魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

欠落問題

2015年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

東芝の不正会計と岩手の教育界の問題は、全く同根の日本文化の問題だ。
日本文化の「形」は、美と調和という精神性においては素晴らしいものだが、経済や政治のような、現実対処には障害になる。

現実の世界には、トレンドはあっても形はない。刻々と変化する現象に対応していくのが政治や経済の世界だ。人を扱う学校も全く同じで、未完成の人間を扱うのは、もっと難しいのかも知れない。

日本の指導層や組織マネージャーは、現実対処が自分の仕事であることを理解しない傾向がある。組織の形作りや管理維持を仕事と考えている。
理念を掲げて、現実をその形にはめ込もうとする。一生懸命やりさえすれば、形(思い込み)が実現すると信じ込み、予想外の現実が起こると、「あってはならないこと」などと、現実を否定しようとする。
「あってはならない」事など、現実世界には無い。何でも起こるのが現実であり、それに対応するのが、マネージメント能力だ。

東芝の三馬鹿社長は、「営業目標」を設定すれば、それが完成すると錯覚した。
肝心な、「いかにして」成し遂げるかについては、全く欠落していた。
その結果、最終段階で不可能になると、つじつま合わせが「仕事」になった。
一方、岩手の教育界は、「いじめの無い学校」という、形だけを作ろうとしたことで、形の中身を腐敗させた。佐世保の「命は大切」教育も、実は同じ発想だ。

これは全て、日本文化の美学から出ているものであり、原発事故の前も後も、戦時中の作戦も、全く同じ傾向が見られる。「強く思えば実現する」と考える信仰心だ。
原発安全神話とか、新幹線安全神話など、戦時中の空母時代の戦艦大和建造と同じ、信仰心先行の精神主義だ。

かけ声だけが大きくて中身が伴わない。むしろ、かけ声を大きくすることで方法論が飛んでしまう精神論の世界だが、当人達は叫んでいることで、現実を見ないようになる。

今日考えられている日本文化は、変化きわまりない戦国の混乱を治めるために生まれた江戸の精神世界であり、常に、現実とは真反対に向かおうとする。
幕末来日したドイツ人が、日本人は「不浄」を嫌うが、「不潔」には無頓着だと言った。
つまり、精神を重んじ、現実を見ないということであり、しめ縄の結界やお札があれば、消毒や武器が無くても、安全平和が保たれると考える。

そんな日本人にとっては、「売り上げ目標にチャレンジ」と叫ぶことが営業努力であり、「命は地球より重い」と言うことが命を大切にすることになる。
憲法九条を守れば平和を保てると信じるのも、全く同じ信仰心だが、だからといって、改憲が現実だとも思わない。改憲派にも護憲派にも全く欠けているのは、
「いかにして、戦争をせずに平和を保てるか」の、方法論論議だ。


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