魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

令和の例

2019年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

前回の「令和元年」で、元号の画数を並べてみたが、明治、大正も併せて並べると、奇しくも末尾画数の同じものは無い。
元号と同画数の人の姓を比べて見れば、元号のイメージが湧くかも知れない。
例えば
明治=16(麻生、安倍、手塚、野田、松岡、黒田)
大正=8 (石川、上田、大田、木戸、中井、山本)
昭和=17(菊池、杉浦、関口、宮沢、森田、渡辺)
平成=11(池田、岩下、大林、木村、中村、吉田)
令和=13(大島、岡田、佐竹、西尾、平林、三浦)

……となり、姓を聞いた時に、何となく浮かぶイメージが、それぞれの時代にもある。

命理の立場からは、姓名は結果だから、あまり関心はないが、妥当性は確かにある。
姓名学にも諸流派があり、画数を始めとして、音韻や字そのものの霊性など、それぞれに説得力があるが、実際、「名は体を表す」印象がある。ただし、体が先か名が先かは、卵とニワトリのように、ややこしい話で、長くなるので触れないが、元号も姓も通常は、体より先にある。

実体からつく名前は、あだ名や俗称、あるいは役職名などがあり、氏名の多くも元は職業や所在地、あるいはあだ名そのものから始まっているので、何となくイメージが残っているのかも知れない。
ところが、元号は、偉い人から賜る姓や、親がつける名と同じように、実体に関係なく付与される。だから名前にイメージはないハズなのだが、時間が経つと、何となくイメージができてくる。
実体に触れることで、だんだんイメージが固まってくるのだろう。

願いうらはら
命名は願いを込めて付与されるが、得てして逆になることが多い。それは死にかけている人に「長寿」と名付けても、めったに生き返らないようなものだ。
名付けで、「幸」、「福」等の吉ごと表記は避ける方が良いと言われるのも、こういう経験則があるからだろう。
元号においても、振り返れば、どちらかと言えば反対だったような気がする。

和を唱える昭和は波瀾万丈だったし、大きく正しい大正は、米騒動や革命ロマンが流行り金融恐慌まで生まれた。平らかで平和な時代を謳った平成は、バブル崩壊や大災害で、平らどころか「凹」続きだった。
唯一、明治だけが、大戦争の中で、比較的「明るさ」の有る時代だったと言えるのかも知れない。それはおそらく、他の時代と比べれば、ほぼ、ゼロからの出発だったことで、希望しか見えなかったからだろう。
令和を迎える今、明治レベルの困難と維新が無い日本は、まだまだ、失うものが多すぎるような気がする。西暦を公式にするとした外務省は、大反対をくらった。
令和を祝う国民も為政者も、世界的な大転換、国家を超える革命の波が押し寄せていることに、まだ、まだ、気づいていないようだ。