観光以外で、海外に滞在すると、たいていの人が愛国主義者か、逆に国際主義者になる。カルチャーショックで、自分のアイデンティティが動揺する中で、かたくなになれば愛国に傾き、寛容になれば世界人になろうとする。
海外情報の少なかった昔ほどその傾向は強く、現代のようにリアルタイムの情報が溢れる時代は、そういうことが起きないように思える。
しかし、グローバル化の現代には大きな落とし穴がある。何でも見えることで、何も見ないで、何でも知っていると錯覚することだ。
そして、「体験に拠らないカルチャーショック」=情報化によるアイデンティティ不安で、愛国主義が蔓延する。
それは、世界中の人の個室で起こり、互いに、異質なものを拒否する感情に埋没し、会ったこともない人々に対する憎悪の果てに、突然、銃を乱射する。
この「排他」の基準は、情報ツールが何の言語によるかで様相が異なる。言語は文化的背景と一体だから、その社会が持つコアな価値観が反映し、ある時は宗教的排他となり、ある時は民族的、ある時は国家、集団への憎悪となる。
海外滞在で起こる愛国や博愛は、自らの体験による試行錯誤だから、一気には過激化しないが、実体験のない個室や画面では一方的な洗脳となり、孤独な若者が、突然、モンスターになる。
こうして生まれた偏見モンスターが、外に飛び出して銃を乱射したり、共感しているつもりで、いきなり、旗を振ったりローソクを灯してデモ集会に参加する。
洗脳時代
洗脳されている人は、自分が洗脳されていることに気づかない。酔っ払いは常に「酔ってない!」と言う。
昔、ナチスは、当時の最先端の情報機器を駆使して、国民を洗脳した。最先端の機器は文明との格差が大きいほど効果的であり、素直な人ほど効果的だ。それは最新の情報源を神格化し、一元的な情報を全てだと思い込むからだ。
情報機器の発達は複合的な情報を提供するように見えるが、実は、人間の総合的情報源を遮断する。
総合的情報源とは、五感による認識を可能にする「時間のある環境」のことで、自分自身の感覚と認識を客観視し、情報化することのできる能力が無ければ、個人も集団も簡単に洗脳される。
ネットの発達は、ナチの時代より、遙かに次元の違う洗脳環境を創り出した。現代人は五感を捨て、無防備にヒトラーを待っている。
現代人の思考力のもろさは、学校教育による知識偏重が原因だ。
産業革命以後の学校社会によって、現代人は他からの情報を疑わずに受け入れることを習慣づけられている。自分の五感や第六感による判断を徹底的に奪われ、「なんか変じゃないか!?」とは、考えないようになっている。
「もう、何を信じて良いか解らなくなる!」と悲鳴が上がる、情報氾濫の中で、 少なくとも自分を見失わない、確かな方法は、「証拠」と「正しさ」を徹底的に疑い、欲と感情を捨てて、自分の経験に照らし合わせてみることだろう。