魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

熱く語る

2014年11月22日 | 星の流れに

近頃、「語るねえ」とか、「申し訳ありません。私、熱く語ってしまいました」とか、
何か、「熱い」ことや「語る」ことが悪いことのような雰囲気ができあがっている。

誰も、違和感を感じないのだろうか
この空気こそが、日本の衰退と亡国の現象だ。
バブル崩壊後の萎縮で、「出る杭」は、その気配から刈り取られてしまった。
日本企業の衰退は、徹底的に「とがったもの」を刈り取り、無難な「美しさ」だけを守ろうとしたことにあり、今更、「とがった人」を求むと言っても、出てくるわけがない。

こうした社会では、「空気を読め」が、当然の道理のように聞こえ、何か主張すれば「暴言」のように驚かれ、責められる。
目立った言動に対して、表だった反論をせず、陰に回って、イジメや排斥で個性を抹殺し、BBSのような匿名の場では、配慮のない誹謗中傷の声だけが嵐のように大きくなる。

人の意見は元々異なっている。自分と異なる意見に対し攻撃するヒマがあるなら、自分の意見を言えば良いはずだ。互いに違う意見を掲げることで、互いが学ぶことができる。
自分の意見が無い、無能な人ほど、他人の言動を攻撃する。

今に始まったことでもないが、日本社会は、異なる意見を叩くことが、あたかも「良識」のように見える風土だ。この場合「良識」とは、社会を維持する基準知だ。
つまり、異見を出させないことが、この社会の仕組みになっている。
アメリカのように、異見を尊重し、出やすくすることを「良識」とする、多彩な移民で成り立つ国は少ないが、国でも企業でも、そういう社会は発展する。

もっとも、考えようによれば、古い因習で叩き固められた岩盤を突き破って出てくるものは、それだけの強さを持っているとも考えられる。ただし、それは極めてチャンスの少ない社会であり、やり直しがきかない、硬直した社会でもある。社会そのものが、失敗か成功しかない。だから、さらに保守的に沈んでいく。

国や企業を活性化させるには、誰でもが「熱く」語り、次々に競って新しい意見が出てくるような社会でなければならない。
そのためには、基本として、学校で自分の意見を言うことを評価しなければならない。

今回、初等教育から、アクティブラーニングを導入する方針だそうだ。
「ようやく」の感が否めないが、内容的に、果たしてどれほどの効果を上げられるかは疑わしい。何しろ、今のこの社会、そこで育った大人が教えるのだ。

これは、周期的に見ても、終戦直後のアメリカ式教育の再来ではあるが、強制的に実行された当時と違い、自ら試行錯誤の末に出てきた方針であることに、少しは期待したい。

これも、射手座の土星の動きだろうが、教育の射手座に野心と懐古の土星。
野心的教育なのか、単なる教育の懐古なのか、日本の未来を担う人たちに幸あれだ。