魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

名前も現象

2008年03月17日 | スタンス

運命は絶対だが、人間は可能性に生きている
矛盾するように聞こえるこの考え方を、運命論者にも、否定論者にも解ってもらいたい。

人間のドラマは、個人の意志と情熱が創り出す。地上の人間がすべて寝太郎のように何もしないで寝ていれば、人類は10日もあれば滅ぶ。
努力しなければ何も生まれないが、いかに努力しても報われないこともある。

運命を信じなくても成功する人はいる。しかし、努力しても報われないとすれば、運命というものを考えてみてはどうだろう。
西に向かう船で、東に行くことはできない。
つまり、努力が報われないのは「敵と己」、「時勢と適性」を知らないからだ。ドンキホーテは愛すべき人ではあっても賢明とはいえない。

われわれは地球上で生きるように、運命という船に乗っている。
日頃はそれを意識することもないし必要もない。時の流れに逆らわなければ、人間はどのように生きることも許される。
しかし、時の進む方向に逆らえば、生きていくことはできない。いかなる高邁な思想も努力もはかなく消えていく。

だが、その時代に逆らうことが、時の流れに逆らうことではない。
時代は生き物だから、常に姿を変えていく。今の時代に逆らうことはむしろ、時の流れに乗ることであるかもしれない。

惑星も星座も干支も
運命学とは、運命の姿を仮想し、あるいは気配を察知しようとすることだ。だから、仮想する運命の本体も、実際の現象も、共時的につながっていると考える。

その指標である惑星も星座も干支も、地上に現れる姿も形も名前も、すべてつながっているのだ。
星が運命や名前を決めるのではなく、名前が運命を紡ぐわけでもない。

名前も星も、ただ運命の共時的「現れ」に過ぎない。
惑星や星座の動きと、名前や現象は一致する。それは相互作用ではなく、各々が金太郎飴の断面だ。
それを前提として、バロメーターである惑星の動きから時の流れを推し量り、名前や姿で現象の本体を探り、来るべき現象を予測する。

「秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・」星や名前は季節を告げる、風の音となる。

流行の名前や、世間を騒がす名前には「今」が現れ、惑星の動きからは、やがて現れるであろう名前がイメージできる。
予言書に現れる名前が、後世、現実に現れた名前に似てはいるが一致しないのは、予言があくまでイメージに基づくものだからだ。

星と名前
「スタンス」「世相史観」「星の流れに」「競馬の星」を通し、一貫して、名前は運命現象として考えている。

実際にどの名前が、どの星と関係するのかは、いまだ途上にある。
星の動きと、実際に現れる名前を常に考察していく必要があるだろう。
「競馬」はマウス実験のように、手近な研究素材と考えている。

現在考えている基準としては、惑星と星座の表す意味を優先しているが、固定化しない心がけが重要だ。

その上で、名前が表す星(惑星と星座)は、意味の一致を重視する。
名前に数字が入っていても、それが総合して別の意味を表すなら、重複と考える必要がある。

一郎をイチロー、ICHIROとすれば、「一」から離れて固有の意味を持つ。
「1」は太陽・獅子座の数だが、イチローはスポーツ選手で木星・射手座であり、野球は水星・乙女座と見る。

赤は火星・牡羊座、冥王星・サソリ座の色だが、赤城とすれば、山=土星・山羊座であり、戦艦・魚座でもある。逆に、赤城山は火星の山ともいえる。

つまり、名前が現象の一部である以上、実際の意味を解釈する場合、総合的判断が必要になる。