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占いという もう一つの眼

歴史物語

2014年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

ダウントン・アビー2が始まる。欧米で超大人気だそうだ。
第一次大戦前後の英国貴族の物語だが、歴史的事実の狭間に組み込まれた物語が、リアリティをより彷彿させる。物語はこうでなくてはならない。

話を際立たせるために、歴史的事実を活用するのが物語だが、歴史を証明するために物語を活用するのは「神話」だ。無い話を有ったことにするための嘘。デッチ上げだ。
断片的な記憶を都合良くまとめ上げ、事実をねじ曲げる話をいくら巧妙に語っても、それは歴史ドラマや、歴史物語ではない。

しかし、物語を聞いて、初めて過去を知る人は、それが歴史的事実だと思う。
人々が無知で、事実の記録がなく、科学的検証の出来なかった時代は、それは立派な歴史だった。それを、神話の時代と呼ぶ。

ダウントン・アビーを面白いと思う人は、第一次大戦の歴史を既に知っている。
英国貴族のありようが事実かどうかは判らないが、歴史的事実が正確なら、物語の内容も事実めいてくる。嘘でも客観的に安心して聞いていられる。

一方、高度な物語の道具、映像技術だけを手に入れ、嘘を証明するために、教材として使っている国々がある。つまり、こうした国々では、現代でも「神話」が歴史なのだ。
神話は歴史よりも面白い。なぜなら、無知な人を納得させるために、感情の味付けをするからだ。歴史検証にはとても耐えられない話を、人々は信じ熱狂する。

歴史劇なら、多少、面白くなくても、見る人の歴史認識が、「事実なのだから仕方がない」と我慢させる。しかし、神話では一時も退屈させるわけにはいかない。感情的に引きつけ語りきり、嘘を存在した事実として完成させてしまう。
歴史物語の鑑賞は知的対話だが、神話は鑑賞ではなく祈りであり、情緒的な昇華だ。

ダウントンアビーを放送するNHKは、ようやく、神話から歴史時代に移り始めたようだ。