魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

目的意識

2013年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム

原発汚染水問題の解決の見通しはさっぱり見えない。
布団の上から背中をかいているような小技ばかりで、一向にラチが開かない。今度は凍土化するとか言っているが、なにか根本的に間違っている。
信長だったら、即座に首にしていただろう。

信長好きの日本国民が待っているのは、秀吉の墨俣一夜城や、中国大返しのような機知と大技であって、コマゴマと知識を積み重ねたつじつま合わせではない。

日本がガラパゴスで自滅したのは、「こんな事も出来ます、あんなことも知ってます」という秀才の智恵で、要するに「何を為すべき」なのかが解らない集団だからだ。
為替で少し景気が良くなると、また、自分達の「ものづくり」の成果だと慢心し始めている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはこのことだ。

汚染水問題の解決では、チェルノブイリのような「大ざっぱ」なやり方は、日本の超優秀な秀才達には、ハナから念頭に無いようだ。
日本と、世界の大きな違いは、何ごとにも「目的意識」の有無だ。

確かに、凝りに凝った芸術作品を作り上げるには、日本人の縄文精神が生きてくる。しかし、現実処理には弥生のシンプルな合理性こそが力になる。
複合的な日本文化の良さは、世界の原理、弥生の合理性が加わったことであり、混乱の時代には弥生原理が出て来るが、少し安定すると、すぐに心地良い縄文の精神世界に戻ろうとする。

汚染水問題は203高地だ。気高い乃木将軍では、多大な犠牲者を出すばかりで落とすことは出来ない。秀吉の才や、28センチ榴弾砲のような思い切った発想の転換が必要だが、優秀な人材で固められたこの日本では、必ずほとんどが反対の抵抗勢力になる。

目的か手段か
日本人の高度な知識見識は、凝りに凝った縄文土器のような複雑な脳内造形に走るが、目的を忘れる。
生死がかかった状況では、美しさより、結果だ。

今また、大金を投じて行おうとしている凍土方式は、弥生的世界観から見れば、理解に苦しむ縄文土器だ。

専門家では無いから、どういう方法が良いのか解らない。
ほとんどの人もそう思っているだろう。
しかし、チェルノブイリの例のように、とにかく、やっつけてしまおうと思うなら、素人なら簡単な答えが色々思いつく。
はたして、担当している人々は、素朴な観点から出発しているのだろうか。

事ここに至っては、住民の気持ちなど考慮していられる時ではない。山一つ運んでも、谷一つ穿っても、湾一つ埋めても、何としてでも止めなければならない。
地下水が流れるなら上流の流れを変え、流れ出るなら湾を無くす。
目的はたった一つだ。
そして、シンプルなほど効果があり、しかも安く付く