魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

予報と対策

2008年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

秋葉原の無差別殺人事件以来、心理学者や哲学者が色々語っているが、科学の限界のようなものを感じる。
何とか、原因と結果を結びつけようとするから、無理な理由付けや無意味なコメントばかり聞く。
マスコミも、情報を並べ立てて、強引に答えを出そうとする。

非科学的態度で見ると、答えは簡単だ。
予言の成就のように、なるべくしてなっているのだから、予定の現象のいずれであるかを確認するだけだ。
道で転んだのは、石につまずいたのでもなければ、悩み事でぼんやりしていたからでもない。「転ぶ時が来たから転んだ」のだ。

それじゃあ、何も対策がないのかと言えば、そうでもない。
科学が原因を探し、その原因に直接対策を打とうとするのに対し、
占いのような非科学は根拠や原因にこだわらない。
「理由はともあれ、とにかくこうすれば解決する」という方法を考える。「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫がよい猫だ」の発想だ。

しかし、根拠が要らないとなると、祈祷や聖水で「効きます」と宣言して、金だけぶったくる輩が続出し、占い全てがまやかしであるとされてしまう。

そんな中にあっても、占いびいきとしては、何とか占いの効用を引き出したい。
縄文土器での調理は、高級鍋より美味しいかも知れないのだ。

占い的解決
世相や事件が、必然的なものだとしたら、事件の背景、原因を具体的な事柄に求めても意味がない。個々の対策は、年金問題のモグラたたきのように、忙しいだけで何も解決しない。

もし、理由に関係なく、世相が必然的に変化するのなら、人心を具体的に変化させることだけ考えればいいわけだ。
それは、薬や酒で変化させることではない。社会全体がその変化を認識することが重要となる。

例えば、現在が「魚座の錯乱時代」であることを、社会的に認識していたなら、
個々の事件の因果関係をあれこれ言うより、対策として、錯乱のメカニズムや物事の信憑性などを、いきなり解説すればいい。
世の中に確かなものなど無いことを周知し、完璧より「ベターな」選択をする価値観を提案することで、緩和することができるだろう。

今の世相問題は「確かなもの」を求めることが原因だ。
「オレオレ詐欺」は確かに違いないと思うからやられる。
年金は国を信用しているから、役人のいい加減さに腹が立つ。
勉強すれば成功するはずだと思うから、予想外だと我慢できない。
キャリアになれば権利を享受できると思っているから賄賂に墜ち、死ぬまで安泰の天下りを当然と思う。
医学を信じるから何でもかんでも病院に行く。
「お墨付き」を信じるから食品偽装や使い回しを食べさせられる。

こういうことは、法律や制度では解決しない。社会的、文化的な価値観や慣習を啓蒙することが先決だ。
四択で必ず答えが出るような勉強ではなく、ああとも言えればこうとも考えられることを教育することが必要だ。