側の木々の中に、マンサクが咲き出していた。
芝生の斜面にいろいろな形の石の並ぶ「ガリバーの山」の横を通過して、ワンパク公園
の南西端から県道71号に出た。
南側が「道の駅みぶ・ハイウェイパーク」。構内を抜けて北関東自動車道への取り付け
道路に入り、自動車道下のトンネルをくぐって南側の畑に下る。
麦畑などの横の農道を南東に進んで南坪集落へ。ちょうど自宅に返ってきた80歳とい
うKさんに会い、自宅の南側にある納屋の、たばこの乾燥に使ったという煙出し屋根のこ
となどを聞く。
南坪集落の東側の田んぼと広い用水路を横切り、台地に上がる。
桑畑や放棄ゴミの目につく林を抜けて、落合二丁目へ。郵便局の近くで、おもちゃのま
ち駅近くに車を止めてきたという小山市のKさんに分かれ、15時37分にひとつ南の国
谷(くにや)駅にゴールした。
(天気 曇、参加 10人、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 壬生、歩行地 壬生町、
歩数 14,100)
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2012年2月18日(土)
「関東百駅巡礼歩行」の第82番に参加した。集合地は、前橋市の東部にある上毛電鉄
心臓血管センター駅。始発の中央前橋駅からは6つ目になる。
上毛電鉄は、中央前橋駅と西桐生駅を結ぶ全長25.4㎞の路線。開業は昭和3年
(1928)だが、私は初めての乗車になる。
この駅の前身は、昭和43年(1968)12月に設けられた前橋病院前信号所。平成
6年(1999)4月に循環器病センター駅となり、平成13年(2001)6月に、現
在の心臓血管センター駅に改称したという。
中央前橋駅発、2両編成の後部車輌は自転車持ち込みが出来る。心臓血管センター駅に
は駅舎は無く、島式ホームだけ。今日の参加者は9人。駅前で記念撮影をして、11時5
分にスタートした。
晴れてはいるが、赤城おろしが強く吹き付けていて冷たい。前橋の最高気温は3℃の予
報だが、強風で体感温度はかなり低そう。
駅名となっている、群馬県立心臓血管センターの大きな建物は、北側に立っていた。
線路を挟んで流れる寺沢川沿いに、「ぐんまリハビリパーク」と呼ぶ遊歩道があり、セ
ンターの方の歩行中心のリハビリテーションのほか、一般市民も利用できるようになって
いる。
遊歩道からセンターの北を走る車道に出ると、少し雲をまとった赤城山が、大きな裾野
を広げてそびえ立つ。近くに、寺沢川とかんがい用水路とが立体交差していた。
東側の勝山集落に入る。西に、榛名山の起伏に富んだ山容が望まれ、その左(南)には、
少し霞んで西上州の山並みも見える。
かんがい用の池があり、普段見慣れているのよりかなり太ったカルガモが20数羽、風
を避けていた。岸辺にえさ箱があり、これがメタボの原因と分かる。
古い双体道祖神や寛政年代(1789~)の馬頭観音などが並ぶ横を通過する。このあ
たりは地図上に桑畑記号が多く、群馬県は養蚕の本場だっただけに、まだ桑畑が何か所か
残っていた。
二つ並ぶ池に、かくはん用の水車とえさを供給するサイロが設けられていて、コイでも
飼育しているらしいが、冬場のいまはそれらしい姿は見えない。このような池は、この後
何か所かで見かけた。
池の東にある八幡宮に11時55分に着く。背後に背の高いクスノキがあるが、開放的
な境内で社殿も小さめ。
強風を避けて社殿横や集会所の建物の影で昼食に。
神社に隣接して龍性寺があり、古いお地蔵様が数体立っていた。このあたりは足軽町だ
が、名前の由緒は何なのだろうか…。
線路を越えて新宿集落の南に回り、麦畑と田んぼの広がる田園地帯の野道を緩やかに下
る。風が無ければ、絶好のカントリーウオークのフィールである。
農業試験場の東側にある池のあたりからは、長い裾野を引いた赤城山が一望できる。
池の南側は大きな用水池になるのだろうか、厚いコンクリートの壁が広い空き地を囲み、
工事が進められている。
大規模な畜舎らしい建物の前を通過し、低木に覆われた池の南を回る。
大きな鶏舎の前にたくさん鶏糞(けいふん)が排出されていて、それをえさにするのか、
周辺におびただしいカラスが集まっていた。
三ツ屋集落の南側にある牛舎の前を通ったら、たくさんの黒牛が首を並べて私たちを歓
迎?してくれた。
大きな水道タンクの東を通過し、しゅんせつ工事中の荒砥川を渡る。
川の左岸堤防を上流に向かうと、ホルスタイン牛の牧場があった。
400mほどで川に分かれて東へ。牧草を白い袋にこん包してたくさん並べた牧草地が
二か所あり、サイロもあちこちに見られ、このあたりに牧場が多いことが知れる。
泉沢集落の北部から北へ、前橋東商高の横を抜けて車道に出て、千貫沼の南岸に回った。
この周辺で最大の沼だが、この冬の日照り続きで水位がかなり下がっている。
西側に幾つか並ぶ小さい沼の間の細い車道を抜けて、荒砥川の大胡(おおご)大橋に出
る。右岸堤防を進み、14時23分、上毛電鉄では数少ない駅員配置駅である大胡駅に着
いた。
駅前の小公園には、オランダ風の風車があった。
(天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 前橋、大胡、歩行地 前橋市、歩数
15.400)
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