あるきメデス

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関東百駅巡礼歩行 第100番 京成金町線 柴又駅(東京)

2013-12-16 19:08:27 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年12月14日(土)

 「やまさん」こと山浦正昭さんが、10年前の2004年2月から始めた「関東百駅巡
礼歩行」は、毎年関東1都6県の10駅ずつを歩き続けて、ついに満願の100番目を迎
えた。

 最後の集合駅は、やまさんの地元、京成金町線の柴又駅。初回以来10年ぶり参加の横
浜のKさんなど、久しぶりのメンバーも集まり、総勢21人となる。

 駅前に居られた、そっくり寅さんにも入ってもらって記念撮影をして、11時にスター
トする。

 駅前広場の片隅に「おりつ地蔵尊」が祭られていた。昭和初期、この町で肉親のために
生命を絶たれた律子という女性に同情して、近所の人々が建立したという。
        

 線路沿いの通りを南に進んで踏切を越える。そばのコインランドリーに、鉛筆で描いた
著名人の似顔絵がたくさん貼ってあった。


 次の踏切を渡って東進する。手打ちそば「上総家」は、美味しいことで知られた店。私
も以前この周辺を歩いたときに、やまさんなどと入ったことがある。


 桜道中の東を回り、江戸から佐倉に通じる佐倉街道「さくらみち」へ。愛称は「親水さ
くらかいどう」。標石のところで、やまさんが明治時代のこの辺りの地図を見せてくれた
が、当時はほとんどが田んぼだった。通りにはソメイヨシノの並木が続いている。
     

 この通りを300mほど進んだ交差点際にも「似顔絵コインランドリー」があり、やは
り壁面や天井全面に同じ筆跡の似顔絵が並ぶ。

 コインランドリーの主、菅野さんが描いたもので、紹介の新聞記事も貼付されていた。

 次の交差点を右折し、北総鉄道の高架の手前にある鎌倉公園に11時35分に入り、昼
食となる。公園のソメイヨシノは、すっかり葉を落としていた。


 昼食を終え、参加したグループごとに自己紹介を行い、やまさんからは百駅を終えた後
の歩き方についてのアドバイスなどがあり、12時25分に出発する。


 北総鉄道の高架下を南に抜け、同じ鎌倉公園の一角にある鎌倉野草園に入ろうとしたが、
冬期は日曜・祝日のみの開園だった。

 野草園の東側の通りを南東に進む。京成本線の線路際に小さなお堂が二つ並び、大きな
石灯ろうも立っている。

 右のお堂には「鼎(かなえ)地蔵」と呼ぶ大きなお地蔵さんと青面金剛立像が祭られて
いる。この辺りは鼎橋跡、青面金剛像は道標になっていて、「橋向左矢切渡しみち」と記
されている。左のお堂は、南葛八十八ヶ所の第六番大師堂だった。

 ちなみに南葛八十八ヶ所霊場は、大正時代に旧南葛飾郡内を対象として整備された霊場
だという。

 お堂の前を東進して次の信号のある交差点を右折する。京成本線の線路のすぐ手前の交
差点際にも小さい「にがおえコインランドリー」があり、ここの壁面は女性の似顔絵が多
かった。
    

 東進して都道307号・柴又街道に出て、通りの東側にある大珠院に入る。境内は狭い
が植栽は豊富。
    
モミジがきれいに咲き残り、その下などにご住職が作陶したという小さい羅漢像が並んで
いる。
    

 寺は、南葛八十八ヶ所霊場の第十三番と第七十八番札所とか。ご住職と奥様が顔を見せ
て下さり、当寺の史跡案内とミニ地蔵のストラップをいただく。墓地は道路の北側にあり、
七十八番の小さなお堂は墓地の奥に祭られていた。

 墓地の東側から北に伸びる道路へ。すぐ左手の民家に大きな夏ミカンがたわわに実り、
エノキの古木が大きく枝を広げている。

 Tさんの家で、エノキは葛飾区保存樹木に選定されていた。

        
 クロガネモチがたくさん実を付けた鎌倉小の校門前を左折して、鎌倉八幡神社へ。

    
 当社は、相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、寛永年間(1624~44)に
鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守となって
いたとか。境内のイチョウの古木はすっかり葉を落としていた。

 西側の柴又街道を次の信号まで進み、鎌倉四丁目に戻って北へ。江戸川区北小岩八丁目
を少しだけ抜けて「親水さくらかいどう」に出た。東進して北側の柴又五丁目に回り、り
っぱな仁王門をくぐって医王寺に入る。


 医王寺は、応永14年(1407)に将軍足利義満が、下総国一円に赤目病と呼ぶ奇病
が発生しているのを聞き、京都仁和寺の観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、ここに建
立したもので、以後、眼病を守る仏として信仰を集めているという。

        
 柴又七福神の恵比寿天の寺でもあり、本堂前の大理石の祠(ほこら)には、南葛八十八
ヶ所霊場第五十七番札所の石仏が祭られていた。

 北総鉄道の高架下を新柴又駅際まで行き、北に抜けて近くの宝生院に向かう。宝生院の
手前、南側に接する広い墓地は、柴又帝釈天、題経寺のもの。墓地には、柴又駅前にあっ
た「おりつ地蔵尊」の「おりつの墓」がある。
        

 その横には「鑿(のみ)塚」と刻まれた大きな石碑があるが、由緒は分からない。
        

 入口近くには、「浅間山噴火川流(かわながれ)溺死者供養碑」が立っている。天明3
年(1783)の浅間山大爆発により、上流の吾妻川から当地に流れ着いた利根川、江戸
川流域の溺死者を供養したものとか。
        
 史上まれに見る大災害の一端がうかがえる貴重なもので、区指定文化財になっている。

 墓地の北に接する宝生院は、柴又七福神の大黒天の寺で、南葛八十八ヶ所霊場の第五十
番札所。境内のイチョウとモミジがよい彩りを残している。


 宝生院の東側は東柴又小、北側の校舎入口のガラス戸に、低学年児童が書いたらしいク
レヨン書きの「げんかん」の表示がある。

        
 南側の校門には、木彫りでこのような表示があり、木彫りの表示のある小学校はここだ
けだろうと、やまさんは言う。

 北総鉄道高架下を少し東進し、北側の柴又地区センター横を通り、江戸川右岸堤防に上
がる。眼下の堤外河川敷は少年野球用の第二運動場である。


 すぐ下流では、対岸の松戸市側から動き始めた、矢切の渡しの渡し舟が望まれる。


 堤防上を寅さん記念館のそばまで進んで今日の歩きは解散となり、矢切の渡しを渡りた
い人と、山本亭から帝釈天方面に向かいたい人とに分かれる。

 私は、やまさんなど約半数の皆さんと葛飾区山本亭↓に入る。


 山本亭は、地元でカメラ部品製造をしていた山本工場の創立者、山本栄之助の自宅。関
東大震災後ここに住み、昭和63年(1998)に葛飾区が取得し、5年後から一般公開
しているという。

    
 伝統的な書院造りと洋風建築を合した和洋折衷の建物に、純和風の庭園がよく調和して
いる。
    

 建物に入って部屋を一巡後、皆さんとその一室で喫茶のひとときを過ごし、やまさんが
持参の関東百駅の写真集や自作されたレポート地図を見せてもらい、10年間の歩みをふ
り返る。ゆっくりと過ごして15時18分に山本亭を出た。


 南東側から柴又帝釈天・題教寺に入り、関東百駅満願に感謝して参拝し、豪華な山門を
出る。



 参詣客などで賑わう門前の土産店をのぞいたり、草団子を求めたりして日の傾きかけた
商店街を進んで、15時35分に柴又駅にゴールした。

(参加 21人、天気 快晴、距離 6㎞、地図 葛飾区道路地図、歩行地 葛飾区、江
 戸川区、歩数 10,200)

 10年間百駅中、私が参加したのは4分の3の76回、でも参加者中では最多だった。
参加の都度押印した「関東百駅巡礼カード」がよい記念になる。 





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