このところの、中国の日本への異常接近は、多くの日本人にとっては、「気持ち悪い」ものだろう。
米中経済摩擦で、日本を利用しようとしていることは、誰の目にも明らかだが、かと言って、喧嘩するよりは良いことだから、受け入れないわけにも行かない。
中国の極端な現実主義は、同じ現実主義でも、アメリカのような「人間臭さ」が無い。
アメリカの場合、態度を変えることに照れや迷いが伴い、何となく「間」も感じられる。人間として行動しているからだ。
ところが、中国の場合、「イケしゃあしゃあ」とか、「ヌケヌケと」と、言いたくなるほど何の躊躇もてらいもない。
これぞ、中華の「形」文化だ。二者択一の陰陽や、漢字文化のように、何事も、はっきり目に見える「形」を求め、極端から極端に振れる。人間としての曖昧さや迷いを徹底的に排除する。と言うより、迷い方を知らないのではないかとさえ思える。
これだけ極端に態度を変えれば、空々しくて誰も信じないと思うのだが、中国人は違和感を感じないようだ。
「単純思考」
これに引き換え、日本人の場合、話を最後まで聞いても、「YES、NO」が判らない。外国人には、態度を変えたことさえ、気づけない。
同質文化の日本で当たり前に通じる「あうんの呼吸」は、異文化がせめぎあう「世界の常識」からは、むしろ、全く理解されない。
世界では言葉よりも、「目に物を見せる」ことが重要であり、言葉は潤滑剤に過ぎない。だからこそ逆に、角を立てないためのリップサービスが重要になる。
しかし日本人は、この「心にもない」言葉に慣れないから、うまく対応できない。
言葉は現実に花を添えるものと考える世界の常識と、言葉は現実と一致するものと信じる日本人との相互理解には、注意と調整が必要だ。
ところが中国の場合、注意や調整の次元を超えている。
欧米と付き合う場合は、本音を考えなければならないが、中国には必要ない。本音を考えるだけ無駄なのだ。目の前の言動は嘘ではない。それはそれで、今の本気だ。
ただ、重要なことは、今の本気と、大局の認識とは全く関係なく存在する。
進む過程で現れる、木も森も各々存在する真実だ。
木も見て森も見る
中国のように、絶対権力に支配され続けた社会では、一瞬にして目に見える態度を示さなければ命に関わる。事実や本音がどうであろうと、今、この場に必要なことを言う。
タテマエや説得より、泣く笑う怒鳴るを駆使して、「本気」を実現する。
今の態度は「作法」として本気であり、同時に、大局的な意思も現実なのだ。タテマエと本音のような優先順位ではなく、コインの表裏のように「二層的な事実」が存在する。これが陰陽五行の世界であり、陰陽の両極端は、五行の生々流転のバランスと共に存在している。
こうした中国文化は、中国共産党の政治姿勢にも露骨に見られる。
本音に生きたい日本人にとって、異文化の荒波に磨かれた欧米人の二面性には、常に「気遣い」が必要だが、中国人の厚顔のメンツには、そこに存在する「木と森」を見る、「割り切り」と、大きな目で受け止める「度量」が必要なのだろう。
「東西の日本1」